今年も節分の日に焼いたイワシを食べたあと豆まきをした。家中の窓という窓を順番に開けて、トイレや風呂の窓も忘れずに、
大声で「鬼は外 福は内、ごもっとも、ごもっとも」と言ってまわる。
子供の頃、この「ごもっとも、ごもっとも」と言うのが何とも気恥ずかしかった。
親の勤務地に付いてまわって転校した九州若松でも、尼崎市の塚口でも、三重県の四日市でもクラスの誰に聞いても、家ではそんなこと言わないという。
酒の入った父親が「鬼は外、福は内」と大声で叫ぶと、それに続けて家族が「ごもっとも、ごもっとも」と大声で囃やさないといけないのだが、
友達や近所の人に聞こえないように、つい小さな声で「ごもっとも、ごもっとも」と言ってしまう。
そんな時、父は後ろを振り向いて「声が小さい、鬼が家に入ってきたらどうする」と怒るので、もうやけくそで兄弟揃って父の後について
「ごもっとも、ごもっとも」と大声を張り上げたものだ。
そして今、自分が家族を持って、同じ事をしている。千葉県南柏や茨城県藤代町に住んでいた時も、そしてもう十数年住む神戸でも、
恥ずかしがり嫌がる娘達を幼稚園の頃から、叱咤激励、時には脅して「ごもっとも~」をやってきた。
もし「ごもっとも」を言わなかったらうちの家は、この一年大変なことになると言って。
そのお陰か、我が家では節分の日の定番としてしっかり定着し、私が3年強広島で単身赴任して不在の日にも、節分には二十歳過ぎの娘達が
「ごもっとも」をやってくれていたそうだ。(ほんまかいなと多少は思うけど)
今年の豆まきは、家族の中でも「ごもっとも」発声に一番抵抗してきたヨメさんと二人でしたが、驚いたことには二人では張り合いがないから、
今年はやめとこかと言う私に「今まで続けてきたのに何を言ってるの」と率先して彼女が大声を張り上げた。
震災の年だけはそれどころではなかったけれど、考えたら結婚して二十八年、我が家では出張や単身赴任で抜けた私の回数より彼女の「ごもっとも」の
発声回数の方が多いんやと思い当たった。今年はいつもよりキレイにハモッて「鬼は外、福は内、ごもっとも、ごもっとも」と言えたような気がする。
亡父にも故郷の従兄弟たちにも聞いたことはないが、おそらく父が生まれ育った信州の諏訪湖畔、小和田地区では江戸時代以前の昔から、
こういう風に言っていたのではないかと思う。
先祖は太閤秀吉の配下の武将 日根野高𠮷が1592年に諏訪の高島城を築城する時に、湖中に在った高島と言う島から立ち退きを命じられ、
近くの小和田と言う在所に集団移転させられた村の一族だと言っていたから、諏訪の地にもともと古くから住みついていた住民だと思う。
今年も遠い諏訪のあの地区で「ごもっとも、ごもっとも」が飛び交ったか、あるいは本家のイギリスでは
とっくに廃れた習慣がアメリカで残っているのと同じように、諏訪ではもう廃れたかも知れないが、今年も神戸市の一軒の家から、
老年に差しかかってはいるが声は若い「ごもっとも、ごもっとも」の斉唱が、神戸の夜空に吸い込まれていきました。
☆このエッセイは2002年2月の神戸新聞文芸欄「エッセイ・ノンフィクション部門」に、小和田 満 の筆名で投稿し幸い入選、同年5月27日の同紙上に掲載されたものです。
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ごもっとも・・・その後 ’02/09/23
節分が一年に一度の行事であることから、法事でしか顔を会わさくなって久しい従兄姉たちと、法事の席で節分をどうしているかなんて話題にすることは、
当然これまで一度もありませんでした。
今回、神戸新聞の文芸欄に掲載されたエッセイの掲載新聞コピーを父方、母方の親戚に送った事から「ごもっともの真実」が明らかになってきました。
一番上の伯父の上諏訪在住次男家 ;本人は大きな声で毎年やって家族の顰蹙をかっている。
二番目の伯父の東京在住長男家;もう50数年東京に住んでいるが、毎年欠かさず家族と 共にごもっともをやってきた。
ただ子供が独立し、ほそぼそにはなってきた。
四番目の叔父の東京在住の長男家;叔父が大声で欠かさず鬼は外~を毎年やっていたがごもっともは言っていなかった。自分もやってない。
明治41年生まれの伯母が95歳でなくなり、9月の始めに、その葬儀にひさしぶりに上諏訪へ行きました。
小和田地区の住民が多い菩提寺、教念寺での葬儀の後、父方の従兄の中では最年長の喪主の家に寄りました。
東京在住50年を越え、勤務先を70歳で最近リタイアーしてそろそろ東京から引き上げるかもしれない従兄(喪主)の実家には沢山の書物があります。
従兄が本を出してくれました。それを借りてきました。そこからそのまま抜書きします。
「諏訪の年中行事」 全161頁 昭和24年2月20日発行
著者 諏訪教育会 発行所 蓼科書房
正月行事 の63頁 2月節分の項目
(豆撒き)
○「豆撒き」は「鬼打ち豆」ともいって、炒り上げた豆を必ず一生桝に入れて、熱いうちに年男か男の子供が大声に「鬼は外、福はうち」と唱えながら、
上座敷から順次家中を撒きあるく。
○撒く時の様子は家によって多少の違いがある。「鬼は外」は外に向かって大声に、「福は内」は内に向かって小声にいう家、
「鬼は外、福は内、鬼の目へビチャリン(ブッツブセ)(パチリン)」と唱えて家の内外へ撒いてから少しずつ天井に投げつける家、
仮想行列をして下男迄がつきあるいて賑やかにやる家、又、一人が豆撒きをする後へ、一人が擂粉木を持ってつき歩き、
てくんてくんと上下に動かしながら「ごもっともごもっとも」と受答えて騒ぐ家などがある。
(母の里は諏訪市の隣の現在の茅野市(の中でも八ヶ岳のなだらかな麓のかなり上の方の地区)ですが、相方によると母が南柏や藤代の家に節分の頃に来たときは、
一緒に豆撒きをして、「鬼は外、福は内、鬼の目を ブッツブセ」と言って豆を撒いて、嫁と孫を喜ばしてくれたと今回思い出して教えてくれた。
「家によって多少の違いがある」という通りですね。
残念ながら、辛好は出張で不在か、東京にいてもその時間には麻雀か酒で家には帰らなかったのでそのことを知らなかった。)
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日本各地にあったごもっとも ’03/02/09
今年も節分の日は、例年のように「鬼は外、福は内、ごもっともごもっとも」と声を上げながら
家中の窓を一つずつ開けて豆を撒きました。
節分の直前にふと思い立って、ヤフーで「ごもっともごもっとも、節分」を入力してサーチしてみました。
驚いた事には沢山の「ごもっとも」に触れたサイトが検索先に出てきました。
京都の吉田神社の氏子地区、宮城県、埼玉県秩父の三峰神社の行事(高橋さんに教えて頂いた)
長野県の鬼無里などなどです。興味のある方は添付ファイルにその一部をコピーしましたのでご覧ください。
それらによると、どうもこの習慣は、元々は中国から入った貴族階級の行事が、日本古来の晦日
(節を分ける日)の五穀豊穣の祈りなどと結びついて京の都から各地に広がり、一般民衆の年中
行事の一つとして長く伝えられてきたもののようです。
諏訪湖の御神渡の記録を天和3年(1683)以降、続けている八剣神社を氏神さんとする
小和田地区に住んできたご先祖さんたちが何百年も続けてきたこの節分の行事を、もう父親の代にそこを離れて
しまったけれど、ルーツを忘れないためにも、うちの子供達も是非続けて欲しいと思って
います。
1)福豆頂き福引も 1年の厄払い開運願う節分 読売新聞サイトから
鬼の面をつけたスタッフから福引を引いて「節分」を楽しむ参加者
一年の厄を払い、開運を願う節分。参加者は吉田神社(左京区)の福豆を一袋ずつ頂き、福引を引いた。
賞品は、タンスに入れると「きれいになって衣装が増える」とされる須賀神社(同区)の懸想文や、吉田神社の鬼面など。
小島さん方は節分の日、出入り口で豆まきをしてから自分の年齢の数だけ豆を食べて、さらに同じ数の豆とさい銭を和紙にくるみ、
同神社などに納める。当主が豆まきする間、別の家族が後ろについて「ごもっとも、ごもっとも」と言いながらうちわで
あおぐ風習もあるとか。
2)http://allabout.co.jp/travel/travelshinshu/closeup/CU20020101B/index_00f.htm
立春の前の日を節分と云います。古くは、季節の変わり目、立春・立夏・立秋・立冬の前に行事が行われていたようですが、
立春の前だけ残ったのは、冬から春への変わり目が、大事な折り目だからでは無いでしょうか、
節分には、豆をまいて鬼を払う行事が行われます。神社やお寺では、有名人を招いたりして華やかに行われますが、
民間でも根強く残っています。「福は内・鬼は外」と三回ずつ唱えながら豆をまき、その後からすりこぎを持って
「ごもっとも・ごもっとも」と云って歩いた習慣が、つい最近まで残っていましたが
3) http://hb6.seikyou.ne.jp/home/mari-neko/2001.2.htm
節分・・・各地いろいろの風習があると思います。豆まきの掛け声にしても、「鬼は外福はうち」と、いうのは、一般的ですよね。
「鬼は内、福も内」と、言う掛け声も聞くといいます。宮城の一部の地域では、「鬼は外福は内」といいながら豆をまく人の後ろから、
「ごもっとも、ごもっとも」と、いいながら、うちわで扇ぎながら歩くところがあります。うちわで、鬼を、追い払うのでしょう。
まだまだ寒い(今日は、吹雪だっ!!)とはいえ、もうすぐ春がやってくる・・・そんな季節の分岐点です
4)http://www.city.chichibu.saitama.jp/saiji2.htm
豆まきの行事そのものは里の節分祭と同じだが、年男が三方にのせた福枡の豆を
「福は内、鬼は外」と唱えると、
後に控えた所役が大声で「ごもっともさま」と唱和しながら、大きな棒を突き出す。
この棒は、長さ3尺位の野球のバットのようなもので先に〆縄を巻き、
根元にミカン2個を麻縄でくくりつけた男根を象徴化したものである。
突き出すときに「ごもっともさま」と唱えることから、
このような呼び名がついたとおもわれる(午前11時・正午・午後2時・午後4時)。
5)http://www.vill.kinasa.nagano.jp/nenchu/
節分
2月3日は節分、4日は立春で、暦の上では春がきたことになりますが、鬼無里はまだ深い雪の中です。冬ごもりしながら、
農家は麻糸作りに精を出す時期でもありました。
【年取り】節目の日であるが、仕事は休まず、早めに切り上げました。お神酒、頭つきの魚と白いご飯神棚(恵比寿棚)に供えます。
家内安全と健康を祈願しました。豆まきの前に夕飯を食べ年取りをします。
【豆まき】大豆をホウロクで炒って、豆まきをします。年男、若い男または家の主が、
一升マスに入れて家の中の各部屋を「鬼は外、福は内」と大きな声で繰り返しながら、まいて歩きます。
その後ろを、男の子などがスリコギを肩に担いでついて歩き、「ごもっとも、ごもっとも」と唱和することもあった。
この豆を自分の年の数だけ食べると災難を逃れるといって皆で食べます。
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◎2016年 NHKで京都の俵屋旅館の特集番組がありました。元勤務先時代からの友人の高橋弘泰さんが「ごもっともごもっとも」を
俵屋でやっていたのでとその番組を録画したDVDを送って頂きました。
なるほどこの風習は京の都から信州諏訪へ伝わった習慣のようです。高橋さんありがとうございました。
⇒実際に俵屋で節分を体験した方のサイトから。⇒こちら。