2012-05-24明石大橋をバスは走る.wmv
高速バスは三宮から新居浜まで3時間40分の行程です。明石大橋を渡って淡路島へ渡り、島を走り抜けて鳴門へ。
2012 05 26松山高速道路
徳島県の山中を高速道が愛媛県につながっています。高校野球で有名な池田高校のある阿波池田などを通ります。
2012-05-24明石大橋をバスは走る.wmv
高速バスは三宮から新居浜まで3時間40分の行程です。明石大橋を渡って淡路島へ渡り、島を走り抜けて鳴門へ。
2012 05 26松山高速道路
徳島県の山中を高速道が愛媛県につながっています。高校野球で有名な池田高校のある阿波池田などを通ります。
新酒は当然よし、居酒屋風の料理あれこれも良し。試飲会の会場は元の精米場で飲む雰囲気にぴったり。
至福のひと時でありました。今回の集まりに入れて頂いたM社35年同期社中の皆様ありがとうございました。
また、声掛けをして頂いたU先輩ありがとうございました。
現在の日本酒の87%はアルコールが添加されているので海外では日本酒と認められていないそうです。
なぜ日本酒の価格にピンキリの幅があるかと言えば、アルコール添加の量次第で原価が変わるから。
太陽酒造は残りの13%の日本酒を造る純米酒メーカーであり、原料米の品質からすると全体の3.7%に入ると
社長自ら誇らしげにガイドしてくれました。
明石市江井ヶ島に「太陽酒造」という小さな小さな酒造会社があります。従業員は社長夫婦と勤務6年目の若衆一人。
千石蔵で一升瓶を年に10万本作る能力はありますが、純米酒の最高級品だけをつくるため、材料米の山田錦の質量からのしばりもあって
生産量を押さえているとのことでした。試飲したのは澄んだ上澄みと白く濁ったふなくちの2種類。あっさりしているのにコクがあって
確かに別物の日本酒でした。
2010年11月18日エントリー再投稿。友人のブログに「無鄰菴」が登場していました。ああそうだ自分も行ったことがあるなあと思い再掲載します。
哲学の道を若王子神社まで歩き、そこからまたしばらく歩いて永観堂へ行きました。
永観堂は入場料千円にいささか怖れをなして、外から紅葉を楽しみました。
白壁に沿った道路際のどうだんツツジも見事でした。
山縣有朋の京都の別荘「無鄰菴」までは少し距離がありました。
辿り着いた無鄰菴は有名な庭師が造営しただけに、見事な庭園でした。田舎侍が天子様のおひざ元の一等地に
このような別荘を所有する・・やはり明治維新は下剋上の一つのカタチだと思いました。
無鄰菴に辿り着くまでに若い韓国人女性の二人連れに京都会館への道を聞かれました。
彼女たちが手にしていたのはハングルで書かれた立派な京都のガイドブックでした。わずかな数分のChatでしたが,
こうして若い韓国人が普通に京都観光を楽しんでいるんだなあと時代を感じました。
無鄰菴を出て蹴上まで歩き、錦市場へ行くため地下鉄で三条大橋に向かいました。
蹴上ではインクラインなど産業遺跡を見ることができますが、第2期発電所の建物もあります。
四日市の諏訪神社は近鉄四日市駅から歩いて5分ほどの所にある。というか鎌倉時代に信州諏訪から勧請された諏訪神社のすぐ近くに、
昭和30年代に近鉄の駅が移転されてきたということだ。
5年に一度の市立港中学校の同窓会も諏訪神社の近くのホテルで毎回開かれる。同窓会の時間の前にJR四日市駅からタクシーで諏訪神社まで乗った。ワンメーターの距離だ。
アメリカ空軍の市街地無差別絨毯爆撃・一般市民虐殺の焼夷弾で丸焼けになった神社は戦後信州諏訪の諏訪大社からあらためて諏訪大社の神霊を当地に勧請したと聞いている。
社務所で神社縁起の書き物を頂いた。
神社を参拝したあとほぼ毎日見ているブログ「花の四日市スワマエ商店街」を運営されている水谷仏具店のご主人に挨拶をしようと思って店を訪ねたら幸い店におられた。
店は神社から歩いて2分の場所にある。阿智胡地亭ですと名乗ったら時々コメントを出しているせいかあぁ阿智胡地亭さんとすぐ話が通じた。
彼のブログのお陰で四日市の今や、商店街の諸活動などを楽しませてもらっている。他のgooブログ運営者と直接お会いしたのは関西以外では磯のすーさんを除いては今回が初めてだ。
同窓会は夕刻4:15の集合写真撮影から7:30の中締めまで賑やかに行われた。出席者は約350人の昭和33年卒業同学年者のうち66人。亡くなった方は77名とのこと。
互いにメルアドを知っている10人ほどの方は皆元気に出てこられていた。私は19:59発の近鉄難波行特急に乗って家には22:50頃に帰ると言う家を朝6時出の日帰り強行軍だったが
実りの多い一日を過ごすことが出来た。同窓会の模様。←磯のすーさんのブログから。
◎信州諏訪がルーツの我が家の先祖代々の産土神である諏訪大社は全国各地に勧請されているが、阿智胡地亭はこれまで現住の神戸の諏訪神社は
勿論、長崎、千葉県流市山駒木、東京根津、平井の諏訪神社をお参りしてきた。あの信州の山中にある諏訪大社がなぜこれほどまで全国に勧請されているのか
その理由は諸説あるが阿智胡地亭は縄文の時代に遡る神の故ではないかと密かに考えている。つまり弥生人ではない日本全国の先住の民、縄文人の神として
祀られているのではと。
Wikipediaから部分引用。諏訪大社:
諏訪盆地中心に諏訪湖。湖の左下(南東)に上社、右上(北)に下社が鎮座する。
長野県中央の諏訪湖を挟んで、以下の二社四宮の境内が鎮座する。
上社 (かみしゃ)
本宮 (ほんみや)(長野県諏訪市中洲宮山)
前宮 (まえみや)(長野県茅野市宮川)
下社 (しもしゃ)
秋宮 (あきみや)(長野県諏訪郡下諏訪町武居)
春宮 (はるみや)(長野県諏訪郡下諏訪町下ノ原)
上社は諏訪湖南岸、下社は北岸に位置し遠く離れているため、実質的には別の神社となっている。なお「上社・下社」とあるが社格に序列はない。
創建の年代は不明だが、日本最古の神社の1つといわれるほど古くから存在する。『梁塵秘抄』に「関より東の軍神、鹿島、香取、諏訪の宮」と謡われているように軍神として崇敬された。また中世に狩猟神事を執り行っていたことから、狩猟・漁業の守護祈願でも知られる[1]。
社殿の四隅に御柱(おんばしら)と呼ぶ木柱が立っているほか、社殿の配置にも独特の形を備えている。社殿は多数が重要文化財に指定されているほか、6年に一度(7年目に一度)催される御柱祭で知られる。
祭神[編集]
当社全体で祀る主祭神は以下の2柱(各宮の祭神については各項参照)。両神とも上社・下社で祀られている。
建御名方神 (たけみなかたのかみ)
上社本宮祭神。『古事記』の葦原中国平定(国譲り)の段において、大国主命の御子神として登場する。母は沼河比売(奴奈川姫)とされる。
『先代旧事本紀』には建御名方神が信濃国諏方郡の諏方神社に鎮座すると明示されている[2]。
八坂刀売神 (やさかとめのかみ)
上社前宮・下社主祭神。建御名方神の妃。
なお、本来の祭神は出雲系の建御名方ではなくミシャグチ神、蛇神ソソウ神、狩猟の神チカト神、石木の神モレヤ神などの諏訪地方の土着の神々であるという説もある[要出典]。現在は神性が習合・混同されているため全てミシャグチか建御名方として扱われることが多く、区別されることは非常に稀である[要出典]。神事や祭祀は今なおそのほとんどが土着信仰に関わるものであるとされる[要出典]。
八幡神や住吉三神など他の信仰にも見られるように個々の祭神が意識される事は少なく、まとめて「諏訪大明神」・「諏訪神」として扱われる事が多い。
63年前に卒業した家から歩いて3分だった納屋小学校は、目の前を名泗国道(一号線のバイパス)が走るようになり、
また四日市公害の渦中の校区になったりして周囲の住民が多く郊外に移ったため生徒数が減少し廃校になっていました。今は市民の福祉施設として使われているようです。
小学校から四日市駅方面へ
駅にわたる踏切の手前に村上時雨店があります。5年前の同窓会の時も寄って店の方とお喋りをしました。中学の同級生のことを
よく知っておられるので話が楽しい。
富山の鱒ずしと同じで大手の名の通ったブランドより、こういう地元のお客さん相手の添加物を使わない店の商品は一味も二味も違います。
あいかたも四日市に行ったらとこの店の味を待っているのでわずかだが購入しました。今回も少しおまけしてもらって嬉しかった。前回の記事。
村上時雨店のほぼ対面にある下里薬局の野村君は小学校時代からの友人です。同窓会にも元気な姿を見せてくれました。
店を出て駅方面に歩くとあたりの寂れようが信じられないほどでした。自分が知っている四日市駅周辺の賑わいは半世紀以上前の事ですが
近鉄四日市駅が出来てからは町の中心が全く変わったことを実感しました。それにしてもあたりの荒廃ぶりは恐ろしいほどです。
閑散としているJR四日市駅。59年前煩忙を極めていたこの駅から家族5人は知り合いに送られて神戸に移りました。
その4は諏訪神社。
今度は当時蔵町にあった社宅で暮らした。だから今も残っている四日市の記憶はこの4年間のものだ。
この日すっかりノスタル爺さんと化した阿智胡地亭は昔の生活空間をぶらぶら歩いてきた。
住んだあたりは明治のころに開発された旧四日市港が運河や船泊になって残っており沢山の橋があった。
今や全国ブランドになった「九鬼の胡麻油」。四日市の九鬼家は江戸時代からの四日市の有力産業家だ。
テニスの日本を代表するプレイヤーだった九鬼潤さんも四日市で生まれ育った九鬼家の出身だ。彼には面識がある。
四日市の有力地方財閥だった小菅家のお屋敷は今は結婚式場として使われているようだ。
近くに氏神さんがあった。
今はクラブとして使われている建物があった。
おそらくこの料亭の後身だろうと思った。料亭の名は記憶にある。
相生橋の所に出た。週に何度も渡つた橋は当然ながら架け替えられている。
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ブログ「花の四日市スワマエ商店街」に四日市でロケされた映画の紹介がある。
ここに相生橋が出てくる。引用元。
出来上がって間もない近鉄四日市駅。この驚くべき画像を見たのは、近所のクリーニング屋さんのケースの上だった。
「先日のテレビでやってたので、思わず写真に撮っておきました」
それはモノクロではなく、生き生きとしたカラー写真だった。しかも映画だということだ。
DVDを是非観たいと思いつつ、いたずらに日が経っていた。
ところが昨日。中学校同年会の役員会で顔を合わせたS氏から“電光石火の男”の話しが出た。しかもDVDを持っているとのこと・・・。早速、お借りすることに・・・。
昭和35年5月公開の日活アクション映画“電光石火の男”は、主演が今は亡き 赤木圭一郎、そして二谷英明・浅岡ルリ子・宍戸譲が出演している。
内容は今一つ。そんなことはどうでもよい。この映画は四日市が舞台で四日市でロケーションされているのだ。
本町通りに架かる船のアーチも懐かしい。国鉄踏切あたりから撮られたのか。
諏訪新道左にスギノトーキさんの看板が見える。かかるアーチの四日市名物はのんきやさん。この左にあった。真白に砂糖のかかったぜんざい。のんきやのねずみは猫のように太いっていた・・・とか
そして1周年記念の御在所ロープウェイ。開通は昭和34年だったことになる。
相生橋では赤木圭一郎と浅岡ルリ子によるロケーションが行われた。当時のロケ現場では、大変な賑わいだったのではないだろうか。
手前に相生橋。南東に向かって撮影された。
そして、何よりのご褒美は、(新人)吉永小百合の文字が・・・
浅岡ルリ子経営の喫茶店に勤める、吉永小百合は初々しい!なんと15才!
この喫茶店は、四日市旧港に向かう高砂町に建つ。当時の高砂町はまだまだ賑わいをみせていたと思われる。
内容はいまいちだが、すごい映画だった。
※ 映画は素晴らしい!何十年も前の映像が、まるでつい先日のように目前に甦るから・・・映画は、素晴らしい!
戦前戦後をはさむ5年ほどは家で写真を撮る余裕はなかったようだ。だから住んだ家や周辺の写真はない。
おぼろげな自分の記憶ではこんな風ではなく確かにこのあたりに社宅が並んでいた。
戸籍上の生まれた場所の住所表示から言うとこのあたりに間違いない。ここで5歳まで両親と兄弟で暮らしたはずだ。
姉二人は戦前ここ千歳町で生まれ4歳と2歳で疫痢で千歳町で亡くなった。
今後はもう2度と来ることはないであろう場所に立ち、亡くなった両親と姉たちに手を合わせてこの場所を去った。
亡父はこの工場☟に勤務していた。この岸壁の向こうは四日市港の一部で、工場の燃料である石炭を輸送船から降ろす
水平引き込みクレーン(後年知ったが新居浜で製作されたクレーンだった)が少し向こうの工場の港に設置されていた。
写真の岸壁に戦前は入れたらしく岸壁の上で姉を膝に載せた学生服姿の叔父の胡坐姿の写真が残っている。
父の10歳年下の叔父は当時名古屋の旧制八高理甲の学生で時々四日市に遊びに来ていたようだ。
門の向かい側の風景。自分の記憶とは全く違う。
工場敷地の角。一号線方面からは千歳橋を渡るとこの三叉路がある。
千歳橋の袂に何でも屋が一軒だけあったが民家がないせいか寂れ切っていた。
ここ三重県四日市市千歳町2番地で生まれた身は、戦時中母親の郷里である長野県茅野市に疎開し、
その後は ⇒兵庫県⇒福岡県⇒兵庫県⇒三重県⇒兵庫県⇒愛媛県⇒兵庫県⇒千葉県⇒茨城県⇒兵庫県⇒広島県⇒兵庫県
と住む所を「あちこち」移動する人生になった。ほんにどんな土地のどんな家に生まれてくるか、本人は選ぶことができないものだ。