茅野署は23日、諏訪大社御柱祭の上社山出しと里曳(び)きのルートを確認した。本番での氏子や観光客の安全確保に備え、諏訪大社神職や諏訪広域消防本部の消防署員、消防団員、上社御柱祭安全対策実行委員会の大総代ら約40人が参加。混雑が予想される茅野市宮川の木落(おと)し公園と川越しをする宮川、上社前宮などを回り、立ち入りを規制する場所や警備態勢を話し合った。
木落し公園では、木落としをする坂に登ったり、周りを歩いたりして氏子と観光客の動きを想定。坂の下は氏子以外の立ち入り禁止を徹底し、けが人や病人が万一出た場合は坂の下に通じるJR中央東線沿いの道を緊急搬送路として使える、と確認した。
宮川では、曳行中の氏子が溺れた時のために潜水できる消防署員を8人待機させ、当日は氏子以外の立ち入りを制限すると告げる看板を3月下旬に置いて事前周知に努める―とした。茅野署地域課の櫛引知弘課長は「木落としや川越しは見せ場で観光客が集中する。警備が難しいが、前回の反省も生かし、連携して安全確保に努めたい」と話した。
◎玉川郵便局のすぐそばにバス停があり、阿智胡地亭は夏休みに親戚を訪ねる時にこのバス停でよく乗り降りしたので、
旧玉川村穴山にある玉川郵便局が懐かしい。里曳きの御柱はここで90度近い大曲りをして宮川の川越しに向かう。
玉川郵便局がある地点は「穴山の大曲り」として有名だ。
女学生時代の母は旧玉川村穴山から茅野駅まで毎日歩いて往復し、汽車に一駅乗って上諏訪の諏訪高等女学校まで通学したと聞く。
ただ冬季の凍てつく1里以上の道はとても通えたものではなく、女学校の寄宿舎に入っていたそうだ。
戦後すぐの昭和24年に発行されてベストセラーになった「流れる星は生きている」を書いた藤原ていさんも同じ寄宿舎仲間だった。
藤原ていさんは作家の新田次郎の奥さんだ。数学者でエッセイスト、ベストセラー「国家の品格」の作者、藤原正彦は彼女の次男である。
また藤原ていさんや母は、国語教育で日本の教育界に長く貢献した「大村はま先生」(クリック)の最初の生徒でもあった。
かつて上社の「奥山出し」で御柱の曳行路となった林道=茅野市
諏訪大社御柱祭で、御柱はどんなルートを通って引かれていくのですか。
◇
氏子たちが御柱を引いて進む道を「曳行(えいこう)路」と呼びます。上社側は、4月2〜4日の「山出し」が諏訪郡原村と茅野市境にある出発点の「綱置場(つなおきば)」から同市宮川沿いの「御柱屋敷」までの12・1キロ。5月3〜5日の「里曳(び)き」は御柱屋敷から上社前宮(茅野市)までが0・7キロ、本宮(諏訪市)までが1・9キロとなっています。曳行路の大半は茅野市内を通ります。
下社側は同郡下諏訪町内のみを通る道で、山出し(4月8〜10日)は出発地の「棚木場(たなこば)」から木落(おと)し坂を経て「注連掛(しめかけ)」までの4・8キロ。里曳き(5月14〜16日)は注連掛を出て下社春宮までが1・7キロ、秋宮までは3・3キロです。
曳行路は古くからほぼ一定で、上社側の曳行路は距離が長く比較的緩やか、下社側は距離が短く傾斜がある道のりとなっています。戦前までは上社、下社ともに、山出しの前に、御柱用材を伐採した山から山出しの出発点までを氏子が曳行する「奥山出し」もありました。ただ、山中は険しく危険も伴うため、現在は専門業者が搬出し、出発点まで運んでいます。
(2016年2月24日掲載)
阿智胡地亭便りから 「丹羽文雄さんと大村はまさん、100歳と98歳の死 」
2005.0 4.22 書下ろし、メルマガ発信。
4月17日に生涯一国語教師の“大村はま”さんが98歳で亡くなり、20日に作家の“丹羽文雄”さんが100歳で亡くなりました。
お二人ともに明治40年前後に生まれ、明治、大正、昭和、平成の四つの年号の時代を生きてこられたことになります。
私は当然ながら、お二人にお会いした事はないのですが、ささやかなご縁のせいで、小学生の頃から、お名前に親しみがあり、新聞やテレビなどで記事が出ると、かならず目を通してきました。
死んだ両親が生きていた頃と自分が生きている時代に共通した人が、もう100歳近くになって、こうして亡くなられていくのだという思いになりました。 (1)小説家の 丹羽文雄さんは、昭和30年前後の小、中学生の自分からすると、今の「渡辺淳一」さんのようなイメージで、子供が大人の前でこの人の名前を口にしてはいけないような雰囲気だった記憶があります。
当時、三重県四日市市に住んでいて、中日新聞の北勢版で「郷土出身文学者特集」かなんかの記事に、「丹羽文雄」が四日市出身だと書いてあり、あの有名な小説家が四日市出身なんだと子供心に親しみを持ちました。
そして中学生の自分が入学を目指して受験勉強していた四日市高校が旧制富田中学時代の彼の母校である事もその記事で知りました。 丹羽文雄は戦前と、戦後長くの華々しい作家活動と80数才以降のアルツハイマー病の対比がよく取り上げられます。
彼と奥さんの闘病のさまも、長女の本田桂子さんの両親の看病闘病記などで公になりましたが、本田桂子さんが3,4年前に心筋梗塞で68歳で突然なくなられた時は、看病疲れが原因ではないかと思いました。
彼女はアルコール中毒にもなりそれを克服したこともカミングアウトされています。両親の老齢化に伴い過酷な状況を必死で支えておられたようです。
原稿用紙に丹羽文雄、丹羽文雄、丹羽文雄、丹羽文雄、・・と名前だけしか書けなくなったという挿話をテレビの特別番組で知った時は、人間の脳の活動が病んだとき「その人」と言うのはどうなるんだろうと思いました。
本人は預かり知らない世界に入りながらも、その状態で生存していくと言うのは、哺乳類の中では“ホモサピエンス”という一種類が初めて体験する世界です。
そして自分もその世界に入りだしているかも知れない。
私にとっては丹羽文雄さんはただの昔の小説家ではなく、3ヶ月在籍した四日市高校の大先輩であり、一人の長生きをする人間としても気になる存在の人でした。
分野が違うので比較にはなりませんが、夏目漱石は49歳で生を終え、丹羽文雄は自分が丹羽文雄と知らずに100歳で亡くなりました。
(2) 大村はまさんは、横浜出身の国語教師で生涯子供に接した人生を送りました。
大村さんが1928年に東京女子大を出て、国語教師として赴任したのは上諏訪にあった旧制諏訪高女(現二葉高校)でした。
戦後学制が新制になった後は、東京の多くの新制公立中学で国語教師を勤められました。1980年に現役教師を引かれるまで直接教えた生徒数は5000人ほどだそうです。
戦後、大村はま先生の「教え方」が新聞で取り上げられることが多くなった頃、母がその記事を読みながら、私の女学校のクラスはこの先生が教師として持った、初めてのクラスだったのと嬉しそうに話しました。
そのときが(大村はま)という人の存在を知った始めでした。
つい最近NHKで大村はまさんの一生をドキュメンタリー化した番組を見たばかりでした。
勁くてやさしい眼をした人だと思いました。本当の僧はこんな顔なんだろうと思いました。
教室で教えることと自分の人生が一体化した人生の人でした。戦後の彼女の授業の特徴は自分で考えさせ、考える力をつけることのようでした。自分が中学生時代にも公立中学にはそんな教師が沢山いました。
母が「私の先生」とご自慢だった母と、10歳違いの大村先生が生きておられる間は、亡くなった母もまだ先生の生徒で生きているような気がしていましたが、訃報を聞いてなんとなくガッカリしました。
先生が書かれて、母が買っていた本を本棚で探して再読しようと思います。
☆☆大村はま先生 の言葉の中から。
【優劣のかなたに】
しかし,劣等だとか,優等だとかいう世界の向こうの世界へ子どもを連れていくことはしなければならない。
教室で座りながら,できない,つらいなどと思わせる,片っぽうは反対に得意になっているとか。
これも人間を育てる世界らしからぬ世界で,そういうところに子どもを置いてはだめです。
……ただ教室のなかで優劣の向こうへ生徒をもっていくことだけは,これはしなくてはいけないことでしょう。
教室のなかで,それぞれ学習に打ち込んでいて,それぞれ成長していて,だれができ,どの子ができないなどと思っているすきまがないようにしなければならないと思います。
……できるとかできないとかということを忘れて,全力をふるって,うちこんでやっていく。
一生懸命やっていく,その向こうで,その気持ちのなかで,できる子ども,できない子があっても,そんなことに関係のない世界をつくっていくことができないか。
……おもしろい授業を力いっぱいさせて,生徒に自分が劣っていることを忘れて打ち込ませるところまではもっていかなくてはと思っています。
みんな一生懸命になっているとき,そんなことが気にならなくなってしまうのですね。
そういうところを目ざして,いろんな工夫をしてきました。
大村はま著「大村はま国語教室11 国語教室の実際」(筑摩書房)
☆☆「大村はま先生について」 by鳴門教育大学付属図書館 こちら(クリック) |