旅行会社の募集要項では、伊丹空港から利尻空港に飛び、そのあと船で礼文島に渡るという旅程でしたが、何か事情が変わって関空から稚内空港、
そこから船で先に礼文島へ渡ると言う当初とは逆周りのコースに変更になりました。
そのお陰と言うか、塞翁が馬と言うか、最初に渡った礼文島で丁度咲き出した「礼文アツモリソウ」をたっぷり、じっくり見る事が出来ました。
レブンアツモリソウとカラフトアツモリソウのハイブリッド。
イワベンケイ
礼文島の岬
2005.6.19記 。
☆2泊3日で利尻・礼文島に行きました。昭和40年の8月に当時流行の学生のカニ族でこの2島に行ってから、丁度40年ぶりです。高山植物の花々を平地で見ることが出来るというのが、当時も利尻島、礼文島のウリでした。
勿論、利尻富士の秀麗な姿は、その頃も今も最大の観光資源です。自分の頭の中に残る当時の印象は、島には花々と海岸に漁師の漁具を格納する納屋が点々と散開するいうイメージだけでした。舗装道路はどこにもなく砂地の道が歩きにくかった記憶があります。全てが木造の建物のみでコンクリート造りの建造物は皆無だったと思います。そして今回、当たり前と言えば当たり前ですが、この島も戦後60年の「土建国家日本」の恩恵を受けていることを実感しました。
そして島の個人住宅の変貌を見て、この2島が本土の観光客の憧れの地であり続けてきたことがよくわかりました。全部が全部ではありませんが、内地では見られない洒落た北欧風の家が島のあちこちに建っています。漁業収入に観光ビジネスの収入がプラスされたのでしょう。
☆ 飛行機が伊丹発から関西空港発に変更になったため久しぶりに湾岸線を走りました。今回はバスで行ったので目線が高く、窓から関空まで外の様子が良く見えました。神戸から関空そしてまだその先までずっと高架道路ですから、恐らく100kmほどの長い長い橋の上を走っているのと同じだと思いました。
神戸から大阪を通って和歌山まで切れ目なく工場と港湾設備が続いていることに改めて驚きます。大阪南港に近づき各種の港湾クレーンを見ていると、ある鋼材センターに自分が販売を担当して昭和44年ごろに納入したクレーンが見えてきて、ああまだ使ってもらっているんだと嬉しくなりました。
☆ この沿岸にえんえんと続く化学工場、製鉄所、配送センターなどを見て走ると、見ている対象は全く同じ湾岸風景なのに、東南アジアから帰国した時は、日本経済の活力は凄いなあと誇らしく思い、欧米から帰国すると、もう少し外観がきれいな街つくりが出来んかったもんやろかと思うのは、比較するその時の自分の“物差し”が違うからでしょうか。
今の日本の工業地区は中国とは異なり、各地の公害問題で沢山の人が苦しんだ長い期間を経て、走っていても公害機器の導入や法による規制などで空気が臭いと言うことがないのは、アジアのほかの国とは大変な違いだと思いました。
☆ 飛行機が飛び立ってまだ30分くらいと感じる頃に窓際に座った相方から、目の下に雪が放射線状に広がっている山がいくつも見えると言われました。まさか日本アルプスではないだろうしと思ったら、機内放送が本機の右下に松本の町が、左側に富山の町が見えておりますとアナウンスしました。早くも長野県の真上を飛んでいたのでした。それから1時間半後に稚内空港に着陸しましたが、風雨が横殴りに吹き付け、温度は6.9度という予想外の天気でした。
☆ ツアーは全員で25人で、そのうち男性は5人だけでした。夫婦連れは二組だけというのも少し意外でした。ホテルの男性用大浴場はどの時間帯もガラガラでしたから、他のツアーも男性が少なかったのでしょう。おかげで露天風呂にゆっくり漬かることが出来ました。
ツアーの全行程を通じて殆どが自分より年配の皆さんの、歩く事、喋る事、食べる事の元気さには驚くしかありませんでした。
昭和40年の8月に当時流行の学生のカニ族でこの2島に行ってから、丁度40年ぶりです。高山植物の花々を平地で見ることが出来るというのが、当時も利尻島、礼文島のウリでした。
勿論、利尻富士の秀麗な姿は、その頃も今も最大の観光資源です。自分の頭の中に残る当時の印象は、島には花々と海岸に漁師の漁具を格納する納屋が点々と散開するいうイメージだけでした。舗装道路はどこにもなく砂地の道が歩きにくかった記憶があります。全てが木造の建物のみでコンクリート造りの建造物は皆無だったと思います。そして今回、当たり前と言えば当たり前ですが、この島も戦後60年間に渉る「土建国家日本」の恩恵を受けていることを実感しました。そして島の個人住宅の変貌を見て、この2島が本土の観光客の憧れの地であり続けてきたことがよくわかりました。全部が全部ではありませんが、内地では見られない瀟洒な北欧風の家が島のあちこちに建っています。漁業収入に観光ビジネスの収入がプラスされたのでしょう。
∇をクリックでスタート。アツモリソウなど全70枚の写真があります。画面にマーカーを置くと花の名前(全部ではありません)が出ます。画面変換速度は砂時計で調整できます。右下のフルスクリーンアイコンを押して大画面で見てください。
☆飛行機は伊丹発が関西空港発に変更になったため久しぶりに湾岸線を走りました。今回はバスで行ったので目線が高く、窓から関空まで外の様子が良く見えました。神戸から関空そしてまだその先までずっと高架道路ですから、恐らく100kmほどの長い長い橋の上を走っているのと同じだと思いました。神戸から大阪を通って和歌山まで切れ目なく工場と港湾設備が続いていることに改めて驚きます。大阪南港に近づき各種の港湾クレーンを見ていると、ある鋼材センターに自分が販売を担当して昭和44年ごろ納入した、鋼材陸揚げ用の大型ガントリークレーンが見えてきて、ああまだ使ってもらっているんだと嬉しくなりました。
☆この沿岸にえんえんと続く化学工場、製鉄所、配送センターなどを見て走ると、見ている対象は全く同じ湾岸風景なのに、東南アジアから帰国した時は、日本経済の活力は凄いなあと誇らしく思い、欧米から帰国すると、もう少し外観がきれいな街つくりが出来んかったもんやろかと思うのは、比較するその時の自分の“物差し”が違うからでしょうか。今の日本の工業地区は中国とは異なり、各地の公害問題で沢山の人が苦しんだ長い期間を経て、走っていても公害機器の導入や法による規制などで空気が臭いと言うことがないのは、アジアのほかの国とは大変な違いだと思いました。
☆飛行機が飛び立ってまだ30分くらいと感じる頃に窓際に座った相方から、目の下に雪が放射線状に広がっている山がいくつも見えると言われました。まさか日本アルプスではないだろうしと思ったら、機内放送が本機の右下に松本の町が、左側に富山の町が見えておりますとアナウンスしました。早くも長野県の真上を飛んでいたのでした。それから1時間半後に稚内空港に着陸しましたが、風雨が横殴りに吹き付け、温度は6.9度という予想外の天気でした。
☆ツアーは全員で25人で、そのうち男性は5人だけでした。夫婦連れは二組だけというのも少し意外でした。ホテルの男性用大浴場はどの時間帯もガラガラでしたから、他のツアーも男性が少なかったのでしょう。おかげで露天風呂にゆっくり漬かることが出来ました。ツアーの全行程を通じて殆どが自分より年配の皆さんの、歩く事、喋る事、食べる事の元気さには驚くしかありませんでした。
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白神ブナ林食害の危機 迫るニホンジカ 警戒呼び掛け
2013年10月14日月曜日 河北新報
白神山地に近い青森県西目屋村の山林で撮影されたニホンジカ=9月6日午後3時20分ごろ(山形大の江成准教授提供)
青森、秋田両県にまたがる世界自然遺産・白神山地に、貴重なブナ林を食い荒らし、生態系に大きな影響を与える恐れのあるニホンジカが迫っている。
両県では明治時代に絶滅したとされるシカが近年、遺産地域周辺でも目撃されている。関係者は「侵入は時間の問題」と警戒を強める。
秋田市の東北森林管理局で7日開かれた白神山地世界遺産地域科学委員会の席上、中静透委員長=東北大大学院教授(森林生態学)=は「世界遺産地域にシカが近づいている」と警鐘を鳴らした。
環境省によると、目撃情報は青森県で2005年以降66件(うち13年は5件)、秋田県では09年以降26件(同3件)寄せられた。9月には、世界遺産地域の外側約10キロの青森県西目屋村の山林で、山形大農学部の江成広斗准教授(野生動物管理学)と、妻で農学博士のはるかさんが雄のシカ2頭を自動撮影カメラで捉えた。
科学委がシカ問題を議題にするのは3回目。侵入阻止は待ったなしの課題だ。7日はシカの生態に詳しい専門家を招き、意見を聞いた。
森林総合研究所東北支所(盛岡市)の堀野真一生物多様性研究グループ長は、男鹿半島に18世紀後半、2万7000頭のシカが生息していたという文献を紹介。「シカにとっては新天地開拓ではなく、分布を回復しているだけ。拡大は止められない」と指摘した。
北里大獣医学部の岡田あゆみ講師(野生動物学)のDNA分析では、青森、秋田両県で確認されたシカの大半は、岩手県にすむシカと遺伝子型が同じだった。岩手から広がっていることを意味し、「北東北3県で連携して対応すべきだ」と強調した。
科学委の委員で東北芸術工科大芸術学部の田口洋美教授(環境学)は「5、6年のうちに間違いなく白神山地に入ってくる。樹皮を食べられ、水が吸い上げられなくなれば、ブナは立ち枯れしてしまう」と危機感をあらわにした。 科学委は、監視態勢の強化や個体数のコントロールを図るべきだとの見解で一致。国と両県でつくる白神山地世界遺産地域連絡会議に、侵入阻止に向けた具体策を作るよう勧告する。
また拡大アイコンのクリックで大画面で見ることが出来ます。
「母衣(ほろ)」とは竹籠などでふくらませた布のことで、騎馬武者が背負い、後方からの矢よけなどにした指物(さしもの)の一種です。戦国時代、母衣を着用して大将に近侍し、伝令などに戦場を駆け巡った“母衣(掛)武者”は、軍団のエリート集団でした。
このアツモリソウは2年前に礼文島で撮影したレブンアツモリソウです。
内地のアツモリソウは赤い花をつけますが、レブンアツモリソウは白い花をつけます。レブンアツモリソウの開花の時期を狙って行きましたが、年によって時期にバラツキがあるそうでまさにピークの時に居合わせる事が出来たのは幸せでした。
シリーズ「利尻礼文あちこち」はこちら。