阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

那覇で工場見学をした泡盛❝南光❞があったのでネットオーダーで取り寄せた。

2024年10月30日 | にんまり話

先日亀戸の沖縄料理の店で久しぶりに泡盛を飲んで、改めて泡盛の旨さを再認識した。

家でも飲みたくなって [ヨドバシ]のネットサイトで泡盛の「南光」ブランドを検索したらあったので 即購入してお湯割りで飲んでいる。やはり旨い。

2007年6月6日掲載 

那覇その2 泡盛❝南光❞の神谷酒造を見学。

沖縄2日目の朝、前夜あんなにたっぷりと泡盛を飲んだのにスッキリと目が覚めました。

沖縄旅行に誘ってくれた同行の安田健二さんの従弟の居酒屋「小桜」のご主人孝一さんがホテルに迎えにきてくれて

最近「小桜」が力を入れて売り出している泡盛“南光”の醸造元である「神谷酒造所」へ案内してくれました。

創業は昭和24年だそうです。現われた社長は三十代初めの言葉使いが美しい好青年でした。

彼は3代目だそうです。案内していただいている間、これが品位ある沖縄言葉なんだと彼の説明の言葉を心地よく聞かせてもらいました。

 正統な沖縄言葉というのは リズム感のある美しい言葉だと思いました。

泡盛の原料は米です。その米はタイ米です。日本政府がタイから一括調達して酒造組合に販売しています。

米にはジャポニカ種とインディカ種がありますが泡盛には粘りッ気のある日本で普通に食べるジャポニカ種よりはインディカ種の方が適しているのだそうです。

洗米機から始まってビン詰めまでの工程を見せてもらいました。両親と妹さんなど全て家族で生産されているようでした。





沖縄旅行へ誘ってくれた安田さんは神戸の武陽会(旧神戸2中・兵庫高校卒業生)の49回のメンバーで

ありがたい飲み仲間の一人です。 彼は奄美生まれの鹿児島県人で神戸人として育った人です。





工場の前は一面、サトウキビ畑でした。

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「人生はクローズアップで見ると悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ」 チャールズ・チャップリン

2024年10月23日 | にんまり話
自分自身を馬鹿にするのは勇気がいるんだ。
人生は素晴らしい。恐れの気持ちさえ持たなければ…。何よりも大切なのは勇気だ。創造力だ。
本当の性格は、酔っ払っているときに現れる。
偉大な俳優になるために必要なのは演技をする自分を愛すること。
意味を考えていたら始まらないよ。人生ってのは欲望さ。意味なんてどうでもいいじゃないか。
あなたが本当に笑うためには、あなたの痛みを取って、それで遊べるようにならなければなりません。
下を向いていたら、虹を見つけることは出来ないよ。
一人を殺せば殺人者だが、百万人を殺せば英雄だ。殺人は数によって神聖化させられる。
忘れないで、いつも身をかがめていたら、何も拾いあげられないんだよ。
幸福を手にするための戦いは美しいものです。
人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ。
私は雨の中を歩くのが好きなんだ。そうすれば、誰にも泣いているところを見られなくて済む。
いいかい、もし、良いと思ったら、どうやろうかなどと決して心配するな。つまり直感だよ
 
失敗した方が、人生は面白いよ。
行動を伴わない想像力は、何の意味も持たない。
私の苦痛が、誰かが笑うきっかけになるかもしれない。
しかし、私の笑いが、誰かの苦痛のきっかけになることだけは絶対にあってはならない。
完全な愛というものは、もっとも美しい欲求不満だ。なぜならそれは、言葉以上のものだから。
説明しなければ理解できないような美に対して、私はあまり寛容でない。もし創作者以外の誰かによって、
その美について補足説明が必要ならば、私はそれが果たして目的を達成したと言えるのだろうかと疑う
死と同じように避けられないものがある。それは生きることだ。
 
私の最高傑作は次回作だ。
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優しくなれないようなら、生きるに値しない。  レイモンド・チャンドラー    探偵フィリップ・マーロウの言葉

2024年07月25日 | にんまり話

「厳しい心を持たずには 生きのびていけない。

優しくなれないようなら、生きるに値しない。」

 引用先   早川 浩  早川書房社長 

原文 (Play back から)

「If I wasn't hard, I wouldn't be alive.

If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive.」

作中のヒロインから、「あなたの様に強い(hard)人が、どうしてそんなに優しく(gentle)なれるの?」と問われて。

  • 清水俊二訳は「しっかりしていなかったら、生きていられない。やさしくなれなかったら、生きている資格がない」(『プレイバック』(早川書房、1959年10月)第25章)。
  • 生島治郎訳は「タフじゃなくては生きていけない。やさしくなくては、生きている資格はない」(『傷痕の街』(講談社、1964年3月)あとがき)。
  • 矢作俊彦『複雑な彼女と単純な場所』(新潮文庫、1990年12月)では、「ハードでなければ生きていけない、ジェントルでなければ生きていく気にもなれない」が正しいとしている。

Wikipediaから部分引用。

 

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「人間みなチョボチョボや」    知ってからずっと好きでいつも自分の身体の底にある言葉   

2024年05月30日 | にんまり話

東京新聞・中日新聞掲載(2004年6月28日号)


人間みなチョボチョボや  小田実

 これから何回か随論を書く。気のむくままによしなしごとを書く随筆があるなら、考えのおもむくままにことを論じ、論を進める随論があっていい。

そう考えて、「老いる」ことについて随論を書く。なぜ「老いる」ことについてか。私も今年72歳、「老いる」さなかにいるからだ。

 私には「人間みなチョボチョボや」の持論がある。「人間古今東西みなチョボチョボや」と少し大げさに言うときもある。

 人間はおたがい、対等、平等、自由に生きている――この私の人間の根本認識が持論の底にある。

これに従えば、英雄、偉人もいつも英雄、偉人ではない。ときには、タダの人になる。逆に、タダの人がときに英雄、偉人顔負けの偉業をなしとげる。

 「老いる」ことで決定的なのは、誰しもが「人間みなチョボチョボや」のタダの人になることだ。

いくら強がりを言ってみたところで、それぞれに足腰が弱る、眼がかすむ、ボケる。こうしたことはかつてのオリンピック選手にも、大知識人にも起こる。

これは決してわるいことではない。

 大哲学者として世に知られたバートランド・ラッセルに私が会ったのは、1960年代半ば、彼はもう90歳代に入っていたか。

ウェールズの田舎町の自宅まで行き、私も彼も参加していたベトナム反戦運動のことで会い、話した。

ベトナム反戦運動と言わず、反戦運動のとりえは元来が「反戦」の一点で人間がつながる運動だから、

その一点において、大知識人も私のようにタダの人も同じになる、なれることだ。ことにラッセルは年を取っていた。

 何を話したかは忘れたが、とにかく私は彼とよくしゃべった。そのうち私の日本英語でまくしたてられたのに閉口したのか、

彼は「この若者の話を聞け」と夫人を呼び出した。夫人はたしかラッセルが当世風に言えば「不倫の恋」を派手にやらかして結婚した夫人だ。

たいへんな美女だった―はずだが、たしかもう70歳代半ばの老女だ。もともとがタダの人の私と、老いてタダの人になった二人の老人はしゃべった。あれはいい記憶だ。

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毎日新聞阪神版「きらり 阪神な人」欄掲載(2004年1月26日号)

ひとりでもやる1

戦争体験生かさぬ愚行に怒り「行動する作家」へ

 自宅マンションの一室にしつらえたこぢんまりした書斎。作家の小田実さん(71)=西宮市=は、原稿を書く手を休め、壁の写真を見上げた。

1945年6月、ニューヨークタイムズ紙に掲載された、大阪空襲の航空写真だ。黒煙に覆われ燃え上がる市街。「おれはこの煙の下にいたんだ。

この写真が鳥瞰図なら、こっちは“虫瞰図”や。」以来、地をはって物事を見極める姿勢を貫いてきた。

 連載小説や論評で、一日の大半は書斎にこもる。わずかな合間に、阪神大震災での国の無策ぶりを嘆き、アフガン空爆以来、更に軍事大国化が進む米国と、

それに追随する小泉政権に怒りの声を上げる。「行動する作家」と呼ばれて久しい。

 大阪市出身。9歳の時、真珠湾攻撃のニュースに喜んだが、弁護士だった父元吉さんに「日本は負ける」と言われ、がっかりした。

やがて、空襲は激化。焼夷弾が自宅の屋根を突き破り燃え上がった。街は異様なにおいがした。なにもかも焼き尽くされ、戦争は終わった。

 平和は劇的に訪れた。通っていた男子校の旧制中学と近くの旧制女学校の生徒を半数ずつ入れ替え、男女共学の新制高校が誕生。

「バンカラ」校から、「お嬢様」校へ転校した。「学校の標語は『質実剛健』に決まっとると思ってた。それが『温雅貞淑』や。こりゃ革命だよ」

 その象徴が新憲法だった。「日本はとことん戦ってとことん負けた。戦争はこりごり。その実感が形になったのが憲法や。」もう戦争はないと思った。

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毎日新聞阪神版「きらり 阪神な人」欄掲載(2004年1月27日号)

ひとりでもやる2
米留学から世界ほっつき歩き旅の著書売れ、一躍、時の人に

 作家の小田実さん(71)は少年時代から「ほっつき歩く」のが好きだった。

大阪市天王寺区に住んでいた小学3年のころ、遊郭に出くわし、あやしい気分を味わった。戦後の焼け野原のかなたに見た夕日は今も平和の原風景だ。

 しかし、平和もつかの間、朝鮮戦争が始まった。府立夕陽丘高校2年の夏、この衝撃をテーマに最初の小説「明後日の手記」を出版。

東京大に進学後も小説を書き続けたが、生き詰まりも感じた。持ち前の好奇心と放浪癖が抑え切れなくなった。

東大大学院入学後の1958年、米ハーバード大大学院に留学。「山の向こうはどうなってるか。気になったら行きたくなる。おれはそういうタイプや」

 米国中を見て回った。南部で人種差別の根深さに気が滅入り、国境の橋を渡ってメキシコに入ると、水も出ない貧しさに驚いた。

まるで違う世界だった。「世界中を見ないと」。一日1ドル。背広一枚で高名な文化人に会い、路上で寝た。欧州、中東、インドと計22カ国を訪れた。

 60年に帰国。新たな小説を出版社に持ち込んだが相手にされず、「旅のことを書け」と勧められた。一気に原稿用紙800枚を書き、あぜんとする担当者に題名を問われた。

 「何でも見てやろう」です。

 「そんな本売れるか」と怒られたが、世界を舞台に「ほっつき歩いて考えた」著書は、61年に出版されるとたちまちベストセラーに。

「地球は青かった」「巨人、大鵬、卵焼き」とともに、流行語になった。テレビにも引っ張りだこ。一躍、時の人となった。

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教育者としての養老孟司が生徒に求めるのは「学ぶ態度」だけだ。その態度とは?

2024年02月28日 | にんまり話

◎ 学ぶ態度とは「自分が何も知らない」 それだけだ。

◎ いわゆる「熱く」なることに抵抗感がある。それは戦争そして敗戦という、一つの価値観の大転換を、幼い頃目の当たりにしたことが

  大きく影響していると思う。「一億玉砕」とか「鬼畜米英」なんて大騒ぎの挙げ句、一夜でころっと変わるのを体験していると、

       大勢が熱く騒いでいるのに接すると、「危ねえぞ」という危機感が作用してしまう。

◎ 教養とは何か 「教養とは 人の心がわかる心」である。

◎ ストレスとは、気持ちと実際とが食い違う時に生じる。その「実際」が社会の問題であるなら、個人には手のつけようがない。

  世直しは大変に決まっている。だからふつうはそう思って大勢に従う。でもどこかでそれが壊れるときがくるかもしれない。

  そのときは仕方がない。「自分を通す」しかない。それができるかできないか、それで人生が違ってくる。・・一部略・・

  それでも、一生に一度くらいは、自分を通す必要があるかもしれないんですよ。それを「自分の人生」というではないか。

   そんなふうに、私は思っているのである

 

                   いずれも 引用元 「ヒトの幸福とはなにか」 2023年11月11日 筑摩書房 刊

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朝ドラ「ブギウギ」ですスズ子が使う 「わて」ですぐ頭に浮かんだ白洲次郎が歌う  讃美歌の「わてらのイェスさん」

2023年11月17日 | にんまり話

 現在放送されているNHKの朝ドラ「ブギウギ」は脚本のテンポとキレが良く、俳優陣もよくノッて いい化学反応が起きているので面白く毎日楽しみして観ている。 

     たった一つ個人的に気になるのは主役の❝趣里❞さんが過不足なく使う大阪弁の「わて」の発声だけだ。

 それは疵とも言えないのだが、私の中の大阪弁の「わて」は 彼女ほど強く「わて」と発声せずに、もうほんの少し弱く言う「わて」が正解やないかと思てます。

 (余談ながら 猛訓練でしっかり趣里さんは関西アクセントを身に着けたが、関西育ちの伊原六花さんのネイティブ関西弁との違いが微妙に面白い

  ところで

アメリカのマッカーサー将軍が連合国軍占領下の日本を統治していた時代に、当時の日本国首相の吉田茂の右腕となってGHQと交渉にあたった白洲次郎という人がいた。

 白洲次郎⇒こちら。  武相荘折々の暮らし⇒こちら

彼は関西生まれ、かつ育ちで 神戸一中(現兵庫県立神戸高校)を卒業後すぐに英国のケンブリッジ大学に留学した。

 だから英語は完璧なキングズイングリッシュを身に着け喋ったが、日本語は関東弁を習う機会がなく、亡くなるまで生涯関西弁だった。

彼は町田市の武相荘clickとなずけた家で家族と暮らしたが家でよく鼻歌で幼い時に教会で習った讃美歌を歌ったそうだ。

 その讃美歌に「わて」が出てくる。

 

英語聖書から正式に日本語に翻訳された讃美歌461

主われを愛す、主は強ければ、

われ弱くとも恐れはあらじ、

わが主イエス、わが主イエス、

わが主イエス われをあいす。

 

白洲次郎が家で歌っていた讃美歌:

 イェスさん わてらを愛しはる イェスさん 強いさかいに

 わてらは弱うても こわいことあらへん

 わてらのイェスさん、わてらのイェスさん、

 わてらのイェスさん、わてらを愛しはる

別のバージョン①

 エスはんわてを好いてはる

 エスはん強いさかいに

 わて弱うても 恐いこったあらへん

 わてのエスはん わてのエスはん

 わてのエスはん わてを好いてはる
           
別のバージョン②

イエスはん、わてらを好いたはる

イエスはん、強いさかいに

浮世はいうたかて 怖いことあらへん

わてのイエスはん わてのイエスはん

わてのイエスはん わてについたはる  アーメン

 

 この関西バージョンの讃美歌を知るとキリスト教のイメージが なんや がらっと私の中で変わりますわ(笑)。

ミッション系の学校などは ええしの子ォが行ったりするとこやと なんとなく思わされてたけど、

もしか関西弁の讃美歌聞かされてたら、わてもキリスト教に馴染んだかもしれませんねん笑)。

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日記ブログはゴミ?

2023年10月16日 | にんまり話
 

亡くなった練達のロシア語通訳でエッセイストの米原万里さんは、心中誰もが思っていても、遠慮して黙っていることを、

すっと声に出す事が出来るひとだったが、その中にこんな語録もあった。

愚見ではインターネットに公開される日記には 退屈な日常をだらだらと

緊張感のかけらもない心情吐露を交えて 独り善がりに綴った「ゴミ」が多い。」

 “多い”とあるから全部がそうだとは言ってないが、これを読んだとき自分のことを考えて一瞬、背中を冷たい手で撫ぜられたような気がした。

   これはまた別の人が使った物言いだが、

    「傍観者の正論

という言葉を見たときにも一瞬そんな思いがした。

それでもブログは止めずに続けるけど、開始して一年ちょっとの今、たまたまながら面白い二つのセリフに出会ったなと思った。

  2006年6月記

 
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予約されたテレビ番組からコマーシャルをこうして消去しています

2023年10月02日 | にんまり話

1 録画してCMを消す番組を選んで リモートの「オプション」をおす。このケースでは徹子の部屋を選んだ。30分番組

設定/編集 を選んで 確定

2,チャプター編集を確定

3,この画面が出るとコマーシャル部分がわかるので(一分か二分が多い)確定

 

4,最後まですすめてから「削除設定」を押す

5,カーソルを下の段に移して 「終了」を確定し押す。

これで作業完了。コマーシャルがなくなったので 30分の番組が23分になりました。

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東予(愛媛県東部-東伊予)には「へらこい」と「のぶそな」という方言がある。  

2023年09月09日 | にんまり話

(画像は伊予の燧灘ーひうちなだ)

新入社員の3か月にわたる愛媛県新居浜市での工場実習が終わり、阿智胡地亭はそのまま工場の業務係に正式配属された。

 配属されてほぼ一年が経って仕事にも慣れてきた頃、ベテランの直属の上司の係長と仕事上のやりとりをしていたらその途中で

「○○○○よ、お前は いよいよ へらこいやっちゃ ネや」と言われた。

生まれてはじめて「へらこい」という言葉を聞いたから意味はわからなかったが、その語感から いい意味ではないなと思った。

 工場の独身寮に帰って地元出身clickの先輩に「へらこい」ってどういう意味ですかと聞いたら「ずる賢い」という意味やと即答された。

それから3か月くらいして 同じ係長と仕事の話でやりとりをしていたらその途中で

「○○○○よ、お前は いよいよ のぶそなやっちゃ ネや」と言われた。

やはり初めて聞いたので意味はわからなかったが語感とその場の雰囲気で 同じように いい意味の言葉ではないなと思った。

 寮に帰ってやはり地元出身clickの友人に「のぶそな」ってどういう意味と聞いたら「態度が大きいとか生意気な」という意味やと。

  そして、そんなこと言われたんか、なにをしたんやと心配してくれた。  後で知ったが漢字で書くと「野風増」と表記するらしい。

 新入社員に対してこんなことを言うなんて、長い間 自分は会社勤めの最初から 今で言うパワハラ上司に仕えたんだと思っていたが、

最近ふと こんな言葉をかけなければならない新人の部下を持たされた係長の方が お気の毒だったのかもと思うようになった。

 

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女は実体で、男は現象だ

2023年08月01日 | にんまり話


「女は実体で、男は現象だ」       多田 富雄  免疫学者
               
「(今の子供たちは)信じられないくらいに、生きていく武装に欠けている。

(中略)世界のことを予見する知恵とか、当座の困難を手先で切り抜ける方法とか」

                                                        宮崎 駿   アニメ製作者

「『お先真っ暗』でいいじゃないですか。だからこの世は面白いんですよ」 
                
                    養老 孟司   解剖学者

「先はどうなるかわからない、それこそが生きるっていうことですよね。(中略)そんなに先のことが見えないと生きられないのか問いたいですね」
                 
                    宮崎 駿   アニメ製作者

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「危険」にまつわる名言・格言

2023年06月29日 | にんまり話

「世界が危険なのは、邪悪な人間のせいではなく、それに対して何もしない人間のせいである」
―アルベルト・アインシュタイン(物理学者)

「世界をより良い場所にしたいと願う人間ほど危険なものはない」
―バンクシー(素性不明のアーティスト)

「危険な武器を愚か者の手に渡さないことに賛成だ。まずタイプライターから始めよう」
―デイヴィッド・ジェロルド(アメリカのSF作家) " A Matter for Men"より

「最も危険な皮肉は、人間は自らの無能さのために他人に腹を立てることである」
―アミット・カラントリ(インドの実業家)

「ファッションは儚く、危険で、不公平だ」
―カール・ラガーフェルド(ドイツ出身のファッションデザイナー)

「期待値が高すぎたり、形がなかったりすると危険である」
―ライオネル・シュライヴァー(イギリスの小説家)~「少年は残酷な弓を射る」より

「これまでに担当した電気設備の中で最も危険だったのは、アメリカ最大手の電力会社だった」
―スティーブン・マギー(イギリスの著者)

「幼い頃から『危険だと思われるから』と言う理由で、人生のチャンスを逃したくないと思っていた」
―ニコール・キッドマン(ハリウッド女優)

引用元。

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大阪のおばちゃんの会話が聞こえた時、頑爺さんは ❝ 思わず、休憩して食べていたおにぎりでノド詰まらせた ❞  

2023年05月31日 | にんまり話
*(2014年5月箕面の山歩きから)
 
山を歩いていると、後方で大阪のオバちゃんの会話が聞こえる
 
アンタは夏の火鉢やわ」
   「なんで~な」
「この暑いのに裸姿に誰も手出さんはずやわ ハハハ」
 
 
「そんなこと言うたらアンタは枯れた紅葉やわ」
   「なんやそれ?」
「もう色づかんはずや 散る寸前やもんな ハハハハ」
 
 
「そんならアンタは一円硬貨やわ」
   「一円?」
「そうや もうそれ以上崩しようがない顔やわ アハハハ」
 
 
「そんならアンタの胸は餅や、まだ垂れ下がるんかいな ブヨ~ンの5段腹」
  「アホ あんたに言われとうないわ カバとタヌキから生まれた顔してからに」
  「どんな顔や?」
   
思わず、休憩して食べていたおにぎりでノド詰まらせた🤣 
 
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愛媛県西条市の永田浩さんが聞き書きした「市之川茶話  その二  塗装屋 吉岡さんの話」

2022年12月09日 | にんまり話
2010年05月20日(木)「阿智胡地亭の非日乗」掲載
 

吉岡さんのお話の「聞書き」の続きです。

その三 洋式ゴム銃の話

ある時期に、魚屋を始めた。店は嫁さんに任せて、自分は外商に出て行く毎日だった。仕入れは僕の役目。その日は大きな太刀魚が入っていた。

多分売れないだろうが、そのときは自分の酒の肴だと2匹仕入れた。外商から帰ってきて、一匹売れたんだなと奥に声をかけたら、売れてませんよ、ちゃんと二匹あるでしょうという答え。

しかし店先には1匹だけが残っている。猫だ。

このところ猫に大分やられている。300メートル先で猫がくわえているのを見て追っかける気もしなくなった。

猟銃を持っている友人に相談したところ、店先で猟銃をぶっ放すわけには行かないが、坂上の銃砲店に洋式ゴム銃を売っていたよと。

早速買ってきて、魚を狙っている猫を狙ったがとんでもないところに飛んでいって、とてもあたらない。

一念発起して、10メータ先のたまご大の的に八割の確率で命中するまでになった。自信を得て、猫を狙った。簡単だ。あたると猫は、1メータ近く飛び上がった。

ギャッと悲鳴をあげて。何度かギャッと言わすと猫は来なくなった。

この話しを銃砲店で聞きつけて、大会に出ないかという誘いを受けた。しかし僕にはその気は全くなく、逆に、そうだと思い立ったのはスズメを採ることだった。

スズメを数羽ずつ討取って、その場で肉にして持ち帰って、ヨメサンに焼いてもらって酒の肴にした。嫁さんもうまいなあといった。

スズメは小さいので、山に入ってキジバトを狙った。これも簡単だった。スズメよりうんと食べでがあって美味しさも格段に違う。嫁さんも喜んでくれた。

そこで、気合を入れて、10数羽採ったが、さばく暇が無かったので持ち帰ってさばいていると、嫁さんが血相を変えて止めてくれという。

本体を見てしまうと、気持ちが悪くて・・・子供の教育にも良くないという。

それで、ゴム銃とも別れた。

その四 猪の話

魚屋だけでは売上が知れているので、肉屋も始めました。肉は徳島まで仕入れに行きました。

牛や豚の堵殺現場も知っています。頭のところをこつんとやると簡単にひっくり返るので、すぐ頚動脈を切って血抜きをし、逆さに吊って真っ二つに割ります。

その片割れを仕入れてきて細かく分けるのです。

 ある人が、豚を愛玩用に飼っていて、大きくなりすぎて困っていると聞き、みんなでもらってきました。解体して、酒盛りしようというのです。

吉岡は肉屋だから、彼が解体できるだろうというのでみんなで連れてきました。なーに簡単さ、と軽く引き受けました。何しろ僕はと殺場で頭こつんを見ていますから。

ところがこの豚君、頭の急所を探っていると「ぶぃーっ」と鳴いてすり寄ってくるのです。気を取り直して、頭に手をやると「ぶぃーっ」です。

これには参りました。こっそりと、養豚屋に持っていって事情を説明し、引き取ってもらいました。代金は2万円です。

 この2万円で皆で酒盛りをしました。
 
そう猪の話でしたね。

猪を獲ったことは、前にも先にも一度だけです。猪は銃でしとめる方法もありますが、罠にかける方法もあります。ワイヤーでつくったワッカに引っ掛けるのです。

罠をかけるのも鑑札がいります。鑑札つきのものは正式ですが、無いものはもぐりです。

 あるとき、罠に猪がかかっている。鑑札は無いよ。獲りに行こう。無鑑札だから失敬して良いというものでもありませんが、良心の痛みは和らぎます。

三人ですから集団心理も手伝って、行こうという事になりました。

 こつんの要領を知っているつもりでしたが、さんざんてこずってそれでも何とかしとめて帰ってきました。帰ってきますと、10人あまりが待ち構えていました。

中に解体を良く知っているやつもいて、みなで山分けです。一抱えのブロックを持ち帰りました。これぐらいあったかのー。嫁さんが小さな声でうなづかれました。

☆吉岡さんと私のことも書いておきます。

○2004年の市之川大災害で我が家が基礎の一部を流され、床を含めた一部が流され、家が傾き半壊の被害を受けた。

 復旧工事は伊藤建設が請け負ってくれたが、最終塗装をこの吉岡さんがしてくれた。吉岡さんと伊藤さんの関係は良く知らないが、僕が印象的だったのは、次のことである。

吉岡さんが、軽トラで帰っていくのを伊藤さんが見送っていた。

なんだか車がもたもたしているようです。その内車が止まりました。それを見ていた伊藤さんが走り出しました。

僕はあっけにとられて見ていました。何が起こったか分からなかったのです。

伊藤さんが苦笑いしながら、帰ってきました。吉岡さんが散歩に来ていた人に声をかけて車に乗るよう促していたのだそうです。

散歩する人は迷惑らしく断っているのだそうです。伊藤さんの心配は、あの車の調子では、体調が悪くなって徐々に何とか止めたのではないかと判断したというのです。

最悪脳溢血ではと疑ったのだという。お二人の人柄が出ていてとてもとても僕は感心したのです。

この話しを吉岡さんにしました。 すると吉岡さんはこう言いました。

そんなことがあったのですか。僕はよく人を乗せるのですよ。嫌がる人もありますが、大抵は喜んでもらえます。

最近で一番印象的だったのは、女の子二人が、ヒッチハイクをしていて車をとめたので乗せてあげた。

東京の大学生でした。種子島まで無銭旅行をするのだそうです。

風呂はどうするの、宿はどうするのなどの質問にニコニコして、答えるには、川で体拭いています。神社や民家の軒先を借ります。

今晩はどうするの。これから探します。それじゃうちに来いよ。連れて来て風呂に入らせ、すき焼きを食べさせた。

なーに嫁さんもなんも文句言わんでやってくれる。手紙がちょくちょく来るのー。

岡山の子は毎年年賀状送ってくるのー。嫁さんが小さくうなづいている。
 
○伊藤建設が、工事完了した時に、僕は、秋刀魚会をしてお礼に皆を呼ぶことにしました。

いろいろな人からお見舞いをいただいたり片づけを手伝ってもらったりで。

勿論伊藤建設社長にも来てもらいました。


吉岡さんは最後の塗装をしていただいたので、たまたまその日におられたこともあり声をかけました。

秋刀魚会と言うのは、秋刀魚を屋外で焼いて、ビールを飲むというささやかな会です。
 ところが、吉岡さんは当日、俺は昔魚屋をやっていたのだと大きな鰤を一本持ってきて解体して提供してくださった。10数人では食べきれず、ブロックをお土産に持って帰っていただいた。
 そんな気のいい人です。

腰椎の手術があまり成功とはいえない結果なので、「会社の方はどうしているのですか。息子さんが後引き継がれるのですか」、と聞いてみました。

 「いやまだまだ息子に任せられません。息子はまだ欲がのうて、中々一人前には行かんのですわ」という答えでした。

「欲が無いのは、家系だから仕方がありませんよ」と、僕は合いの手を入れました。

吉岡さんの話を聞きながら、づっと大笑いしていたら、ここまで3時間ほどがあっという間に過ぎていました。

♪永田さん、まったく宮本常一さんの聞書きの本を読んでいるように、いよいよ、つつ一杯楽しませてもらいました。

 ありがとうございました。吉岡さんと奥さんにどうぞよろしくお伝えください。

☆宮本常一「忘れられた日本人」 こちら

文字で記録されなかった数多い無名の日本列島人の歴史。

「忘れられた日本人」は、読み出したら止まらないこと間違いありません。

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愛媛県西条市の永田浩さんが聞き書きした「市之川茶話  その一、  塗装屋 吉岡さんの話」 

2022年12月06日 | にんまり話
2010年05月19日(水)「阿智胡地亭の非日乗」掲載
 

愛媛県西条市の市之川に、昭和41年に知り合って以来、西条の名水のようにさらっとした付き合いが続いている永田浩さんが住んでいます。

ただ日ごろは永田さんはその本宅ではなく、少しはなれた山中の“巣?隠れ家?”のような山荘におられるようです。

その永田さんが、日ごろ世話になっている塗装屋さんの吉岡さんと最近会って、ひとしきり少年時代の話を聞かせてもらったそうです。

「辛好さん、吉岡さんがこんな話をしてくれたんで大笑いしたんじゃ。あんまり面白いけんその話を分けたげるわね」、とメールを頂きました。

読んだらナルホド腹の底から楽しさが湧き上がってきました。皆さんにもおすそわけです。

永田さん聞き書き☞ 『塗装会社の吉岡さんが来てくれました。

市之川本宅の外装のモルタルがちょっと浮き上がっている場所があり、本格的に再塗装した方がいいのではないかと相談をかけたのです。

奥さんの運転する車に乗って来てステッキをついて降りてきました。なんだかおぼつかない足取りです。

頚椎を手術されて随分腰の具合も良くなったと聞いていたのですが・・・。

昨年暮れに、腰の手術をして大方アチラへ行きかけていたのを医者が無理やり引き戻してしまったというのです。

手術の失敗であったのだと言う意だと思いました。

再塗装の件は、すぐ見積もりましょうということで、話は5分ほどで終わったのですが、その後三時間ばかり話していかれました。

吉岡さんの話 その一 猿の話

そう猿は、悪さをしますね。
 (僕が猿に作物をあらされる話をした後です。)

小学生の頃、弁当を食われてまいったことがありますよ。その頃は、入会地というのがありまして、そこから薪を切出してくるのが、僕らの役目でした。

親達は、子供達が山に入ってきて、薪を庭一杯に積み上げていくのが自慢でした。自分らが自慢したいというのではないのです。

その日も、リヤカーを引いて山すそまで行って入会地まで登っていきました。

手ごろな大きさ「多分直径で10センチ前後」の木を切り倒して小枝を払って適当な長さに切り、リヤカーのある山すそまで下ろすわけです。午前中は木の伐採にかかります。

昼になり、弁当を探してもありません。どうしたことかと辺りを探ってみますと、中身がなくなっています。

猿に食べられたのです。昼飯を食べ損ねて、それでも何とか木を下ろしてリヤカーに乗せて、帰りました。

途中の山根に雑貨屋がありパンを売っています。猿に弁当を食べられて腹がすいている事情を説明した後、

兄が「明日朝お金を持ってくるのでパンを分けてくれ」と申し入れたが、店のばあさんは頭を横に振るのみでした。

その店は、今も山根にあります。

「お母さんにもこの話ししたかの~?」と吉岡さんが奥さんに聞くと、奥さんは小さい声でうなづきました。

「もう60年近くもなるが思い出す」

でも猿を捕まえるのは、比較的簡単なんです。
(どうするんですか?)

先ず一週間くらい猿を餌付けするのです。芋やりんごを少しずつ置いていくのです。無くなれば又置きます。

その後で、箱を用意します。バナナをすり下ろし、箱の内部に塗ります。箱には猿のこぶし大の穴をあけておきます。内部にりんごを入れます。そして餌場におくのです。

バナナの匂いにつられて猿が来て、穴に手を入れます。りんごをつかんで盗ろうとしますが、穴が小さすぎて、手が出ません。用意していた網をモッテ猿を取り押さえるのです。

猿は欲張りで、あるいは知恵が浅くて、りんごを離して手を抜くことが思いつかないのです。

猿は、泉池の漢方屋に持っていくと高く買ってくれました。ただ猿は聡いので、一度捕まえると次は来なくなります。

大量に捕るということは出来ませんし、バナナも当事は高価でしたので、あまり頻繁には捕れませんでした。

漢方屋といえば、マムシも高く買ってくれました。盗り方も教えてくれました。

・・・お前達マムシをとってきてくれんな、・・・嫌や、あれは噛みつかれたらたまらん・・・などのやり取りの後です。

竹の棒の先を割って木をはさんでおき、頭近くをそれで押さえるとはさんだ木が取れて、代わりにマムシをはさむことになるのです。

マムシは、春もたけなわ以降、竹やぶなどの窪みに群れていることが多い、というのです。なるほど、冬眠から覚めた頃は、マムシは窪みに群れていました。

簡単にはさめました。あの時分はお小遣いに5円をもらって駄菓子屋に走っていった頃でしたが、800円くらいで買ってくれました。いい小遣いに成りました。』

その二 剥製屋の話 

『もっといい小遣いは、剥製屋にイタチや鷹、トンビを持っていくことです。トンビは、2~3千円、鷹はその3倍ぐらいになりました。

イタチの捕り方は簡単です。イタチの胴回りよりちょっと大きめの竹を一方を節を残し片方を節無しにします。

その竹筒の底にイリコを入れてイタチのいる場所におきます。イタチはイリコを食べに入りますが、バックはしないのです、多分出来ないのです。

方向転換しない限り出れないのです。これを剥製屋にもっていくと、ミニ狸をこしらえて、販売していました。

トンビや鷹の捕り方も、彼らの習性を利用したものです。ドラム缶を用意します。ネズミを採ってきて、ドラム缶の底に入れます。

海岸に持っていってドラム缶の底が見えるように置いておくと、トンビが輪を描き出したらしめたものです。

トンビや鷹は、獲物をめがけて、羽根をすぼめて急降下します。トンビは、羽根をすぼめてドラム缶に入ります。

ところが、飛び上がるときは羽ばたきをしないと飛び上がれません。ドラム缶は小さすぎて、羽ばたけないのです。

すぐ出て行って、頭をスポッと覆います。目が見えなくなると、おとなしくなります。そうしないと、羽根を傷つけて剥製の値打ちがありません。

鷹は、なかなか捕まえられなかったが要領は同じです。たまに捉まえるんが嬉しかった。』

 ☆その三 洋式ゴム銃の話、その四 猪の話、そして付き合う人皆が吉岡さんを大好きになるエピソードいくつかは、次回の掲載をお待ちください。

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時にはニヤリと笑いたい。  冗句シリーズ  その9

2022年08月03日 | にんまり話

2009年05月30日(土)「阿智胡地亭の非日乗」掲載

「」内はお題

「焚く」

嫁はんが  来てから炊事 する息子   大阪府   富田やす

「溜める」

売るほどに 薬溜めてる 老い二人    埼玉県   彩の孔

「数」

割り切れぬ 円周率の ような妻      愛知県   つたちゃん

「越す」

やけ食いに 娘の恋の 終わり知り     福岡県 グリーンマイル

チンしたら 妻の手料理 越えていた    和歌山県  岡田 敏朗

「魚」

風の無い 鯉のぼりです うちの人    鹿児島県  渡邊 忠康

「行く」

出て行け!と 言われ行きたい とこばかり   香川県 てぬきうどんの女

NHKかんさい土曜ほっとタイム」の「ぼやき川柳大賞」から

 

                       

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