阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

その運転手さんはタクシー乗車勤務の最終日だった。

2023年01月31日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ
2010年10月13日(水)「阿智胡地亭の非日乗」掲載

♪こんな話を読みました。

育児をしながら働く女性社員Bさんは、ある日、子供を保育園に連れていくのに、タクシーを利用した。

タクシーに乗車すると、「前にお送りした保育園でよろしいでしょうか」と運転手さんが尋ねてきた。


 Bさんは、その運転手さんに覚えがなかったので、「前に乗せていただいたことがありましたか」と尋ねた。

「はい」と運転手さん。

「どうして私のこと覚えていてくれたのですか?」とBさんは尋ねた。

 すると運転手さんは、「お客さん、前に乗られたとき、降りる際に私に『ありがとうございました』って言ってくれたんですよ。それで覚えてまして」

 普段から「ありがとう」という言葉を使うようにしているBさんは、当たり前のことをしただけで、それがなぜそれほど記憶に残るのかわからなかったそうだ。

「いやあ、お金を払っていただくお客様の方から『ありがとう』なんて言われることは、まずなくて。それでこちらは、とても嬉しい気持ちになったんですよ」と運転手さん。

 そんなものなんだ、と思って会話を続けていると、運転手さんから思わぬ言葉が口をついて出てきた。

「実は、今日は私の退職日なのです。実車はこれが最後になります。普段は汐留近辺を走っているのですが、最終日だったので、またあのときのお客さんに会いたいなあ、

と思ってこちらに走ってきたのです。もしかしたら、このへんを流していれば会えるかも。そんな偶然を期待して走っていたのです。

そうしたらお客さんが、あちらで手を振っているのを見かけまして。なんだか、嬉しくなってきちゃいまして。おかげさまで、最後にいい仕事ができました。ありがとうございます」

Bさんは、思わず号泣してしまったそうだ。

 保育園に到着すると、その運転手さんは無線に向かってこう告げた。「●●号車、○○。最終実車を完了しました」。

 そして車を降り立ったBさんに対して、車外に出た運転手さんは深々とお辞儀をしながら、最後にまたこう言った。

「本当にありがとうございました」

そう言い終えて顔をあげた運転手さんの顔は、笑顔でいっぱいだったそうだ。

全文はこちら

♪粘菌族になってから、朝ゴミだしの日にゴミを集積場まで持って行くと近所の方に出会う。お早うございますと挨拶する。ときどき挨拶が返ってこないときがある。

最初は挨拶を返してくれない人にむかついたが、考えてみたら相手の人は、見かけないおじさんから急に声をかけられたのでびっくりしたのかも知れない。

そう思ってから挨拶を続けるようにした。

そのうち殆どの人からお早うございますの声が返ってくるようになった。自分で挨拶しようとしたのに、相手の態度でその気持ちを変えるところだった。

あやうく、他人に自分の行動を決める権限を渡してしまうところだった。

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両国国技館は初場所興行だった。            10年前の今日 2013年1月31日の本ブログに掲載

2023年01月31日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

この日、友人とはJR御茶ノ水駅聖橋口11時の約束だったので、朝はゆっくりだった。宿を出ると数分の場所に両国国技館がある。

 両国は現役時代から時々出張時に宿泊した場所でもあり、最近もよく宿泊する場所なのであたりの場所勘がある。国技館の周りを散歩した。









2009年の秋場所を桟敷で観ました。

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01月30日に目に留まったSNS・メディアの記事

2023年01月31日 | SNS・既存メディアからの引用記事

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亀戸の蕎麦屋さん「愛知」のすき焼きうどんが旨い!

2023年01月30日 | 食べる飲む

図書館で借り出し期限がきた本の返却と予約本の引き取りを済ませた後、久しぶりに蕎麦屋の「愛知」に歩き出した。

 「愛知」は寿司の「銚子丸」やインドネパール料理の「フルバリ」より 家からはちょっと遠いが、つい最近 代が変わっても同じ味を守っている。

相方は初めての「すき焼きうどん」を頼んだ。直近の亀戸ガイドのネットサイトで「愛知」が取り上げられ、蕎麦だけでなく うどんもおいしいと褒められていたとか。

確かに評判どうりの味だったそうだ。

亀戸の蕎麦屋さん「愛知」のすき焼きうどんが旨い!

出汁が辛いかと思ったらそうではなくうどんもこしがあり 文句のないおいしさだったそうだ。

私は穴子天を頼んだ。

穴子の天ぷらもそばの旨さもボリュームも堪能した。

京葉道路沿いを歩いたがもう菜の花が盛りだった。

 

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船橋社中の新年会は4時間の大盛会      10年前の今日2013年1月30日の本ブログに掲載

2023年01月30日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

今年の船橋社中の新年会は男女3人づつの合計6人の参加者でした。よく喋り、よく飲み(但しほぼ二人が・・)、
よく食べてあっという間に4時間が過ぎていました。外国人記者クラブでは選ばれた10人の会員写真家の代表作が大きなディスプレイに
順次投影されていました。新年会メンバーの一人である写真家・栗田格さんの作品に皆でしばし見入りました。

メニューは定番料理と新参加のものがありますがいずれもgoodです。
 

 

 

 
 場所はもう恒例になった有楽町電気ビル北棟20Fにある外国人記者クラブのメインバーでした。


 

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【竹田昌弘氏と語る・黒川定年延長問題と検察幹部衝撃人事・山上徹也公判の展望・東電刑事控訴審判決】郷原信郎の「日本の権力を斬る!」#215

2023年01月30日 | SNS・既存メディアからの引用記事

【竹田昌弘氏と語る・黒川定年延長問題と検察幹部衝撃人事・山上徹也公判の展望・東電刑事控訴審判決】郷原信郎の「日本の権力を斬る!」#215

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同じ時代に息を吸っていた方々が亡くなっていくのは寂しい。

2023年01月30日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ
2010年10月12日(火)「阿智胡地亭の非日乗」掲載

小室直樹、小林桂樹、池内淳子 それぞれこれまで生きてきた年月の中で、こちら側から著書や映画、テレビでアクセスした人だ。

訃報を聞くとやはり寂しい。身内ではないが自分と同時代の空気を吸っていた人だから。

小室直樹さんは「日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか」、「数学嫌いな人のための数学 数学原論 」、「日本人のための経済原論 」などを買ったが、

ツンドクのままになっている。しかし、自分の頭で考え、個人の損得を一切考えない言動にひかれた。昭和7年生まれの知の巨人の死を悼みます。

  小室直樹さんと立川談志の対談は下のYouYubeでどうぞ。

小林桂樹さんは、クロサワの映画「椿三十郎」の「見張りの侍A(木村)役」が忘れられない。

森繁久弥の社長物映画には欠かせない俳優だったが、どんなコメディタッチの役柄でも、目は媚びてないので自分の中では別格の位置の人だった。

  椿三十郎の中の小林さんは下のYouTubeでどうぞ。

池内淳子さんは、長くテレビの夜8時台の連続ドラマの主役を張っていた。頭の回転が良くて、滑舌もいい。標準語ではないメリハリの利いた東京言葉が耳に心地よかった。

当時のドラマの脚本はそう意外性はなかったが、主役の俳優や脇を固めた俳優たちの演技で安心して見ることができた。

当時はスポンサーも一番組一社の時代でくどいCMもなかったし、放送局がCMタイムに音量を野放図に上げることもなかった。

考えたら、震災以後、めぼしい俳優がいないこともあるが、これは作り物だと思うしかないテレビドラマが多くなって テレビでドラマを殆ど見なくなってしまった。

談志と対談する小室直樹 椿三十郎に出演した小林桂樹など。
小室直樹と談志の対談



 

見張りの侍、木村を演じた小林桂樹。

社長漫遊記に出演の小林桂樹と池内淳子

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01月29日に目に留まったSNS・メディアの記事

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昭和50年代の海外あちこち記  その10 韓国篇         昭和53年 朴大統領が製鉄所の式典に出席した。

2023年01月29日 | 昭和50年代の海外あちこち記

1978年(昭和53年)11月、韓国の浦頂に出張しました。

韓国出張は浦頂製鉄所の竣工式セレモニーに出席の役員に随行など、2泊3日の出張を含めれば、10回以上の回数になります。

 随行の仕事は、どうしても新米の貿易部員にまわってきます。

役員のお供で浦頂製鉄所の操業が始まって間もない頃の何かの現地式典に行きました。この式典に故 朴正煕大統領が出席することになりました。

 其の日の数日前から浦頂の町は警備の人間の方が多いと思えるくらいの厳戒体制に入りました。

ソウルの青瓦台にある大統領府を北朝鮮の潜入ゲリラが襲ったりした頃で、北のテロ、破壊活動を警戒して市民の夜間外出禁止令が継続されていた時代です。

 軽機関銃を入れたような箱を抱えた目付きの鋭い人間や、戦闘服をきた警護隊員が威圧的に徘徊していましたが、

外国人は指示有るまでホテルから出るなと言われていたので、そうっと窓から見ただけで詳しいことはわかりませんでした。

浦頂の町は無論、製鉄所の構内すべてに空気が凍ったような緊張感がみなぎり、不審者は誰何(すいか)なしに射殺されると言われ、

気楽なお供の出張やと思ってやってきた是一個的能天気日本会社員のボクとしては大いに焦りました。

 巷の噂では空からヘリ、海からフリゲート艦、陸から装甲車の、どのルートで現地入りするかは当日の朝少数の人にだけ知らされるということで、

どのルートで来ても警護出来るように3倍の体制が敷かれているということでした。いつもは随行者も式場に入場の許可が出るのですが、

この時は役員だけの参加許可だったので後で伺うと、時間寸前に会場に大統領を乗せた武装ヘリが降り立った、とのことでした。

不謹慎ながらゴルゴサーテイーンの劇画の中に身を置いたような気がしました。

  当時のこの国営製鉄所の経営幹部は殆ど前身が韓国軍の将官、士官で固められており、厳しい規律で建設、運営がなされていました。

北に対して太陽政策が取られる時代が来るなど誰も想像もせず、朴大統領のカリスマ性のもとで、ひたすら強国化のための重工業インフラ整備に邁進していた時代です。

 その後、これらの建設で国家からバックアップされ資本を蓄積した現代など8大財閥の興隆時代があり、大発展時代あり
バブル没落がありと

隣国の変化も日本にまけず、大変なスピードで移り変わっています。

 韓国料理が大好きだからという訳だけではなく、この見た目は同じでも、ここまで違うかと言うこの隣国には(あのタフな連中と少しくお付き合いをしただけに)、

関心をずっと持ち続けています。ただ中国、台湾の町であれば看板を見れば何の店かわかるのに、韓国では看板は全てハングルですから、わからないのが困ります。

   ( 2000年 記)

 画像はネットから引用。

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駒込の「六義園」と両国駅周辺                   10年前の今日 2013年1月29日の本ブログに掲載  

2023年01月29日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

名前は知っていましたが、『六義園』が駒込にあることは知りませんでした。

 『六義園』は幕府時代は側用人・柳沢吉保の屋敷でしたが、明治初年の混乱期に、三菱グループの創始者である岩崎弥太郎が手に入れた12万坪の広大な土地の一部が、

現在『六義園』になっています(いるそうです)。

大きなしだれ桜の木がありました。この日は大雪のあとの整備とかで歩ける範囲が制限されていました。


明治維新により、前政権時代の高官の個人所有物を、新政府に出入りする元土佐藩諜報担当の下士だった商人が入手する。

いま、その土地に立つと、確かに明治維新と言われる幕府崩壊は、勝ち組の下級武士たちにとっては、下剋上のある種の階層革命だったと実感します。


 六義園を出ても新年会の時間まで余裕が出来たので、先に今夜の宿である両国のホテルにチエックインすることにしました。

昼食がまだだったので、両国に来て時間があれば必ず寄る、立ち食い蕎麦の「文殊」でかき揚げ蕎麦を食べてから有楽町に向かいました。

東京神田で勤務した13年間、週に2,3回は食べていたからか、醤油味が濃い東京の立ち食い蕎麦の出汁に慣れて、

今回もおいしく食べました。この店はオーダーを受けてから客に出すまでのルーティンがしっかり守られていて、

旨さのレベルが高く維持されています。この店を目指してきたらしい隣席の中年山ガールも、リュックを下してじっくり味わって食べていました。

 御茶ノ水駅西口の『明神そば』もそうですが、店員の手際がいい店は手順が守られていておいしい蕎麦を出します。

両国駅のホームからもスカイツリーが見えました。

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世相川柳は狂歌の心意気を継ぐ!

2023年01月29日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ
 2010年10月09日(土)「阿智胡地亭の非日乗」掲載
 

檀家行く時には乗らぬ高級車             生駒 鹿せんべ

齢(とし)聞かれ「おまかせします」言った妻    中間  西幸子

くわしくはウェブでというふるい分け         竜ケ崎 とりうみ

     =いずれも毎日新聞web「万能川柳」から=

   狂歌(きょうか)とは、社会風刺皮肉滑稽を盛り込み、五・七・五・七・七の音で構成した諧謔形式の短歌和歌)。Wikipedia。

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01月28日に目に留まったSNS・メディアの記事

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居酒屋E❝e❞の女将の川柳と俳句   「神戸新聞 読者文芸」入選シリーズ   その2/全24回  

2023年01月28日 | 居酒屋“e”の女将の俳句と川柳

居酒屋E❝e❞ の女将が「神戸新聞 読者文芸」に投稿した句の中で入選し掲載された句です。


○川柳3句   時実新子選

「兼題:桃」  
 
娘ら育ちひとり調う桃節句         
05年3月28日 入選

「兼題:球」 

我が球をかわし今日まできた夫      
05年4月25日 入選

「兼題:浮く」 

浮き玉に乗って漂う人生よ  
        
05年7月18日 入選


○俳句1句    伊丹三樹彦選

ライブあと雪のスウィング 北野坂   
05年4月25日 入選

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駒込の「東洋文庫ミュージアム」は一日楽しむ事が出来そうです。      10年前の今日 2013年1月28日の本ブログに掲載

2023年01月28日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

東京駅につくと山の手線で駒込駅へ向かいました。駅で森哲雄さん、稲邑さんと落ちあいドトールで珈琲を飲んだ後、「東洋文庫ミュージアム」まで10分ほど歩きました。

伊勢白子から江戸へ向かった大黒屋光大夫を船頭にする船が、暴風でアリューシャン列島まで流され、苦難の果てにたった二人だけロシアから江戸まで生きて帰りました。

光大夫と共に生き延びた白子の水夫『磯吉」の聞き書きが展示されているのをネットで知り、それを見たさにミュージアムを初めて訪ねました。










収蔵品の一部

◎41枚のアルバム。∇をクリックするとスタートします。

 なお、吉村昭が書いた「大黒屋光大夫」という小説は、漂流した日本人が、この男を必ず生きて母親のいる故郷に返してやりたいと出会うロシア人、ロシア人に思わせて味方につけ、

彼らの強固なサポートを受けてついに帰国するまでを描いています。光大夫は当時の露国の首都サンクトペテルブルグまで冬のシベリアを橇コンボイで渡り、

ついに女帝エカテリーナに拝謁することができました。そして幽閉中に身につけたロシア語で彼は帰国を直訴し受け入れられました。

『俺は必ず生きて日本に帰る』という意思が強かった2人だけが、生きて日本に帰国することが出来ました。

(17名のうち一人は光大夫たちと共に北海道まで帰り着いたが、着いてすぐに病没した)。

 多くのロシア人を魅了し、サポーターにし、ロシアで生き抜いた一人の日本人の姿を活写した本です。

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2005年08月27日(土)ブログ「阿智胡地亭の非日乗」に掲載


「大黒屋光太夫 上下」
 吉村昭著
 新潮文庫
 平成17年6月1日初版発行
 定価各514円(税別)

 ☆難波発の名古屋行き近鉄特急が三重県内に入り、白子駅に近づくと、「大黒屋光太夫の生地、白子」と言う大きな看板が目に付きました。
この路線にはもう何年も何回も乗っているのに、いままで気がつきませんでした。
 大黒屋光太夫は井上靖が書いた「おろしゃ国酔夢譚-昭和41年刊」(海外あちこち記その19)を読んでいたので、彼が伊勢の生まれである
ことは知っていましたが、白子に関係していたことは忘れていました。
今回新潮文庫から出た吉村昭が書いた「大黒屋光太夫」上下を、あらためて読む気になったのは、あの看板をこの夏に四日市に行ったとき見た
からかもしれません。そしてこの吉村本が平成15年に毎日新聞社からハードカバーで出たのが、鈴鹿市があの看板を出す事になったきっかけかな
と想像しました。
 江戸時代に、白子から江戸へ向かう千石積みの廻船が難破して、ロシアへ流された17人の日本人(うち10年後に二人だけが江戸の土地を
踏むことが出来た)がいました。かれらの、この遭難記録小説を読んで思ったことが2点あります。
その一つは「この男を生まれた国へ返してやりたい」と、当時のロシア人貴族や高官に自然に思わせ、そのための協力を彼らに最大限させた
「大黒屋光太夫」と言う男の人間の魅力と、それを周囲に認めさせ得た彼の人間関係能力・コミュニケーション能力の高さです。
もう一つは「地方に今でも発掘される日本の歴史資料の奥の深さと、歴史記述はその時々に得られる資料を超えられない」と言う面白さです。

    光太夫の人間性とその驚異的な望郷の思いが周囲を変えていく」

 彼の一行の前にも何人もの遭難者がロシアにたどり着いていますが、帰国できた人間はいませんでした。
なぜ彼ら一行が、カムチャッカ半島から、モスクワよりまだまだ西側の当時の都、ペテルスブルグまでエカテリーナ女王に帰国を直訴する
旅に出ることが出来たのか、そしてなぜ謁見を実現出来たのか?そしてなぜ帰国出来たのか?
吉村昭は直接的にこの点に焦点をおいているようには思えませんが、この本を書く大きな動機の一つに,このことがあったに違いありません。
当時の白子浦は全国の湊の中でも特別な地位を占めていました。その理由をこの本から要約すると;

 「家康は本能寺の変のあと三河へわずか30数名の手勢と共に落ち延びたが、伊賀者の巧妙な手引きで、途中の郷民の落ち武者狩りに会わずに、
信楽から加太越えで白子浦にたどりついた。そしてこの地の廻船業者に渡船を依頼した。業者は快諾して船を出し一行は無事に三河の国大浜に
上陸して岡崎に帰城した。

 その後、これを多として幕府は白子浦は特別な港として目をかけ、紀州藩の藩領にし、江戸に大店を持つ伊勢商人たちの商品積出港ともなって大いに発展した。
光太夫はそんな環境の中に育ち「神昌丸」の沖船頭としてこの航海の指揮を執りましたが、彼は一言で言えば、船乗りを生業(なりわい)にした
人間ではなく商人(あきんど)として育った人間でした。

 この本を読んで当時の日本の第一級の商人は、この時代の世界水準で言っても、世界のどこに出ていっても全く一流の人間であったと思いました。

彼は、宮廷の高官、高級軍人、貴族、そして宿屋の主人や庶民やその他の誰の前でも臆することなく、誰の前でも態度を変えずに、
自分の思いや考えを述べています。江戸時代に生まれ、育った人間の、この一人を知ったそのことだけでも、この上下2冊1080円は貴重な投資でした。

☆大黒屋光大夫はなぜロシア語をマスターできたか
 
井上靖の「おろしゃ国酔夢譚」と吉村昭の「大黒屋光大夫」は共に伊勢国白子の船頭「大黒屋光大夫」を題材に取り上げた小説だ。
彼は江戸へ向かった船が暴風に会い、カムチャッカ半島まで漂流した。
 どうしても故郷の伊勢白子まで帰るという執念で生き延び、ロシア語を身につけ、周囲のロシア人のサポートを得て、
当時のロシアの首都サンクトペテルブルグへ上る。そして何回かの挑戦の末、エカテリーナ女帝に面談し、彼女の心を捉え、
また苦労の末幕末の日本に戻ってきた。この男の生涯は、知らぬ他国の多くのロシア人を人間として自分に惹きつけたこと、
自分で運命を切り開いたことを知ると、教科書で習った江戸時代の町人のイメージを根底から変える。

 冬のシベリアを橇で渡る過酷な道中の描写だけでも物凄いものがある。

井上靖が本を書いた当時の史実の発掘の限りでは、日本に辿り着いたあと江戸で幽閉されたままで生涯を終えたように書かれているが、

吉村昭は白子に何度も足を運び、村の旧家に残された古文書の中に、光大夫が密かに江戸から白子を訪ねた記録を見つけ出した。

吉村昭の小説にはその感激モノの挿話も記されている。

大黒屋光大夫はいかにしてロシア語を身につけたかは2冊の小説にも副テーマとして描写されているが、英語教育の論評にサンプルとして
光大夫が引用されていた。やはり光大夫はいまもこうして生き延びている。

『英語のお勉強 (副題:なぜコーダユーはロシア語をマスターできたのか)』 引用元


 
    大黒屋光太夫に学ぶ異文化交流 こちら

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イチからわかる御神渡り 年明け6日から観察開始 信濃毎日新聞

2023年01月28日 | 諏訪便り

■八剣神社(諏訪市)の宮坂清宮司が解説

 諏訪湖を覆う氷が割れてせり上がる「御神渡(おみわた)り」の観察が年明け1月6日から始まる。近年は温暖化もあり、なかなか出現を見ることはできないが、

観察ツアーができるなど注目度は高い。

 観察と御神渡りの認定を担っているのは諏訪市小和田の八剣神社。室町時代の1443年から580年間にわたる観察記録が残る同神社で、

1986年から観察を続ける宮坂清宮司(72)に御神渡りの基本的な知識や観察の楽しみ方を聞いた。

■湖の筋の交差点 神様の参会場所

 ―御神渡りができる条件は。

 氷点下10度以下が数日間続くと諏訪湖が全面結氷し、氷が膨張と収縮を繰り返すと亀裂ができてせり上がります。湖を南北に走る最初の筋を「一之御渡(いちのみわた)り」、

2番目の筋を「二之御渡(にのみわた)り」、東西に走る筋を「佐久之御渡(さくのみわた)り」と呼び、筋の交差点は、神がご参会になられる場所とされてきました。

 ―観察時季と時間は。

 観察は二十四節気の「小寒」にあたる1月6日から節分の2月3日までで、日の出前の午前6時半から始めます。氷が張りやすく、観察しやすいとされる諏訪市豊田の湖畔で行います。

寒さをこらえながら観察していると、陸に上がった時に太陽のぬくもりを感じられるようになるはずです。

■記録580年 畏敬の念が信仰の原点

 ―なぜ神社には580年間も記録が残っているのか。

 普通の自然現象ではないからこそ人々が記録にとどめていたのではないでしょうか。毎年同じような場所に現れるため、(現代人の)「冬の風物詩」というような感覚より

もっと強烈な印象を受けたでしょう。自然に畏敬の念を抱いたのが、信仰の原点になったと考えています。

 ―諏訪信仰との関わりは。

 御神渡りは夏暑く冬寒い諏訪の自然を象徴するもの。昔の人々にとって暖冬は大変なことで、諏訪湖に異変があると一抹の不安を覚えました。

聖なる自然を人間の力の及ばないものとして見る自然信仰の原点で、諏訪信仰を象徴するものの一つだと思います。

■自然との関係 考えるきっかけに

 ―2018年に5季ぶりに観察できた時の思いは。

 みんな待ち望んでいたことで、ほっとしました。そして神社で収穫したわらを使ってしめ縄を作り、しっかりと拝観しようと思いました。

湖とともに人々が生きていると改めて感じさせられました。

 ―近年、注目が高まっていることをどう捉えるか。

 注目の高まりは自然と人間の関わりが疎くなってきた表れで、御神渡りはそれを思い起こさせる格好の伝統文化になっています。

北海道や鹿児島など全国から自然の偉大さを見ようと来る見学者もいます。自然との関わりを自分で感じ、脱炭素や省エネなどについて考えるきっかけにしてほしいです。

◇◇◇

昨シーズンの御神渡りを取材した「御神渡りウオッチング」は以下のURLからご覧ください。

https://www.shinmai.co.jp/news/search?q=%E5%BE%A1%E7%A5%9E%E6%B8%A1%E3%82%8A%E3%82%A6%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B0

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