阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

神戸から新居浜へ   明石大橋を高速バスは走った & 松山高速道路 2012-05-24       YouTube

2024年09月04日 | 関西あちこち

2012-05-24明石大橋をバスは走る.wmv

高速バスは三宮から新居浜まで3時間40分の行程です。明石大橋を渡って淡路島へ渡り、島を走り抜けて鳴門へ。

2012 05 26松山高速道路

徳島県の山中を高速道が愛媛県につながっています。高校野球で有名な池田高校のある阿波池田などを通ります。

 

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四国の宇多津駅から瀬戸大橋へ向かう

2019年01月28日 | 関西あちこち

宇多津駅から瀬戸大橋へ向かう

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明石市江井ヶ島の太陽酒造の試飲会に参加しました。 その3/全3回 【 7年前の今月のブログに掲載しました】

2019年01月24日 | 関西あちこち

新酒は当然よし、居酒屋風の料理あれこれも良し。試飲会の会場は元の精米場で飲む雰囲気にぴったり。
至福のひと時でありました。今回の集まりに入れて頂いたM社35年同期社中の皆様ありがとうございました。
また、声掛けをして頂いたU先輩ありがとうございました。













現在の日本酒の87%はアルコールが添加されているので海外では日本酒と認められていないそうです。
なぜ日本酒の価格にピンキリの幅があるかと言えば、アルコール添加の量次第で原価が変わるから。

太陽酒造は残りの13%の日本酒を造る純米酒メーカーであり、原料米の品質からすると全体の3.7%に入ると
社長自ら誇らしげにガイドしてくれました。

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明石市江井ヶ島の太陽酒造の試飲会に参加しました。 その2/全3回 【 7年前の今月のブログに掲載しました】

2019年01月23日 | 関西あちこち



ネットから借用














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明石市江井ヶ島の太陽酒造の試飲会に参加しました。 その1/全3回 【 7年前の今月のブログに掲載しました】

2019年01月22日 | 関西あちこち

明石市江井ヶ島に「太陽酒造」という小さな小さな酒造会社があります。従業員は社長夫婦と勤務6年目の若衆一人。
千石蔵で一升瓶を年に10万本作る能力はありますが、純米酒の最高級品だけをつくるため、材料米の山田錦の質量からのしばりもあって
生産量を押さえているとのことでした。試飲したのは澄んだ上澄みと白く濁ったふなくちの2種類。あっさりしているのにコクがあって
確かに別物の日本酒でした。










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京都。 若王子ー永観堂ー無鄰菴ー蹴上 

2018年12月07日 | 関西あちこち

2010年11月18日エントリー再投稿。友人のブログに無鄰菴が登場していました。ああそうだ自分も行ったことがあるなあと思い再掲載します。


哲学の道を若王子神社まで歩き、そこからまたしばらく歩いて永観堂へ行きました。
永観堂は入場料千円にいささか怖れをなして、外から紅葉を楽しみました。

白壁に沿った道路際のどうだんツツジも見事でした。

山縣有朋の京都の別荘「無鄰菴」までは少し距離がありました。
辿り着いた無鄰菴は有名な庭師が造営しただけに、見事な庭園でした。田舎侍が天子様のおひざ元の一等地に
このような別荘を所有する・・やはり明治維新は下剋上の一つのカタチだと思いました。
無鄰菴に辿り着くまでに若い韓国人女性の二人連れに京都会館への道を聞かれました。
彼女たちが手にしていたのはハングルで書かれた立派な京都のガイドブックでした。わずかな数分のChatでしたが,
こうして若い韓国人が普通に京都観光を楽しんでいるんだなあと時代を感じました。







無鄰菴を出て蹴上まで歩き、錦市場へ行くため地下鉄で三条大橋に向かいました。
蹴上ではインクラインなど産業遺跡を見ることができますが、第2期発電所の建物もあります。

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2005年8月6日に行った広島。 三宮広島長距離バス、市電、胡町、原爆ドーム、街並み     ブログ開始前画像シリーズ2

2018年07月02日 | 関西あちこち
1997年から2000年まで広島で3年間勤務した。会社員生活で初めての単身赴任だった。その間仕事上一年のうち120日ほどは山口県、岡山県、島根県、鳥取県のビジネスホテル泊まりの生活だった。会社を定年で辞めて神戸に帰っても、有難いことに広島時代の同僚たちからゴルフコンペのお声が年に数回かかって広島に行っていた。この旅行もゴルフと麻雀と飲み会で3日ほど広島に滞在したと記憶する。




明石大橋を左に見て一路広島へ













看板に柄歯科とある歯医者さんにみてもらっていた。







帰る日の長距離バスは早朝発だったので街並みはまだ目を覚ましたばかりだった。













帰路のバスが神戸市内に入ってきた



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諏訪神社のお参りをしました。    四日市に行ったら諏訪神社の参拝は外せない。

2017年10月20日 | 関西あちこち

四日市の諏訪神社は近鉄四日市駅から歩いて5分ほどの所にある。というか鎌倉時代に信州諏訪から勧請された諏訪神社のすぐ近くに、
昭和30年代に近鉄の駅が移転されてきたということだ。
5年に一度の市立港中学校の同窓会も諏訪神社の近くのホテルで毎回開かれる。同窓会の時間の前にJR四日市駅からタクシーで諏訪神社まで乗った。ワンメーターの距離だ。
 アメリカ空軍の市街地無差別絨毯爆撃・一般市民虐殺の焼夷弾で丸焼けになった神社は戦後信州諏訪の諏訪大社からあらためて諏訪大社の神霊を当地に勧請したと聞いている。









社務所で神社縁起の書き物を頂いた。







神社を参拝したあとほぼ毎日見ているブログ「花の四日市スワマエ商店街」を運営されている水谷仏具店のご主人に挨拶をしようと思って店を訪ねたら幸い店におられた。
店は神社から歩いて2分の場所にある。阿智胡地亭ですと名乗ったら時々コメントを出しているせいかあぁ阿智胡地亭さんとすぐ話が通じた。
彼のブログのお陰で四日市の今や、商店街の諸活動などを楽しませてもらっている。他のgooブログ運営者と直接お会いしたのは関西以外では磯のすーさんを除いては今回が初めてだ。

同窓会は夕刻4:15の集合写真撮影から7:30の中締めまで賑やかに行われた。出席者は約350人の昭和33年卒業同学年者のうち66人。亡くなった方は77名とのこと。
 互いにメルアドを知っている10人ほどの方は皆元気に出てこられていた。私は19:59発の近鉄難波行特急に乗って家には22:50頃に帰ると言う家を朝6時出の日帰り強行軍だったが
実りの多い一日を過ごすことが出来た。同窓会の模様。←磯のすーさんのブログから。


◎信州諏訪がルーツの我が家の先祖代々の産土神である諏訪大社は全国各地に勧請されているが、阿智胡地亭はこれまで現住の神戸の諏訪神社は
勿論、長崎、千葉県流市山駒木、東京根津、平井の諏訪神社をお参りしてきた。あの信州の山中にある諏訪大社がなぜこれほどまで全国に勧請されているのか
その理由は諸説あるが阿智胡地亭は縄文の時代に遡る神の故ではないかと密かに考えている。つまり弥生人ではない日本全国の先住の民、縄文人の神として
祀られているのではと。

Wikipediaから部分引用。諏訪大社:
諏訪盆地中心に諏訪湖。湖の左下(南東)に上社、右上(北)に下社が鎮座する。
長野県中央の諏訪湖を挟んで、以下の二社四宮の境内が鎮座する。
 上社 (かみしゃ)
本宮 (ほんみや)(長野県諏訪市中洲宮山)
前宮 (まえみや)(長野県茅野市宮川)
 下社 (しもしゃ)
秋宮 (あきみや)(長野県諏訪郡下諏訪町武居)
春宮 (はるみや)(長野県諏訪郡下諏訪町下ノ原)
上社は諏訪湖南岸、下社は北岸に位置し遠く離れているため、実質的には別の神社となっている。なお「上社・下社」とあるが社格に序列はない。
創建の年代は不明だが、日本最古の神社の1つといわれるほど古くから存在する。『梁塵秘抄』に「関より東の軍神、鹿島、香取、諏訪の宮」と謡われているように軍神として崇敬された。また中世に狩猟神事を執り行っていたことから、狩猟・漁業の守護祈願でも知られる[1]。
社殿の四隅に御柱(おんばしら)と呼ぶ木柱が立っているほか、社殿の配置にも独特の形を備えている。社殿は多数が重要文化財に指定されているほか、6年に一度(7年目に一度)催される御柱祭で知られる。
祭神[編集]
当社全体で祀る主祭神は以下の2柱(各宮の祭神については各項参照)。両神とも上社・下社で祀られている。
建御名方神 (たけみなかたのかみ)
上社本宮祭神。『古事記』の葦原中国平定(国譲り)の段において、大国主命の御子神として登場する。母は沼河比売(奴奈川姫)とされる。
『先代旧事本紀』には建御名方神が信濃国諏方郡の諏方神社に鎮座すると明示されている[2]。
八坂刀売神 (やさかとめのかみ)
上社前宮・下社主祭神。建御名方神の妃。
なお、本来の祭神は出雲系の建御名方ではなくミシャグチ神、蛇神ソソウ神、狩猟の神チカト神、石木の神モレヤ神などの諏訪地方の土着の神々であるという説もある[要出典]。現在は神性が習合・混同されているため全てミシャグチか建御名方として扱われることが多く、区別されることは非常に稀である[要出典]。神事や祭祀は今なおそのほとんどが土着信仰に関わるものであるとされる[要出典]。
八幡神や住吉三神など他の信仰にも見られるように個々の祭神が意識される事は少なく、まとめて「諏訪大明神」・「諏訪神」として扱われる事が多い。

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四日市市千歳町からJR四日市駅までぶらぶら  その3  旧納屋小学校と村上時雨店 

2017年10月19日 | 関西あちこち

63年前に卒業した家から歩いて3分だった納屋小学校は、目の前を名泗国道(一号線のバイパス)が走るようになり、
また四日市公害の渦中の校区になったりして周囲の住民が多く郊外に移ったため生徒数が減少し廃校になっていました。今は市民の福祉施設として使われているようです。

小学校から四日市駅方面へ

駅にわたる踏切の手前に村上時雨店があります。5年前の同窓会の時も寄って店の方とお喋りをしました。中学の同級生のことを
よく知っておられるので話が楽しい。

 富山の鱒ずしと同じで大手の名の通ったブランドより、こういう地元のお客さん相手の添加物を使わない店の商品は一味も二味も違います。
あいかたも四日市に行ったらとこの店の味を待っているのでわずかだが購入しました。今回も少しおまけしてもらって嬉しかった。前回の記事
 




村上時雨店のほぼ対面にある下里薬局の野村君は小学校時代からの友人です。同窓会にも元気な姿を見せてくれました。

店を出て駅方面に歩くとあたりの寂れようが信じられないほどでした。自分が知っている四日市駅周辺の賑わいは半世紀以上前の事ですが
近鉄四日市駅が出来てからは町の中心が全く変わったことを実感しました。それにしてもあたりの荒廃ぶりは恐ろしいほどです。

閑散としているJR四日市駅。59年前煩忙を極めていたこの駅から家族5人は知り合いに送られて神戸に移りました。

 その4は諏訪神社。


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四日市市千歳町から高砂町・相生橋、蔵町を通ってJR四日市駅までぶらぶら  その2

2017年10月19日 | 関西あちこち
中学を卒業した昭和33年3月に高砂町にあった船員向けの特飲街の店の多くが禁止法の制定で廃業を余儀なくされました。
それまで時々夜わざわざ家から開栄橋を自転車で渡って高砂町の町中を走ったことを思い出しました。中学生の男子学生の好奇心のなせる行動で
当然この赤い灯青い灯の町の徘徊は親には内緒にしていました。開栄橋👆
 南納屋町を通りました。
身内の同級生だった九鬼潤さんもそうだが、この今は大師寺になっている(当時は大師堂だった)の住職も身内の同級生でやはり子供の頃会ったことがあります。

稲葉町方面を望む

 当時はなかった名泗国道を渡ると蔵町です。

社宅があったと思われる場所は全く違う建物が建っていました。

 その3へ続く。

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四日市市千歳町から高砂町・相生橋、蔵町を通ってJR四日市駅までぶらぶら  その1

2017年10月17日 | 関西あちこち
昭和23年に父の転勤で四日市を出たが、技術屋の父は再び四日市工場勤務になり阿智胡地亭は小6から高1の一学期まで(昭和29年から33年の夏まで)

今度は当時蔵町にあった社宅で暮らした。だから今も残っている四日市の記憶はこの4年間のものだ。

この日すっかりノスタル爺さんと化した阿智胡地亭は昔の生活空間をぶらぶら歩いてきた。

住んだあたりは明治のころに開発された旧四日市港が運河や船泊になって残っており沢山の橋があった。

 今や全国ブランドになった「九鬼の胡麻油」。四日市の九鬼家は江戸時代からの四日市の有力産業家だ。

テニスの日本を代表するプレイヤーだった九鬼潤さんも四日市で生まれ育った九鬼家の出身だ。彼には面識がある。

四日市の有力地方財閥だった小菅家のお屋敷は今は結婚式場として使われているようだ。

近くに氏神さんがあった。

 今はクラブとして使われている建物があった。

おそらくこの料亭の後身だろうと思った。料亭の名は記憶にある。

相生橋の所に出た。週に何度も渡つた橋は当然ながら架け替えられている。

 

 

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ブログ「花の四日市スワマエ商店街」に四日市でロケされた映画の紹介がある。

ここに相生橋が出てくる。引用元

衝撃の映画“電光石火の男”  

2013-09-07 | わたくしごと、つまり個人的なこと

出来上がって間もない近鉄四日市駅。この驚くべき画像を見たのは、近所のクリーニング屋さんのケースの上だった。

「先日のテレビでやってたので、思わず写真に撮っておきました」

それはモノクロではなく、生き生きとしたカラー写真だった。しかも映画だということだ。

DVDを是非観たいと思いつつ、いたずらに日が経っていた。

ところが昨日。中学校同年会の役員会で顔を合わせたS氏から“電光石火の男”の話しが出た。しかもDVDを持っているとのこと・・・。早速、お借りすることに・・・。

昭和35年5月公開の日活アクション映画“電光石火の男”は、主演が今は亡き 赤木圭一郎、そして二谷英明・浅岡ルリ子・宍戸譲が出演している。

内容は今一つ。そんなことはどうでもよい。この映画は四日市が舞台で四日市でロケーションされているのだ。

本町通りに架かる船のアーチも懐かしい。国鉄踏切あたりから撮られたのか。

諏訪新道左にスギノトーキさんの看板が見える。かかるアーチの四日市名物はのんきやさん。この左にあった。真白に砂糖のかかったぜんざい。のんきやのねずみは猫のように太いっていた・・・とか

そして1周年記念の御在所ロープウェイ。開通は昭和34年だったことになる。

相生橋では赤木圭一郎と浅岡ルリ子によるロケーションが行われた。当時のロケ現場では、大変な賑わいだったのではないだろうか。

手前に相生橋。南東に向かって撮影された。

そして、何よりのご褒美は、(新人)吉永小百合の文字が・・・

浅岡ルリ子経営の喫茶店に勤める、吉永小百合は初々しい!なんと15才!

この喫茶店は、四日市旧港に向かう高砂町に建つ。当時の高砂町はまだまだ賑わいをみせていたと思われる。

内容はいまいちだが、すごい映画だった。

※ 映画は素晴らしい!何十年も前の映像が、まるでつい先日のように目前に甦るから・・・映画は、素晴らしい!

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四日市市千歳町。生まれて5歳まで暮らした場所。今は完全な工場地区になっていた。(極私的記録)

2017年10月16日 | 関西あちこち

戦前戦後をはさむ5年ほどは家で写真を撮る余裕はなかったようだ。だから住んだ家や周辺の写真はない。
おぼろげな自分の記憶ではこんな風ではなく確かにこのあたりに社宅が並んでいた。

戸籍上の生まれた場所の住所表示から言うとこのあたりに間違いない。ここで5歳まで両親と兄弟で暮らしたはずだ。

姉二人は戦前ここ千歳町で生まれ4歳と2歳で疫痢で千歳町で亡くなった。

今後はもう2度と来ることはないであろう場所に立ち、亡くなった両親と姉たちに手を合わせてこの場所を去った。

   亡父はこの工場☟に勤務していた。この岸壁の向こうは四日市港の一部で、工場の燃料である石炭を輸送船から降ろす
水平引き込みクレーン(後年知ったが新居浜で製作されたクレーンだった)が少し向こうの工場の港に設置されていた。

写真の岸壁に戦前は入れたらしく岸壁の上で姉を膝に載せた学生服姿の叔父の胡坐姿の写真が残っている。

父の10歳年下の叔父は当時名古屋の旧制八高理甲の学生で時々四日市に遊びに来ていたようだ。





 門の向かい側の風景。自分の記憶とは全く違う。



工場敷地の角。一号線方面からは千歳橋を渡るとこの三叉路がある。

千歳橋の袂に何でも屋が一軒だけあったが民家がないせいか寂れ切っていた。

 ここ三重県四日市市千歳町2番地で生まれた身は、戦時中母親の郷里である長野県茅野市に疎開し、
その後は ⇒兵庫県⇒福岡県⇒兵庫県⇒三重県⇒兵庫県⇒愛媛県⇒兵庫県⇒千葉県⇒茨城県⇒兵庫県⇒広島県⇒兵庫県
と住む所を「あちこち」移動する人生になった。ほんにどんな土地のどんな家に生まれてくるか、本人は選ぶことができないものだ。




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5年ぶりに四日市へ行った。 近鉄特急アーバンライナーに乗るのは5年ぶり

2017年10月15日 | 関西あちこち
中学を卒業して60年、5年ごとの同窓会が四日市のホテルであった。66人が出席した。
 東西線で京橋に出て



鶴橋でJRから近鉄線に乗り換える👆
近鉄特急は全車指定席だ。



電車内の放送は日本語の後に中国語、韓国語のアナウンスが必ず続いているのには感心した。5年前はこんなことはしてなかったような気がする。
英語はモニターに日本語と同時に掲示されアナウンスはない。こうして中国語と韓国語を女性の声で流すのは近鉄名古屋本線が
奈良方面と京都方面に接続している故であることがわかる。何回か聞いているうちに中国語と韓国語が耳に心地よく感じられるようになった。

電車が四日市に差し掛かるとやはり車窓は日本有数の工業都市を映し出した。



 四日市までは神戸の最寄駅から近鉄四日市駅まで2時間半の行程だ。
四日市手前の白子で「白子 大黒屋光太夫の生地」の看板がまだ残っているのに気がついた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 ☆2005年08月27日(土)ブログ「阿智胡地亭の非日乗」に掲載
「大黒屋光太夫 上下」
 吉村昭著
 新潮文庫
 平成17年6月1日初版発行
 定価各514円(税別)

 ☆難波発の名古屋行き近鉄特急が三重県内に入り、白子駅に近づくと、「大黒屋光太夫の生地、白子」と言う大きな看板が目に付きました。
この路線にはもう何年も何回も乗っているのに、いままで気がつきませんでした。
 大黒屋光太夫は井上靖が書いた「おろしゃ国酔夢譚-昭和41年刊」(海外あちこち記その19)を読んでいたので、彼が伊勢の生まれである
ことは知っていましたが、白子に関係していたことは忘れていました。
今回新潮文庫から出た吉村昭が書いた「大黒屋光太夫」上下を、あらためて読む気になったのは、あの看板をこの夏に四日市に行ったとき見た
からかもしれません。そしてこの吉村本が平成15年に毎日新聞社からハードカバーで出たのが、鈴鹿市があの看板を出す事になったきっかけかな
と想像しました。
 江戸時代に、白子から江戸へ向かう千石積みの廻船が難破して、ロシアへ流された17人の日本人(うち10年後に二人だけが江戸の土地を
踏むことが出来た)がいました。かれらの、この遭難記録小説を読んで思ったことが2点あります。
その一つは「この男を生まれた国へ返してやりたい」と、当時のロシア人貴族や高官に自然に思わせ、そのための協力を彼らに最大限させた
「大黒屋光太夫」と言う男の人間の魅力と、それを周囲に認めさせ得た彼の人間関係能力・コミュニケーション能力の高さです。
もう一つは「地方に今でも発掘される日本の歴史資料の奥の深さと、歴史記述はその時々に得られる資料を超えられない」と言う面白さです。

    「光太夫の人間性とその驚異的な望郷の思いが周囲を変えていく」

 彼の一行の前にも何人もの遭難者がロシアにたどり着いていますが、帰国できた人間はいませんでした。
なぜ彼ら一行が、カムチャッカ半島から、モスクワよりまだまだ西側の当時の都、ペテルスブルグまでエカテリーナ女王に帰国を直訴する
旅に出ることが出来たのか、そしてなぜ謁見を実現出来たのか?そしてなぜ帰国出来たのか?
吉村昭は直接的にこの点に焦点をおいているようには思えませんが、この本を書く大きな動機の一つに,このことがあったに違いありません。
当時の白子浦は全国の湊の中でも特別な地位を占めていました。その理由をこの本から要約すると;

 「家康は本能寺の変のあと三河へわずか30数名の手勢と共に落ち延びたが、伊賀者の巧妙な手引きで、途中の郷民の落ち武者狩りに会わずに、
信楽から加太越えで白子浦にたどりついた。そしてこの地の廻船業者に渡船を依頼した。業者は快諾して船を出し一行は無事に三河の国大浜に
上陸して岡崎に帰城した。

 その後、これを多として幕府は白子浦は特別な港として目をかけ、紀州藩の藩領にし、江戸に大店を持つ伊勢商人たちの商品積出港ともなって大いに発展した。
光太夫はそんな環境の中に育ち「神昌丸」の沖船頭としてこの航海の指揮を執りましたが、彼は一言で言えば、船乗りを生業(なりわい)にした
人間ではなく商人(あきんど)として育った人間でした。

 この本を読んで当時の日本の第一級の商人は、この時代の世界水準で言っても、世界のどこに出ていっても全く一流の人間であったと思いました。
彼は、宮廷の高官、高級軍人、貴族、そして宿屋の主人や庶民やその他の誰の前でも臆することなく、誰の前でも態度を変えずに、
自分の思いや考えを述べています。江戸時代に生まれ、育った人間の、この一人を知ったそのことだけでも、この上下2冊1080円は貴重な投資でした。

大黒屋光大夫はなぜロシア語をマスターできたか
 
井上靖の「おろしゃ国酔夢譚」と吉村昭の「大黒屋光大夫」は共に伊勢国白子の船頭「大黒屋光大夫」を題材に取り上げた小説だ。
彼は江戸へ向かった船が暴風に会い、カムチャッカ半島まで漂流した。
 どうしても故郷の伊勢白子まで帰るという執念で生き延び、ロシア語を身につけ、周囲のロシア人のサポートを得て、
当時のロシアの首都サンクトペテルブルグへ上る。そして何回かの挑戦の末、エカテリーナ女帝に面談し、彼女の心を捉え、
また苦労の末幕末の日本に戻ってきた。この男の生涯は、知らぬ他国の多くのロシア人を人間として自分に惹きつけたこと、
自分で運命を切り開いたことを知ると、教科書で習った江戸時代の町人のイメージを根底から変える。

 冬のシベリアを橇で渡る過酷な道中の描写だけでも物凄いものがある。

井上靖が本を書いた当時の史実の発掘の限りでは、日本に辿り着いたあと江戸で幽閉されたままで生涯を終えたように書かれているが、
吉村昭は白子に何度も足を運び、村の旧家に残された古文書の中に、光大夫が密かに江戸から白子を訪ねた記録を見つけ出した。
 吉村昭の小説にはその感激モノの挿話も記されている。

大黒屋光大夫はいかにしてロシア語を身につけたかは2冊の小説にも副テーマとして描写されているが、英語教育の論評にサンプルとして
光大夫が引用されていた。やはり光大夫はいまもこうして生き延びている。

『英語のお勉強 (副題:なぜコーダユーはロシア語をマスターできたのか)』 引用元

一部引用・・

日本の英語教育は、学力テストの一環としてイビツな発展をとげたまま放置されている。それは「コミュニケーション」という
言語の根本的存在理由の軽視の上に立脚し、日本の経済と将来の繁栄を内側から立ち枯れさせている。

人生一度きりの貴重な青春時代を、使い物にならない「語学」習得に費やし、周囲にその将来を嘱望され官庁入りした優秀/有為な若者たちが、
だれも聞きに来ない記者会見で、だれも座っていないイスを相手に、英作文を朗読している。

彼ら個人においては悲劇であり、日本にとっては大損失だ。
この小文が、若い読者の英語学習における何らかのヒントになってくれるのであれば、「徒労にあらざりしか」である。
なお、副題、「なぜコーダユーはロシア語をマスターできたのか」であるが、私はこう考えている。

大黒屋光太夫は、1782年から10年あまりの漂流生活で、アリューシャン列島アムチトカ島からハバロフスク、イルクーツクを経てのシベリア横断、
そして女帝エカテリーナとの謁見を果たしたペテルスブルグまで、当時の日本人としては想像を絶する世界体験をした。この10年間、彼の行動の全ては、
伊勢白子の回船「神昌丸」の船頭として、部下の水夫たちと共に、無事ふるさとの日本へ戻ること一点に絞られ、けっしてぶれることが無かった。

光太夫が漂流者のなかで一番ロシア語に習熟した理由は、彼のこの「船頭」としての責任感と使命感にあったのだと思う。彼には皆を代表して、
「コミュニケーション」をとる必要性があり、その責務を存分に果たしたのだ。行く先々でその地の名士の歓待を受け、ついには時のロシア宮廷をも
感服させたのは、光太夫のそうした「お人柄」とリーダーシップにあったのだろう。

私がおせっかいを承知で、私なりの英語の習得術を皆さんに披露するのは、皆さんが英語というツールを使いこなせるようになり、光太夫のように
「日本人の代表」として世界の人々と「繋がって」いって欲しいからだ。
「英語力」で「就活を有利に進めよう」などと、日本人同士で「人をしのぐ」ことなどを目的にしていない。
 2005年8月27日掲載エントリー

海外あちこち記その十九 ソ連邦/モスクワ篇① 一部引用。

1)ソ連がイルクーツク港などの港湾クレーンを日本の円借款で買い付ける商談が昭和50年代中頃にいくつかありました。
商社経由の引合いに見積もりを出しておくと、ソ連の港湾局から仕様説明に来いと呼び出しが、かかることがあります。設計課の技術屋さんと
商社の人で4、5人のチームを組んでモスクワへ何度か行きました。
 モスクワへの飛行機はソ連の国営アエロフロートだとメンテが悪く、機内の冷たい風がいつも首もとに流れ、機内食も塩味が濃いので
JALが取れるとほっとしたものです。成田からの飛行機の眼下に何時間見ても変化がないシベリアの広大な赤茶けた泥地に、
アムール川(黒竜江)がのたうつ情景は何度見てもあきることはありませんでした。井上靖の「おろしゃ国酔夢譚」という
大黒屋光太夫を主人公にした小説で、彼ら一行がペテルスブルグの宮廷までこの原野を沿海州から横切っていったことを読んでいたので
その上空をあっと言う間に移動するのは不謹慎な感じがしました。

モスクワに仕事で行くようになる4、5年前に私的なことで3日程当地に滞在しましたが、ビジネスで行くとなると、パスポートチエックの高い窓口から、
こちらを見下ろすウブ毛が光る若い係官の無機質、無表情の顔に出会った時から、早くも共産国に来たと何となく緊張します。

2)通関では日本から持ち込むお客さんへの手土産が、いくつか必ず検査官に抜かれるので、目減りする分だけ余分に持っていかないといけません。
特にクリスマス前の日本のカレンダーはその品質から装飾用や贈答品として人気が高いとのことで、トランクを開けるとカレンダーだけ探され、
いつもより多く抜かれるので女の検査官と渡せ、渡さぬと両端を引っ張りあいになったこともあります。

 ところで袖の下、賄賂はマルクス・レーニン主義とは関係ない封建社会ルーツ社会の宿痾であり、付き物、潤滑油でもあるみたいです。
明治以降の現代日本人は相対的にこの習慣に慣れてなく、つい現地標準以上にやりすぎて、今でもその土地の秩序を乱し、大盤振る舞いで
かえって馬鹿にされるみたいです。

しかし交通違反の現場で警官が現金を受けとって、違反者を見逃すということがない世界でも数少ない国である日本は、警察のキャリア組の上層部が
やりたい放題でも、現場の警察官はこの事をずっと続けて欲しいと念じるのみです。ただ上の背中を見ているわけだから、
日本も一線のオマワリさんも時間の問題かもしれませんがそうならんようにタノムぜと思います。

ところでジャカルタ篇でも触れましたが、召し上げても個人でポケットに入れるのではなく組織でプールしておき、年末やお祭りの時に
役所の安月給を補う為に役職に応じて組織内で皆で配分すると聞きましたので念のため。

3)ホテルにつくと各フロアーのエレベーターの前にフロントがあり、24時間人が詰めていて出入りをチエックしています。
フロントの人はこんなに肥ってもいいのかというオバサンが多かったです。
(このフロアーシステムは中国でも昭和57、8年頃までの北京飯店や友誼賓館でも同じでした。)

パスポートをフロントに渡してからチエックインの手続きをし、半日くらいして返されます。パスポートを持っていかれるというのは
何度経験しても手元に戻るまで落ち着かないものです。 誰かの部屋に集まり、どこの国でも最初は商社の担当駐在員からその国の仕事の
心得のオリエンテーションがあるのは同じですが、ソ連の場合は内容がかなり違いました。

1)商談が始まると、どの部屋で内部打ち合せしても盗聴装置があるから、
肝腎な話は筆談ですること。どうしても話しをして相談したいときは屋外に出てすること。
2)最終の原価表は常に身につけて置くこと。部屋のトランクの中に鍵をかけて置いておいてもハウスキーピングの時に全部開けて見られるからと。
3)ホテルから歩いては出ないで欲しいが、もし歩いて道路を渡る場合は青信号でも十分注意すること。車は党の幹部など特権階級の乗り物だから
一般人民をひき殺しても殆ど罪にならないので、専属運転手は猛スピードで飛ばしているから などなど。
日本の大部数新聞や「リダーズダイジェスト」という昭和20、30年代のアメリカの反共月刊誌で共産国のイメージをたっぷりインプット
されている若手貿易マンにとっては、さもありなんと素直に納得です。しかし海外案件を、日本の殆どの大手商社と一緒にやるようになってから、
メーカーの若手貿易マン(私のことです(笑))も次のように少しずつ学習しました。
  (1)彼らはどんなにメーカーの世話をしても受注にならなければ、手数料を頂くという 商社のビジネスにならないから、
その国の特殊性を強調して自分達のサポートがなければ素人のメーカーは赤子の腕をひねられるようにやられると思い込ませる。
  (2)ソ連の場合は特に、特殊な国だから自分達のようなプロに判断をまかせなさいと言う。
  (3)勝手に行動されてトラブルを起こされると厄介だから、脅えさせて出歩かないようにする。
 
   
       2017.10.08 〜 2017.10.14、
20310 PV、2654 IP、1944 位/2774191ブログ

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県立明石公園・明石市立文化博物館で遊ぶ。 その2

2017年05月05日 | 関西あちこち
「長谷川義史の世界展 いいからいいから」を観に行った その2 です。































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清荒神さんの参道や拝殿 20年ぶり?のお参り

2017年04月27日 | 関西あちこち
阪急宝塚線の清荒神駅をおりて950mの参道のだらだら坂を登っていく。両側にある店は90%閉まっている。
ウイークデイのせいなのか、あるいはもはや閉めざるを得ないほど参詣者が少ないのか?
 神戸に戻ったころあいかたと来たことがあるが、その時はこんなに寂れていなかったような気がする。
もはやこの上り坂を登って信仰心を持って神社にお参りする礼拝者は減っていっているのだろう。
鉄斎美術館は神社の本堂からもうすこし上がった所にあり、前来た時はあまりの人の多さにスルーしてしまったので入館は今回が初めてだ。


























帰り西宮北口で下車して4,5年ぶりに居酒屋の「ふじや」で一杯やった。


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