「ほぼ日」の糸井重里さんがアメリカの会社「HUBSPOT」を訪ねた記録です。
同じような思いで会社を作って運営している両者の対話にまさに「今、この時代に働くこと」を
感じさせてくれる。お時間を作ってゆっくり動画を楽しんでください。
なお対応した二人のアメリカ人は日本で仕事をしたことがあります。
インタビュー全体の書き起こし文は「ほぼ日刊イトイ新聞」のこちらの特集記事にあります。
同じような思いで会社を作って運営している両者の対話にまさに「今、この時代に働くこと」を
感じさせてくれる。お時間を作ってゆっくり動画を楽しんでください。
なお対応した二人のアメリカ人は日本で仕事をしたことがあります。
インタビュー全体の書き起こし文は「ほぼ日刊イトイ新聞」のこちらの特集記事にあります。
イクラ豆腐、マグロのづけに特注のニラ入り出し巻きも旨かった。
居酒屋E“e”の若女将がやってくれた。
珍しいものがあると言って、絹かわなすの焼きナスを出してくれました。あまくておいしいのでびっくりです。
居酒屋E“e”の若女将がやってくれた。
珍しいものがあると言って、絹かわなすの焼きナスを出してくれました。あまくておいしいのでびっくりです。
大昔から江戸期にかけて諏訪湖の中にあった高島という島。そこに豊臣秀吉の武将日根野氏が
城を作りました。それが1970年に再建された高島城です。史実としては諏訪御料人が住んだ時代の諏訪氏の居城は
現在「手長神社」がある諏訪湖を見下ろす高台にありました。そのあたりはまあ置いておきましょう。
画像の引用先はこちら
「ごもっとも、ごもっとも」
今年も節分の日に焼いたイワシを食べたあと豆まきをした。家中の窓という窓を順番に開けて、トイレや風呂の窓も忘れずに、大声で「鬼は外福は内、ごもっとも、ごもっとも」と言ってまわる。
子供の頃、この「ごもっとも、ごもっとも」と言うのが何とも気恥ずかしかった。親の勤務地に付いてまわって転校した九州の若松でも、尼崎の塚口でも、三重県の四日市でもクラスの誰に聞いても、家ではそんなこと言わないという。
酒の入った父親が「鬼は外、福は内」と大声で叫ぶとそれに続けて家族が「ごもっとも、ごもっとも」と大声で囃やさないといけないのだが友達や近所の人に聞こえないように、つい小さな声で「ごもっとも、ごもっとも」と言ってしまう。そんな時、父は後ろを振り向いて「声が小さい、鬼が家に入ってきたらどうする」と怒るので、もうやけくそで兄弟揃って父の後について「ごもっとも、ごもっとも」と大声を張り上げたものだ。
そして今、自分が家族を持って、同じ事をしている。千葉県南柏や茨城県藤代町に住んでいた時も、そしてもう十数年住む神戸でも、恥ずかしがり嫌がる娘達を幼稚園の頃から、叱咤激励、時には脅して「ごもっとも~」をやってきた。
もし「ごもっとも」を言わなかったらうちの家は、この一年大変なことになると言って。
そのお陰か、我が家では節分の日の定番としてしっかり定着し、私が3年強広島で単身赴任して不在の日にも、節分には二十歳過ぎの娘達が「ごもっとも」をやってくれていたそうだ。(ほんまかいなと多少は思うけど)
今年の豆まきは、家族の中でも「ごもっとも」発声に一番抵抗してきたヨメさんと二人でしたが、驚いたことには二人では張り合いがないから、今年はやめとこかと言う私に「今まで続けてきたのに何いうてるの」と率先して彼女が大声を張り上げた。
震災の年だけはそれどころではなかったけれど、考えたら結婚して二十八年、我が家では出張や単身赴任で抜けた私の回数より彼女の「ごもっとも」の発声回数が多いんやと思い当たった。今年はいつもよりキレイにハモッて「鬼は外、福は内、ごもっとも、ごもっとも」と言えたような気がする。
亡父にも故郷の従兄弟たちにも聞いたことはないが、おそらく父が生まれ育った信州の諏訪湖畔、小和田地区では江戸時代以前の昔から、こういう風に言っていたのではないかと思う。
先祖は日根野氏が諏訪湖にあった島、「高島」に城を築城する時に、島から立ち退きを命じられ、近くに集団移転させられた島民の一族だと言っていたから、もともと諏訪に古くから住みついていた住民だと思う。
今年も遠い諏訪のあの地区で「ごもっとも、ごもっとも」が飛び交ったか、あるいは本家のイギリスではとっくに廃れた習慣がアメリカで残っているのと同じように諏訪ではもう廃れたかも知れないが、今年も神戸市の一軒の家から、老年に差しかかってはいるが声は若い「ごもっとも、ごもっとも」の斉唱が、神戸の夜空に吸い込まれていきました。
☆上記は2002年2月の神戸新聞文芸欄「エッセイ・ノンフィクション部門」に「小和田 満」の筆名で投稿し幸い入選、同年5月27日の同紙上に掲載されたものです。
城を作りました。それが1970年に再建された高島城です。史実としては諏訪御料人が住んだ時代の諏訪氏の居城は
現在「手長神社」がある諏訪湖を見下ろす高台にありました。そのあたりはまあ置いておきましょう。
画像の引用先はこちら
「ごもっとも、ごもっとも」
今年も節分の日に焼いたイワシを食べたあと豆まきをした。家中の窓という窓を順番に開けて、トイレや風呂の窓も忘れずに、大声で「鬼は外福は内、ごもっとも、ごもっとも」と言ってまわる。
子供の頃、この「ごもっとも、ごもっとも」と言うのが何とも気恥ずかしかった。親の勤務地に付いてまわって転校した九州の若松でも、尼崎の塚口でも、三重県の四日市でもクラスの誰に聞いても、家ではそんなこと言わないという。
酒の入った父親が「鬼は外、福は内」と大声で叫ぶとそれに続けて家族が「ごもっとも、ごもっとも」と大声で囃やさないといけないのだが友達や近所の人に聞こえないように、つい小さな声で「ごもっとも、ごもっとも」と言ってしまう。そんな時、父は後ろを振り向いて「声が小さい、鬼が家に入ってきたらどうする」と怒るので、もうやけくそで兄弟揃って父の後について「ごもっとも、ごもっとも」と大声を張り上げたものだ。
そして今、自分が家族を持って、同じ事をしている。千葉県南柏や茨城県藤代町に住んでいた時も、そしてもう十数年住む神戸でも、恥ずかしがり嫌がる娘達を幼稚園の頃から、叱咤激励、時には脅して「ごもっとも~」をやってきた。
もし「ごもっとも」を言わなかったらうちの家は、この一年大変なことになると言って。
そのお陰か、我が家では節分の日の定番としてしっかり定着し、私が3年強広島で単身赴任して不在の日にも、節分には二十歳過ぎの娘達が「ごもっとも」をやってくれていたそうだ。(ほんまかいなと多少は思うけど)
今年の豆まきは、家族の中でも「ごもっとも」発声に一番抵抗してきたヨメさんと二人でしたが、驚いたことには二人では張り合いがないから、今年はやめとこかと言う私に「今まで続けてきたのに何いうてるの」と率先して彼女が大声を張り上げた。
震災の年だけはそれどころではなかったけれど、考えたら結婚して二十八年、我が家では出張や単身赴任で抜けた私の回数より彼女の「ごもっとも」の発声回数が多いんやと思い当たった。今年はいつもよりキレイにハモッて「鬼は外、福は内、ごもっとも、ごもっとも」と言えたような気がする。
亡父にも故郷の従兄弟たちにも聞いたことはないが、おそらく父が生まれ育った信州の諏訪湖畔、小和田地区では江戸時代以前の昔から、こういう風に言っていたのではないかと思う。
先祖は日根野氏が諏訪湖にあった島、「高島」に城を築城する時に、島から立ち退きを命じられ、近くに集団移転させられた島民の一族だと言っていたから、もともと諏訪に古くから住みついていた住民だと思う。
今年も遠い諏訪のあの地区で「ごもっとも、ごもっとも」が飛び交ったか、あるいは本家のイギリスではとっくに廃れた習慣がアメリカで残っているのと同じように諏訪ではもう廃れたかも知れないが、今年も神戸市の一軒の家から、老年に差しかかってはいるが声は若い「ごもっとも、ごもっとも」の斉唱が、神戸の夜空に吸い込まれていきました。
☆上記は2002年2月の神戸新聞文芸欄「エッセイ・ノンフィクション部門」に「小和田 満」の筆名で投稿し幸い入選、同年5月27日の同紙上に掲載されたものです。
三宮の「シネリーブル」に先日亡くなった原田芳雄主演の映画「大鹿村騒動記」を観にいきました。
夫婦連れを含む年金族が7割、あとは若い人から中年までの幅広い年齢層の人が観ていました。
原田芳雄に加えて岸部一徳、大楠道代、三国連太郎、石橋蓮司、佐藤浩市、松たか子などベテラン揃い。
この顔ぶれを知ったからには観にいくしかないと思いました。
結果的に原田に対するレクイエムになったような、人間の業を描いた映画になっていました。
信州伊那の大鹿村に300年伝えられている伝統歌舞伎の舞台進行と、この映画のドラマ進行が入れ込み構造になった、
重層的なドラマツルギーに、監督の「面白い映画」を作りたいというこだわりを感じました。
「大鹿村騒動記」予告編
夫婦連れを含む年金族が7割、あとは若い人から中年までの幅広い年齢層の人が観ていました。
原田芳雄に加えて岸部一徳、大楠道代、三国連太郎、石橋蓮司、佐藤浩市、松たか子などベテラン揃い。
この顔ぶれを知ったからには観にいくしかないと思いました。
結果的に原田に対するレクイエムになったような、人間の業を描いた映画になっていました。
信州伊那の大鹿村に300年伝えられている伝統歌舞伎の舞台進行と、この映画のドラマ進行が入れ込み構造になった、
重層的なドラマツルギーに、監督の「面白い映画」を作りたいというこだわりを感じました。
「大鹿村騒動記」予告編
Tiny Chihuahua shows talent for herding sheep