阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

「セリのおひたし」           

2024年10月26日 | エッセイ

                                               ( 03/01/26 記)

東京に出張すると泊まるのはつい神田になる。会社員になって連続して勤務した土地は神田美土代町の13年間が一番長い。

ホテルはインターネットの「旅の窓口」で予約するのだが、勤務先の本社がある芝公園や浜松町の近辺よりまず神田のホテルを探してしまう。

 神田ステーションホテルに泊まると、だいぶ前から近くに気になる看板の店があった。

ホテルを出たすぐ右のガード下に「里」という看板が上がっている。

もうかなり前になるが、神田駅東口すぐ近くに「里」という4、5人も入れば一杯になるカウンターだけの小さい飲み屋があって、おかみが一人でやっていた。

大阪から出張して同期入社の中島と二人で飲む時、時々彼に連れられて一緒に行った。

一人でやっている彼女はおかみさんというには痛々しい感じだが、それでも、ものに動じない明るい人だった。

客は誰もが彼女のことを〇〇ちゃんと名前を呼んでママともおかみとも言ってなかった。当時の彼女はそういう年回りでもあった。

あるとき中島と店の前を通りかかったら、その店の電気が消えていて、聞いたら、近くに店が移ったと言う。

その晩は彼がそこへ行こうとも言わなかったので自分としては「里」は、結局どこに移転したのかもわからずそのまま縁が切れた。

そしてそのあとは、神田駅に向かって店の前を通るたびに、ここで中島と時々飲んだなあと思い出す場所でしかなかった。

  半年ほど前に一度、看板が出ている店の前に行ってみたことがあるが、暖簾もなく障子がピシっと入り口を塞いでいて中の様子は一切何も見えず、

一見さんお断りのような、なじみ客相手の店のような感じがして、そのまま入らずじまいだった。

先週久しぶりにこのホテルに泊まった時、また看板の「里」の字が目にとまり、ロゴもやはり見覚えのあるロゴだったので、思い切って店に入ってみた。

いらっしゃいとこちらを見て言った人は少し歳をとったように見える彼女だった。先客は一人で、なじみらしかった。二人で笑顔で話をしていた。

店は前の二倍かそれよりちょっと広く、洗い場を囲んだコの字型のカウンター席が12、3席でそれでも一人でやっているのは変わりなかった。

ビールを頼んで2、3口飲んでから、ここへ移ってどれくらい経つのかと聞いたら5年だと言う。

前の店にいらしてくださっていたんですかと聞くので、中島君に連れられて時々行ったことがあると答えると、

すぐに、中島さん、ここんとこ暫く顔を出してくれないので皆でどうされたのかなあって言ってるんですよと言った。

じゃあご存知ないんだ、一年ちょっと前に亡くなってしまいましたと答えると、彼女の笑顔がとまってしばらく黙った。

病気ですか、そうですか、早かったのね。ちっとも知らなかった。

良く来てもらったんですよ。そして少し唐突に、中島さんにはうちの犬も貰ってもらったんですよ。

もし元気ならあの犬13才になるわと言った。

でもここんとこ、お酒の飲み方が凄くてね。そんな一遍にぐいーって飲み方しないほうがいいよってよく言ったんだけど。

              亡くなった前年の秋口から年が明けた2月頃まで、大田区の新しい勤務先の工場に時々連絡して品川あたりで

中島と何回か二人で飲んだのだけど、なんか怖いようなピッチで飲んだのを思い出した。

 店は始めて32年だが、前の場所で最初4、5年手伝っているのを入れると、35、6年店をやっていること、

中島は間があいても20年以上は通ってくれたこと、大田区の工場の帰りにもよく寄ってくれたことなど話してくれた。

 小さな黒板にその日出来る品が10品ほど書いてあり、その中に「セリのおひたし」があったのでお銚子とそれを頼んだ。

暫くして大きな器に入って出てきたセリはちょうどいい茹で加減で量が思いのほか多く、きれいな青い色の残るセリのほのかな香りと熱燗の日本酒がよくあった。

 話を聞いていた先客が、○○ちゃん今日はいい日だね、ずっと気にしてたことがわかってと言うと彼女は微笑みながら、

でもちょっと強い口調で、私にはちっともいい日じゃないよ、悲しい日だよと返した。

その時、女性客が一人で入って来て、先客の横に座り、最初から熱燗を頼んだ。この人、この店の数少ない女の常連客で、売れない女優なんですよと

前からの知り合いらしく先客が紹介してくれ、彼女もニコッと軽く目礼してきた。こちらは一見の客なのに、この店の客は人懐っこい。

そのあと、ぼちぼち客が入ってきた。どの客もどの客も、今晩「里」に来ることが出来て「うれしゅてたまらん」と田辺聖子さんなら表現するだろういい笑顔で入ってくる。

 ジャンパー姿の客が入って来て、おかみの真正面に座ろうとしたが、彼が座るか座らないうちに、彼女が言った。

ねえ、中島さん亡くなったんだって、いまこのお客さんから聞いたとこなんだけど。

隅の席に座った自分の席から、入ってきたこの角刈りの客の横顔を見たとき、自分と同年輩か少し上と見た。

こちらに向きなおった彼は、精悍な顔の眼のひかりが強かった。

 よく海外出張もしていた人ですよね。ここんとこ大田区の工場に勤めていた中島さんだよね。

この店でよく一緒に飲んだ自分が知っている中島と、今亡くなったと聞いた中島が本当に同一人物か無意識だろうが、確認する言葉が続いた。

 そうですか、いつ頃ですか、おいくつだったんですかねえ。まだ若いやね。どこの土地の出の人だったんです? 

いつもここに入ってくるなり、今度こんなとこ行ってきて、こんな事があったよなんて周囲おかまいなく喋りだしたりしてねえ。

まあ、だけど豪傑のように見えるけど神経のこまやかな人だとあたしは思ってたよ。

ひょっとして定年で会社を退いて、たしか家は市川かあっちの方よね?

こっちへ来る事がなくなったのかな~なんてお噂してたんですよ、とおかみが彼の言葉に続いた。

 中島の家に貰われた犬の兄弟犬が彼の家にも貰われていて、その犬はもう死んだらしかった。

こちらも、中島とは同期入社だったこと、彼の新婚家庭に寮の仲間で押しかけて、皆腰を据えてしまい、すぐ飲んでしまうので新婦の奥さんが

アパートの前の酒屋からビール瓶を数本ずつ、何度にもわけて、皆にわからないように割烹着の下に隠して買って来た事、

同じくらいしか給料を貰ってなかったはずだから、その月の家計は大変だっただろうなとそのことが今も忘れられないこと。

お互い出張の時は若い時から大阪や東京で良く飲んだ事、千葉の家にも何回か泊めてもらったこと、

自分が神田勤務をしていた厄年の頃、会社に出ることが出来ない日々が長く続いた時、当時四国の東予市に居た彼の家に電話して、

東京の心療内科の医者を紹介してもらったこと。

お互い自分の知っている中島の話をしあって、お互いにうなずきながら飲んだ。

 こないだのあれはうまかったね、次はいつ入る・・。かならず今度は、お出でよねというような話が客とおかみの間に流れていく。

この店では始めてのネクタイ姿の人が入って来て隣に座り、○○ちゃん、明日はこないだ言ったように休みが取れて、松本へ行って来るよとおかみに言ってるので、

信州の方ですかと声をかけると、いや、自分は東京の人間だけど、学校が向こうでね。明日が去年死んだ友人の祥月命日なんで、

仲間が集まって奥さんと子供と仏壇の前で一緒に飲むんですよ。   

おいくつだったんですか?56歳でした。

 そのうち、先程長く話した人が軽く会釈して、今日は供養になりましたと言って帰っていった。

この店はねえ、うまいもんが食べたくなると時々小岩から来るんですよと 明日無事有休が取れて友人の法要にいけるのでホッとしたのだろう、

隣の席に座ったサラリーマン風の彼が、こちらに向けて話をつづけた。

追加で頼んだイカの一夜干しもいい柔らかさで、あぶり加減もよく、うまみが一味違った。

おおぶりのコップの焼酎のお湯割を飲み終る頃、もう店もいっぱいになってきた。

代金を聞いて千円札3枚を出し100円玉一個のお釣りをもらい、中島が長年つきあっていたこの店のお仲間の皆さんに心中さよならを告げ、

おかみにごちそうさんと言って店を出た。

 ちょっと歩き、もう一度振り返ると前の店の入口にはあった「赤旗」の常設掲示板が今度の店にはなかった。

そういえば店の中にもそれらしい掲示は何もなかった。

時が移り、客も変わりおかみも変わったのか、それとも現実的になったサヨクの今のありようなのか、それはわからないが、

中島はそれとは無関係にあの空間で店の常連に好かれ、飲み仲間を作って長らく楽しんでいたのは間違い無いと思った。

長年気になっていた遅配物をようやく届けた郵便配達人のようにほっとしたが、本当は、任務をおえても配達人はお届け先では飲んではいけなかったのかも知れない。

それとも、もしかしたら届けてはいけない郵便物だったかも知れない。

だが、彼が20数年間、気のおけない人達と過ごした会社を離れた異空間に、もう一度だけ身を置かしてもらった。

  つい数日前、人間は死んだらどこへいく、知っている人たちの胸の中に飛び込んで行くという文章を何かで読んだばかりだった。

あの中島がここにもまだ居るなあと店で感じ続け、二度とは入らないだろうあの店が、あのおかみと常連客の皆さんと一緒に

出来るだけ長く続いて欲しいと思いながら、もう後ろは見ないでホテルに向かった。

 

   今日は2002年10月26日に亡くなった中島隆一君の祥月命日です。

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「出張や通勤やご近所や 日本のあちこち各地で 身近に見かけた名の知られた人たち 永六輔さんや司馬遼太郎さん小田実さんなど」     茶話32

2024年10月05日 | エッセイ

立松和平さん

大きなリュックを肩にかけていて、定年後 松岡先輩のご配慮で観に行った香川県琴平の金比羅歌舞伎の金丸座の入場口で会い、目が合いました。

ふんわりした気分の人のように見えました。小説家は思っていたより顔も大きく身体の厚みがあり、大柄で人より身長が頭一つ抜け出ていました。

中島誠之助さん) 会った近さの順番で行くとその前は中島さんでした、新幹線の東京駅ホームで。

その時は名前はわからなかったが、「・・お宝鑑定団・・」とかいう番組にヒゲの着物姿で出ている人と、その時は洋服でしたがすぐわかりました。

私より小柄な人でした。番組は見ないけどコーヒーかなんかのCMでよく見かけていたせいか

瞬間、よく知っている人と思い、目が合った時「今日は」と挨拶しそうになりました。

吉村教授)エジプト考古学の早稲田大の教授。新幹線京都駅のホームで。

長い黒革のコートを着て真っ赤なネクタイ。なかなかダンデイなおっさんがおると思ったら彼でした。

ホームの柱の陰で携帯を始めましたが カタチが決まっていました。

永 六輔さん)小沢昭一の次に好きな人です。JR浜松町で電車を降りる時、同じ車輌の扉から乗ってきた。

相当な年だと思うが背骨がピンと伸びた大きな人だった。やはりアゴに特徴があった。

自然体でなんとなく落ちついた江戸火消しの頭みたいな雰囲気があった。

    ところで小沢昭一は、数十年にわたりラジオの「小沢昭一的こころ」の番組でちょっとH好きな人物の

「〇〇〇〇お父さん」を出しており、このお父さんのイメージのお陰で私もあちこちで時々得をさせてもらっている。

広島のどこやらのゴルフ場で、キャデイさんに「何年もあの番組を欠かさず聞いとるけど、〇〇〇〇 という名前の人に始めておうた。

ホンマにおるんやねー。おたくがモデルかね」と独りだけ大事にしてもらって他のパートナーの顰蹙をかったことがあった。

大八木選手)神戸製鋼ラグビー部。家の近所の神戸市灘区のホームセンターで。

家族で買物していた。プロレスラーみたいな大きい人で坊主頭で異彩を放っていたが、

普通のかっこうのせいか誰も気がつかず、あいかたも私が言うまで気づかなかった。

このコーナン大石ホームセンターにはよく来るらしく数回出会っている。

岡村隆さん)ナイナイの小柄な方、新幹線の新大阪の上りホームで。

文庫本1冊だけ持ってホームのあちこちを移動しながら床に座りこんで読んでいた。

まだテレビに出始めた頃だったか、自分が見られているかどうかチラチラ周囲を確認しながら

時々場所を変えて列車が来るのを待っていた。

クロード・チアリさん)ギタリスト。新幹線の神戸駅改札口で。

広島から家に帰る時、新神戸駅の改札口で出会った。一人でたんたんとギターケースを手に持って歩いていた。

確か夙川か仁川あたりに住んでいるはず。

平尾選手)神戸製鋼ラグビー部の当時監督?、積水化学の大阪本社ロビーで。

私が大阪の積水化学さんの物流部の方を受付で待っていたら、ちょっと離れた場所で、彼が名刺を出して積水の人と挨拶していた。

後で自分の面談相手に伺うと、営業で神鋼製品の売り込みに来てるんやろと。

鼻の下にかっこいい髭を蓄え、例の精悍にして鋭い目付きでにこやかに話をしていた。

一流の人間はどこにいてもかっこええなあ、全身が決まっているなあと思った。

桂 文珍さん)① 阪急六甲から梅田まで阪急電車の席で約30分隣どうしに座った。

当時関西大学に招かれ講座を持っていた頃で、風呂敷からなにやら難しげな本を出して読んでいた。

途中で前の席のおじいさんが気づいて、「文珍さんやねー」と席を立って親しげに声をかけたが、

電車の中やからとか何とか硬い顔で言われて、じいさんはバツが悪そうに席に戻っていった。

 ② 文珍氏とは近所の小さな蕎麦屋でも一回会ったが、その九州佐賀出身の夫婦者がやっていた

すぐれもののソバヤは震災でつぶれた。その後一年間なんども店のあったところに歩いて行って

みたが再開されず、経営者は佐賀に帰ってしまったようだ。あの蕎麦は本当にうまかった。

震災の痛手の一つ。(佐賀で再興した蕎麦屋 狐狸庵さんClick)

 ③ 新大阪のホームで列車の入線を待っていた。車内で読む「週間文春」と「お~いお茶」を確保した後は、

いつもの癖で目の前を行き来する人達をバードウォチングならぬピープルウォチングを楽しむ。

背をしゃんと伸ばして夏物を涼しげに決めた奥さんの後を、ゴルフウェアーらしいポロシャツを着た旦那が荷物を持って

トボトボついていく。アタッシュケースを持った紺のスーツの若い女性が男の同僚社員らしいのと急ぎ足で通り過ぎる。

若い男女の外人が6、7人でトランクの山を横においている。ツアーらしいがガイドはいないなあ。

女性が小柄だし、着ているものの色とコーデネイトが洒落てるからからアメリカ人じゃなくてラテン系みたい。

あら、向こうからくるおっさんあれは桂文珍みたいやなあ。荷物をカートで引っ張っている。

お伴なしで一人で動いてるんだ。彼は私のすぐ隣に来て立ち止まった。やはり文珍だった。

5、6年前に阪急六甲から梅田まで隣どうしに座った桂文珍とはこれで3度目の遭遇だが、

いままでになく自然体で周囲の人は誰も気付かない。気のせいか彼は少し仏頂面に見えた。

テレビと違うのは薄いサングラスをかけているだけだ。彼は早く来すぎたのか私の乗った列車には乗ってこなかった。

松島トモ子さん)神田美土代町勤務時代に接待帰りの23時過ぎの銀座で。

もう亡くなった紀伊国屋書店の田辺茂一社長ともう一人と3人で肩を組んで酔っぱらってよろよろ歩いていた。

小さい時のあこがれの童謡歌手や、元気でがんばってやと暫し見送った。

司馬遼太郎さん)千葉県南柏の社宅から家族でたった一回だけ食事に行った有楽町の東京會舘で。

何か文学賞の授与式があったのか廊下ですれ違った。昭和54年頃?。白髪ですぐ司馬さんとわかった。

尾崎紀世彦さん)羽田空港で。「又会う日まで」でレコード大賞かを取った後だったか。

テレビでは大きく見えていたが、実際は身長160cmくらいで小柄なので驚いた。


笑福亭鶴瓶さん)21のB席は窓際3列の真ん中の席だった。この伊丹空港発のフライトは乗客に子供が多く満席だった。

シートベルトを締めてぼんやり乗って来る人をみていたら、笑福亭鶴瓶みたいな男が通路をこちらに来る。

その後ろに名前は知らないがテレビで顔は見たことがあるのが続いている。

みたいではなく間違いなく鶴瓶だった。彼は20のD席、若いのが20のC席に座った。

飛行中二人は半分の30分ほどスケジュールの話をしていた。あのダミ声の大阪弁で。

着陸して皆が席をたったとき、彼の前の席の女性が後ろを振り向いて握手を求め、それに対して笑って握手を返していたくらいで

殆どの人は気付かないままで機内から下りていった。

運動会などの集団の中から自分の子供をすぐ見分けられる視覚の識別能力は、動物の始源的な能力の一つらしいが、

例え一度も会ったことがない他人でもいったんインプリンテイングされたイメージと同一人物が目の前に現れたら

無意識かつ即座にその人だと認識するという経験は何度あっても面白い。

 (小田実さん)「何でも見てやろう」の著者。

最終の東京行き新幹線に乗るべくJR芦屋駅で京都行き新快速に乗りかえようとした2004年頃、

ホームで黒いコートの背中の広い大柄な男のすぐ後ろについた。

電車が入ってくるとき横顔に電車の前方ライトが当たり、そのがっしりした顎の男の横顔が浮かび上がった。

小田実さんだった。確か当時彼は家族で芦屋に住んでいた。

高校生の時から40数年ずっと本も買ってきた憧れの人が目の前にいることに驚き嬉しかった。

二人だけの列は誰も降りてこないドアから乗ったあと、右と左に分かれて座った

彼も新大阪で降りて、新幹線の改札口に向かった。

  恥ずかしながらミーハー辛好の大切な思い出です。

生きていく上で世間や人を見る目は小田さんのこの本が大方を開いてくれた。

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 神戸六甲道の文化センターで「朗読」の講習を受けた話       茶話31

2024年09月15日 | エッセイ

朗読講習を受けました                          

2回目の講習も、発声の基本中の基本から始まりました。

「あいあいあいあいあい、いあいあいあいあいあ。あうあうあうあうあう、うあうあうあうあうあ。あえあえあえあえあえ、

と"あ→お"まで行って、次は同じように、「いういういういういう」、と続けてあの行は「おえおえおえおえおえ」で終わります。

これを丹田に力を入れてはっきりした発音のつもりで(先生が聞くと舌がもつれているらしいが)あかさたなはまやらわ」の全部をやりおわると汗をかきました。

顔中の筋肉を動かし、全身を楽器とするようにと言われてやってみると、普段人との言葉のやりとりになんと省エネが身についているかよくわかりました。

大体の人が、殆ど口を動かさずにボソボソ喋っています。

それが終わると「2重母音の長音化」と「鼻濁音」の 学習でした。

1)「2重母音の長音化」

これまで阿智胡地亭は経済、政治、映画、平成などはケイザイ、セイジ、エイガ、ヘイセイと読んでいましたが、

日本語を美しく発音し、きれいに聞こえるにはケーザイ、セージ、エーガ、ヘーセー、と読むのだそうです。

うーん、これは少し弱りました。ケイザイと読むほうが丁寧(これもテーネー)だと思っていたのですが、音声上はダメなんだそうです。

意識して相当練習しないと長年のクセですから簡単には取れそうにありません。

2)「鼻濁音」

語の中、語尾のガ行音は原則として鼻音化するのだそうです。ガの音がはっきり発音されると確かにきれいではありません。

この鼻濁音の発音は、いろんな日本の東と西の違いの大きな一つに入り、東国では現在も結構普通に鼻濁音が使われているそうですが、

西国では鼻濁音が使われるのは少ないのだそうです。しかし日本語全体としては鼻濁音は消えつつあるそうです。

  確かに、英語でならキングのングを鼻に抜けて発音するのは身についている気がしますが小切手の「ぎっ」を鼻濁音で発音するのは意識しても簡単ではありませんでした。

簡単な練習文に「生麦生米生卵」があります。

この中のギ、ゴ、ガをいつも鼻濁音で発音していますか?阿智胡地亭はこれまでしていませんでした。

これまた身についてしまった事を、変えるのは大変そうです。


2時間の講習の〆はやはり啖呵売いの「外郎うり・(ういろううり)」です。まだ字面を追うだけで精一杯で、全く朗読にはなりませんでした。

外郎うり  プロのアナウンサーたちは暗記してベテランでもこれを一日一回は声に出すのだそうです。


  朗読講習3回目           

3回目の講習でもやはり、最初の基礎発声練習は汗をかきます。

声を出すだけと思っていましたが、腹(へその下の丹田を意識して)を使うと言うことは、殆ど全身運動に近いと思い知らされます。

今日のメインは「母音の無声化」でした。

菊(kiku)、くし(kusi)、月(tsuki)、ひさし(hisasi)を例にとると、子音のk,s,t,h,f,pなどの無声子音にはさまれた<i>と<u>の音が無声化するというのです。

 無声化とは声帯が振動しない発声をいいます。

関西弁にはこの発声がないそうですが、阿智胡地亭は両親が信州出身なので、耳で聞きなれていたらしく、あまり直されずに発声できました。

最後は時間をかけて、「外郎(ウイロウ)売り」の練習でした。香具師(ヤシ・テキヤ)の寅さんになった積りで、“啖呵バイ”をやるのですが、

先生からはアナタのは口先だけの発声ですと、ダメが出っぱなしでした。

人の前でわかりやすく発声するというのは簡単ではないことを今回もまた思い知りました。

     2005年10月22日(土)記

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<とうもろこしが美味い | 三重県四日市市から 小中学生3兄弟の八ヶ岳山麓の村への汽車旅行>   茶話30      

2024年09月02日 | エッセイ

とうもろこしが美味い  2005年07月31日(日)の「阿智胡地亭の非日乗」から引用

昨日、ふかしたトウモロコシを美味しく食べました。トウモロコシは子供の頃夏休みに、その頃家族が住んでいた三重県四日市市から

母の里である信州八ヶ岳の麓の当時の諏訪郡玉川村(現茅野市玉川)に行くといつも、もぎたての物をふかしてくれるので、

トウモロコシの味はそういうものだと舌が覚えてしまい、家で買ったものは、まずくていつのまにか食べなくなっていました。

いつ畑からもいで、いつ八百屋の店に並んだかわからない時代が長かったのでしょうが、今は流通経路も短縮され、農家から直送のものが多くなったと味で実感しました。

買うと少し割高ですが、畑で熟したトマトと、輸送中に赤くなる日数を見込んで青い時にもがれるトマトも、トウモロコシと同じで名前はトマトであっても別の野菜です。

  朝7時ごろ四日市の家を出て国鉄に乗り、名古屋駅で中央西線に乗換え、木曽福島駅や中津川駅のホームの蛇口の冷たい水で一息入れます。

昭和31年か32年当時の愛知岐阜三重の東海三県には紡績会社の大工場があちらこちらにあり 信州から沢山の女工さんが工場の寮で集団生活を送りながら働いていました。

特に名古屋駅からの中央西線の車中はその女工さんたちの盆休みの帰郷の集団で超満員でした。

我々三人は彼女たちの興味のまとになり 子供だけで旅行してどこに何しに行くのとか何歳だ?とか話しかけられて、そんなことに慣れていない三人は大汗をかきました。

そうこうするうちに汽車は乗り換えの塩尻駅に着き、ここで松本からきた中央東線の新宿行きの列車に乗換え、蒸気機関車の煙のススで真っ黒になって

家から7~8時間くらいかかってようやく茅野駅に着きました。

 駅前のバス停から八ヶ岳農場行のバスは当時はまだ舗装されてない八ヶ岳へ向かう山道を、むき出しの石を避けながらゆっくりゆっくり登っていきました。


30分ほどそんなバスに乗り、玉川村の「穴山」のバス停で下りたとたん、三人はすぐ競争で駆け出して伯父の家の農家の裏庭から入り、井戸の手押しポンプに取り付き、

ベコベコのアルミコップで飲んだ井戸水ほど美味いものには、未だに巡り合いません。

 たった一度ですが 小・中学生の兄弟三人でこのルートを移動した時 阿智胡地亭は引率責任者として道中ずっと緊張しっぱなしでした。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

   そして今朝、千葉の栽培農家で取れたというトウモロコシが8本、宅急便で届きました。早速ふかして食べましたが、昔のものより品種改良も進んだのか、

一粒一粒の実も大きく、サイズも一定でおいしく食べました。やはり取れたては違います。

 小学生の時に本当のトマトやトウモロコシやセロリの味を覚えた母の実家がある「穴山」は 、御柱祭の度にテレビや新聞に「穴山の大曲」click 
と地名が出るのを、

10年ほど前に知りましたが、あちこちの土地の流れ者である私の、沢山ある大切な郷里の中の一つです。

こちらから↓引用。

 

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「先輩から生意気と思われないようにしないといけないよ」と親が言う社会         茶話29

2024年08月23日 | エッセイ

  2006.11.23作成、メルマガ発信。

☆ アメリカの女子ゴルフの世界で長年頑張ってきた「小林浩美プロ」の次のような言葉を読んで下のようなことを思った。

日本選手と体つきが変わらない韓国勢がメジャーを制しているが、という質問に対して、彼女はこう答えている。

「国民性や社会環境の違いもある。韓国人はしっかり自己主張するなど米国人と似た面がある。

 日本人は基本的に自己主張ができない。日本が、出る杭は打たれる社会だからだ。自分が目立つと引くところがある。

出るクイをどんどん伸ばす環境でないと世界での戦いは難しい」



☆ 日本では母親が小さい時から子供にこう言う。

「目上の人や先輩に可愛がられるようにしなさいよ、生意気と思われないように、目立たないようにしなさいよ」と。

最近はそんなことはないかも知れないが、私の子供の頃の世間の母親は、自分の
母親を含めてそう言って子供言い聞かせたのが普通のような気がする。

おそらく、この教えは徳川幕藩体制の江戸時代に生きた日本人から今に続く呪縛(ちょっと大げさ?)ではないだろうか。

 つまりは、上に対して従順でいささかも批判や、まして反逆、体制転覆を計るような心根の人間は作らないという強い
圧力だったのではないだろうか。

鎖国までして国民の行動の自由を制限し、我が一族の未来永劫の継続と安寧を図った徳川一族さんとその取り巻き連中は、
今の北朝鮮の金体制と全く変わらない。

 最近の民間企業で言えば、ダイエーの中内さんや西武Gの晩年の堤さんの支配体制下のやり方と同じだ。
 


うちの相方がワールドサッカーのテレビ中継を見ていて、「日本の選手のパス廻しは他の国より上手いね。

でも、ゴールに向かって蹴れば!と思うときにもどうして他の人にボールをまわしてしまうの?」と聞いたのも、

同じことを言ったのかも知れない。

「徳川家康の呪縛」はほぼ270年も続いたから、これを我々が脱するにはまだまだ時間がかかるかも。

しかし「シンジョウ」や「イチロー」や「ヨーコ オノ」さん「山本容子」さんなどを筆頭とする女性軍の出現を見ると、

さすがの呪縛もほどけてきたのかも知れない。

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イチローをイチローにしたオリックスの迎木監督に神戸市営地下鉄の中で出会った日      茶話28

2024年08月20日 | エッセイ

  2005.12.26発信

もう何の用事で乗ったのか忘れましたが、かなり前に三ノ宮で神戸市営地下鉄に乗りました。

昼下がりの車輛はガラガラに空いていて、乗った車輛の中の乗客は私とはるかむこうに座っている一人の初老の男の二人だけでした。

 見るとも無く視線を向けたそのもう一人の乗客は、地下鉄の中だというのにサングラスをかけていました。

軽く背中を座席の後ろにもたれかけて目をつむっているようでした。

その初老の男の「すがたカタチ」はピタリと「決まって」いました。

身体のどこにも力が入っていないリラックスした彼のまわりに、そこだけ何ともダンデイな空気が流れていました。

 オリックスの仰木監督だと気づきました。

この沿線にグリーンスタジアムがありますが、まさか監督が一人で地下鉄に乗っているとは思いませんでした。

世の中には歳をとってから、こんなに「姿かたち」が美しくなる男がいるんだと思いました。

 一回限りの、しかもわずかな時間の、「仰木彬」という人との個人的な出会いの思い出です。


 

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新シリーズが始まったけど 以前に制作された<プロジュエクトX>シリーズの終わりの頃の 番組の造りがひどかった話      茶話27

2024年05月15日 | エッセイ

2005年1月11日の夜、何年かぶりでNHKの「プロジェクトX」を見ました。

自分が大阪勤務時代10年間通勤駅として利用したJR東海道線の六甲道駅復旧工事がテーマと新聞に紹介記事が出ていたからです。


   地上の星 / 中島みゆき [公式]


1)「プロジェクトX」はだいぶ前に「新潟のコシヒカリ」をテーマにした番組を見てからは、身内にご縁があった古野電気さんの

「漁船用魚群探知機の開発」の回を見たくらいで、後は殆どまともに見たことがありません。

「コシヒカリ」の開発のプロセスをテーマにした回は、開発者の苦労やプロセス自身は面白かったのですが、

番組の構成とナレーションのシナリオに驚きました。

この回は「善玉」の開発者に対し、立ちはだかる障壁として「悪玉」に時の新潟県知事を配し、完全な勧善懲悪ドラマに仕立てられていました。

何度も何度も大写しされ、全てに邪魔をし続けたかのように表現される悪代官ヅラそのものの当時の知事さんが、だんだん気の毒になってきました。

もう亡くなれていたようですが、遺族の方々はとても正視出来ないだろう内容でした。構成には、なんのヒネリもわずかなエスプリもありませんでした。

日本各地に、NHKの放送内容は絶対間違いないと思っている日本人がまだまだ多いのに、こんな取り上げられ方をして、

もし奥さんなど遺族が新潟に住んでおられたらお気の毒と思いました。そんな配慮は微塵も伺えませんでした。

このとき「プロジェクトX」も、番組の創生期に汗を流したスタッフが去って、

安定して視聴率を取れるようになってから担当した第二世代の連中が、人気の上にあぐらをかいて傲慢で楽な方法で作りだしたなあと思いました。

2)もともとこの番組は、対象がどんなに素晴らしい開発や社会的功績のあるプロジェクトであっても、ラジオ番組ではなくテレビ番組ですから

「映像」が入手出来ない場合は番組化出来ないという大きな制約があります。

つまり、成るか成らないかわからないままプロジェクトに専念し、記録写真やスナップ写真が残っていなければ、

その事柄の価値とは無関係に番組として取り上げられないのです。

おそらく「プロジェクトX」という番組の企画を発案し、実現した初期の製作者とそのスタッフは、持ち込まれるネタではなく、

自ら全国を走り回って対象を探し、しかも選別し吟味して製作していたような気がします。

番組スタート時に見ていた私は、文句をつける余裕も無く、♪風の中のすばる~と「地上の星」が流れだし、「ヘッドライト・テールライト」の

エンデイングが消えていく時間まで、この番組にじっと身を浸らせてもらっていたような気がします。

3)今回の<「鉄道分断 突貫作戦 奇跡の74日間」~阪神・淡路大震災~>を見ていたら、自分が経験した「JRも阪急、阪神も甲子園あたりで不通になったため、

始めは代替バスで一番近い駅まで行くしかなかった。通勤ルートは毎日変わった。最寄りのJR六甲道駅は地震の瞬間に崩壊して東海道線がここで長いあいだ断絶した。

阪神青木まで2時間ほど歩いた事もあった。」頃を思い出しました。 (阪神淡路大震災の体験記click)

ここまで大変な工事だったことは、この番組を見るまで知りませんでした。

映像的には、震災で崩壊した駅のシーンは、当時を思い出してあまり見たくはなかったのですが、今も乗り降りする駅がこんなんだったんだと、

自分が今は記憶から当時の情景を押しのけていることにも気がつきました。

 そして最後の完成試験で、上下逢わせて4軌道のレール上を各2両連結の機関車が4台同時にスタートし、

平行走行して、桁のタワミをチエックする場面は迫力がありました。

当時我々に聞こえてきたのは、東海道線がここでブチ切られ、日本列島全国輸送の大動脈が機能しなくなったことから、

また戦争突発に備え、国家として威信をかけて金に糸目をつけない突貫工事にかかったという話でした。

この24時間昼夜を問わない、金に糸目をつけないお上の工事のため、重機や建設資材、工事人員がこの工事現場に独占され、

阪急や阪神のような私鉄では、六甲道駅が復旧するまで工事の着手も出来ないということでした。

確かに阪急と阪神の復旧工事は大幅に遅れました。ただ利用者にとっては大阪と神戸の間のいわゆる阪神間には阪神,JR、阪急という

3本の路線が平行して走っているため、どれか一本が復旧すれば何とかなるという面がありました。この震災の後、復旧費用がかさんだこと、

乗客の減少などで両私鉄のバランスシートが一挙に劣化したことはまた別の話としてあります。

今回の番組のシナリオは、工事業者の奥村組が提供した工事記録ビデオと写真類をメインに構成されたためか、

 余震をかいくぐり短時間で大変な工事を貫徹したという美談仕立てに終わり、番組制作者の固有の視点が初めから終わりまで感じられませんでしたし、

近辺の住民からの感謝と暖かい応援という添え物の時間も結構長く感じられました。

なんか作る方に「泣かせるノン作ったやろ、人間の思いやりの気持ちを思い起こそう」という、上からさとしてくれるような傲慢さがあるのを少し感じました。

ほぼ5年間、同じコンセプトのドキュメンタリー番組を作り続けるのはしんどい。

毎週毎週、企画当時のレベルを維持するのは、ネタ切れもあり、もう無理なんだろうとも思いました。

     浮かれ節(講談の前身)のイントロではありませんが、テレビは、

「・・・これじゃからとて皆様方、現場見てきてやるのやおまへん、昔作者が暗い行燈のその陰で書いて残した筆のあと、筆に狸の毛がまじる。

嘘かほんまか知らんけど、本当らしゅうにやりますさかいに聞く皆様もその通り、たとえ嘘じゃと思うても本当らしゅうに聞いてもらわにゃ仕様がない、

一生懸命に勤めまするで、しばらくの間お遊びを給わる。」なんだと思います。

テレビが普及しだした頃に大宅壮一という人が、テレビのことを「電気紙芝居」と言いましたが、作る方もかっこつけずにそう思って作り、

見るほうもそう思って見れば、テレビも「なかなかおもろいもんではないかいなア・・・・」

この年の12月にこの番組は終了し、最後の番組に【中島みゆき】さんがライブで登場してエンディング曲を歌った

  2005年1月12日記

ヘッドライト・テールライト 中島みゆき【cover】

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岡山県の「星の降る町  美星町」に行った時の話                 茶話26

2024年04月30日 | エッセイ

  雲がかかってはいたが、久しぶりに満天の星を見てきました。

☆六甲山トンネルを抜けて神戸北ICで山陽自動車道に入り、岡山JCTで岡山自動車道へ、 そして総社ICで下りて、まず総社市の友人三上君の家を訪ねた。

総社駅近くの陸橋を渡り、市街地を通り抜けて高梁川を渡り、濃い緑の稲の葉が光る一面の 水田の中を走って到着した。

 


ここまで家を出てから2時間40分、179㌔のドライブだった。

 ☆神戸から先着していた近藤君と阿智胡地亭は車を置いて、三上君の車に乗り換え美星町の彼の言う “星の野原という茶室空間”へ向かった。

途中、矢掛町を通過して30分ほどで美星町に着く。矢掛とか笠岡とか聞いた事のある地名が 案内標識にも沢山出てくる。


大阪支社の同じ職場で何年も一緒に仕事をした川上隆弘さんは、ここ矢掛町の出身だ。

 ああ、彼はこの町で生まれ育ったんだと思いながらづっと窓から外を見ていた。

「確かこのまっすぐ南が 玉島になるんだよね」と聞くとそのとおりと言われた。

玉島には元勤務先の工場があって、 何度も行ったことがある土地だ。今、JRの駅名は「玉島」ではなく「新倉敷」に変わってしまったのは残念だ。


 車の窓から見る総社から美星町のあたりの竹林と山林と水田の緑のアンジュレーションがとてもきれいだった。 そして全般的に地味が良い豊かな土地柄だなあと思った。

農家の屋根がどこも全部立派な黒い瓦葺だ。 昔から竹林が大好きなので、久しぶりに綺麗な竹林を沢山見ることが出来たのも嬉しかった。

このあたりは筍の名産地でもあるそうだ。  


 ☆3000坪はあるという彼の領地に作られたコッテージが今日の宿だった。 露天風呂に入り、黒ビールをジョッキで飲むともう独りでに顔がゆるむのがわかる。


☆殆どが畠と丘陵と山林の町内を車でまわって、彼の活動のスポット(農協の倉庫を利用したジャズ演奏や美術品展示空間など)を案内してもらった

そのあと、ここに来るまでにスーパーで仕入れた材料やビール、焼酎でメシになった。彼がうまい肉と玉葱やピーマンなどを次々手際よく焼いてくれた。


 この土地の彼の協力者である農家の川上さんも加わってくださり、楽しい飲み会になった。 川上さんは兵隊に取られていたとき以外はこの土地で生まれ住んでこられた。

岐阜の各務原航空基地の航空兵として出征していた経験談や果物作りの苦労話、美星町の歴史など次々話してくれた。


この飲み会に持参してくれた握り飯と自家製の漬物は本当にうまかった。

 
 話はどれも興味深かったが、彼が復員して村にたどり着いたとき、村の分校で遊んでいた子供達が、リュック姿の彼を認めたとたん一斉にいなくなった。

どうしたのかと思ったら、子供達みんなで川上さんの家に走り、そして 川上さんの母親の手を引き、背中を押して彼がほっとして座り込んでいた所へ連れてきてくれた

というエピソードは胸にぐっと来た。徴兵されて軍隊経験をしたおそらく最後の世代の一人だろう。  


 三上君はこの土地の化石の研究を続け論文を書くという。これからやることが山ほどあって後60年生きるという。 君達も一緒に60年生きようという。

これから60年生きる、そんなことは思ったこともなかった。 この3000坪の土地は、あと10年掛けて屋外劇場にするという。


そしてこの場所のどの場所でも貸すから好きなことをやったらと言う。

☆少しモヤがかかっていたが北斗七星や星座で見た星たちをしっかり眺め、

そんな話しを聞き その晩はこの標高303mの場所でぐっすり眠った。そして翌朝、朝5時前にウグイスの声で目が覚めた。 彼の総社の家へ戻って朝食後、

高梁川沿いに岡山自動車道の有漢ICまで地道を先導してもらい、 ここで友人達と別れ、北房JCTで中国自動車道にのって院庄ICへ向かった。

 奥津温泉近くで、広島の呉に本社がある二社目の勤務会社の時に出来た別の友人達と合流し、

日曜、月曜と二日続きでゴルフをして家に帰ったら 車のトリップメーターは476.2㌔になっていた。

  2004年11月頃記


星空のある風景 タイムラプス 4K #86 ~願いかなう星空/美星町星空公園~ Starry Night Timelapse 4K#86 星景微速度撮影

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転校で三重県と兵庫県の県立高校に通学したが、二つの高校はともに夏の全国高校野球大会の県立の優勝校だった。  茶話25

2024年04月19日 | エッセイ


「夏の甲子園大会」

テレビで2003年八月の夏の第85回高校野球の入場式というのを始めから終りまで見た。

入場行進の先頭の方に歴代優勝校の全校旗がそれぞれ掲げられて行進するということを初めて知った。

一緒に見ていた相方に「ボクが在籍した高校と卒業した高校の二つの校旗があそこに入って行進してるんや」とつい自慢気に言ってしまった。

「もう何回も何回も聞いてるから知ってる。ホントに良かったね」と返事がかえってきた。

   三重県立四日市高校

昭和30年の第37回大会は初出場の三重県立四日市高校が高橋投手の力投で優勝した。高橋投手はその後ジャイアンツに入団したが、
投手としては芽が出ず長くスコアラーとして巨人軍に在籍したと思う。当時四日市市で中学一年だったボクの同じ学年には出場選手の弟もいて、
中学も大騒ぎだったし、四日市市そのものも沸きに湧いた。

  現在の四日市高校


3年後の昭和33年に憧れの四日市高校に入学出来た。野球部はその後はだいぶたってもう一度だけ代表になったことがある。
ボクは父親の転勤で一年の一学期だけ在学して四日市高校を出てしまった。

 兵庫県立芦屋高校

昭和27年の第34回大会は兵庫県立芦屋高校が優勝している。データによるとこの優勝チームからプロ野球選手に植村や本屋敷*
(立教で長島茂雄と同期)が出ている。豊田泰光も水戸商業の選手としてこの大会に出場している。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
*(internet 「ミスター日記」から引用)

「立大に進んでから感じたことですが、甲子園に出場した選手というのは、その背中から自信のオーラを発しているように感じられました。
大学の同期で、その後、阪急(現オリックス)、阪神で活躍した本屋敷錦吾さんもその一人です。本屋敷さんは芦屋高校で甲子園に出場して
いたのですが、入学当初から技術の高さもさることながら、非常に洗練さたプレーぶりに圧倒された記憶があります。やっぱり甲子園経験者は
違うな、というのが私の第一印象でした。」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 ボクが兵庫県立芦屋高校に転校し、在学した昭和33年から36年当時も、学校は報徳や育英など強豪の多い兵庫県でも常に代表を狙う位置にいた。

友人の田中昭氏が送ってくれた資料によると彼の出身校である大阪府立北野高校とは、昭和24年に春の選抜大会の決勝戦で対峙しており、

この大会では延長戦の熱戦の末、芦屋高校は準優勝だった。

 このように昭和20年代、30年代は常に兵庫県大会の上位校を維持し、ボクの在学中の34年だったか35年の春の選抜大会にも
藤投手を擁して、(もうその頃は野球では名前が出なくなった大阪有数の大学進学校である府立北野高校と違って)バリバリの兵庫県代表として出場した。

 現在の芦屋高校


この選抜大会の試合当日は全校で授業は早めに終り、学校から歩いてすぐの阪神芦屋川駅から全学年の生徒が電車で甲子園に移動した。
乗車時間は15分ほどの近さである。甲子園球場のアルプススタンドで応援したのはその時が始めてだった。

野球部の練習は狭い校庭でやはり強豪だったサッカー部(全日本の加茂元監督も芦屋高校のOB)やラグビー部と同時に入り乱れて
練習していたが、藤投手はひときわ身体が大きく目立っていた。

 社会人になって入社した会社で、藤投手のお兄さんに懇意にして頂くとは当時知る由もなかったが。

自分がたまたま在籍した二つの高校が、夏の高校野球で優勝したことがあると言うだけの事なので「それがどうした」と切返されることも多いが、

入社した企業でずっと営業をやっていたボクは、高校野球のシーズンになると 初訪問の会社の技術部や資材部の方々との会話の糸口のネタとして、

通った二つの高校の夏の甲子園大会優勝校の話を随分利用・活用させてもらったものだ。

 四日市高校&芦屋高校の野球部員の皆さんどうもありがとう。

         2003.8.23記

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 イタリアのシエナへケーキパテシィエ修業に出た神戸の女性  今時の若いモン        茶話 24

2024年03月22日 | エッセイ

先日、今日えっちゃんと食事をしてきたと次女が話した。えっちゃんは中学からの次女の親友だ。

そして、えっちゃんがイタリアに出発する日が5月15日に決まったという。

 彼女は大学を出て、暫らく三ノ宮のイタリアレストランで働いていた。

ヴィッセル神戸の三浦カズ夫婦がよく来店し彼女も時々話をしていたそうだ。

その店にいる間に調理師の免許を取ったあと、今や神戸でもケーキ店の最大激戦地になった阪急御影駅周辺にあるケーキ専門店に移ってケーキ職人の修行を始めた。

朝早くから夜遅くまでひたすらケーキ作りに励んでいた。でもその店は従業員の長時間労働が度を越していたので暫らく働いてやめた。

 店はその後、労働基準局の立入り検査があったほど深夜労働がひどかったらしい。そしてこのところ、ズカガールだった女性がやっている北野町のレストランで働いていた。

その女性オーナーに気に入られて、新たに出す支店の責任者になって欲しいと言われたが、彼女には夢があった。必ず自分はパテシィエになるという夢だった。

今、日本ではケーキ職人になりたいと思って修行している女性が相当な数になるらしいが、彼女は一度はケーキの本場のヨーロッパのどこかでケーキ修業をしたいと思っていた。

あるときよく店に来るイタリア人にそんな話をしたところ、「憧れだけなら誰でも出来る、イタリアにはローマ帝国時代からのケーキの伝統があるから、イタリアに行ったら」と言われた。

そして「本気でやるならイタリア語が使えなくては修行にならないよ」とも。 

彼から京都に日本イタリア京都会館というのがあるのを教えてもらいすぐに訪ねていった。そしてイタリア各地の語学学校の情報を仕入れ、イタリア語の勉強もスタートした。

父親の説得が一番の難関と言っていたらしいが、それも何とかOKを取って、いままで働いて貯めた金を全額使ってシエナの語学学校へ行く事に決めたとのことだった。

 「私、関空で乗る飛行機間違えへんかなあ」「シエナに行くのにローマで乗り換えやけどできるやろか」

食事を一緒にしながらそんな事を言っていたというので、そんな状態でイタリアへ行って大丈夫かなあと聞いたこちらが心配になった。

(シエナの風景は2006年夏イタリア旅行の時に撮影した画像)
 

そして昨日次女の携帯にシエナのインターネットカフェから彼女のホットメールが入ったそうだ。

 「シエナの空港で車がなかなか拾えず苦労したけど、無事学校の寮に到着したこと。

イタリア人はいい加減なところがあるから心配やったけど、ちゃんとした学校やったこと。

学生はスイスから来ている人が多いこと。まだコミュニケーションが取れないけど皆と一緒に食事したり買い物にも行きだしたこと。

先生に一人日本人、学生にも何人か日本人がいること」などなど。

 「あの子、学生時代親からバイト禁止されていたくらいなのに、働きだしたら自分で自分のやる事決めて全部実現していく」と次女が言った。

  私は「イタリア人はいい加減なところがあるから心配やったけど・・」という彼女のセリフを聞いて内心感嘆した。

行く国のことはちゃんとわかって行っている、このオジサンが心配することは何もないと。
 

それでも彼女のお父さんは毎日心配で堪らないだろうな、よく出されたなとも。

今の日本の男は甘やかされて自己中ばかり、出来る事は国内で威張る事だけ、他国でも通用するのは女の方が多いという持論がまたまた強化されそうだ。

   2004.05.20 記

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新居浜の友人が庭木の剪定を知り合いに頼んだらその庭師はやんごとなきあたりに連なる方だった。    茶話23

2024年03月20日 | エッセイ

<庭木の剪定を頼んだら・・> 

先日、新居浜の旧友から下記のようなメールをもらいました。
 
日本という「近代国家」が持つ多面性・連続性・劇場国家性?などの一端を示す
エピソードかと思い、旧友の了解を得てここにご紹介します。
 
・・・千五百年ほど前に数百年間(あるいはその後も長く)、西国の大和朝廷系部族に
こてんぱんに蹂躙された東国諸国の一部族の末裔の一人としては、これを読んで
ちょっとした感慨を持って「へぇ-、へぇ-」というしかありませんでした。
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阿智胡地亭さん、お宅も知っとる新居浜の某社に旧皇室に連なる方がおられることは
ご存知でしたか?(はよから丁寧語口調になってしもとるわね...)
  「有栖川宮家の詐欺事件」は滑稽な笑い話としてすでに記憶からほとんど
消えていましたが、今回、歴代皇室の本物の末裔にお会いして、家内ともども
しばらくこの話題で盛り上がりました。
 少し前になるけど、庭木の剪定をその某社のOさんにやってもろたんです。
もう10年も前からそこの会社のグリーン部隊に剪定をお願いしているんやが、
このOさんが実は第29代欽明天皇(きんめい)の末裔であることが分かりました。
 しかも百人一首で有名な小野道風や小野小町(美人で有名)とも親類にあたることが
家系図から判明し、我々はただ絶句と言うか、人は見かけとちゃうなーと、聞いてビックリしたんよね。 
ではOさんのお話を下記します。


************************************
その日の剪定が済んで、Oさんが帰りしなに私にこう言うたんが事の発端やわね。
 こないだ、会社から帰ったら家内から、「お父さん、宮内庁から電話があって、歴代天皇大鑑が出来上がりました。無料です。
御入用ですか?と電話あったよ」と言うんで、宮内庁に電話して歴代天皇大鑑を送ってもろたんです。明日また剪定に来るんやけど、
見られるんやったらそのおり持ってきますが。 Oさんからの突然の話でしたが見せてもらいます、と返事した。
 翌日は午前中に剪定が終わり、Oさんの独演会を約1時間あまりお聞きすることになりました。(もう完全に敬語になってしもとるがね)
 桐の箱に丁寧に梱包された、日本皇室図書刊行の【新歴代天皇大鑑】と家系図を見
ながら有難く拝聴させて頂いた内容は、まず日本の天皇の始まりは天照大神(あまてらすおおみかみ)である、からスタートした。
第一代 神武天皇 (御名:神日本盤余彦尊:かんやまといわれひこのみこと)
            在位:76年
            崩御:西暦紀元前585年(御年137歳)
            皇后:媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)
            陵(所在地):畝傍山東北陸(うねびやまうしとらのみささぎ=奈良県)

第二代 すい靖天皇(すいぜん)     84歳
第三代 安寧天皇(あんねい)       57歳
第五代 教昭天皇(こうしょう)      114歳
第六代 教安天皇(こうあん)       137歳



第29代 欽明天皇(きんめい)     63歳
            御名:天国排開広庭尊(あめくにおしひらきひろにわのみこと)
            在位:32年 西暦571年
            皇后:石姫皇女(いしひめのひめみこ)
.

第122代 明治天皇    在位45年、 61歳
第123代 大正天皇    在位15年  48歳
第124代 昭和天皇(裕仁)        87歳
第125代 今上天皇(きんじょう)(明仁)  皇后:正田美智子

と現在に至るまでのまさに天皇家の歴史が記載された厚さ10㎝もある
御肖像、皇統譜を見せて頂いた。
Oさんは第29代 欽明天皇の末裔にあたり、鼻から上にかけては、見れば見るほど
欽明天皇の御肖像とそっくりであった。
 また、滅多に人には見せない家系図をOさんは手を合わせて一礼しながら
巻物(長さ6から7mはあった)をユルリと開帳させながら拝見させてくれた、もとい、下さったが、
系図の中には小野道風や小野小町も記されており、まさに本物と信じるに足る証拠となるもので、
有栖川なんとかとは対照的ではあった。

  Oさん自身は植木職もやってるという仕事柄、真っ黒に日焼けして
お見かけはお世辞にも皇室関係とは...。
 ビックリはしたが、そやけど後で考えてみるとかなりの時間、自慢話を聞かされたような
印象しか残っていないのはなんでやろ?

 いずれにしても摂政関白政治からより武家政治中心で天皇の政治力が落ちながらも時代、時代に適応しながら
形式的儀礼的であるが永く存続してきた秘訣はまさに驚異と想像するものです。
昔の天皇が100歳を越しているのは粗食が要因だとOさんは言っておりました。
 しかし、Oさんをはじめ皇族の末裔の方々は近代社会とはいえ、現在もかなりの自覚を持って庶民には理解できない
ご苦労な生活がされておられるように感じました。 

ちなみに新居浜市役所の東に立派な小野神社(今は名前は違うが)があり、境内の長さは大変立派で今も実在しています。
 チョット浮世離れした経験でしたがアーァおもろかった。
 
*******************************
 
解釈、分析はいかようにも出来ると思いますが、この話自体はまごうかたなき現実のやりとりです。
 これを読んだとき、私が知ってる新居浜の何人かのOさんたちのお顔が浮かび、
みなさん全員がお公卿顔だったような気がしてきたのも面白いことでした。
 
  かしこみかしこみまおしました。

   2004.02.17記

<庭木の剪定を頼んだら・・>続き 

西からメールを頂けば、東からも便りを頂く。似非椅子徒(エセイスト)としては嬉しい限りです。
 前回の阿智胡地亭便りの内容の真偽を、いささかなりとも問うものではないとの
但し書付きで、東の方から下記のような彼の総務部門責任者時代の経験談を頂きました、
これまたへぇ-へぇ-と面白く読ませてもらいましたのでご紹介します。
 
*********************************
 
新居浜のOさんなる方が、何と第29代欽明天皇の末裔! 
しかも家系図付きでお顔立ちもそれなりに尊い由、あなかしこ。
俄かには信じられんが、なかなかにロマンもある実話かなと思いました。
 小生、京都時代、職業柄怪しげな人名録商法とか家系図作成商法という
のにちょくちょくお目に掛かりましたもんです。

最初は無料奉仕と言いながら、実際には、なんだかんだと数10万円を
ふんだくられた方々や脅され途上で困り果て、相談を受けた身近なヤクインや
カンリショクが存外に大勢居ました。

 さて、このお話は、そんなことは無いと思いますものの、桐箱入りで10cm厚の
貴き御本や巻物系図などは、宮内庁関連を標榜する出版社(右翼系の方々が多い)
サン達が最もお得意とする題材(商品)でして、特に、褒章や叙勲をもらった後に
「丁重なお祝いと共に売込まれるモノ」に 酷似しているようにも感じます。

 今後、かのやんごとなきお方に、法外な金額の請求書が来ないことを祈りつつ、
興味深く 拝読させて頂きました次第です。 

 
 信じる 信じないとは別次元のコメントですんません。
 
                                                  以上  
**************************************
 
追伸;将来、褒章や叙勲を受けられる方へ。
 
宮内庁が関係し、発行される正規の書籍・文献類は全て「宮内庁書陵部」編修と
なっているそうですのでご参考まで。

 2004.02.19記

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東京赤坂・溜池のひとに さよならを             茶話 22

2024年03月09日 | エッセイ

25年お店やってきて結局借金しか残らないんだから、私ってお人よしなんだよね。
でも、まっいいか、いろんな人とお会いできてそれなりに私も楽しかったし。

この店 私40の歳で始めたんだよ。この頃なんか疲れた気がする。もうやめようかなって近頃時々思う、とママが言った。

   2003年の7月始めのことだった。

  学校の先輩に連れられて、店に初めて来たのは 1978年 昭和53年の秋だった。店が開店して半年後くらいだったらしい。
東京勤務になって4年目だった。同窓の集まりの後、同じ会社に勤務していた先輩二人がそれぞれ別の時に、
連れてきてくれたからその会社が使っていた店かもしれない。

何回かこの店で先輩たちに飲ませてもらったが、当時は貿易部に所属していて、赤坂国際ビルにあった商社に月に何回か仕事で行っていた。

商社から歩いて10分ほどのこの店に、打合せが遅くなると、いつの頃からか寄るようになった。
勤務先がある神田美土代町周辺の麻雀屋や居酒屋には職場の仲間と毎晩のように行っていたが、
カウンターのあるスナックは他に行ったことがなかったし知らなかった。

店から地下鉄千代田線の国会議事堂前駅までも歩いて10分程で、地下鉄に乗れば会社のアパートがある南柏まで
一本で帰れたのも理由の一つだった。




一人で飲みに行くのもサラリーマンになって初めてだった。自分より年配の客ばかりの店でずっと小さくなって座って飲んでいた。
あるとき客が少なくてママと長く話をしたとき、彼女が三重県の松阪出身だと知ってこちらも四日市に住んでいたことを言い、
東京の悪口や、いややっぱり東京は凄くて面白いねなどといろいろ話をしたことから、夜遅くなって彼女が酔うと説教をされることになってしまった。

アナタはねえ、もっと自分の思ったことを先輩にもいいなさいよ。ただニヤニヤ笑いながらハイハイ人の言うことだけ聞いて
ここにいても仕方ないでしょ。キミはなんかじれったいよ、顔には言いたいことが出てるんだから。

言われても自分でも自覚していることだから腹は立たなかった。そのうち社内の飲み会の後などに仲間とも行くようになり、
結局昭和62年に大阪に転勤するまでの9年間、年に3、4回顔を出していた。

そして大阪から出張で東京に宿泊したある日、2年ぶりに店に顔を出すとちょっと待ってねと言いながら椅子に乗って、高いところの棚を探し埃だらけのボトルを見つけて出してきた。

たしかウイスキーのお湯割りに丁子を入れるのよねと言って、女の子にそう指示した。そして新しい名刺を頂戴と言われて出すと、
それを見て、良かったね、こんな肩書きがついたんだと喜んでくれた。

この商売をやってるとね、自分の為でもあるんだけど店の永いお客さんがだんだん上がっていくのを見るのが本当に嬉しいのよ。
特にキミはへらへらしてるだけでどうなるか心配だったから。

それから10年ほど毎月のように大阪から東京への出張があったが、店には年に1,2回くらい寄った。ボトルはだんだん素早く出てくるようになった。

最初はクラシックしか流していなかった店にもそのうちカラオケセットが入り、客はますます年配者が増え、客の数も少しづつ減っていった。
そしてママはいつも酔っ払っているようになった。ただよく変わっていた女の子は、落ち着いた四十代の人が定着するようになっていた。

一人客が多い店で、皆大体たまたま隣に座った客と話すのだが、あるとき隣の席の客にママが、清家さんと名前を呼んで話をしているので、
もしかしたら宇和島のご出身ですかと話しかけてみた。

その65,6才に見える客は、良くご存知ですね、退職して今大分に住んでいますがもともと宇和島ですと言う。

清家姓の出身地はほぼ100%宇和島だ。東京や大阪の新規引き合い先で、お客さんと初めて名刺を交わすとき空気がほぐれるのは、
その苗字で出身地を当てて苗字の話をするときだ。

彼はH製作所に勤務した人で今回は同期会のため上京して何年かぶりにこの店に寄ったと言う。Sが今苦労していましてと言われるので
もしかして社長のSさんのことですかと聞くと彼も同期なんですという。

広い畑で野菜や果物をもう何年も作っているという彼は良く陽に焼けて健康そうだった。

こうして昔のお客様に寄っていただくのは本当に嬉しい。皆さん退職するとき部下に律儀に店を引き継いで下さるけどやっぱり好みが違うんだよね。
これってしょうがないわよねとママが口をはさんだ。

 続く

(続きを書くつもりでしたが、書かないままになりました。これで店に顔を出すのは最後になるだろうと言う出張の夜、ママさんにその旨を伝え、
長いお付き合いのお礼を言い、お互い別れの挨拶を交わして店を去りました。その後のママさんと「雅瑠」という店のことは知りません。)

 

  2003.11.25 記

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御影郷の<酒蔵の道> を歩く    茶話 21

2024年03月07日 | エッセイ

<酒蔵の道>  
 
家から浜の方へ真っ直ぐ下っていくと阪急神戸線、山手幹線道路、JR神戸線、国道2号線、阪神電鉄本線、

国道43号線を直角に横切って、灘五郷のうちの御影郷の酒造会社が並ぶ地域に辿り着く。歩いても40分くらいの距離だ。
 
江戸時代から灘五郷と言われているが、魚崎郷、御影郷、西郷の三郷が現在の神戸市東部にあり、今津郷、西宮郷が西宮市内にある。

神戸市の三郷は阪神電車の駅名で言えば、東の方から西へ魚崎、住吉、御影、石屋川、新在家ときて大石駅までの狭い範囲に全て含まれる。
 
大手の酒造会社はそれぞれ資料館や記念館を開設しており、昔の酒造りの有様や道具・器具類を展示したり、自社の酒を販売したり、

コーナーを設けておいしい出来立ての酒を有料ながら飲ませている。
 
桜正宗記念館、菊正宗酒造記念館、白鶴酒造資料館が魚崎郷にあり、御影郷と西郷には瀧鯉蔵元倶楽部酒匠館、泉勇之介商店(灘泉)、

神戸酒心館、こうべ甲南武庫の里、沢の鶴資料館があり白い壁の土蔵の間の道が「酒蔵の道」として整備されている。

そしてモデルルートの誘導標識も立っている。

  神戸酒心館

 
八年前に震災で壊滅的な被害を受けた地域だが、ようやく全ての施設が復旧して全行程五時間ほどのほろ酔いトリップを楽しむ人も増えてきたと聞く。
 
家から車で10分ほどで行ける福寿酒造の神戸酒心館には豆腐と蕎麦料理をメインとする和食レストランが併設されており、

酒もうまいが、豆腐と蕎麦そのものがうまいせいか豆腐と蕎麦好きの中老年でいつも流行っている。
 
神戸に立ち寄られモダンかつレトロ神戸のスタンダード観光コースを済まされたらこの「酒蔵の道」も一度ためされることをお勧めします。

ご一緒に歩きましょうか。
 
 <おから>と<いしる>
 
先日の晩、夕食のおかずに「おから」が出てきた。いつものおから料理よりおいしい。
このあいだ蕎麦を食べたあと神戸酒心館の売店で買った「おから」に、今日届いた
「いしる」を入れてみたと言う。いままでのおから料理と旨みが違う。
 
酒心館に併設されている販売店は全国各地の健康食品・調味料・酒器などを
扱っており、味は間違いないものばかりだ。おからもいいものだったのだろう。
 
「いしる」は初めて聞く名前だった。東北の「しょっつる」と同じ魚醤の一種だという。
瓶のラベルを読むと日本三魚醤の一つと書いてある。語源は「いお(魚)のしる」かと書いてある。
魚醤と言うものの中ではベトナムのニョクマムが一番有名だと思うが、日本にも昔からある調味料らしい。
この魚醤醸造法は南方照葉樹林文化にルーツがあると言われている。冷温物流チエーンの発達のお陰で
コープコウベが取り扱いだしたので家でも初めて買ってみたとのこと。生産者は金沢市にある会社だった。
 
酒は「福寿」ではなく買置きの「梅錦」を冷やでやったが、「おから」はこれに良く合った。
 うまいと言うと「でしょデショでしょ」とうるさい。「いしる」を入れたらどうだろうと閃いたのが大正解、
おからにちくわと平天を刻んで入れて、これに生姜、ゴマ、ミリン、お酒、しょうゆと砂糖で整えたと。
確かに好きなおからがこの日はもう一味違っていた。うちの「定番の一品」に登録が決まった。

  2003.12.23記

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酒心館の「さかばやし」でせいろを一枚食べました。

 

2014年07月04日 | 食べる飲む

 

まあまあの手ごたえで打ちっ放しを終えた後、昼時になっていたので御影塚町の「丸亀製麺」に行きました。残念ながら駐車場は一杯で止める場所がありません。
止む無く隣の「酒心館」の「さかばやし」で蕎麦にしました。


支払金額は丸亀製麺の予定額450円の倍になってしまいましたが、「さかばやし」の「せいろ」はひさしぶりでおいしく食べました。



ショップの「東明蔵」はご婦人方で混んでいました。団体客のようでした。やはり山中教授のノーベル賞受賞晩餐会に供された
日本酒「福寿」の蔵元として知名度が上がったのかも知れません。

 朝日新聞の記事から。2012年12月8日03時00分
ノーベル賞晩餐会に神戸の酒
写真:ノーベル賞の晩餐会で振る舞われる「福寿」

 山中伸弥・京大教授が出席する10日のノーベル賞授賞式後の晩餐(ばんさん)会で、神戸市東灘区の神戸酒心館(しゅしんかん)が造る清酒「福寿(ふくじゅ) 純米吟醸」が振る舞われる。
益川敏英氏らが受賞した2008年の晩餐(ばんさん)会で、スウェーデンの取引先が主催側に薦めてくれたのがきっかけで、日本人が受賞した際の定番になった。
10年に続き3回目の納品だが、今年は地元・神戸大学医学部卒の山中教授とあって酒蔵の喜びもひとしお。「お酒好きと聞く。存分にうちの美酒に酔って下さい」
 

 

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たまたま出会った  桂文珍さんと笑福亭鶴瓶さん    またまた遭遇 六甲山の麓のイノシシ           茶話 20

2024年02月27日 | エッセイ

たまたま出会った    

 落語家二人

新大阪のホームで列車の入線を待っていた。

車内で読む「週間文春」と「お~いお茶」を確保した後は、
いつもの癖で目の前を行き来する人達をバードウォチングならぬピープルウォチングを楽しむ。

背をしゃんと伸ばして夏物を涼しげに決めた奥さんの後を、ゴルフウェアーらしいポロシャツを着た旦那が荷物を持って
トボトボついていく。アタッシュケースを持った紺のスーツの若い女性が男の同僚社員らしいのと急ぎ足で通り過ぎる。

若い男女の外人が6、7人でトランクの山を横においている。ツアーらしいがガイドはいないなあ。
女性が小柄だし、着ているものの色とコーデネイトが洒落てるからからアメリカ人じゃなくてラテン系みたい。

あら、向こうからくるおっさんあれは桂文珍みたいやなあ。荷物をカートで引っ張っている。
お伴なしで一人で動いてるんだ。彼は私のすぐ隣に来て立ち止まった。やはり文珍だった。

5、6年前に阪急六甲から梅田まで隣どうしに座った桂文珍とはこれで3度目の遭遇だが、
いままでになく自然体で周囲の人は誰も気付かない。気のせいか彼は少し仏頂面に見えた。

テレビと違うのは薄いサングラスをかけているだけだ。彼は早く来すぎたのか私の乗った列車には乗ってこなかった。

②21のB席は窓際3列の真ん中の席だった。

この伊丹空港発の羽田行きフライトは乗客に子供が多く満席だった。

シートベルトを締めてぼんやり乗って来る人をみていたら、笑福亭鶴瓶みたいな男が通路をこちらに来る。
その後ろに名前は知らないがテレビで顔は見たことがあるのが続いている。

みたいではなく間違いなく鶴瓶だった。彼は20のD席、若いのが20のC席に座った。
飛行中二人は半分の30分ほどスケジュールの話をしていた。あのダミ声の大阪弁で。

着陸して皆が席をたったとき、彼の前の席の女性が後ろを振り向いて握手を求め、それに対して笑って握手を返していたくらいで、
殆どの人は気付かないままで機内から下りていった。

運動会などの集団の中から自分の子供をすぐ見分けられる視覚の識別能力は、動物の始源的な能力の一つらしいが、
例え一度も会ったことがない他人でもいったんインプリンテイングされたイメージと同一人物が目の前に現れたら、
無意識かつ即座にその人だと認識するという経験は何度あっても面白い。

またまた出会った   イノシシ カンバック    

夜11時過ぎ、飼犬のうち若い方のムーが突然ワワーンと外に向かって異様な吠えかたをした。あっイノシシがまた現れた。
人に対する吠えかたと全然違うのですぐそう思ったそうだ。

相方が道路際の2階の部屋の窓から外を見ると、20mほど離れたゴミの集積所のところに大きなイノシシが1頭とウリンボウが
一匹ビニール袋に鼻を突っ込んでいる。時間が遅いのでバスはもう通らないが、乗用車が何台もそこを避けて大きくふくらんで減速して上がっていく。


集積所の前の一家は総員で玄関の塀ごしに顔を出してこわごわ覗いている。そのお隣はガレージのシャッターの前に置いていた
ビニールをあわてて取り込んでいる。(私は冷酒をやりすぎてこの時間は白河夜船だったので翌朝聞いた)

その一週間ほど前は真夜中にムーが吠えるか吠えないうちに、家の前のお宅の玄関でドーン、ドーンという大きな音がした。
覗いてみたらやはりウリンボウを連れたイノシシがアルミ製の柵に体当たりしているのが見えたそうだ。
前にアルミの柵の中に置いていた生ゴミをやられた事があるおうちだ。


一年ほど前近所の何軒もアルミ製の柵や玄関がイノシシの体当たりで捻じ曲げられ、取り換えざるを得なかった。
うちと隣は建ったのがほぼ40年前と古いので柵は鉄製だが、鉄製のものはどの家も被害がない。
推測だが鉄の(かなけ)のイオンの匂いを避けるのかもと思う。

つまり先祖代々、猟師のトラバサミなどの鉄のワナで痛い目にあってきたので、鉄から逃げるDNAがあるのかも知れない。
理由は不明だが鉄製の物には向かってこないというのは不思議な事実だ。

神戸市が六甲山麓の地区の住民の声を聞いて昨年ようやく「イノシシ迷惑防止令」を出して、餌をイノシシにやるのが禁止されてから、
彼らが近所をうろつくのが少なくなってほっとしていた。

今年の梅雨の長雨や気候不順で六甲山の自然のエサが少なくなったので、またもや人家の近くに出没しだしたのだろうというのが、
朝飯どきの我が家の結論だった。

   2003.8.10作成

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贅沢な夢を見た と 目が覚めた相方が言った。    茶話19

2024年02月13日 | エッセイ

明け方 贅沢な夢を見たと
相方が言いました。

どんな夢?と聞きました。

 立食パーテイでお皿に料理を取っていたら、
隣の男性が、私の皿に遠いプレートの料理を取って載せてくれた。

誰だろうと思って顔を見たら江口洋介だった。
お喋りしながら食べていたら、別の男性が
近寄ってきて新しいお皿に別の料理を取り分けてくれた。

この人は誰だろうと思ったら伊原剛志だった。
3人でいろんなお話をした。楽しかった。

 ほんとうに贅沢な夢を見てしまったわ。

   ああ、そうですか、良かったねと私は言いました。

                                             2009年10月 記

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