ニッカさんとの長いご縁が今に続き、今年、余市工場を丁寧に案内して頂き、竹鶴夫妻の物語に浸ってきた友人たちがいます。
その中のMSさんがマッサンとリタさんが眠るお墓の写真を送ってくれました。MSさんありがとう。
ウイスキーはニッカさんをもう50年ほど飲んでいますが、37、8年ほど前にスコットランドのグラスゴーに2回出張した頃は
ニッカウヰスキーがここまでスコットランドの製法にこだわっているとは知らずに、ただ旨いから飲んでいました。
グラスゴー 三題
その1 ある国際入札案件のコンサルがグラスゴーにある会社だったのでスコットランドに行きました。
グラスゴーでホテルからコンサルの事務所まで海岸沿いをタクシーで走りました。20分ほど走る間、高い塀で囲まれた工場がずっと続きます。
塀の上から造船用と思えるタワークレーンが幽霊のように数十台も見えました。タクシーの運ちゃんにこれは何ですか?と聞いたら
日本の造船会社が安値で船の注文を全部取っていくので潰れてしまった造船所さ、俺もここに勤続24年だったけど。
会社はクレーンを解体する金もないからそのままだよ」と言われ、その後、車の中はシーンと沈黙のままコンサルに着きました。
仕事が終わって夜、同行の人達とグラスゴーで一番と言われる中華の店に行きました。確か中国本土が各国との公式国交回復の前の時期で、
近くの席に黒っぽい人民服に身を固めた中国本土の政府幹部らしい集団が話もせず黙々と食事をしていました。異様な感じでした。
ナイフとフォークを使い、西洋皿で中華を食べさせる西洋レストラン式の中華料理店は後にも先にも初めての経験でしたが、
10人以上いるボーイは全員中国人で、聞くと3年契約で香港のコック・ボーイ派遣会社から来ているとのことでした。
こんな遠くまで出稼ぎとは中国人はタフな連中やなとそのとき思いましたが、その後、アメリカ出張時、LAの日本料理屋で
着物姿の仲居の女性と話をしたら名古屋の板前・仲居派遣会社から何年か契約で来ていると聞き、日本人も同じなんやと思いました。
その頃急激な円高傾向の時期でドル払いの契約で来ているのでなにしにアメリカまで出稼ぎに来たのか、これなら日本で働いていた方がましやったにと彼女は嘆いていました。
その2 グラスゴーに行った時、日曜日に有名な大聖堂に行きました。
大きな聖堂でその長い回廊のところどころに、プレートが掲示されており、読むと「千六百年代の何月何日、当地の伯爵家の長男
デイビッド・マッカラム・ジュニアー(例えば)がエジプト戦争に出征し、勲功を挙げたが惜しくもカイロ近くのエジプト軍との激戦で戦死し、
遺体はここに眠る」というような事が書かれてありました。こういう風に外にも多くのプレートが掲示されていました。
お墓でなく人が踏んで歩く廊下の下に埋葬?と言う事と、イギリス人(彼はスコットランド人の支配階層の一員ですが)は
そんな時から、他国へ戦争に行って領土拡張に励んでいたんだと思いました。
後でキリスト教の死後の世界の認識を読んで、キリストが再生する時に、共に再生するため教会の中の祭壇に近いところに
埋葬されることが、信者の願いということを知ってそういう事かと思いました。
にしても洋の東西を問わず、人間の考えたり、することは、そうは違いません。地獄の沙汰も金次第。死んで埋められる場所も身分と金で違ってくる。
ヨーロッパ各国の教会の地下墓地にミイラ化した遺体が沢山置かれているのも、その時々に上にいた人達が死後の世界でなく永遠の命を願った証であるようです。
その3 グラスゴーのステーションホテルで。
夕方、部屋に戻るとメイドさんが魔法瓶の水の補給に来てくれました。ほっぺたの赤いまだ少女のような人でした。
用事が終わったあと、何か話しかけたいそぶりでドアのそばにたたずんでいるので、「なにか?」と声をかけると、
はにかんだ笑顔で「どこから来たのですか」と言いました。東洋人は珍しいのでしょう。
日本からと答えると「遠い遠いところから来たのですね、私は田舎から出てきて家族と離れて、スコットランドで一番大きな都会に
勤めることが出来たけど、きっと一生ロンドンまでも旅行することはないと思います。このようにあちこち旅行するのですか?」と言いました。
仕事で時々外国へ行っていると話すと、「私には想像も出来ません、もしそんな事がいつか出来たらどんなにいいでしょう」と
窓の外の夕暮れの空にふっと視線を向けました。
この僅かな何分かの彼女との会話のおかげで、通り過ぎの身にグラスゴーにも日本と変わらぬ人達が暮らしているんだなあと、
今でもグラスゴーという地名を見たり聞いたりすると、街並みとあの少女のことを思い出します。