阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

神戸市東灘区の住吉川から岡本(本山)を経て阪神青木駅まで歩きました。         10年ひと昔 2014年2月28日の本ブログに掲載

2024年02月28日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

住吉川の両岸には遊歩道があって、一年中ウオーキングやジョギング、犬の散歩に活用されています。




下流側

上流側

水道橋から本山方面。向こうに見える白い建物は神戸薬科大学と、その向こうの甲南女子大学?でしょう。

岡本の交差点

昔からある一本だけ屹立している棕櫚の木は、車で走っているときは気づかず通り過ぎます。

電車に乗って通過するだけで気が付きませんでしたが、摂津本山駅の階上駅の改装工事は、

エスカレーター工事だけを残して完成していました。昨年の大雨のときは地下道が冠水して大変でしたが、もうあの事態は起こりません。

 浜側から駅舎を見た画像(トップの画像)
    国道2号線方面

阪神青木駅まで歩いて御影駅に戻りバスで甲南病院で下りました。




草ぼうぼうだった妖精の家の敷地は草刈されていました。妖精はもう長く留守をしているようで、住んでいる気配を感じませんでした。


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落語家 五代目柳家小さんと二・二六事件     

2024年02月26日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

今日は今から88年前の1936年2月26日に、日本の陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが1483名の兵を率い、

「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げて起こしたクーデター未遂事件のいわゆる「二・二六事件(ににろくじけん)」が起こった日です。

その1483名の兵の中に上官の命を受け、警視庁襲撃に参加した 五代目 柳家小さん、本名小林盛夫さんがいます。

§  小さんは1915年(大正4年)1月2日、長野市生まれ、東京・浅草育ちで、現在の韓国と同じように徴兵制度のあった

当時の日本のくにたみの義務として兵隊に取られて、髪もないのに事件にかみました。

 当時、柳家小さんは、前座(先代の四代目小さん門下で栗之助と言っていた)だったが、徴兵され麻布の三連隊に入隊したのが昭和11年。

いきなり一兵卒で野中大尉の指揮の下で警視庁の襲撃部隊に加わりました。

『翌日部隊は、決起軍として何大臣だかの官邸を占領したが、その晩上官の一人が、「おい、小林二等兵、お前は落語家だそうだから、

士気を鼓舞するために、何か一席やれっ!」と、命令した。

みんな、どえらいことをしでかした緊張感と、空腹でしょんぼりとしている中で命令となれば仕方がない。

「えー、落語に出て参ります人物はてえと、大抵我々同様で…」と始めたのが、お馴染みの『子ほめ』。

 この噺はくすぐり沢山で、普段寄席でやるとウケる噺なのに、始めから仕舞いまで、誰もクスリとも笑わなかったそうだ。

「面白くないぞッ!」のヤジに、「そりゃそうです。演っているほうだって、ちっとも面白くないんだから。」と返した。

§  二・二六事件の決起軍は結局、若き昭和天皇の怒りを買い叛乱軍とされ、決起軍は反逆罪で処罰された。

この時、襲撃された大臣や将官の家の警護の警官や憲兵は、かなりの人数が問答無用で各所で決起軍の若い指揮官達に射殺された。

 射殺された彼らの殆どは東北や九州の農家の二、三男だった。

反乱軍となって処刑された将校は自分で自分のクジを引いたと言えるが、柳家小さんの小林盛夫らの二等兵クラスはどうなったか? 

 上官の命令に従っただけで、自分らの何の思想的行動でもなかった彼らは、その後 極秘裏に満州などの激戦の前線部隊に送られ切り込み隊に使われた。

従って兵らの消耗率は高かったと言う。柳家小さんも勿論戦地に送られたうちの一人だった。彼は召集期間を勤め上げ日本へ帰還したが、

暫くすると再召集され今度は仏領インドシナ(現ベトナム)の戦線へだされている。



 § 国を憂えた純粋な若手将校たちは貧しくとも(大尉の一人の父親は慶応高校の英語の教師などで、必ずしも貧しくはなかったが)

漢文の素養もある家庭階層出身が殆どで、宴会の高歌放吟にも漢文調の歌を好んだ。

 しかし柳家小さんこと小林盛夫さんや現場の警官の出身階層からすると「将校さんたちよ、オノレをなんぼのもんとおもてるんや」としか思えないのでは。

本人が純粋に思い込んでいる愛国心や正義感ほど、はた迷惑なもんはないと言うのが、

日々をフツーに暮らしたい下々の者のしみじみの目線から見た二・二六事件への思いだ。

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 私は反乱兵 五代目柳家小さん   音声記録:五代目柳家小さん226事件を語る - DEEPLY JAPAN (goo.ne.jp)

 柳家小さん「226事件を語る」

五代目柳家小さん「穴泥」

 
 
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東神戸・六甲道の「かわ悠」で「大椎会・阪神班」の集まり。            10年ひと昔 2014年2月24日の本ブログに掲載

2024年02月24日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

水耕栽培のことでメールをやりとりしている中で、中津の「ノモトファーム」の野本オーナーとひさしぶりに飲む話がまとまりました。
2月某日、香櫨園の志風君にも声をかけて3人で六甲道の「かわ悠」で飲みました。店の写真は「六甲道どっとこむ」から借用。







地鶏の朴葉味噌焼は撮り忘れました。寒い日で熱燗がすすみ、焼酎の[三岳」も旨くて、よく飲みました。
 別れたのは八時前だったので、ふと思い立って前からどんな店かと気になっていたBARと中華の店を試してみました。
2店ともに六甲道駅から歩いて5~6分ほどのところにあります。
 「BAR-AHU」。

オーナーに聞くと開店して12年だそうです。ここで10年を越えてBARを開いているのはなかなかのもんです。

嬉しいことにニッカの「余市」を置いてくれていました。ホットウイスキーを飲みながらオーナーとしばしお喋り。

時々寄ることになるかもしれません。

 中華レストラン 「アムアムホウ

期待した「坦々麺」は辛さが立って味に深みを感じませんでした。私にはご縁がない店のようです。

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「臥薪嘗胆」と「捲土重来」 「次は勝つぞ」   敗戦国民の基本的な心構え

2024年02月23日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ
 
 
 

新藤兼人、黒木和雄、野坂昭如などなど、彼らの創作活動の根っ子にあるのは、この日本という国内で原爆やB29の焼夷弾絨毯爆撃で理不尽な死を遂げた

身内、友人、知人への鎮魂の気持ちと、彼らの無残な死を忘れずに記録に残したいという気持ちだと思う。

 野坂昭如の「火垂るの墓」「アメリカひじき」を読んだり、新藤監督、黒木監督の映画を見るとその底に、

この列島に住む人間が100年たっても500年経っても持ち続けなければならいそういう思いを表していると思う。

 その思いをいまこの時点で、言葉にして明確に表現する文章を読んだ。

一部引用開始・・

  「敗戦国であることは恥ずかしいことではない。

歴史上無数の敗戦国が存在したし、帝国の属領になった土地も無数に存在する。

そのすべての敗戦国や属領がそれだけの理由で国民的矜恃を失ったわけではない。多くはその後も絶えず叛乱と独立の機会をうかがい、しばしばそれに成功した。

敗戦国民の基本的なマインドセットは「臥薪嘗胆・捲土重来」である。「次は勝つぞ」なのである。

それがいかに現実的に困難なことであっても、気概としては「次は勝つぞ」でなければならない。

その上で、「宿敵」アメリカとの歴史的和解を「主体的に、決然と、選択する」というのがことの筋目なのである。

そのような筋目を通していれば、基地問題は国民感情としては「ねじれ」ない。

それはアメリカの一方的な領土占拠であり、日本人は一丸となってこの全面撤去を求めるのが筋だからである。

それに対してアメリカが「自国の」安全保障上どうしても日本列島に基地が必要だと懇請するのであれば、

日本政府がネゴシエーションのテーブルにつくのは外交オプションのうちである。

そして、こう訊くのである。

「いったい、どうしてアメリカは自国領土からこれほど離れたところに軍事基地をおかなければ安全保障が成り立たないようなリスクの高い制度設計をしているのか?

あなたがたはいったい西太平洋で何をしたいのか?」

この問いに十分説得力のある回答が示されれば、私は一有権者として米軍基地が日本列島に置かれるというオプションを支持してもいい。いや、ほんとに。

基地問題を論じるときの最初の問いとなるべきこの問いを私たちは自ら封じている。


なぜ私たちはこう問うことができないのか。 まずはそこからだ。」

   一部引用終わり。(太字は阿智胡地亭)

「なぜ日本に米軍基地があるのか?」の全文はこちら

中学校で習ったと思う「臥薪嘗胆」と「捲土重来」という言葉は自分で使ったことがない。今回念のために意味を辞書で確認した。

臥薪嘗胆(がしんしょうたん) [ 日本大百科全書(小学館) ]

 薪(たきぎ)の上に臥(ふ)し、苦い胆(きも)を嘗(な)める意で、復讐(ふくしゅう)の志を忘れず、長い間艱難辛苦(かんなんしんく)すること、また将来の成功を期して、報われないままに長い間苦労することをいう。中国春秋時代、越(えつ)王勾践(こうせん)に敗れて死んだ呉(ご)王闔呂(こうりょ)の子夫差(ふさ)は、薪の上に寝て父の仇(あだ)を忘れぬように努力し、ついに会稽(かいけい)山に勾践を破って降参させた。勾践はのち許されて帰国したが、以来、つねに苦い胆を部屋に掛けておき、それを嘗めては自ら復讐心をあおり、とうとう夫差を滅ぼして「会稽の恥」を雪(すす)いだ、と伝える『史記』「越世家」の故事による。

捲土重来(けんどじゅうらい) [ 日本大百科全書(小学館) ]

 一度戦いに負けた者が、勢いを盛り返して、ふたたび攻めてくること。「けんどちょうらい」とも読む。「捲土」は土煙をあげるほどの激しい勢い、ようすをいう。転じて「捲土重来を期す」などといって、一度失敗した者が猛烈な意気込みでふたたびやり直すことをいう。中国、唐の詩人杜牧(とぼく)が秦(しん)末の武将項羽の自害を悼んだ詩「烏江亭(うこうてい)に題するの詩」に、「勝敗は兵家期すべからず、羞(しゅう)を包み恥を忍ぶ是(これ)男児、江東の子弟才俊多し、捲土重来未(いま)だ知るべからず」とある。

                            2010年11月30日(火)「阿智胡地亭の非日乗」掲載

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神戸・新開地の「春陽軒の豚饅頭」はやはり別格に旨い。      10年ひと昔 10年前の今日 2014年2月14日掲載

2024年02月14日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

前回好評だったので2人前10個入りを買った。どういう訳か神戸では餃子も味噌だれが主流だが、[春陽軒]の豚まんにもピリ辛味噌とウースターソースがついている。

豚まんの下に竹皮を敷くのは、大量生産のための日本だけの邪道という信念で饅頭の尻には竹皮はない。

小ぶりな饅頭だが、具の肉も皮も密度が濃くて独特の旨さを維持している。

おそらく映画評論家の故淀川長治さんも、帰神した時には、実家に近い春陽軒の豚まんは食べたことがあると思う。

この写真はネットから借用。

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神戸湾も大阪市街地も見えた。  東神戸の高台から          15年前の今日 2009年2月9日掲載

2024年02月09日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

一万歩歩く行動範囲つまり片道5000歩の範囲といえば、東西南北の各地域に結構知らない場所や景観があります。これは住吉川の上流にある渦が森団地からの景観です。
遠くに見えるのは大阪の向うの生駒山系だと思います。


こちらの方向は堺や岸和田。


遠く真正面に見える高いビルは大阪府の橋下知事が府庁移転を目論んでいる「大阪ワールドトレードセンタービルディング(=WTC)」」かも。

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灘五郷各蔵元参加による特別試飲会に参加しました。        10年ひと昔 2014年2月8日掲載      

2024年02月08日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

阪神電鉄・御影駅前の御影クラッセで今年も恒例の灘の酒の試飲会がありました。


月曜会の三人で飲んでいたら隣のテーブルに姿勢のいい女性が一人で参加していたので、声をかけて一緒に飲みました。
 この催しをなんで知ったのかですかと聞くと「たまたま通りかかったら面白そうなので入ってみました!」と。

彼女と3人で交わした会話を要約すると、


「私は今は神奈川県の厚木で暮らしていますが、以前神戸大学の海洋科学部に留学していて深江で一年間学生寮に入っていました。

今回会社の出張で神戸に来ることになったので、当時の仲間に連絡して、7時から深江の焼肉店で食事会があります。さっきまで「酒心館」に行っていました

実家は台湾の高雄ですが、大学は基隆の基隆海洋大学に学び、交換留学生制度を活用して神戸大学に来ました。日本に来て6年になり結婚して4歳の子供がいます。

台湾でも日本酒を造っているところがあります。日本酒はおいしいですね」。

 我々も彼女とのチャッティングが楽しかったし、彼女も白髪頭3人男とのお喋りが面白かったようです。 

いつもそうですが 知らない人にも 声をかけてみると、時には面白い出会いがあるもんですね。




灘五郷・灘の酒の歴史探訪
日  時 2014年2月6日(木)・7日(金)
PM5:00~8:30
※2月6日(木)PM5:00オープニングセレモニーのため
PM5:20より開場 (チケット受付はPM8:00まで)
会  場 〒658-0054 神戸市東灘区御影中町3-2-1
御影クラッセ1階広場
(阪神電車御影駅北側)
 お子様連れのご入場はお断りいたします。

内容

●オープニングセレモニー 

 ◆6日(木) PM5:00より鏡開き。
  (先着100名様に樽酒プレゼント)

●灘五郷各蔵元参加による特別試飲会〈有料〉

 ◆1セット500円(灘の酒3種類とおつまみ)

●灘五郷・灘の酒のパネル展並びに各酒蔵紹介及び酒蔵めぐり案内
主催  灘五郷酒造組合
共催 御影地区まちづくり協議会
後援  兵庫県神戸県民局・神戸市・西宮市
お問い合わせ先 灘五郷酒造組合 078-841-1101

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絵を見るたびにいつも家でもジャムセッシヨン   栗田格さんとムムリクさん   13年前の今日  2011年2月7日掲載

2024年02月07日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

栗田格さんとムムリクさんの多くのコラボ作品のうち、日本外国特派員クラブで一番先に体の中に飛び込んできた「Session」の購入手配をお願いしていました。

 丁寧な梱包を開けて作品が現れた瞬間、特派員クラブ(FCCJ)で流れたジャムセッシヨンが家でも聞こえました。

 一枚の絵のチカラ・・家のみんなが笑顔でリズムをとりはじめました。

      

この作品は多くの人に望まれたそうで、各地の多様な場所に飾られてスイングするようです。

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神田から有楽町まで銀座を通ってウォーキング       10年前の今日 2014年2月5日のブログに掲載

2024年02月05日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

前夜24時過ぎにチエックインした両国のホテルから、国技館とスカイツリーと両国駅のホームが見えました。

両国駅東口横綱横丁にある立食蕎麦の「文殊」でいつもの春菊ソバを朝食にして神田駅に向かいました。

夜の飲み会は神田の中華料理店「東園」なので、神田駅のコインロッカーにバッグを入れて、午後一時からの別の
飲み会がある有楽町まで、時間があったので歩くことにしました。
 「東園」の前を通りぶらぶらスタートです。

三越日本橋店の前。



 大阪の高島屋さんには配送センターの設備商談で通い、いい思い出が残っています。



丸善はいまやジュンク堂と同じグループになりました。この店にあるレストランでは丸善の創立者、早矢仕有的が
考案したと言うハヤシライスが今も人気メニューでたまに寄りますが、今回はパスしました。

ブリジストン美術館の横を通り、

和光の前を通り過ぎ、

有楽町に到着しました。

飲み会の会場はニュートーキョービルの2階にある「さがみ」です。

定刻の一時前に着くと幹事をやってくれる田淵君が部屋に先行していました。

この日集まった5人は51年前に神戸のキャンパスで初めて出会って4年間を共に過ごした面々です。

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今日は節分の日    「ごもっとも ごもっとも」   我が家の節分の日の習慣

2024年02月03日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

今年も節分の日に焼いたイワシを食べたあと豆まきをした。家中の窓という窓を順番に開けて、トイレや風呂の窓も忘れずに、

大声で「鬼は外  福は内、ごもっとも、ごもっとも」と言ってまわる。

     子供の頃、この「ごもっとも、ごもっとも」と言うのが何とも気恥ずかしかった。

親の勤務地に付いてまわって転校した九州若松でも、尼崎市の塚口でも、三重県の四日市でもクラスの誰に聞いても、家ではそんなこと言わないという。

酒の入った父親が「鬼は外、福は内」と大声で叫ぶと、それに続けて家族が「ごもっとも、ごもっとも」と大声で囃やさないといけないのだが、

友達や近所の人に聞こえないように、つい小さな声で「ごもっとも、ごもっとも」と言ってしまう。

そんな時、父は後ろを振り向いて「声が小さい、鬼が家に入ってきたらどうする」と怒るので、もうやけくそで兄弟揃って父の後について

「ごもっとも、ごもっとも」と大声を張り上げたものだ。

       そして今、自分が家族を持って、同じ事をしている。千葉県南柏や茨城県藤代町に住んでいた時も、そしてもう十数年住む神戸でも、

恥ずかしがり嫌がる娘達を幼稚園の頃から、叱咤激励、時には脅して「ごもっとも~」をやってきた。

もし「ごもっとも」を言わなかったらうちの家は、この一年大変なことになると言って。

そのお陰か、我が家では節分の日の定番としてしっかり定着し、私が3年強広島で単身赴任して不在の日にも、節分には二十歳過ぎの娘達が

「ごもっとも」をやってくれていたそうだ。(ほんまかいなと多少は思うけど)

     今年の豆まきは、家族の中でも「ごもっとも」発声に一番抵抗してきたヨメさんと二人でしたが、驚いたことには二人では張り合いがないから、

今年はやめとこかと言う私に「今まで続けてきたのに何を言ってるの」と率先して彼女が大声を張り上げた。

 震災の年だけはそれどころではなかったけれど、考えたら結婚して二十八年、我が家では出張や単身赴任で抜けた私の回数より彼女の「ごもっとも」の

発声回数の方が多いんやと思い当たった。今年はいつもよりキレイにハモッて「鬼は外、福は内、ごもっとも、ごもっとも」と言えたような気がする。

       亡父にも故郷の従兄弟たちにも聞いたことはないが、おそらく父が生まれ育った信州の諏訪湖畔、小和田地区では江戸時代以前の昔から、

こういう風に言っていたのではないかと思う。

    先祖は太閤秀吉の配下の武将日根野氏が諏訪の高島城を築城する時に、湖中に在った高島と言う島から立ち退きを命じられ、

近くの小和田と言う在所に集団移転させられた連中のうちの一族だと言っていたから、諏訪の地にもともと古くから住みついていた住民だと思う。

 今年も遠い諏訪のあの地区で「ごもっとも、ごもっとも」が飛び交ったか、あるいは本家のイギリスでは

とっくに廃れた習慣がアメリカで残っているのと同じように、諏訪ではもう廃れたかも知れないが、今年も神戸市の一軒の家から、

老年に差しかかってはいるが声は若い「ごもっとも、ごもっとも」の斉唱が、神戸の夜空に吸い込まれていきました。

 ☆このエッセイは2002年2月の神戸新聞文芸欄「エッセイ・ノンフィクション部門」に、小和田 満 の筆名で投稿し幸い入選、同年5月27日の同紙上に掲載されたものです。

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ごもっとも・・・その後 ’02/09/23

節分が一年に一度の行事であることから、法事でしか顔を会わさくなって久しい従兄姉たちと、法事の席で節分をどうしているかなんて話題にすることは、

当然これまで一度もありませんでした。

今回、神戸新聞の文芸欄に掲載されたエッセイの掲載新聞コピーを父方、母方の親戚に送った事から「ごもっともの真実」が明らかになってきました。

一番上の伯父の上諏訪在住次男家 ;本人は大きな声で毎年やって家族の顰蹙をかっている。

二番目の伯父の東京在住長男家;もう50数年東京に住んでいるが、毎年欠かさず家族と 共にごもっともをやってきた。

ただ子供が独立し、ほそぼそにはなってきた。

四番目の叔父の東京在住の長男家;叔父が大声で欠かさず鬼は外~を毎年やっていたがごもっともは言っていなかった。自分もやってない。

明治41年生まれの伯母が95歳でなくなり、9月の始めに、その葬儀にひさしぶりに上諏訪へ行きました。

小和田地区の住民が多い菩提寺、教念寺での葬儀の後、父方の従兄の中では最年長の喪主の家に寄りました。

東京在住50年を越え、勤務先を70歳で最近リタイアーしてそろそろ東京から引き上げるかもしれない従兄(喪主)の実家には沢山の書物があります。

従兄が本を出してくれました。それを借りてきました。そこからそのまま抜書きします。

   「諏訪の年中行事」 全161頁 昭和24年2月20日発行

著者 諏訪教育会 発行所 蓼科書房

正月行事 の63頁 2月節分の項目

(豆撒き)
○「豆撒き」は「鬼打ち豆」ともいって、炒り上げた豆を必ず一生桝に入れて、熱いうちに年男か男の子供が大声に「鬼は外、福はうち」と唱えながら、

上座敷から順次家中を撒きあるく。

○撒く時の様子は家によって多少の違いがある。「鬼は外」は外に向かって大声に、「福は内」は内に向かって小声にいう家、

「鬼は外、福は内、鬼の目へビチャリン(ブッツブセ)(パチリン)」と唱えて家の内外へ撒いてから少しずつ天井に投げつける家、

仮想行列をして下男迄がつきあるいて賑やかにやる家、又、一人が豆撒きをする後へ、一人が擂粉木を持ってつき歩き、

てくんてくんと上下に動かしながら「ごもっともごもっとも」と受答えて騒ぐ家などがある。

(母の里は諏訪市の隣の現在の茅野市(の中でも八ヶ岳のなだらかな麓のかなり上の方の地区)ですが、相方によると母が南柏や藤代の家に節分の頃に来たときは、
一緒に豆撒きをして、「鬼は外、福は内、鬼の目を ブッツブセ」と言って豆を撒いて、嫁と孫を喜ばしてくれたと今回思い出して教えてくれた。
「家によって多少の違いがある」という通りですね。
残念ながら、辛好は出張で不在か、東京にいてもその時間には麻雀か酒で家には帰らなかったのでそのことを知らなかった。)

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日本各地にあったごもっとも ’03/02/09

今年も節分の日は、例年のように「鬼は外、福は内、ごもっともごもっとも」と声を上げながら
家中の窓を一つずつ開けて豆を撒きました。
 
 節分の直前にふと思い立って、ヤフーで「ごもっともごもっとも、節分」を入力してサーチしてみました。
驚いた事には沢山の「ごもっとも」に触れたサイトが検索先に出てきました。

京都の吉田神社の氏子地区、宮城県、埼玉県秩父の三峰神社の行事(高橋さんに教えて頂いた)
長野県の鬼無里などなどです。興味のある方は添付ファイルにその一部をコピーしましたのでご覧ください。

それらによると、どうもこの習慣は、元々は中国から入った貴族階級の行事が、日本古来の晦日
(節を分ける日)の五穀豊穣の祈りなどと結びついて京の都から各地に広がり、一般民衆の年中
行事の一つとして長く伝えられてきたもののようです。

諏訪湖の御神渡の記録を天和3年(1683)以降、続けている八剣神社を氏神さんとする
小和田地区に住んできたご先祖さんたちが何百年も続けてきたこの節分の行事を、もう父親の代にそこを離れて
しまったけれど、ルーツを忘れないためにも、うちの子供達も是非続けて欲しいと思って
います。

1)福豆頂き福引も 1年の厄払い開運願う節分  読売新聞サイトから

鬼の面をつけたスタッフから福引を引いて「節分」を楽しむ参加者
 一年の厄を払い、開運を願う節分。参加者は吉田神社(左京区)の福豆を一袋ずつ頂き、福引を引いた。

賞品は、タンスに入れると「きれいになって衣装が増える」とされる須賀神社(同区)の懸想文や、吉田神社の鬼面など。

 小島さん方は節分の日、出入り口で豆まきをしてから自分の年齢の数だけ豆を食べて、さらに同じ数の豆とさい銭を和紙にくるみ、
同神社などに納める。当主が豆まきする間、別の家族が後ろについて「ごもっとも、ごもっとも」と言いながらうちわで
あおぐ風習もあるとか。

2)http://allabout.co.jp/travel/travelshinshu/closeup/CU20020101B/index_00f.htm

立春の前の日を節分と云います。古くは、季節の変わり目、立春・立夏・立秋・立冬の前に行事が行われていたようですが、
立春の前だけ残ったのは、冬から春への変わり目が、大事な折り目だからでは無いでしょうか、

節分には、豆をまいて鬼を払う行事が行われます。神社やお寺では、有名人を招いたりして華やかに行われますが、
民間でも根強く残っています。「福は内・鬼は外」と三回ずつ唱えながら豆をまき、その後からすりこぎを持って
「ごもっとも・ごもっとも」と云って歩いた習慣が、つい最近まで残っていましたが

3) http://hb6.seikyou.ne.jp/home/mari-neko/2001.2.htm

節分・・・各地いろいろの風習があると思います。豆まきの掛け声にしても、「鬼は外福はうち」と、いうのは、一般的ですよね。
「鬼は内、福も内」と、言う掛け声も聞くといいます。宮城の一部の地域では、「鬼は外福は内」といいながら豆をまく人の後ろから、
「ごもっとも、ごもっとも」と、いいながら、うちわで扇ぎながら歩くところがあります。うちわで、鬼を、追い払うのでしょう。
まだまだ寒い(今日は、吹雪だっ!!)とはいえ、もうすぐ春がやってくる・・・そんな季節の分岐点です

4)http://www.city.chichibu.saitama.jp/saiji2.htm

豆まきの行事そのものは里の節分祭と同じだが、年男が三方にのせた福枡の豆を
「福は内、鬼は外」と唱えると、
後に控えた所役が大声で「ごもっともさま」と唱和しながら、大きな棒を突き出す。

この棒は、長さ3尺位の野球のバットのようなもので先に〆縄を巻き、
根元にミカン2個を麻縄でくくりつけた男根を象徴化したものである。

突き出すときに「ごもっともさま」と唱えることから、
このような呼び名がついたとおもわれる(午前11時・正午・午後2時・午後4時)。

5)http://www.vill.kinasa.nagano.jp/nenchu/

節分
 2月3日は節分、4日は立春で、暦の上では春がきたことになりますが、鬼無里はまだ深い雪の中です。冬ごもりしながら、
農家は麻糸作りに精を出す時期でもありました。
【年取り】節目の日であるが、仕事は休まず、早めに切り上げました。お神酒、頭つきの魚と白いご飯神棚(恵比寿棚)に供えます。
家内安全と健康を祈願しました。豆まきの前に夕飯を食べ年取りをします。
【豆まき】大豆をホウロクで炒って、豆まきをします。年男、若い男または家の主が、
一升マスに入れて家の中の各部屋を「鬼は外、福は内」と大きな声で繰り返しながら、まいて歩きます。
その後ろを、男の子などがスリコギを肩に担いでついて歩き、「ごもっとも、ごもっとも」と唱和することもあった。
この豆を自分の年の数だけ食べると災難を逃れるといって皆で食べます。

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◎2016年 NHKで京都の俵屋旅館の特集番組がありました。元勤務先時代からの友人の高橋さんが「ごもっともごもっとも」を
俵屋でやっていたのでとその番組を録画したDVDを送って頂きました。
なるほどこの風習は京の都から信州諏訪へ伝わった習慣のようです。高橋さんありがとうございました。

⇒実際に俵屋で節分を体験した方のサイトから。⇒こちら

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神戸で「かぎろい」、刻々色づく夜明け。       10年前の今日 2014年1月30日に本ブログに掲載

2024年01月30日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ



神戸新聞一月28日夕刊から動画とも引用。

  未明の空七変化 神戸に「かぎろい」

冬の朝早く、神戸市内で東の空がオレンジ色から青、紫へと段階的に変わる「かぎろい」が見られた。空気が澄んだ気温の低い夜明け前に起きる現象で

万葉歌人柿本人麻呂が詠んだ歌にも登場する。引用ここまで。

 ひむがしの野にかぎろひの立つ見えて かへりみすれば月かたぶきぬ

この歌は西暦692年の太陰暦11月17日に、当時から阿騎野(あきの)と呼ばれていた奈良県東部、現在の奈良県宇陀市大宇陀(旧大宇陀町)で詠まれたとされている

人麻呂の歌には、逝ける皇女らに捧げる挽歌など宮廷に関わりのあるものが多く、彼は初の職業的宮廷歌人であったとされてる。

この歌もその例に漏れず朝廷に関係があり、当時まだ9歳の軽皇子(後の文武天皇)の狩に随行したときに詠まれた。



「安騎野の朝」  中山正實画伯  大宇陀町中央公民館で展示
 

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阪神淡路大震災の後、犬の里親探しボランティア団体から来たパティ        16年前の今日 2008年1月17日の本ブログに掲載   

2024年01月17日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

震災はその土地に住む人間にだけでなく、犬にも猫にもほかの全ての生き物の生活を変えます。

阪神淡路大震災の翌年5月に新聞にボランティア団体が解散するという記事が出ました。飼主が避難するときに手離さざるをえなかったり、飼主が亡くなったりした犬を引取り、

新しい飼主を見つける活動をしていた団体でした。震災後15ヶ月が経過し、ほぼ目途がついたので活動を終了するけどまだ何頭か残っているので

飼主が現われて欲しいという記事でした。活動している場所がたまたま歩いていける範囲だったので相方が訪ねました。

会社に行く前に今日、犬を見てくると彼女から聞いていましたが、家に帰るとボサボサの毛の痩せこけた茶色のかなり大きな犬がいました。

話を聞くと、本部を訪ねたらその犬を一時預ってくれているお宅へ連れて行かれたそうです。その家では犬がドッグフードを食べないので持て余していて、

もう返すからと言われて本部も困っていた犬だったそうです。

相方が犬を見るとその犬がすがるようにじっと見つめ返したそうです。

その瞬間、相方はこの犬連れて帰りますと言っていました。しかしウチには既に犬が一匹いると聞いた団体の責任者が、相性を試してからにしましょうと言いました。

大喧嘩をして全く合わないケースもあると。

 預っていた家の奥さんの運転で家まできた犬が車から降りて、前からいるタローが近づいてくるのを責任者や奥さんや相方は息を潜めて見守りました。

タローはじっと身じろぎもせずお座りしている犬の全身をぐるっと廻って時間をかけて匂いをかいだあと、吠えもせず静かに座りました。

そのときみんなほっと安堵の息をついたそうです。相方はタローのチエックにじっと耐えている新参の犬がいじらしかったそうです。

奥さんはこれ結局食べてくれなかったんですよと言いながら、車に積んできたドッグフードの袋を犬と共に残してそそくさと帰って行きました。

  責任者の話によると、この犬は阪神電車の青木駅の改札のところに何日もうずくまって、どこにも行こうとしないので困った駅員さんから電話があって引取ったのだそうです。

元の飼主が青木駅からどこか別の避難先へ移って、移動先ではもう犬は飼えない事情でもあったのか?いずれにせよこの駅でこの犬は飼主が戻るのをずっと待っていたのでしょう。

当時学校から帰った長女が(いまでも時々笑いながら話しますが)、家に帰ったら見知らぬ薄汚れた大きな犬がいてエッと思ったら、

その犬が何ともやさしげな目でじ~っと娘を見つめたのだそうです。そのごあんなに優しい目は見たことないのにと言います。

犬もそのとき家のメンバーから認めてもらおうと必死だったんだねと言います。

 飼ってからわかりましたが、なるほどドッグフードを食べません。皆で想像したのですが、家の中でお年寄りの飼主が食べる食事と同じものを貰っていたのではと。

犬だから食器に入れておいたらハラが減ったらかならず食べるよと私は言いましたが、口の中に押し込んでも食べようともせず、

ドッグフードがそのまま口の中でふやけてしまうくらい頑固でした。

 長い間ろくなものを食べていないらしく、骨はスカスカ、毛は硬くてバサバサで身体はタローより大きいのに抱くと半分ほどしか体重がありません。

病気になっては困るのでご飯をやるとしぶしぶ食べるのですが、シーチキンなど魚関連をかけると口をつけず、ウインナとか洋風の味の濃いものを喜びます。

これも想像ですが、避難所などに配られる洋風弁当を食べてきたような感じです。しかしそんなエサを続ける訳にはいかないのである時から、

「ウチにいる積りだったら先輩のタローが食べているのと同じのを食べないとだめなのよ」と、相方が根気つよくパテイと名づけた犬に言い聞かせながらエサをやりました。

ちゃんとお座りも出来ないほど骨が弱っていたので、今思えば最初噛む力も弱かったのかも知れません。

毛の艶も出てきた頃にようやくドッグフードをメインにして食べるようになり、家族全員が安堵しました。

  茨城県藤代町生まれの11歳のタローは随分年下ではあるけど、生まれて初めてガールフレンド(獣医さんの推定ではパティは2歳)が出来て、

弱り気味だった身体に元気を取り戻しました。タローはパテイをよく可愛がりました。そしてパテイはタローのことが大好きでした。

うちに来てから12年、14歳になったパティは1998年の12月のタローの死後、1999年に後輩に迎えたムーと共に元気に暮らしています。

別れ

 

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12月8日 真珠湾を忘れるな        2010年12月09日(木)八軒家南斉さんの今日のブログから

2023年12月09日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ
2010年12月09日(木)八軒家南斉さんの今日のブログから

12月8日 真珠湾を忘れるな

クイズだ。さて、きょうは、何の日か。
ほとんどの日本人が忘れているが、太平洋戦争が勃発した日だ。
69年前の十二月八日未明、日本海軍はハワイの真珠湾に停泊中のアメリカ艦隊を急襲した。
朝刊では、朝日新聞の「天声人語」が、わずかにふれているだけだ。いま、ふたたび勇ましい言説が飛び交っているのを、コラムでは憂えている。
ジョンレノンの誕生日よりも、日本人としては、忘れていけない日であろう。決して愉快な記念日ではないが。

奇襲により大損害を被ったアメリカは、この日を「屈辱の日」とし、「リメンバー・パールハーバー」をスローガンに第二次世界大戦に参戦したのだ。
今も各地でラッパが吹奏され、5000人の犠牲者の追悼がおこなわれている。69年前のきょうを、決して忘れることはない。
大勝利と戦果に日本中が沸いた真珠湾から広島、長崎に至る44ヶ月で、戦いの決着がついた。
無謀な戦争の損害は、図りしれない。たった4年間で、日本人だけでも、300余万人の人命と海外資産をことごとく失った。
太平洋全域に戦線が拡大し、日本軍兵士の戦没者270万人、うち70%は補給を断たれたあげくの餓死といわれる。

これほどの犠牲を出しては、大義も正義もただむなしい限り、日本の大悲劇であった。
誰が計算しても太刀打ちできない戦力の差を無視して、不毛な戦いの火蓋を切ったのは信じられない。
精神力で勝てると信じた当時の為政者たちが、時代の空気でそう考え、時の流れに押し流された。
いったい、だれが国益に思いをいたしたのか。だれがリスクを計算したのか。
「坂の上の雲」の日露戦争当時の閣僚、伊藤博文たちのように、腰抜け、軟弱といわれようが、高所からリスクを計算し落としどころを探す。

努力は報われず、民意の猛烈な反発は必至であっても、戦争指導者の責任とはそういうものだろう。
昭和16年当時、大詔による戦いの大義も、当初は、東洋平和から、最後の本土決戦の段階では、一億玉砕して「国体護持」のスローガンに収れんした。

国体を守って死ぬ。竹やりが武器だと、大新聞も叫んだ。
当時の為政者、とくに戦争指導者はなにを判断材料に、国民を破滅に追いやったのか、さまざまの研究を通じて、あきらかになりつつある。
69年前、「大日本帝国」は、なぜ真珠湾攻撃という大きな賭けに打ってでざるを得なかったのか?
尖閣列島事件で、中国が、レアメタルの禁輸を報復措置としてちらつかせると、急所をつかれた日本政府はあわてふためいた。
日本のような島国は、戦略物資(食料もふくめて)を禁輸されると、危機感で逆上する。
もともと日本の石油自給率はゼロにひとしい。石油がなければ、軍艦も動かせず航空機も飛ばせない。死んだ連合艦隊である。
昭和16年当時、アメリカから石油の輸出を絶たれそうになると、日本は、当時のオランダ領のインドネシアの石油へ目を向けて、仏印に軍隊を進駐させたのが、悲劇の引き金になった。
この進駐に、意外にもアメリカが抗議して石油の禁輸に踏み切ったとたん、昭和16年初頭から、海軍軍令部の若手参謀たちのかねて立案した開戦へのシナリオにスイッチがはいり、

自動的に動き始めた。
巨大な荷物用エスカレーターのような膨大な兵力物資の動員は、動き始めると後戻りできない。

ワシントンでの外交で時間をかせぎながらの戦争準備、それも成算のない作戦が進んでいった。なぜ、とめられなかったか。
結果的に300万人の人命を失い海外資産をすべて失う国益のとりかえしのつかない損失に誰も責任をとろうとしない日本独特の立て割り組織の欠陥だったろう。

これは、戦後もたれた海軍軍令部のエリート責任者たちの「海軍反省会」の録音でもあきらかである。
このまま座して死を待つよりは、という死中に活を見出すという哲学は、外交無視につながる。リスクに目をつぶる思考停止である。今の経営者には考えられないシミュレーションだ。
開戦反対派でアメリカ通だった山本五十六連合艦隊司令長官は、半年ならば暴れて見せましょうと述べたと伝えられている。

はたせるかな、パールハーバー直後のミッドウエー開戦でたちまち連合艦隊は壊滅した。
日本人独特の精神論は、しばしば合理的でないことが多い。頭脳に優れていても視野の狭い軍人が、武力という権力を握った際には。
国を憂えるとして、現場の中堅将校が暴走したケースは、満州事変以後跡を立たない。日本の歴史だけでなく、世界どこの国でも、武力を文民がコントロールするのは困難だ。

昭和天皇の回顧録でも、開戦時も終戦時も、軍部のクーデターを恐れていたことがわかる。
食料自給率。そんなことは、かまわずに、日本は、戦争を始めた。
軍隊は、米と飯ごうを背負って、戦地を転戦する。戦域が広がると補給作戦は無視され、食料の現地調達が命令された。

住民のなけなしの食料の略奪につながり、情け深い天皇の軍隊のはずの「皇軍」は住民の怨嗟のまととなった。

補給戦略なく各地で孤立した日本軍は、銃弾が尽き戦って倒れる兵士よりも、戦地で飢えて死ぬ兵士が70% と総括されている。

いたましいかぎりだ。NHKの「戦争証言 」アーカイブが、生存者の肉声で、くわしく証言している。
あの頃、少年のぼくらは、毎日ほんとに空腹だった。
銃後の日本は、食糧配給も破綻し飢餓状態におちいり、家々でかぼちゃなどを植えて飢えをしのごうとしたが、空腹は満たせない。
戦後も、都市住民は、近郷の農家に頭を下げ、着物などと物々交換で、米や芋など 分けてもらおうと右往左往した。
食料余剰国のアメリカは、チャンスとばかり、占領直後から、戦略的に、小麦や脱脂粉乳を日本の学校給食などに制度として導入した。

戦時需要が消失したので渡りに船というわけだ。いまでいう「職育」マーケッティングで日本中にキッチンカーを走らせパンづくりを教えた。

いまだに学校給食に米食は根付いていない。戦後、日本人が米を食べなくなったのは、ここに始まる。以後の米価低迷もしかりだ。
世界と貿易するにあたり、自国の農業をどう位置づけるかに各国が悩んでいる。
しかし、世界をおおう市場原理には、さからえないと肝に銘ずべきである。開かれた島国状態で、食料自給率をあげるには、無理がある。

資源のない島国が関税の自由化の原則撤廃、非関税障壁に抵抗したら、どうなるか?

農業従事者が食えないし、 かれらは、ときには、国益に反して、土地の有効利用を妨げる既得権者の立場でもある。
第一に、農地は、土地という資産である。いまや、換金可能となった。作物を植える義務はないにひとしい。農地改革を経て既得権益となった。

大規模経営で効率をよくしようとするビジネスモデルは農家にはなじまないだろう。公共事業とは、土地を買い取らせるチャンスにほかならない。

その権益をめぐって、選挙の一票が動く。
第二に、米を主製品とする農業が、職業として、後継に値しない、ペイしないとみる若い人が増えて頼れない時代になった。

農業従事者は,年老い、人口が年々減って回復する見込みはない。
炭鉱労働や介護労働と同じく、若い層が家族を養いこどもに教育を与える十分な収入が保証されていないことに気付いたのだ。

もはや蒸気機関車が走れないように産業革命が起きた。米を中心とした農業は、まもなく耕作者がいなくなり、炭鉱と同じように衰退する。麦作がそうだった。そばもそうだ。
市場原理には、逆らえない。
農業をやる気のない農家の耕作放棄地に、都市に住む住民の税金で補てんするのは、無理がある。農家の人々は、農協か役所か工場に勤めて収入を得る。
困ったことになっている。選挙で勝つことが、はたして国益にかなうことになるのか。地方に有利な定数配分も問題だ。農地問題には新聞も歯切れが悪い。
いまの政府は、小選挙区の眼先の一票がほしくて、これからの国益
2眼をそむけてしまいそうだ。全有権者のうちの2.5%の票に、日本の将来がふりまわされている。

それを、てこに、政権を揺さぶろうとする「旧自民党的勢力」が与党にどっかり座っている。
GDPに占める第一次産業は、わずか1.5%だ。農業人口は260万人、全有権者の2.5%に過ぎない。
日経新聞によれば、外国の政府関係者が不思議がっているという。
「農家の反対が、本当に日本の政策を左右しているのか?」と。
島国は、戦略的互恵つながりでしか生き延びられないと腹をくくるべきだろう。国策として、生き残るには、何を売り、何を買うか。
つぎに、万一、戦略的禁輸を食らった時のリスク管理をどうするか。歴史をふりかえり、太平洋戦争の甚大な損害に学ばねばなるまい。
資源に乏しい戦前の日本は、農地をもとめて、満州に進出した。王道楽土と、きれいごとの大義をふりかざしたが、農地を取り上げられ匪賊化した現地の農民と衝突した。


石油を求めて、南方に進出をはかったが、たちまちアメリカなどの反枢軸国に阻止された。石油の禁輸解除には、日本軍の中国からの撤退が条件だった。

ハル通告には、ならぬ堪忍、するが堪忍だったろう。だが、これまで10万の兵士の血を流した陸軍はそれは飲めないと蹴った。
それが、300万人の命を奪った開戦の直接の引き金になった。
島国の日本は、こんご、かりにどんなに追いつめられても妥協点を探し知恵をしぼって、資源を、継続的に、信頼できる相手国から入手できる道をさがすべきだ。

69年前の無分別な方針により、300万人の犠牲を払って得た貴重な教訓だ。
相手の善意に期待しすぎてもいけないし、もう武力の脅しでは解決できない。あくまで互恵のつながりでないと、いい関係が持続できない。

たとえば、アフリカに対する中国や韓国の果敢な資源獲得戦略を手をつかねてぽかんとみていてはいけない。
投稿者 nansai : 2010年12月09日 15:20
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札幌の秋の野山はパステルカラーのキャンバスだ!  札幌錦秋便り 第四報      10年前の今日 2013年10月31日の本ブログに掲載       

2023年10月31日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

船橋社中札幌支社のAKOさん、CKKさんから新しい錦秋の画像が届きました。
今回もアルバムで画面を拡大して大画面で見てください。札幌の秋を満喫できます。
画像左下の△アイコンをクリックするとスライドショーがスタート。

拡大は右下のマークをクリック。

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阿蘇九重の秋を行く          13年前の今日 2010年10月27日の本ブログに掲載

2023年10月27日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

10時50分に博多駅中央案内カウンターに7人集合。佐賀県小城市、熊本県人吉市からそれぞれ一人。

5名は大阪、西宮、神戸から参加。博多駅でレンタカーを借り、大分道九重を出て、飯田高原と周辺を観光後、久住の牧ノ戸峠を経て阿蘇へ、

南阿蘇へ周り『休暇村南阿蘇』に宿泊、翌日、一組はゴルフ、一組は観光。その日は筋湯温泉の『秀月』泊、翌日阿蘇くじゅう国立公園他の観光後、博多駅で解散しました。

デジタルカメラの動画なのでやや粗いですが、大観峰から見下ろすカルデラの市町村、中岳の噴火口、阿蘇の草原です。
『201020~23阿蘇九重の秋』

観光組はまずレンタカーで宮崎県西臼杵郡高千穂町にある高千穂神社に向かいました。

高千穂町は宮崎県の最北部に位置し、大分県と熊本県に接しています。こじんまりした境内には、源頼朝の命を受けて家臣の畠山重忠が、

秩父から当地まで来て植えたという樹齢800年の大杉の他、立派な大木がありました。

いつもながら大きな樹の傍によると何となく気持ちがシンとします。

太古からの地元の氏族神を祀ったらしいこの小さな神社も、明治政府の国家神道政策のお陰で神話の世界へ編入されたようです。

地元の人に尊ばれてこの木々のある空間が保全されてきたことに感謝し、お賽銭を上げ、二礼二拍一礼で拍手を打ちました。


高千穂神社










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