阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

黒葉スミレ(ビオラ・ラブラドリカ)の花が31個咲いた、 枯れたギボウシの土中から新芽が出てきた。 一冬ベランダで越したプランターの草花たち 

2022年03月31日 | 花・草・木・生き物

ギボウシ(擬宝珠)

アジュガ チョコレートチップ

アジュガ シルバー

カンパニュラ アルペンブルー

イタリアンパセリ

シャンツアイ

ワイルドストロベリー

ミント

荒川河川敷から綿毛を取って来て植えた西洋タンポポ

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人類の退化         佐藤正明       

2022年03月31日 | SNS・既存メディアからの引用記事

3月30日付東京新聞朝刊

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

震災は「5000人が死んだ一つの事件ではなく、1人が死んだ事件が5000回あった」ビートたけし   

2022年03月31日 | SNS・既存メディアからの引用記事

1、震災は「5000人が死んだ一つの事件ではなく、1人が死んだ事件が5000回あった」 
震災直後にビートたけしが発した言葉を柳田邦男が紹介して言う、[亡くなった一人一人に人生があった。その本質を言い表した言葉だった]と。 

2、柳田は事故・災害・薬害など、生と死に向き合う取材を続けてきた。彼は震災後「命の人称性」を語ってきた。
[自分の命は一人称。家族や恋人は二人称。全く知らない人は三人称。二人称の死は人生がひっくりかえる。

しかし、三人称の死に接しても、人は普段通りに笑ったり食べたりできる。]

事故を起した企業や行政の担当者は、目の前の命を「三人称」でなく、「二.五人称」でとらえることはできないか。
冷静さと潤いを兼ね備え、二人称に近い感覚。柳田はそれを提唱してきた。

3、柳田は長い取材経験から[被害者や遺族が本当の言葉を語るには、長い時間がかかる]と話す。

ハンセン病・水俣病・原爆症・・。差別にさらされ、言葉を失った人々を、柳田は何十年も見詰めてきた。

2008年1月27日付神戸新聞朝刊4面より引用

2008年1月29日「阿智胡地亭の非日乗」掲載

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3月30日に目に留まったSNS・メディアの記事

2022年03月31日 | SNS・既存メディアからの引用記事

いずれも画像クリックで記事全文に飛びます。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「 神田❝みますや❞にて」  「ごもっとも・・その後」  「イノシシ遭遇と鹿刺し」   阿智胡地亭便り⓶     こんなエッセイを2002年頃からメールで友人知人に発信した。

2022年03月31日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

#6’神田「みますや」にて①   ’02/06/30

6月26日、翌日が株主総会なので朝から東京に行った。その夜はいつもの神田のホテルに泊まった。東京出張のおりは

夜は大抵どなたかに一杯お付き合い願っているのだが、明日が外(ほか)ではない日なので、飲んでも早く切り上げようと思い、

どなたにも声をかけず一人で居酒屋の「みますや」に行った。

「みますや」は一年半ぶりくらいだが店の中が何となく綺麗っぽくなっていた。

客は殆どが50歳代の勤め人が2、3人連れで、2人ずれの組でも女性は30代以上に見え、相変わらずチエーンの居酒屋とは客層がかなり違う。

入って左側の大きな板卓の3人ずれの客の横に案内された。目の前にはやはり一人客がいたが暫くして帰った。

生中を飲んでいると頼んでいたこの店の定番の牛の(にこみ)が来た。すぐ近くの神田美土代町に勤務していた昭和50年代の、

週に数回は来ていた頃は、確か一皿350円くらいだった、と思う。

相変わらず独特で、関東風の濃い味付けで旨さは変わっておらず、年数を考えると仕方がないと思いながらも、関西が長くなったせいか、

量もしっかりあるのについ(にこみ)が一皿600円かと思ってしまう。



定年前に見える横の3人ずれは近くの勤め人たちらしく誰か同僚の噂話に余念がない。関東弁も歯切れのいい江戸っ子弁だと耳に心地よく、

いまや東京でも希少価値の方言、江戸っ子弁だなと思いながらBGMとして何となく聞いていた。

壁には前にはなかった日本各地の銘酒のあれこれ、田酒、久保田などの名前が張り出され、日本酒だけのメニューが出来ていて驚いた。

しかも料理も、前と同じく壁にそれぞれ小さな板に書いて上げてあるが、メニューも板卓においてある。普通の熱燗一合と「きんぴら」を追加で頼み

これで引き上げようと思っていたら一人客が目の前に案内されて座った。三十四、五のさっぱりした感じの男だった。座ってから何となく嬉しそうに店の真っ黒な天井

柱や畳の上がりがまちなどを見廻した。無言でいるのも気詰まりなので、彼が生中を飲み干し「にこみ」を食べ、またメニューを見て私と同じ熱燗、

彼は2合だったがを頼んで暫くして、「この店は初めてですか」と声をかけてみた。外で一人で飲む時、相手を見て目の前の人に声をかけるのだが、

迷惑そうなら必ずその一言で止める。

自分も喋らないで飲みたい時もあるから。この日の彼は飲む人間に共通の雰囲気で「いや、今日が初めてなんですよ」と自然体で返してきた。

  

桂米丸の切符を知り合いからもらったので今日は公休で東京へ出てきてそれを聞き、終ってから前から来てみたかった「みますや」にようやく来れたという

横浜の人間だった。

この「みますや」が近頃の居酒屋ブームで雑誌やテレビに取り上げられていることを彼から初めて教えてもらった。

明治38年の開業で始めは近くの工事現場の土方相手の店だったことも彼は知っていた。

そうか、だから綺麗ぽっくなって前にはなかった新規の客相手のメニューが出来、とっくりがみますやの名前入りになって店員の数も増え、

次々年配の客が店の中を覗きながら入ってくるわけがわかったと疑問が晴れた。


ただ店の雰囲気が前と変わらないのは有り難く、それも建物が戦前のそのままのせいもあるかも知れない。

しかし次の震災ではおそらく即ぺちゃんこではある古い木造の建物だ。

この横浜人は母親が京都、父親が栃木という組み合わせで、仕事で各地に行くと居酒屋を楽しむという仁であった。

会話は楽しく続き、銚子が沢山並んでしまい翌朝二日酔いで目が覚めた顛末は次回へ。

行ったとさ

#9ごもっとも・・・その後 ’02/09/23

節分が一年に一度の行事であることから、法事でしか顔を会わさくなって久しい従兄姉たちと、法事の席で節分をどうしているかなんて話題にすることは、

当然これまで一度もありませんでした。

今回、神戸新聞の文芸欄に掲載されたエッセイのコピーを父方、母方の親戚に送った事から「ごもっともの真実」が明らかになってきました。

一番上の伯父の上諏訪在住次男家 ;本人は大きな声で毎年やって家族の顰蹙をかっている。

二番目の伯父の東京在住長男家;もう50数年東京に住んでいるが、毎年欠かさず家族と 共にごもっともをやってきた。

ただ子供が独立し、ほそぼそにはなってきた。

四番目の叔父の東京在住の長男家;叔父が大声で欠かさず鬼は外~を毎年やっていたがごもっともは言っていなかった。自分もやってない。

明治41年生まれの伯母が95歳でなくなり、9月の始めに、その葬儀にひさしぶりに上諏訪へ行きました。

小和田地区の檀那寺、教念寺での葬儀の後、父方の従兄の中では最年長の喪主の家に寄りました。

東京在住50年を越え、勤務先を70歳で最近リタイアーしてそろそろ東京から引き上げるかもしれない従兄(喪主)の実家には沢山の書物があります。

従兄が二つの本を出してくれました。それを借りてきました。そこからそのまま抜書きします。

1。「諏訪の年中行事」 全161頁 昭和24年2月20日発行


著者 諏訪教育会 発行所 蓼科書房

正月行事 の63頁 2月節分の項目

(豆撒き)
○「豆撒き」は「鬼打ち豆」ともいって、炒り上げた豆を必ず一生桝に入れて、熱いうちに年男か男の子供が大声に「鬼は外、福はうち」と唱えながら、

上座敷から順次家中を撒きあるく。

○撒く時の様子は家によって多少の違いがある。「鬼は外」は外に向かって大声に、「福は内」は内に向かって小声にいう家、

「鬼は外、福は内、鬼の目へビチャリン(ブッツブセ)(パチリン)」と唱えて家の内外へ撒いてから少しずつ天井に投げつける家、

仮想行列をして下男迄がつきあるいて賑やかにやる家、又、一人が豆撒きをする後へ、一人が擂粉木を持ってつき歩き、

てくんてくんと上下に動かしながら「ごもっともごもっとも」と受答えて騒ぐ家などがある。

(母の里は諏訪市の隣の現在の茅野市(の中でも八ヶ岳のなだらかな麓のかなり上の方の地区)ですが、相方によると母が南柏や藤代の家に節分の頃に来たときは、
一緒に豆撒きをして、「鬼は外、福は内、鬼の目を ブッツブセ」と言って豆を撒いて、嫁と孫を喜ばしてくれたと今回思い出して教えてくれた。
「家によって多少の違いがある」という通りですね。
残念ながら、辛好は出張で不在か、東京にいてもその時間には麻雀か酒で家には帰らなかったのでそのことを知らなかった。)

2。旭ガラス月刊PR誌「GLASS & ARCHITECTURE」の記事
「連載 ■コミュニテイセンターとその周辺(13)<小和田>」
昭和46年8月5日発行 著者 本多昭一 発行 旭ガラス(株)
16頁~26頁

この小和田地区で400年以上住民に維持されてきた共同浴場(自泉噴の温泉を利用)をコミュニテイセンターとして捉え、レポートしたこの記事は、

お上と関係なく住民が地域を自治的に運営した多くの庶民の歴史の一つとして面白いので次回報告します。

中で一つだけこの記事を読んで記憶違いの訂正;22頁の記載

「新信濃風土記」という本によれば、天正19年(1591年)に、豊臣秀吉の家臣、日根野織部正高吉が、(諏訪)湖中の高島の漁村50戸を小和田に
移して、高島城を築いたということですが、この「移した」というのが重大事件だったろうということは容易に想像できます。

・・・中略・・・・高島村の人たちは、湖の中の島(現在の高島城のあたり、現在は陸続きですが、昔は湖が大きかった)に住んで、湖で漁をしたり、田んぼ
(現在の小和田田んぼあたり)で稲作をしていたわけですが、日根野氏が「城をつくりたいので立ち退いてくれ」というので、話し合いで、

住居地として現在の小和田の土地をもらうとともに、特権として諏訪湖全体の漁業権を得たということです。・・・後略・・

辛好は「諏訪氏が高嶋城を築城するとき・・」と思っていましたが、このころ諏訪は甲斐の武田信玄軍団に長く占領、

統治されたあと秀吉軍の支配下にあったようで、諏訪神社の祭神の末裔と称する諏訪氏は衰えていたようです。
ただ徳川の時代になってから旧領地に復し、明治維新までお殿様でしたが。

親族の中で我が両親(とその息子たち)だけが関西以西で暮らしたため、ルーツにうとく、いまさらながらルーツの地を学習する辛好。

#10イノシシ遭遇と鹿刺し ’02/09/29

*電車の駅から家までの間は15分ほどですが、近道をすると大きな墓地の横を通ります。
昨日、長女が午後2時頃このルートでひさしぶりに帰宅したとき、墓地の横の道の中ほどで
中型犬ほどの大きさのイノシシに出会ったそうです。

イノシシは普段は昼間は出歩かないのに、お彼岸でお墓に供物があるのを知っていて
それを食べにウロウロしていたようです。
何とかやり過ごして、無事にすりぬけたそうです。

神戸市ではつい最近「イノシシ条例」が出来て、餌をやると罰金ということになったせいか
最近はあまり出会わなくなっていたのですが。

神戸の街 野生イノシシうろうろ

2年ほど前、次女が夜、帰宅して家の呼び鈴を押したので勝手口へ出たら、
柵の向こうで押し殺したような声が「今、ワタシのすぐ後ろに大きなイノシシがいる」と言います。
ガレージの隙間から子牛くらいの大きさのものが見えた時はぞっとしました。
車のライトが下から上がってきて、イノシシが離れたので戸を開けて彼女を中へ入れ
何事もなくすみました。

絵や写真では子供の「ウリンボウ」は可愛いのですが、親の実物と遭遇するとやはり
野獣だけに一瞬身体がすくみます。

*今日朝刊のチラシを見ていたら、その一枚から「イノシシ肉」の文字が目に飛び込んできました。
それは輸入食料品卸の会社が、土曜、日曜だけ倉庫で一般小売販売するというチラシでした。
記載の地図を見ると、家から車で20分ほど浜側へ下りた物流工場団地の中でした。
物流会社や食品工場が多く操業しており「そごう」の配送センターや「ロックフィールド」の
神戸コロッケの工場もあり、かってK君と仕事で良く行った工場団地です。

よっし、イノシシの敵討ちだ、今晩は「牡丹鍋」でいこうということになって
その倉庫へ出かけました。

倉庫の一郭に冷凍ケースを並べて、タラバガニ、ズワイガニ、伊勢エビ、オマールエビ、
鮭荒巻/切り身各種、イクラ、キャビア、野ウサギ、イノシシ、鹿、馬肉、クジラ、カエル
エスカルゴなどなどが並んでいました。
本来はレストランなどが顧客の業務用の卸のようです。

段ボールを見るとRUSSIAの字があちこちに見えたので、ロシア製の輸入品が多いのだと思いました。

目的のイノシシ肉は一つの塊が大きすぎて断念し、結局のところ鹿刺しをメインにして、
本鴨スモーク黒胡椒、紅サケと昔ジャカルタで堪能したドリアンが「ドリアン果肉」(ドリアンの切り身)
になっていたのと、台湾で良く食べた「ライチー」など全て冷凍品を買ってかえりました。

鹿肉のサシミは、女3人組も平気だろうと思いましたが、とろりとしていて期待以上の味でみな大満足。
心配したドリアンも冷凍が適度に解けて匂いもまあまあだったせいか、おいしいおいしいと
大好評で「果物の女王」の初体験を喜んでくれました。
全部で3320円という価格だから一人当たり830円ということもあり、
下手なファミレスへ行くより正解ということになり、イノシシの敵討ちのことをすっかり忘れました。

馬肉も見たら霜降りの加減が何ともいえず次回はこれに決め、牡丹鍋を含めてこれからしばらく
なべ物のシーズンは土曜、日曜にここへ通いそうです。

行ったとさ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧安田庭園に隣接の「両国テラス」でランチに窯焼きピッツアを食べた

2022年03月30日 | 食べる飲む

旧安田庭園を出て「両国テラス」へ向かった。あいかたが並んで 席の順番が来たことを携帯で伝えて来てから行った。

店は借景で安田庭園の緑が窓に広がるのが見えた

(店の画像はネットから引用

窯焼きピッツアはやはり時間はかかったがとてもおいしかった。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

御柱祭 手塚プロデザインの記念品お披露目 長野日報

2022年03月30日 | 諏訪便り

2022年3月29日 6時00分     諏訪大社下社と手塚治虫の縁により実現した、下社の「木落し」を描いたオリジナル原画をプリントしたTシャツと昇運凧

諏訪大社式年造営御柱大祭(御柱祭)を目前に控え、諏訪大社は、大祭記念品として手塚プロダクション(東京都)と連携した、Tシャツ(非売品)と昇運凧をお披露目した。

漫画家・手塚治虫(1928~89年)の作品に登場するキャラクターたちが下社山出しの最大の見せ場「木落し」をする場面を描いたオリジナル原画をプリント。

手塚治虫の先祖の家系が下社の神職「大祝」を務めていたとされることが縁で初めて連携につながった。

数年前、同社から諏訪大社に、手塚治虫と関係がある大社と何か連携できないか―と、提案があったという。

検討の結果、最初は御柱祭奉賛金を納めた人への返礼品のTシャツにプリントする原画として書き下ろしてもらった。

完成した原画を気に入った大社が、より多くの人に原画を見てほしい―と昇運凧の制作も決まった。昇運凧は4月1日から上社本宮と下社秋宮で頒布する。

初穂料1000円。奉賛金の詳細は大社ホームページで紹介している。
 
原画は、下社の木落し坂を勢いよく下る御柱に人気キャラクターたちがまたがり、画面から飛び出してくるような迫力ある構図。

ハナ乗りや振り落とされる人、元綱にしがみつく人など実際の場面を思い出させる臨場感だ。「ONBASHIRA」の文字も入る。

Tシャツは紺色のフリーサイズ1種類のみ。裏面に諏訪大社のカジの葉のご神紋が付く。「鉄腕アトム」をデザインした布製の袋とセット。

諏訪大社神職は「素晴らしい図柄。山出しの曳行がなくなり氏子の皆さんは落胆していると思うが、この絵を見て元気を出してもらえたら」と話した。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

虫マップ  手塚治虫ゆかりの地を訪ねて こちら

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

月島で「もんじゃ焼き」          13年前の今日 2009年3月30日「阿智胡地亭のShot日乗」掲載

2022年03月30日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

月島のもんじゃ焼きの店「はざま」で生まれてはじめて食べた「もんじゃ焼き」はおいしかったです。

[もんじゃ焼きはうまかった]

  月島へ初めて行って「もんじゃ焼き」と言うものを食べてみました。有楽町線で月島駅で降りて7番口を上がると、“もんじゃ焼き案内所”なるものが出ていました。

神戸の北野の異人館の案内所の事がピーンときました。確か月島では昔からのもんじゃ焼きの店と外部資本の促成もんじゃ焼きの店の熾烈な抗争があったことを思いだしました。

この案内所では地図だけもらって、案内所のお姉さんが「お勧めの店です」と言う店は外すことにしました。

この案内所は新興の外部資本が組んで作っている案内所に違いないと思ったからです。

月曜日の今日は、裏通りの老舗の店は休みの店が多かったのですが、幸い一軒開けている店がありました。「はざま」です。

店の中は、お世辞にもきれいとは言えず、昔の横丁の近所の子供たちが来る一銭お好み焼き屋という感じでした。

壁には沢山の色紙が張ってあり、中に「八千草薫」さんの色紙があるのを見つけて嬉しくなりました。

生まれて初めての「もんじゃ」なので店の男性に、焼いてもらいました。やはりうまく焼く手順と言うのがあるもんだと分かりました。

すぐ自己流でやりたいタチですが、反省しました。

焼いてもらいながら話をすると、開店は昭和25年とのことで、老舗の店でした。「表通りの店とは出来が違うんだ」と言うと、

そうなんですよと誇らしげな返事が返ってきました。

今は新興の店も組合に参加させたそうですが、いい加減な儲け優先の連中が月島へ入り込み、シャッターを下ろして廃業した店を安く借りて、

流行の「もんじゃ」で稼ごうとしたそうですが、地元のモンジャの店が、彼らのあまりにひどい「もんじゃといえないもんじゃ」でのぶったくり商法に、

待ったをかけ、伝統の「もんじゃ」のレシピを守らせるようにした経緯があると読んだ事があります。

相方の話では、テレビで見た、新興勢力と対峙した老舗グループの代表の女将さんが、この店の女将に似ていたとのことです。確かに気風のいい女性でした。

旨いものを初めての土地で食べるための、いつもの時間をかけたぐるぐる回りの偵察、鼻利かせタイムの甲斐があって、

結果的に、裏通りの本格派のこの店にめぐり合ってハッピーでした。







サイドオーダーの「マグロステーキ」や「レバカツもんじゃ」も飛び切りの旨さでした。






 2005年10月31日(月)「阿智胡地亭の非日乗」掲載記事再録。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

はざま」13年ぶり再訪記

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3月29日に目に留まったSNS・メディアの記事

2022年03月30日 | SNS・既存メディアからの引用記事

いずれも画像クリックで記事全文に飛びます。

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

両国の旧安田庭園に遊ぶ

2022年03月29日 | 東京あちこち

四人で出かけたこの日は薄曇りの暖かい日だった。両国駅で降りて 国技館を通り過ぎて3分も歩けばこの庭園がある。

メダカの群れやアカミミガメやボラがいた。

庭園の向こうは区立横網公園があって以前森さんと訪ねた太平洋戦争の戦災慰霊堂がある。

一度は訪ねる価値がある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ピッザとパスタは「イルヴェント」           10年前の今日 2012年3月29日「阿智胡地亭のShot日乗」掲載

2022年03月29日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

灘区の寺口町にある「イルベント」。
 桜島溶岩で出来た薪窯で焼かれるピッザが口に入るといつも至福を感じる。サラダセットのポテトサラダも旨さは変わらない。





三種類のチーズとバジルのピッザ

生パスタはフェットチーネで、東大阪の伝統的な製法の麵専門店に頼んでいるそうだ。
ボローネーゼは自家製ミートソース。

最後に頼んだ丹波茶のジェラード。



すぐ近くの歩道橋から山側を

浜側を見る。

フルーツピッザをtogoで頼んだ。おいしかったらしく沢山食べた。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3月28日に目に留まったSNS・メディアの記事

2022年03月29日 | SNS・既存メディアからの引用記事

いずれも画像クリックで記事全文に飛びます。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 田辺聖子の“川柳” セレクションから       2006年12月2日「阿智胡地亭の非日乗」掲載

2022年03月29日 | 音楽・絵画・映画・文芸


「自動ドア人に貧富の差をつけず」    内藤凡柳

「四、五年は死ねぬ洋服誂える」     博多成光

「命まで賭けた女てこれかいな」     松江梅里

「手と足をもいだ丸太にしてかへし」   鶴  彬

「愛されて巡査で終わる桃の村」     摂津明治

「れんげ菜の花この世の旅もあと少し」  時実新子

☆いずれも田辺聖子さんのセレクションから。

2006年12月2日 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サムゲタン(参鶏湯)を食べてマッコリを飲んで 旨いランチに満足

2022年03月28日 | 食べる飲む

某日 亀戸のクリニックで循環器内科の月一回の定期検診を済ませ、薬局で薬をもらったら12時40分だった。

クリニックの近くにある 新大久保から来た韓国料理店「豚ウォーリー」に入った。豊富なランチメニューから「サムゲタン ハーフ」とマッコリを頼んだ。

 「サムゲタン」は30分ほど調理に時間をかけて出てきた。韓国人のシェフの作りたての熱々の「サムゲタン」は 旨味とコクがあってなんとも美味しかった。

キムチも入れて味を調えた。

店のスタッフ三人は完璧な東京弁を喋っていたが 三人で話をするときは韓国語で話していた。

 客の二組は在日韓国人で 日本人は韓流マニアらしいおば様の二人組と私だった。

サムゲタン:

参鶏湯の原型が登場したのは意外と新しく1910年代で、戦前の1930年頃に現在知られている形に近くなったとされています。

作り方は、内臓を取り出した中抜きにた丸鶏に洗ったもち米、高麗人参、干したナツメ、栗、松の実、ニンニクなどを詰めて最低でも2~3時間は煮込み、

長いものでは丸一日じっくり煮込むものもあります。

そしてここが重要なのですが、韓国風ではこの時点ではほとんど味付けがされません。取り分けて食べるときに塩コショウで鶏肉やスープに味付けをします。


 本場のレストランでは必ずと言っていいほど参鶏湯を注文すると調味料として塩コショウがついてきます

場合によってはキムチもついてくることがあります。これで好みに合わせて味付けをするのです。
 

日本の食文化だと料理が出されたときにはほとんどの場合味付けがしてあるので、参鶏湯をそのまま食べてしまい「味薄ーい」とがっかりされてしまうパターンが多いようです。

スープやお肉の味を見て、調味料で味付けしてから食べると失敗しませんよ^^    引用元。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高野辰之の大正時代の「春の小川」の今            12年前の今日 2010年3月28日「阿智胡地亭のShot日乗」掲載

2022年03月28日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

東京の代々木に住む友人の和田さんからメールが届きました。

☞『「春の小川」が話題になっていますね。春の小川の歌詞が2回改変clickされたとは
知りませんでした。近所なので歌碑の歌詞がどうなっているのか見に行ったところオリジナルのものでした。

当たり前といえば当たり前ですね。暗渠になった現在からは、ここに [こうほね-甲骨] 

(スイレン科の植物の一種。水生の多年生草本。浅い池や沼に自生する)が咲く小川が流れていたとはとても考えられません。

高野辰之がこの詩を作った当時は小田急線もなく、のどかなものだったのでしょう。
ブログの写真(*船橋の春の小川)のすばらしい風景が変わらないことを願っています。ちょうどロマンスカーが通過しました。


写真のように小田急線とビルに挟まれた通りが春の小川といわれても、想像できません。電信柱に春の小川とあるのが場違いのようです。


連想できるのは、この道にある下水のマンホールだけです。」引用終わり。

☆和田さん、そうでしたね、貴兄は歌碑がある近くの住人でしたね。嬉しくてやがて哀しき?レポートをありがとうございます。
明治以降の日本が近代化(と言われる)道を歩いてきたばかりに失ってきた風景の一つですね。
いいも悪いもない、まさにこれが日本人が選んだ進路がもたらした一つのサンプルのように思えます。
ところで、ここらあたりは貴兄が弓道場に通う道に近いのでしょうか?

☆第2信のメールをもらいました。

「歌碑は代々木八幡駅の近く、私のうちは一駅隣の代々木上原ですが、歩いて20分ぐらいです。散歩で代々木公園に行くときはこの歌碑の
近くを通っていきます。高野辰之の家の近くのためか、代々木上原駅と代々木八幡駅のガードの壁には高野辰之の“ふるさと”や“朧月夜”の歌詞が書かれています。

高野辰之の住んでいた家の近くには岸田劉生が描いた切通しもあります。私が大学生の時はまさに絵と同じコンクリートの塀が残っていましたが、
今はマンションになり、坂の途中に劉生切通しの場所と案内があるだけです。あの塀も残しておいてほしかったものです。」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 *船橋の春の小川:船橋社中の社主さん撮影

 

 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする