7月の「仮称 なして会」の九州に縁のある3人の行先は「小平市平櫛田中彫刻美術館」だった。メンバーの一人Mさんは先日
中国四川省から12日間の旅を終えられて元気を回復されていた。
駅の近くにこんな店名の薬局があった(笑)。
駅のすぐそばから玉川上水が流れる森の小径に入れる。
国分寺駅の次は恋ヶ窪駅だが昭和59年ごろ近くの小平のブリジストンさんの研究所に仕事でよく通ったとき「恋ヶ窪」とは
粋な地名だなと思ったのでこの地名がしっかり頭に残っていた。
駅から気持ちのいい緑に囲まれた小径を歩いて美術館に20分ほど歩いた。
青大将は速い川の流れの中をすいすいと泳いでいた。
国分寺で乗った西武線の行先は東村山になっていた。志村けんの東村山音頭の東村山はここからもいけるんだと思った。
志村けんの先祖が赤備えの甲州武田軍の一員で、その後 八王子千人同心の頭の一人になったとファミリーヒストリーの番組で知ってから
東村山の文字によく出会うのは不思議だ。
玉川上水 Wikipediaより
玉川上水(たまがわじょうすい)は、かつて江戸市中へ飲料水を供給していた上水(上水道として利用される溝渠)であり、江戸の六上水の一つである
。多摩の羽村から四谷までの全長43kmが1653年に築かれた。また、一部区間は、現在でも東京都水道局の現役の水道施設として活用されている。
羽村取水堰で多摩川から取水し、武蔵野台地を東流し、四谷大木戸(現在の四谷四丁目交差点付近)に付設された「水番所」(水番屋)を経て市中へと
分配されていた。水番所以下は木樋や石樋を用いた地下水道であったが、羽村から大木戸までの約43キロメートルはすべて露天掘りであった。
羽村から四谷大木戸までの本線は武蔵野台地の尾根筋を選んで引かれているほか、大規模な分水路もおおむね武蔵野台地内の河川の分水嶺を選んで引かれている[1]。
1722年(享保7年)以降の新田開発によって多くの分水(用水路)が開削されて武蔵野の農地へも水を供給し、農業生産にも大いに貢献した(代表例、野火止用水、千川上水)。
本文。