阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

昭和50年代の日本の商社各社のジャカルタ支店では関西弁が共通のビジネス語だった。       昭和50年代の海外あちこち記  その17

2024年11月29日 | 昭和50年代の海外あちこち記

1)ジャカルタの中心にあるホテルの部屋から下を見ると、バトミントンコートが何面も見えます。

毎週日曜日には、朝早くから若い男女が全面で一日中試合をしていました。インドネシアのバドミントンが、オリンピックで何回も連続して、

金メダルを取るほどの国民的スポーツであることを、ジャカルタに行ってはじめて知りました。コートの周りも応援団か見物人か沢山の人が出ていました。

2)昼飯は商社の連中とホテルの中華ランチや、日本人がやっている餃子からウドンや親子丼まである日本めし屋へ行きましたが、

オフィスのOL達は高層ビルの下に、昼時に何台も来る屋台で、広い大きな葉っぱにライスやバナナをヤシ油で揚げたものや、

色んなおかずを載せてもらい、木の下のベンチでうまそうに食べていました。

一回やってみたいと言いましたが、腹を下す覚悟ならどうぞと誰も一緒に付き合ってくれませんでした。

 (昼飯といえばロンドンやニューヨークで日本商社に勤務している土地っ子OLが昼にどういう物を食べるのか、

見るともなく見ましたが、紙袋からサンドイッチやクッキーを出して食べている人が殆どで、外に食べに出る人はいないようでした。

いずこも女性は堅実だなーと思いました)

3) 商社も単身駐在社員のために部屋数の多い、大きな屋敷を借り上げ 日本食を作るインドネシア人の住み込みのコックを何人かおいていました。

また食堂の一隅に大きな本棚があり、帰国時や出張者が置いていくライブラリーめいたものがあるので、

一ヶ月近い出張時には時折晩に日本飯をご馳走になりに行って、本を借りてホテルに帰りました。

 入札商談ごとに扱いを依頼する商社が違って、結局別々にM物産さん、M商事さん、N・Iwaiさんの3社のお世話になりましたが、それぞれ現地支店の雰囲気が違いました。

ただ、どの商社の支店も日本人は全員が関西弁で喋っており中にはちょっと変な関西弁の方が何人もいたので、

関西のご出身ですかと聞くと、いや私は日本では東京以外知りませんが、東南アジアのどの国の支店でも、昔から関西弁が社内ビジネス語になっているので、

当地へ来て関西弁をいやでも覚えざるを得ませんでしたと、いまいましそうに言う人が何人もいて、思わず笑ってしまいました。

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ところで、欧州やアメリカの駐在員も赴任して数年は、ほとんどの人が任地の土地の悪口を言いますが、

ジャカルタの各社の駐在員もビジネス習慣の違いや国情にいらだつらしく、口を揃えて陰でこう言っていました。

「インドネシアは、人はオラン米はナシ魚はイカン」オランはオランウータンが森の人という意味のように

インドネシア語で「人」という意味です。また、ナシは近頃日本でもインドネシア風焼き飯をナシゴレンと言うように

「お米」のことです。(麺類はミーなので焼きソバはミーゴレンと言います)

おわかりのように「魚」のインドネシア語はイカンです。

 メーカの一出張者の分際で「そんなことはないでしょう」とも言えず、いつも黙って聞いていました。

皆さんインドネシアに溶け込むというよりオフィスと宿舎を往復して3、4年の任期を過ごす人が大半に見えました。

まあ一年中、短パンとTシャツとゴム草履があれば暮らせる土地柄ですから、高温多湿でクーラーがなければ過ごせず、

四季のある日本に早く戻りたいというのが、かなりの人の本音のようでした。

 

 (画像はネットから借用したものでやや古い年代の画像ですが昭和50年代のものではありません。)

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オーストリアのリンツにある「エンジニアリング会社」に行った。ウイーンの森に下草は生えてなかった。     昭和50年代の海外あちこち記  その16

2024年11月14日 | 昭和50年代の海外あちこち記

(1977年10月入国)

オーストリアのリンツに本社がある鉄鋼&エンジニアリング会社のフェストに設計責任者の伴さんと二人で出張しました。

韓国の製鉄会社のある設備案件に応札した結果、最終選考(ショートリスト)の数社に残ったので技術応札仕様書の説明を求められたのです。

技術条件に関する交渉のとっかかりなので、本件のパートナーの商社の同行はなくメーカーの我々だけの出張でした。

リンツの空港で伴さんのトランクがその日のうちに受取れず、調査を頼んで結局、翌日の便で途中経由したロンドンのヒースロー空港から到着しました。

 遅れて着いたトランクはバールでこじ開けられ、中を荒らされ鍵も壊されていました。

当時、日本からの手荷物がヒースローでの積み替え時に、軒並みこじ開けられ中の現金が抜かれていた頃でした。


 日本のツアーの人たちがまだトランクの表に大きくローマ字で名前を書いたり、荷物の中に現金を入れていると思われていた昭和52、3年頃の話です。

トランクの中身は技術資料だけで金目のものはなく、実害はなかったけど不愉快なことでした。

伴さんのトランクは買い替えたばかりの新品で、私のはもう何年も使い古し、宿泊したインドやインドネシアのホテルのベルボーイが

宣伝の為に勝手に貼るホテルラベルがべたべた貼られた年代物だったのが、日本人の物とおもわれず、彼らの目をつける対象外になったのかもしれません。


 打合わせが終って、リンツのホテルの近くの食堂で、夕食にウインナーシュニツエルを食べてうまかった話はだいぶ前に書いたことがありますが、

この本場の子牛のカツレツはパリっと仕上がっていて本当にうまかったです。

その後、日本のレストランでメニューにウインナーシュニツエルがあれば必ずオーダーしますが、同じ味に巡り合ったことがありません。

向こうでは普通の(おばんざい)でしょうから、何と言う事はない「土地の料理」がうまさにつながっているのかも知れません。


仕事が終ってウイーンに出ました。路面電車の走る薄暮の町を歩き、ここで中華メシでなくともと思ったが、

英語が通じるかどうかわからん肩の凝るレストランを避けて、ヨーロッパのどこの国にもある支那飯屋に入りました。

店の女の子は東洋人のバイトの子で、聞くと声楽の勉強で当地に留学している日本人でした。


定番の焼き飯とヤキソバをオーダーし、結構本場の味付けのうまいものでした。

ヨーロッパでも、どこも支那飯屋のコックは中国人のオヤジだからまず間違いはありません。

 
余談ながら、このあいだ日経の夕刊の「旅は未知連れ」というコラムにウイーンの「スシ」店のことが出ていました。

90年代に日本人の経営ではない「スシ」店が現れ、数年にして20を越す店がひしめくようになったとある。

20数年前には、ウイーンの町には日本飯屋はあったかもしれないが、寿司屋はなかった。

ヘルシーがキーワードとは言えここまで世界を席巻するとは驚くが、これも寿司ロボット、回転すしベルトのハイテク装備の開発、輸出がバックにあってこそらしい。


北陸地方のみにいくつかあるこれらのメーカーは商売運営のソフト込みで世界に回転寿司ビジネスをいまだに売り込み中らしい。

 ロンドン、パリ、モスコーなどの寿司レストランの経営者は中国人か韓国人が殆どのようですが。


 ウイーンには当時の私の勤務先からJETROに出向していた竹ノ内さんが駐在されていました。

日本から連絡しお願いしていたこともあり、翌日の日曜日に車で市内を案内して頂いた。

 
    印象に残っているのは;

「ウイーンの森」の大木がどこまでも連なるその下の地面に雑草が全くといっていいほどないこと。ずうっと土が見えている。

緯度が高いので太陽光のエネルギーが日本なんかと比較にならないほど弱くて、夏でも雑草が生えないのではないかとの説明だった。一口に森といっても、全然違った。 

オモテは音楽の都ではあるが、実際は東西の情報戦の最前線であると聞いた事。ベルリンの壁が崩される日が来るなどと誰も想像だにしていなかった頃で

ここに住む西側、東側の各国の人間は表面の職業はいろいろだが、殆どCIAなど全世界の国のインテリジェンス関連の人間だと聞いた。


 お上りさんとしては当然、映画「第三の男」で(オーソン・ウェルズ扮する)ハリーの愛人の女性がチターの演奏をバックにコツコツと歩み去った

枯れ葉の積もった並木道にも連れて行ってもらったはずだが、こちらはあまり覚えていない。 

後はまあ、オーストリア帝国時代の宮殿や大聖堂などヨーロッパの一つの貴族文明の拠点を示す凄い建築物と庭園があったと思いますが、

8年間の貿易部所属時の海外出張で撮った写真類は、この20数年間段ボール箱に全て放り来んだままで整理してないので、全てはおぼろげな記憶であります。
                   2002年頃 記。

画像は全てネットから借用。出張時に撮影したものではありません。

リンツ Wikipediaから部分引用

ドナウ川沿いに位置する商工業都市。近隣の都市としては、約70キロ北西にドイツのパッサウ、150キロ東にウィーンが位置している。 

歴史

 古代ローマ帝国によって設けられた砦がリンツの起源である。8世紀末にLinzeという名称が史料に現れる。13世紀に都市特権を得た。15世紀には神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世の居城がおかれた。18世紀後半に司教座がおかれ、学問・芸術の中心地として発展していった。1882年にドイツ系民族主義運動の綱領が発表され、1926年にオーストリア社会民主党党大会が開催された地として知られている(リンツ綱領 (1926年) 参照)。第二次世界大戦中のナチス統治時代には、ヒトラーの故郷に近かったことから、巨大な美術館を建設する計画などがあったとされる。また、ヒトラーは大戦勝利後にリンツの街を都市改造し、「ヒトラポリス」に改名する計画を建てており、巨大なリンツの模型を作らせて総統地下壕でも飽かずに見ていたという。第二次世界大戦後はウィーンとドイツのミュンヘンをつなぐ結節点として、工業が飛躍的に発展を遂げる。

 

 

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モスクワ空港の通関で係官とカレンダーの引っ張り合い。 昭和50年代の海外あちこち記 その15

2024年10月27日 | 昭和50年代の海外あちこち記

1)ソ連がイルクーツク港などの港湾荷役設備を、日本の円借款で買い付ける商談が昭和50年代中頃にいくつかありました。

商社経由の引合いに見積を出しておくと、ソ連の運輸省から仕様説明に来いと呼び出しがかかることがあります。

設計課の技術屋さんと商社の人で4、5人のチームを組んでモスクワへ何度か行きました。 


 モスクワへの飛行機はソ連の国営アエロフロートだとメンテが悪く、機内の冷たい風がいつも首もとに流れ、

機内食も塩味が濃いのでJALが取れるとほっとしたものです。成田からの飛行機の眼下に何時間見ても変化がない

シベリアの広大な赤茶けた泥地に、アムール川(黒竜江)がのたうつ情景は何度見てもあきることはありませんでした。

 井上靖の「おろしゃ国酔夢譚」という大黒屋光太夫を主人公にした小説で、彼ら一行が サンクトペテルブルグの宮廷まで

この原野を沿海州から横切っていったことを読んでいたのでその上空をあっと言う間に移動するのは不謹慎な感じがしました。 


 仕事で行くようになる10年ほど前に、私的なことで3日程、モスクワに滞在したことがありましたが、ビジネスで行くとなると、

パスポートチエックの高い窓口から、こちらを見下ろすウブ毛が光る若い係官の無機質、無表情の顔に出会った時から、

早くも共産国に来たと何となく緊張します。

2)昭和50年代半ばのあの頃、通関では日本から持ち込むお客さんへの手土産が、いくつか必ず検査官に抜かれるので、

目減りする分だけ余分に持っていかないといけませんでした。特にクリスマス前の日本のカレンダーは、その品質から装飾用や贈答品として

人気が高いとのことで、トランクを開けるとカレンダーだけ探され、いつもより多く抜かれるので女の検査官と渡せ、渡さぬと

両端を引っ張りあいになったこともあります。


      鼻薬というか、アンダーテーブルというかは別として、このような検査官の行為は、マルクス・レーニン主義とは関係ない

封建社会ルーツ社会の宿痾であり、また潤滑油でもあるみたいです。 

 公務員の清廉さで言えば、交通違反の現場で警官が現金を受けとって違反者を見逃すということがない、世界でも数少ない国である日本は、

例え警察の上層部が捜査報償費の名目でやりたい放題でも、現場の警察官は現金の受取りをしない伝統を(当たり前のことですが)

ずっと続けて欲しいと念じるのみです。 ところでジャカルタ篇でも触れましたが、召し上げた現金や品物は個人で

ポケットに入れるのではなく組織でプールしておき、年末やお祭りの時に役所の安月給を補う為に役職に応じて組織内で

皆で配分すると聞きましたので念のため。


 3)ホテルにつくと各フロアーのエレベーターの前にフロントがあり、24時間人が詰めていて出入りをチエックしています。

フロントの人はこんなに肥ってもいいのかというオバサンが多かったです。(このフロアーシステムは中国でも昭和57、8年頃までの

北京飯店や友誼賓館でも同じでした。)パスポートをフロントに渡してからチエックインの手続きをし、半日くらいして返されます。

パスポートを持っていかれるというのは何度経験しても手元に戻るまで落ち着かないものです。 

どこの国でも荷物の整理が済むと誰かの部屋に集まり、最初は商社の担当駐在員からその国の仕事の心得のオリエンテーションが

あるのは同じですが、ソ連の場合は内容がかなり違いました。

(1)商談が始まると、どの部屋で内部打ち合せしても盗聴装置があるから、肝腎な話は筆談ですること。

    どうしても話しをして相談したいときは屋外に出てすること。

(2)最終の原価表は常に身につけて置くこと。部屋のトランクの中に鍵をかけて置いておいてもハウスキーピングの時に全部開けて見られるからと。


(3)ホテルから歩いては出ないで欲しいが、もし歩いて道路を渡る場合は青信号でも十分注意すること。

車は党の幹部など特権階級の乗り物だから一般人民をひき殺しても殆ど罪にならないので、専属運転手は猛スピードで飛ばしているからなどなど。


 日本の全国紙や「リーダーズダイジェスト」という昭和20、30年代のアメリカの反共宣伝月刊誌で共産国のイメージを

たっぷりインプットされている若手貿易マンにとっては、さもありなんと素直に納得でした。

   ソ連邦が崩壊したいまのロシアの事情はどうなのか大いに興味があります・・。

2000年代初め頃に記す。

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モスクワで横断歩道を渡るのは命がけだった。 昭和50年代の海外あちこち記 その14   (本編のみ昭和50年代ではなく昭和47年9月の体験)

2024年10月03日 | 昭和50年代の海外あちこち記

1)休日に高台にあるモスクワ大学の正門に連れていってもらいました。ここからは首都モスクワが眼下に一望できます。

森と河とネギ坊主の教会のクラッシクな大都会の中に、帝政ロシア時代以降、共産党政権下で建設された威圧的なだけで美しくない壮大な官公庁ビルも沢山見えます。

 この高台へ次から次へと、式を終えたばかりに見えるウエデイングドレスの花嫁と花婿が友人達と車で上がってきて、何枚もモスクワの町をバックに写真を撮ります。

はしゃいだり、ふざけたり本当に楽しそうでした。

人前結婚式の後、ここで写真を撮ってから、役所へ結婚届を出しに行くというのが、当時のカップルのお決まりのコースで若いモスコビッチ(モスクワっ子)が

早くあそこで写真をとりたいと憧れていると聞きました。

2)訪問先への行き帰りは、商社の車で移動しましたが、この車が猛スピードで街中を飛ばします。大通りを横断する人は命懸けで渡るし、

乗ってるこちらも生きた心地がしないほどです。助手席に乗ったベテランの商社駐在員が大声のロシア語でロシア人運転手を叱りつけると

ようやく速度を落としますが、次に乗る時は又同じことで、前以上に怒鳴って何とか平常の速度に戻ります。

 あまり同じ事が繰り返されるので、その支店次長である大堀さんに運転手を毎回こんなに怒鳴らんといかんのですかと聞きました。

彼の答えによると、オフィスの事務員から運転手まで全てソ連邦外務省に申請してその部局に登録している人間が派遣されてくる。

必ず雇用するように義務づけられているので断る訳にはいかない。

 また当然ながら、その中に諜報部門の人間(エージェント)も送りこまれ紛れ込んでいる。

社会福祉政策の故か殆どが戦傷者の退役兵だが、無学文盲に近いのもいてその場合は社用車の運転にしか使いようが無いのが派遣されてくる。

 しかし彼らには軍用車を運転する感覚しかない。

色々やってみたが、この連中はまあ犬が悪さをした時と同じで、その場で怒らないとわからない、と言いました。

 どうみても立派な顔立ちの白人を犬呼ばわりして叱り付けるとは、何と言うことやと顔に出たのでしょう。

彼からすぐに言われました。

 この国は日本と違って社会階層差がきついんですよ、連中も社会的に生まれた時からずうっとそういう扱いをされているから そういうもんだとしか思ってない。

 この運転手に、このご主人様はいくら猛スピードで飛ばしても怒らないと一回思われたら、命がいくつあってもたまらないと言われてしまいました。

3)当方は九州若松で、ギブミーチョコレートとアメリカ占領軍のジープを追いかけた最後の世代ですから、

白人と見ると無意識に一歩引くという「擦り込み」をされてしまっていたなーと思いました。

その商社のモスコウ支店の次長さんは、ソ連の中央官庁の幹部役人の前でも、いつも背筋を伸ばし、愛想笑い一つ浮かべず堂々と振る舞っていました。

こういう社会主義国家の首都で単身赴任を続け、貿易ビジネスをやっている日本人がいるんやなと実地に知りました。

 今思えば商社マンの中に、社会主義国ビジネス専門に携わるプロフェッショナルの分野があった時代かも知れません。

出会いとは面白いもので、この商社の次長さんとは、5年ほどたったあと、北京で中国支店長として駐在されている時にもお会いしました。 

 私は機械メーカーの営業部門の社員として幾つもの大手商社の、個性豊かな商社マンたちと国内外のあちこちで仕事を一緒にさせてもらいましたが、

モスクワで出会った大堀さんは、今でも忘れられない方々の中のお一人です。

 今思えば彼らは皆、プロの「仕事師」でした。

彼らの世代が去ったのちに増えたのは、「サラリーマン商社マン」でしたが、それは日本が豊かになったことの現れ、またその証明かもしれません。

 

 (画像は全てネットから借用。昭和47年当時現地で撮影したものではありません)
 
 (本編は1972年・昭和47年9月に私的な理由で突然モスクワに行くことになった時の見聞に基ずく)
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いつかもう一度訪ねてみたい中国の街 上海、天津。             昭和50年代の海外あちこち記  その13                 

2024年09月17日 | 昭和50年代の海外あちこち記

1983年(昭和58年)7月頃の体験です。


1)見られる

天津新港の郊外の港湾局の分局に行きました。

打ち合せが終わって、同行の人が図面などを片づけているので先に門の外に一人で出ました。丁度5時ごろだったのでしょう。

通勤帰りの人達の道一杯に広がった自転車の群れが、夕陽の中を長い影を引いて、大河のように一方向に向かって流れて行きます。

その人達が全員向こうの方から一点を、見つめながらペダルを漕ぎます。通りすぎても首を後ろに向けて、全員が見続けます。

はっと気がつくと、その対象はボクでした。見ているはずが、見られる対象になりほんの5、6分ですが、7、8百人の人が無言で

自分を見つめる経験は生まれてはじめてで、その後もありません。今日は珍しいものを見た?背広姿が珍しい?外国人だから?

どれも当たりのような気がします。他の国でもこんな経験はありません。あの無遠慮な視線はやはり中国人のものでしょう。

 2) お役所の接待所の宴会で。 
鉄飯碗」とは

もう何処の街か忘れましたが地方都市で、一行が夜、お役所の接待所の宴会に招かれました。次から次へと珍しい料理が出てきます。

メインテーブルは一人置きに招宴側の人が座り、料理を取り分けてくれます。これはおいしい自分でも取ろうと思った時は、

その大きな皿はもうボーイが下げていきます。何十皿と出て、次から次へと新しい大きな皿が来て殆どの料理がちょっと手を

つけただけの状態で、どんどんどん下げられていきました。人数ではとても食べきれない量が出ました。この時の料理がまた、

中国で食べた食事では初めてのメニューが多く、一番おいしく、もっと食べたいと思ううちに終わりました。

途中手洗いに立った時、たまたま隣の部屋のドアーが開き、80人くらいの宴会をやっているのが見えました。

その部屋に我々の部屋からボーイが皿を次々持ち込んでいました。後で商社の人に聞くと、役所全員の人間が集まり、

日本から客人が来たのでその接待ということで費用を落とし、OBも呼んでみんなで飲み食いしているとのこと。

我々は体のいい名目に使われているんだと。その後、こういう事を中国語で「
鉄飯碗」といい、どれだけ食べても尽きない意味だと知りました。

日本語の「親方日の丸」と同じ意味で、まあ言えば最近の外務省のプール金での仲間内の飲み食いと同じ事でした。

中国には民間会社はなく、全員が言ってみれば役所の職員ですから、いくら北京の中央政府が綱紀粛正を叫んでも馬耳東風で、

こういう事が全土に日夜蔓延していたようです。それにしてもあの宴会の規模の盛大さは凄かった。やはりスケールが違う。

3) 上海の西洋レストラン。

上海に行った時それまで、2ヶ月も中国をうろうろしていたので中華めしにも飽きて、上海には戦前からの西洋レストランがあると

聞いたので行きました。確か「赤煉瓦亭」とかいう名前だったと思う。古い洋館でした。清潔でしたが、内装は塗装が剥げ、

カーテンも時代物でした。客はほんの数組でした。フルコースを頼みました。期待に胸を弾ませて。

最初のスープで皆こらあかんと目が言いました。第2次世界大戦が終わって、西洋人が出て行き37、8年経っており、

調味料の輸入も途絶え何とか形は西洋料理でしたが、味付けが中華風と言うか何と言うか得体の知れない食べ物でした。

最後のアイスクリームだけは抜群で皆ほっとして店を出ました。当時ほそぼそと戦前からの一族が店を続けていると聞いた

ように思いますが、今近代都市に大発展をした上海であの店がどうなったか、もう一度訪ねてみたい気がします。

ところで当時から「上海牌」上海ブランドは、中国各地製の電気品や衣服より高級イメージが、出来上がっており、

他の都市と違う扱いでした。また、今の朱首相など中央政府の幹部は、上海出身者が固めており北京という行政都市をも上海閥が牛耳っているようです。

(本稿は2000年初め頃作成)

画像は全てネットで1980年代の天津・上海として検索したもので阿智胡地亭が出張当時撮影した写真ではありません

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インド・ムンバイでお世話になった商社駐在員の家族        昭和50年代の海外あちこち記    その12  

2024年08月29日 | 昭和50年代の海外あちこち記

ボンベイ(ムンバイ)によく行った昭和55年頃は中印紛争の余韻が残っている時期でした。

中印紛争のあおりでボンベイ市内に数多くあったという中華料理屋はみんな店を閉めてしまい、

オーナーの中国人は国外に出てしまっていました。

そのため、中華メシは海外のどこに行っても食えるという安心感がこの都市では無くなっていました。

 これで困ったのが日本からメーカーの人間を印度の商談に呼ぶ日本の商社です。日本メシ屋は当然ない、中華メシ屋もなくなった。

ホテルの西洋料理屋では牛肉を使ったメニューはハムステーキくらい。メーカーの出張者に一日三食何を食べさせたらいいのか。

 インド料理のスパイシーなおいしさに、その日からはまった私などは例外中の例外らしく、殆どの日本人はインド料理=カレー料理=辛い→とても口に合わない、

というイメージが強く、ハナから敬遠してしまいます。

実際は辛いといっても、辛さそれ自身は知れているし、辛いというのではなくスパイスの旨みであり、スパイスも種類が豊富で野菜の使用量も多く

健康食の一つなのですが、日本人に長年CMなどで刷り込まれた<インド料理は、辛い料理>という既成観念は凄いものだと驚きます。


 ボンベイのオベロイホテル滞在も何日か過ぎ、毎食、果物とパンとコーヒーだけしか口にしない人も出て来たある朝、

東京から同行した商社・M商事の長谷さんが「皆さん、今晩は楽しみにしてください。カツドンと味噌汁と漬物を食べてもらいます。」と言いました。

「おおーっ」と皆どよめきましたが、雰囲気はどこでそんなもん食えるんやと半信半疑でした。その夜、機械担当駐在員の車でオフィスを出ました。

5人のメンバーは結局、彼の自宅のアパートに招待されたのです。


 ダイニングキッチンのテーブルにはもう日本の家庭料理の皿が沢山並んでおり、奥さんに挨拶して全員ニコニコ顔で、席につき次々おいしい日本食を堪能しました。

狭い台所の横のテーブルですから奥さんとインド人の料理人が大車輪でコロッケやポテトサラダなどを作っているのが見えます。


 さすがに日本酒はなかったけど、インドでいいものが出来るジンやスコッチ類は飲み放題で、久しぶりにゆっくりとした頃、家の中を見るとも無く見ると

前に住んでいた千葉県南柏の3DKの社宅のアパートとよく似た間取りで、時々小学生くらいの娘さんが台所の隅を通ってトイレに行っているのが見えます。


 大阪支店から数年前にボンベイ勤務になったと聞いていましたが、旦那も奥さんも大阪出身の「ジュンカン」

 (純粋の関西弁を喋る人を表す言葉)で、ボンベイで聞く大阪弁は耳に心地よく響きました。

奥さんにも話の輪に入ってもらい、日頃の生活ぶりを伺いました。

料理をしているインド人は代々の機械担当駐在員が引き継いでいる料理人だそうです。

彼は日本の家庭料理は何でも出来ます。私よりレパートリーは凄いンですと笑っておられた。

彼の家はここから半日ほどバスで行く町で、半年に一度休みで帰るくらい。普段は住み込み。

見た目50歳くらいの温和な白髪交じりの人で、恥ずかしそうに少し日本語をしゃべりました。

 買物などにもついてきてもらう。最初のうちはとても一人で買物は出来ない。

お嬢さんは小学5年と中学一年の二人、確かアメリカンスクールへ通っていると言われたような記憶。

 二人は、はにかみながらも最初にきちんと挨拶してくれた。

奥さんは「商社やからどこへ行け言われても、いかなあかんけどボンベイとは思いませんでした。

まだしばらく帰してもらわれへんと思うから、もう少しここで頑張らんとネ、ハハハ」と笑って言われた。


 こうして旦那の会社の仕事のためとは言いながら、夜、自宅を取引先のいろんな会社の人に提供して

(担当者だから決して広いアパートではなかった)

酔っ払って遅くまで帰らぬ客の為、子供さんも影響されながら頑張っておられる日本人商社マンの家族。

申し訳ないがお名前を忘れてしまったけど、こうするのは当然の事という感じで自然体で遇してくださった

奥さんとあのご家族のことは忘れられません。


 後で長谷さんに聞くと、インドの華僑がインドを出てしまい中華料理屋がなくなってから、

ボンベイの駐在員の家族には悪いけど、ああして自宅での接待を頼んでいると。

 外人が住めるような住まいが少なく、家賃が恐ろしく高いので狭いアパートしか会社も借りてくれない。

コックの給料と食事の材料費と酒代は当然会社持ちだが、奥さんと家族の貢献代は給料のうちで会社は持ってくれない。

機械担当は商談数が一番多く、納入業務も多くいろんなメーカーからいろんな人間がボンベイに来ます。

エライさんからペイペイまで、グループ各社のVIPも含めて。

ウ~ンできんこっちゃと正直思いました。あのクーラーも効きかねる暑さのボンベイの日本飯、感謝感激でありました。

 ついでながら、いま、神戸に生まれ神戸で育った人たちに神戸に数おおいインド料理屋を紹介したり、

(代々の神戸人は意外に保守的で、新しいものに手を出さない人も多い)

正月の初詣の後はインドレストランで飯を食う事を習慣にしている我が家は、やはりこの私のボンベイ出張がインド料理好きの初めの始めです。

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   阿智胡地亭便り#91<ボンベイから出した手紙> 2005年9月6日 記

自分の子供時代の品物を整理していた長女が、「お父さんがインドから送ってくれた手紙が出てきたよ」と言って、その手紙を私の所へ持ってきました。

 読んでみると、長女の小学校の入学式のことが書いてありました。それからすると昭和55年(1980年)の4月ごろに、インドのボンベイから、

当時住んでいた茨城県北相馬郡藤代町(現取手市藤代町)の自宅に出した手紙です。(当時のボンベイは今はムンバイという名になっています。)


     泊まったホテルはオベロイホテル。

「Y子へ

 おとうさんは おしごとで たいわんから また べつのひこうきにのって いんどの ぼんべいというところへ きています。

ままに ちづでどこか みせてもらいなさい。いんどの人ひとはいろが みなくろく にほんじんとは かおやからだつきが ちがっています。

 Y子のにゅうがくしき おめでとう。おとうさんが いえへかえってから にゅうがくしきのときの ようすを

おはなししてください。おとうさんの にゅうがくしきのときは きゅうしゅうの わかまつ ふたじま というところに いました。

がっこうのさくらのはなが まんかいで きれいでした。

これから あたらしいことを たくさん べんきょうして よくかんがえるこどもになってください。そしてじぶんのかんがえを はっきり いえるようにしよう。

 M子と なかよくしていますか。ときどきはけんかしてもいいけど(M子がわがまましたりするとき) ままと M子と みなで なかよく

ぱぱのかえりを まっていてください。では げんきで まいにちがっこうへ かよってください。 ぱぱより。」



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ロンドンとスコットランドのグラスゴーで感じたこと       昭和50年代の海外あちこち記  その11  

2024年08月17日 | 昭和50年代の海外あちこち記

1977年1月入国。

1)ある国際入札の準備のためグラスゴーのコンサルタント会社を訪ねてグラスゴーに行った時、日曜日に有名な大聖堂に行きました。

大きな聖堂でその長い回廊のところどころに、プレートが掲示されており、読むと「千六百年代の何月何日、

当地の伯爵家の長男デイビッド・マッカラム・ジュニア(例えばですが)がエジプト戦争に出征し、

勲功を挙げたが惜しくもカイロ近くのエジプト軍との激戦で戦死し、遺体はここに眠る」というような事が書かれてありました。

 こういう風にほかにも多くのプレートが掲示されていました。墓地でなく人が踏んで歩く協会の廊下の下に埋葬?と言う事と、

イギリス人(彼はスコットランド人の支配階層の一員ですが)はそんな時から、他国へ戦争に行って領土拡張に励んでいたんだとの二つのことを思いました。 

 後でキリスト教の死後の世界の認識を読んで、キリストが再生する時に、共に再生するため教会の中の祭壇に近いところに埋葬されることが、

信者の願いということを知ってそういう事かと思いました。

 にしても洋の東西を問わず、人間の考えたり、することは、そうは違いません。地獄の沙汰も金次第。死んで埋められる場所も身分と金で違ってくる。

ヨーロッパ各国の教会の地下墓地にミイラ化した遺体が沢山置かれているのも、その時々に上流にいた人達が死後の世界でなく永遠の命を願った証であるようです。 

 

  2)ロンドンの町は何度行ってもどんよりした曇り空、石炭の煤で薄汚れた家々が並んでいたという記憶しかありません。

煉瓦の舗道で街路樹も少なく殆ど街中には緑がなく、同じような造りの集合住宅が続きキレイな町並みだなあと思ったこともありません。


 こんなとこで暮らしたイギリス人は一度太陽のふりそそぐ外地(植民地)へ出たら、二度と帰って来ようとは思わないだろうなと思いました。

「小公女」だったかの小説で主人公のセーラが、両親がインドに駐留する軍人家族のため幼い時から学校の寄宿舎暮らしをしていたのを、

また寄宿舎の学生が殆どそういう境遇だったことを思い出しました。

 当時から沢山のイギリス人が軍人や官吏で植民地に出ていたのです。アフリカ、インド、アラビア半島、東南アジア、と相当古い時代から

ユーラシア大陸の日本の反対側の島国の住人達は寒くて貧しい土地を出て、陽光燦燦たる他人の土地へ渡って行ったけど、この環境ならそうだろうなと思いました。

 

3) 学生時代の1961年頃に見た映画「土曜の夜と日曜の朝」というイギリス映画は、機械工場に勤める工員が主人公でした。

それまであまりイギリス映画に取り上げられなかった労働者階級の日常を題材にしたシャープな映画でした。出演者に美男美女は一人も出てきませんでした。

 彼の家は煉瓦造りの長屋で、居間の場面が写ると、いつも退職した父親が、カメラに背中を向けてテレビのサッカーの試合を見ていました。

居間の場面が出ると必ずいつも父親はサッカーの試合を見ていました。

いまサッカーが日本でもポピュラーになり、こんなスピーデイで面白いものだったのかと知りましたがメディアの解説の中に、

ボール一個あれば誰でも出来るサッカーは、イギリスでは中流以下の階層が熱狂的に愛好するスポーツになったとありました。フーリガンの出身階層とも。

 通りがかりでは表面の勝手な印象と先入観でしか、その町と住人を見る事は出来ませんが、都心を外れて下町を車で通ったり、

汽車の車窓から場末を見たりするロンドンは生まれた階層によってえらく差のきついところみたいだなあと思いました。

(2002年記)  [画像は出張当時のものではありません。全てネットから借用しました]

 
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翌年に暗殺された朴大統領が浦頂製鉄所の式典に出席した日に現地にいた。  昭和53年      昭和50年代の海外あちこち記  その10 韓国篇         

2024年07月26日 | 昭和50年代の海外あちこち記

1978年(昭和53年)11月、韓国の浦頂に出張しました。

韓国出張は浦頂製鉄所の竣工式セレモニーに出席の役員に随行など、2泊3日の出張を含めれば、10回以上の回数になります。

 随行の仕事は、どうしても新米の貿易部員にまわってきます。

役員のお供で浦頂製鉄所の操業が始まって間もない頃の何かの現地式典に行きました。この式典に故 朴正煕大統領が出席することになりました。

 其の日の数日前から浦頂の町は警備の人間の方が多いと思えるくらいの厳戒体制に入りました。

ソウルの青瓦台にある大統領府を北朝鮮の潜入ゲリラが襲ったりした頃で、北のテロ、破壊活動を警戒して

市民の夜間外出禁止令が継続されていた時代です。

 軽機関銃を入れたような箱を抱えた目付きの鋭い人間や、戦闘服をきた警護隊員が威圧的に徘徊していましたが、

外国人は指示有るまでホテルから出るなと言われていたので、そうっと窓から見ただけで詳しいことはわかりませんでした。

浦頂の町は無論、製鉄所の構内すべてに空気が凍ったような緊張感がみなぎり、不審者は誰何(すいか)なしに射殺されると言われ、

気楽なお供の出張やと思ってやってきた是一個的能天気日本会社員のボクとしては大いに焦りました。

 巷の噂では空からヘリ、海からフリゲート艦、陸から装甲車の、どのルートで現地入りするかは当日の朝少数の人にだけ知らされるということで、

どのルートで来ても警護出来るように3倍の体制が敷かれているということでした。いつもは随行者も式場に入場の許可が出るのですが、

この時は役員だけの参加許可だったので後で伺うと、時間寸前に会場に大統領を乗せた武装ヘリが降り立った、とのことでした。

不謹慎ながらゴルゴサーテイーンの劇画の中に身を置いたような気がしました。

  当時のこの国営製鉄所の経営幹部は殆ど前身が韓国軍の将官、士官で固められており、厳しい規律で建設、運営がなされていました。

北に対して太陽政策が取られる時代が来るなど誰も想像もせず、朴大統領のカリスマ性のもとで、

ひたすら強国化のための重工業インフラ整備に邁進していた時代です。

 その後、これらの建設で国家からバックアップされ資本を蓄積した現代など8大財閥の興隆時代があり、大発展時代あり
バブル没落がありと

隣国の変化も日本にまけず、大変なスピードで移り変わっています。

 韓国料理が大好きだからという訳だけではなく、この見た目は同じでも、ここまで違うかと言うこの隣国には

(あのタフな連中と少しくお付き合いをしただけに)、関心をずっと持ち続けています。

ただ中国、台湾の町であれば看板を見れば何の店かわかるのに、韓国では看板は全てハングルですから、わからないのが困ります。

   ( 2000年 記)

 画像はネットから引用。

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真冬のモスクワのレストランの外に市民が並んで待つ。 タクシーに乗り込んでくる女性     昭和50年代の海外あちこち記  その9  モスクワ

2024年07月16日 | 昭和50年代の海外あちこち記

モスクワには何回か出張しましたが、この出張は1982年10月頃のことです。

 

1)ホテルのレストランばかりでも飽きるだろうと、ある晩、街の中の有名レストランを商社の人が予約してくれました。

店の外はもう寒さが厳しい10月というのに沢山の人が毛皮のコートと帽子に身を固め、ドアの外に列を作っています。

我々が車から下りて店に入ろうとすると門番が扉を開けてガードして入れてくれました。別に非難がましい視線があるわけではなく、

金を持った外人客が予約で来たんだくらいの感じですが、テーブルに案内されてふと窓の外を見ると、

並んでいる人達が店内をじっと覗き込んでいる顔、顔が見えて、種類は多いけど殆ど塩辛目の料理もうまくなく、落ち着いてメシを食う気分になれませんでした。

キャンセル待ちをしている連中だから気にしないでと言われましたが、我々は金をはずむ約束で予約に割り込んだ客に違いないと思いました。

 これを当然と何とも思わぬようにならないと、当時の社会主義国の商社駐在員はシンドイのだろうと思いましたが、

あの列に並んでいた人達の無表情の静けさがいまだに頭に残ります。

 こういうもんだとただじっと待つことの出来る人達は当時の中国とソ連の国民だけだったような気がします。

 

2) 数人でデパートに行きました。夕方、帰りのタクシーが途中急にスピードを落として停まったと思うと、

助手席にブロンドの女性がさっと乗り込んできました。これはなんじゃと思う間もなくタクシーは動き出しました。

ホテルのエントランスに車が滑り込むと、彼女はニコッと後ろを振り向きざま車を下り、

いつもは厳しいチエックの門番に手を振ってホテルの中にフリーパスで入って行きました。

 我々はキツネに抓まれたような思いで車を降りました。

日本で言えば帝国ホテルクラスのホテルのロビーには、毎晩夕方には曲線に富むヤングレデイーが沢山現れ、

この日も花のように群れていましたのでああそうか、世界最古の職業につくお嬢さんがご出勤に遅刻して、

我々のタクシーに乗ったんだとようやく気づきました。 タクシーの運転手とはお仲間なのでしょう。

 あるとき長期宿泊客の誰かが、当局に「あまりに彼女たちがホテル内を跋扈して目に余る、何とかしろ」とクレームしたところ、

我が国にはそのような職業は存在しない。存在しないものは取り締まれないとすげない返事だったとのことです。

当時の外貨入手の大きな手段の一つでしょうから、ホテルもタクシーも警察も一蓮托生で彼女達をサポート?していたのでしょうか。 

 

3)日曜日にボリショイサーカスに行きました。ほぼ満員で大人も子供も心から楽しんで、我々も腹の底から笑ったり、

ひやひやしたり手に汗を握ったりして楽しみました。

さすが本場でのボリショイサーカスは仕掛け、規模、登場の動物の質量などこれぞサーカスという感じでした。

 ふと舞台の空間の丁度真向いに黒っぽい、勲章一杯の軍服姿の東洋人夫妻と見える組が二組いるのが見えました。

そこだけ別空間のように笑いも拍手も笑顔もないので気づいたのだと思います。女性はチマチョゴリの正装ですから、

ああ北朝鮮の駐在武官か本国から偉いさんが来ているのだろうとわかりました。


 その後見るとも無しに見てしまうと、ピエロの抱腹絶倒の演技でもニコリともせず、そこだけ別世界の終始静かな空間でした。

笑っては恥、領袖様に申し訳ないということだったのでしょうか。よくわかりませんが、サーカスを本心楽しんで大騒ぎしているモスクワの老若男女の中で、

彫像のように身じろぎしない、顔色の悪い、小柄なあの4人の方は不思議な存在でした。

 (画像は全てネットから借用。訪問当時の写真ではありません)

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中国・北京飯店で食べた「冷や麦 」は涙が出るほどおいしかった。      昭和50年代の海外あちこち記  その8  

2024年07月01日 | 昭和50年代の海外あちこち記

1)はじめて中国に出張したのは1979年8月のことです。北京の町はまだあの緑色の人民服の人たちと自転車で一杯でした。

マイクロバスで同行の人たちと交通部(運輸省)へ行く途中にえんえんと続く高い塀を巡らせ、門ごとに拳銃を吊るした紅軍の兵士が

厳めしく門衛をしている広大なエリアがありました。「ここは何ですか?」とアテンドの外事課のエリート役人の若いミス曹に聞くと

「共産党のカンブー(幹部)が執務をしたり、住んでおられる「中南海」というところです」と敬意のこもった口調で教えてくれました。


自分がそれまで何となく持っていた共産主義の国は皆平等という概念がありゃこれは違うとまず感じた最初の一歩でした。

女性の幹部も多く、男女差別は殆どないようでしたが、一般人と幹部クラスの生活は天と地ほどの差があるようでした。

例えば百貨店の玄関に、当時でもあまり見かけない紅旗という国産の運転手つき大型高級車が何台も女性や子供を乗せてやって来ます。

「あの人たちは誰ですか?」と聞くと「幹部の専属車でご家族の方々が買い物に来られておられます」とミス曹はこれまた当然のように答えました。

2)技術交流という名目の費用当方持ちの勉強会ですから、先方も気を使って日曜日に万里の長城にマイクロバスで案内してくれました。

まだ観光客相手のレストランもなく昼食もすべてバスに積み込んでありました。長城はさすがにこんなものを作った漢民族の底の知れぬ力と

これを作らせた匈奴の想像の出来ない恐ろしさ、威力の両方を思いました。

7月の暑さでお湯のようになった心尽くしのビールで乾杯をして、パサパサのサンドイッチを食べながらの話の中で、

「何百年もかけてこの長城をつくるために中国全土から徴用された労働者を出来るだけ長く働かせるために毎食食べさせたものがあります。

また、もう一つ月からも肉眼で見える人工構造物であるピラミッドを造るエジプト人労働者に同じく食べさせたものがあります。

それぞれわかりますか?」と聞かれました。両方の正解は誰も出来ませんでした。



  答えは中国が「にんにく」、エジプトが「ゴマ」でした。

 3)北京の有名な焼き肉屋

 出張業務が終わり、気のいいメーカー(ボクの元勤務先)を中国へ連れ込んだ商社が「清の国」以来、北京でも有名な羊の焼肉屋で打ち上げをやってくれました。

 後日札幌でサッポロビールがやっているビール園で焼肉を食ったとき、同じ道具が出てきたので、北京の「ヨースーロー」だったか?のあの店の道具を

そのまま真似していると思いましたが、半球型の鉄板で焼いた羊肉を腹一杯食べました。

  漢民族の中国に「元の国」を作った蒙古族や「清の国」を作った満州の女真族の後裔も今の中国に当然中国人として暮らしていますが、

いまやその出自を隠しているという話を元清の高官の出の一族と称する、いま中国政府の運輸省の下っぱの酔っ払ったお役人から宴会の席で聞きました。

中国は多民族国家やなーと実感し、かつ差別はどこの人間、地域、いつの時にもつきものやなーと思い、漢民族中心主義は共産主義体制と関係なく

しっかりずっとあるのやなーと思いました。 

  4)北京飯店の冷や麦     1983年8月ごろに出張したときの話です。

 当時の中国のホテルはどこもいつも満室で、殆ど毎晩違うホテルを商社の佐藤さんと二人相部屋で渡り歩きました。

 人気のタバコ、セブンスターを一箱フロントにつかませると、満室のホテルにも突如空室が一部屋出てくることがあります。

 ある日曜日、ようやく泊まることが出来た郊外の古い「北京中央体育館付属飯店」からバスで北京一のホテルである北京飯店に麻雀とメシに行きました。

 北京市内を一人でバスで行動すると(当時はタクシーが極端に少なかった)乗客全員から毎回奇異というより冷たい目で降りるまでずっと注視され続けました。

当時背広を着ている人間は、人民服の北京普通市民から見ると全員外人ですから、戦前の日本と同じで外人はみなスパイ?敵性人?と

いうことかなと能天気な身も思わざるを得ませんでした。(特にまたどう見ても典型的な日本人の私にとって)。

  北京飯店の中に商社のオフィスがあり支店長が住んでいます。支店長は二部屋持っていて一部屋を支社員全員の会議室兼娯楽室にしていました。

 マージャン卓もその部屋にありました。

ホテルに着いたら、ちょうどメインレストランで日本の「冷や麦」をホテルのコックに作らせて、

その広い娯楽室で中国出張中の各メーカー社員達と駐在商社員が十数人で食べはじめるところでした。

 3ヶ月近く北京、天津、大連を渡り歩いて、ほとんど中華料理しか食べてない身にとってこんなうまいものがこの世にあったかと涙がこぼれそうでした。 

(画像は全てネットから借用。当時、阿智胡地亭が撮影したものではありません)

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アメリカのニューオーリンズへ水平引き込み式クレーンを対米初輸出するのに営業担当として参加した。      昭和50年代の海外あちこち記   その7 

2024年06月18日 | 昭和50年代の海外あちこち記

1978年と1980年の2回 アメリカのニューオーリンズに行きました。

 ミシシッピイ川河口で、上流からハシケで運ばれるカオリン(お白粉などの原料)を本船に積み替えるのに

旋回式水平引込みバケットクレーンが最適ということで、色々な経緯がありましたが受注が決まり、河口の真ん中に基礎を打ち、

その上に日本製のクレーンが設置されることになりました。水平引き込み式クレーンのアメリカへの輸出はこれが初めてでした。

☟(富山県伏木港へ納入された同型の旋回式水平引込み式クレーン。 アメリカ納入機には車輪はなく固定式で、ロープの先端に大型バケットをつけた。

(旋回式クレーンは上部全体が360度旋回する。)

 愛媛県の工場の岸壁から 上部と下部に分けて組み立てしたクレーンを台船に乗せ、高馬力の曳船で太平洋を渡り、パナマ運河を通り、

メキシコ湾に入りサイトの近くまで辿り着いたとき、折あしくハリケーンが近付きタンパ港へ緊急避難するなど紆余曲折がありましたが、

無事クレーンを載せた 曳船に引かれた台船は太平洋を押し渡りミッシッピー河口に到着しました。

そして吊上げ工事も完了し、うまく所期の機能を発揮しお客さんに喜ばれました。

 以下の体験は海上輸送や現地工事の前の、注文が決まった前後の時期のことです。

発注内示後の契約書条文の確認を営業担当としてする場所は、お客さんの本社があるニューオーリンズでした。

  ニューオーリンズの街

 街はミシシッピー河口に位置するせいか、市中はかなり湿度が高く、空港について冷房の効いた飛行機から機外に出ると、

あっというまに眼鏡が白く曇り何もみえなくなりました。 湿度が高い上にホテルの冷房の具合も悪く、下着を洗濯して部屋に吊るしても殆ど乾かずまいりました。

 郊外に車で出ると木々のどの枝にも高温高湿のせいで地衣類が着き、長い毛をたらしていて何となく不気味でした。

昭和30年代の始め頃、この町に来たことがある亡父の アメリカ土産の中にあった絵葉書を見て、気味が悪かったので覚えており、

その地衣類の実物を自分の目でもみることになり、親子2代でニューオーリンズに来ることになったのも不思議なことでした。

「欲望という名の電車」という芝居の舞台となった町で、当時も路面電車が走っており昔フランスの植民地だった頃の

コロニアル形式の今はペンキも剥げかけた木造の家並みが、森の中にけだるく幽霊のように立っていました。

繁栄時から時が経ち、時代に取り残された町がここにもありました。


 ジャズとフレンチクオーターとナマズ料理

 ニューオーリンズと言えばジャズです。もちろん土曜日、日曜日は出張チームのみんなでフレンチクオーターに繰り出し、遅くまでジャズを楽しみました。

そして名物料理はナマズ料理と言う話です。夜が来るのが楽しみでした。

まあ刺し身は無理としても焼き物、煮物などどういうふうにやっつけてくれるのか。土地で有名なレストランに入り、

バドワイザーを飲みながら待つこと暫し、出てきたのはナマズのフィッシュボールの揚げ物が皿にどさりでした。

 やはりそこはアメリカでした。フライドボールの山を前にして一人ため息をつきました。

おいしかったけど「洗鱠」や「鯉こくならぬ鯰こく」を想像したのが間違いでした。期待が大きかっただけに落胆の度合いが大きかったです。

 南部という土地柄を感じた

あのじとっとした空気の中で北部のニューヨークと違って、何となく去勢されたような黒人が遠慮がちに町を歩いていました。

本屋でもプレイボーイなどの雑誌が置いてある一角にはロープが張ってあり黒人は入れないようにしてありました。

白人女性のヌード写真は彼らには見せないということだったのでしょう。

 先日テレビの深夜放送で、シドニーポワチエが主演した「夜の熱気の中で」という映画を20数年ぶりに懐かしく見ました。

南部の町に別件捜査に来たNYの黒人刑事が殺人事件に巻き込まれ、偏見の目の中で地元の署長にも反発されながら、

事件を解決して去っていくという流れ者ヒーロー西部劇を当時の南部に置き換えた映画です。つい終わりまで見てしまいながら、

南部と北部での黒人系の人達の意識の差や白人系住民の彼らの扱いの差を、通り過ぎのよそ者ながら感じたことを

あのニューオリンズの出張の記憶と共に思い出しました。

 頭では、差別はよくないと思っていても、夜 ニューヨークで(当時  ニューヨークの今は崩壊してなくなったOneワールドトレードセンタービルに

会社のニューヨーク支店があり、アメリカ出張の時には必ず寄っていた)一人で飯を食いに行きホテルまで帰る道すがら、

ビルの間で目だけが白く光って見える黒人にじっと見られた時の気味の悪さは、理屈ではなく体がすくみました。

アメリカという国は日本と違って大変な幅の人間を含んで成り立っているんだなと、その大変さをつくづく思います。

それと同時に、映画や小説に出てくる少数民族の扱いが変わって来ているように、

少なくとも表向きは公平性を拡大していることにも凄い連中やなあとも思います。

 (2002年頃メールで友人知人に発信)    (画像は全てネットから借用。当時、阿智胡地亭が撮影した写真ではありません。)

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台湾高雄、ニューデリー、パリで経験した支払いや両替時の金額確認の重要性。     昭和50年代の海外あちこち記  その6  

2024年05月28日 | 昭和50年代の海外あちこち記


1、台湾で(中国本土も同じですが)お客さんの招宴を受けた翌日は、必ずこちらが同じメンバーを招待して宴会をします。

紹興酒で乾杯、乾杯の連続でそれほど酒に強くないホスト役の上司も勘定の時はフラフラです。

しかし驚いたのは、このぐでんぐでんに酔った課長がたくさんオーダーした料理の勘定書の長い長い明細書を一品一品

身体をゆらゆらさせながら、注文していない料理まで請求されていないかどうかを チエックしていきます。

そしてレジのおばさんにこれは頼んでないよと何品か確認していきます。

 大声でもめながらも おばさんがボーイに聞いてオーダーしてなかった料理を消して再集計しました。

お客さんが紹介してくれた一流の店なので、ひやひやして そばについていました。

後で上司に「いつもこうやらんといかんのですか?」と聞くと、

外国ではこれも当たり前、時々注文もしてないのに紛れ込ませて請求されることがある。

日本人はいつもノーチエックで支払うと思われると、この後に来る日本人がなめられて迷惑するから必ずやってください」 と言われました。

 この勘定書の明細表の一品一品のチエックは いやあホンとになかなか慣れませんでした、普通の日本の習慣が身に付いたボクにとっては。

2、インドのニューデリーのホテルの両替窓口で円をルピーに換えました。

その場で数えるともらったルピーが掲示されているレートで計算した事前に想定した金額と違いました。

金額が合わないというと、平然と机の下から差額相当分を出して来ました。素早くしかも顔色一つ変えずに。

 翌日、日本の農協VIPの使節団が同じホテルに泊り,同じ窓口でたくさんの人が 両替し誰もチエックしなかったため、

その場は誤魔化され後で気がつき ホテルの責任者ともめていました。しかしチエックしない方が悪いという考えには日本人はなかなか慣れませんね。

3、パリの銀行でフランに両替しました。窓口の女性はキュートなパリジェンヌです。

やはり渡された金が数えると足らず、文句を言うと机の下からこれまた素早く平然と出してきました。

手品みたいに数枚抜くようです。ぼんぼん顔のボクだからなのか、覚束ない英語のせいなのか、日本人はお札をその場で数えないと知られているのか・・

しかし上司の台湾でのOJT(現場教育・指導)のおかげで、必ずその場でお金を数える習慣が身に付いていたので、海外のどこの国でも一度も実害にはあいませんでした。

 (アメリカのあちこちのホテルでは 当時よく国際電話代という印字が請求書にあって 支払いの時にこんな電話はしていないから項目と金額を消せ、

いやかけたとか不愉快なやりとりをしたものだ。)

 ボクが子どものころ住んでいた町に、時々外国の貨物船がつき、外国人船員が食料品を買いに近所の店に来ていました。

そこの店主は船員相手には2、3倍ふっかけて売ると評判で、皆の噂になっていました。

人間の持つ「せこさや狡さ」は11面観音の一面ですが、いずこの国の人間も変わりませんね。

(画像はいずれもネットから借用。当時の写真ではありません。)

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1人でバスに乗ったら。   台湾高雄、ホノルル、北京で。          昭和50年代の海外あちこち記 その5

2024年04月21日 | 昭和50年代の海外あちこち記

1)台湾の高雄で出張中に休日に一人で市営バスに乗りました。

降りるときに車掌に料金を払おうとしましたが手に広げた小銭を見て車掌が何かぶつぶつ言います。

 どうも金額が足りないらしいが言葉がわかりません。

あわてて紙幣を出したが大きすぎたらしく、又文句を言います。(ように思えました。)

そのとき、すぐ後ろの席の年配の女性が席から つと立って、ボクの手のひらに小銭を足してくれました。

そして車掌に何か言いました。車掌が全部の小銭を受け取って下りろとボクに身振りをしました。

彼女の方を振り向いて謝謝と言ったら、少しはにかんだ少女のような笑みを浮かべて軽く会釈を返してくれました。

ボクはこういう時の常で全身に汗をかいて急いでバスを降りました。

(昭和54年ごろ。当時、中国鋼鉄<CSC>に搬送設備の納入業務で高雄によく行っていた。)

2)ハワイ州電力庁の幹部との面会日が決まるのに時間がかかり、ホテルで待機していましたが泊まったホテルはワイキキビーチのすぐ傍で日本の観光客で一杯でした。

本来の目的が果たせるまでは泳ぐ気にもなれず、同行の技術屋さんも皆手持ち無沙汰でした。ようやく翌日にアポイントが取れたので、その日は自由行動としました。

暇なので市内循環バスに乗ってみました。

バスが市街地を離れていくと「満腹食堂」や「妹尾美粧院」などの古びた日本語の看板が出ている集落に入りました。

道路の舗装も穴ぼこだらけで、街を歩く人はお年寄りの日系人だけでした。町並みはペンキが剥げた家が多くて寂れていました。

一瞬日本のどこかの裏町を走っている錯覚におちいりました。

ホノルルのダウンタウンからわずか20分くらい走っただけのところに、このような集落が次々表れました。

表のホノルルと別の顔のホノルルを見たような気がしました。

しばらく走ると高台に出ました。ダイヤモンドヘッドを左に見てワイキキビーチが真下に見えます。

ふと面白いことに気が付きました。ワイキキビーチの左側4/1が真っ黒に人で埋まっています。

そして右の4/3は広大で人はまばらにポツポツとしか見えません。私が泊まっているホテルは左側でした。

なんでこんなに極端に密度が違うのだろうと不思議でした。

 あとで聞くと左側は日本資本が買ったホテル街、右側はもともとのアメリカ資本が所有しているアメリカ本土観光客向けのホテル街でした。

そうか泊まったホテルの前の浜に日本人ばかりが、芋を洗うように密集していたのはそういうことかと完璧に納得でした。

(昭和55年ごろ。ハワイ州電力庁の発電設備計画に石炭火力があることがわかり、大型港湾荷役設備の売り込みに行った。)

3)北京市内を一人でバスで行動すると(当時はタクシーが極端に少なかった)乗客全員から毎回奇異というより冷たい目で降りるまでずっと注視され続けました。

当時背広を着ている人間は、人民服の北京普通市民から見ると全員外人ですから、戦前の日本と同じで外人はみなスパイ?敵性人?と

いうことかなと能天気な身も思わざるを得ませんでした。(特にまたどう見ても典型的な日本人の私にとって)。

国営の新聞、ラジオ、テレビしかない(当時はインターネットがないから、お上の言う事と違う情報は一般市民は誰も入手出来ない)国へ普通の民間会社の人間が商売で行って、

日本の大手メデイアのデスクがフィルターにかけた駐在員報道と、随分違う面白い経験をしたのかも知れません。

 そうは言っても仕事で付き合う自分と同じような中国人と、あのバスの乗客達の落差は、生身で個人的に一回でも付き合えば埋まって行くこともいろんなことを通じて実感しました。

(昭和57年ごろ。中国3港港湾設備近代化の世銀入札案件で中国に3ヶ月ほど出張していた。)

*画像は全てネットから借用。

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早朝のパリの街路 & 四日市の港中学校の後輩がオーナーシェフのパリの日本料理店「伊勢」       昭和50年代の海外あちこち記 その4

2024年04月02日 | 昭和50年代の海外あちこち記

1977年にパリに3回出張しました。

 森村桂さんの往時のベストセラー「天国に一番近い島」の舞台、南太平洋のニューカレドニア島は旧フランス領で、ニッケル鉱の世界の一大産地です。

ニッケル鉱山から積出港までの長距離コンベヤ設備が計画され、その設備の国際入札に所属貿易部が参加しました。ニッケルの鉱山会社の本社はパリにあります。

1)ある朝6時頃、ホテルで目が覚めてタバコが切れているのに気づき、外に買いに出ました。小さなホテルで自動販売機なんかありませんでした。

道路に出ると、昨夜はなかった物が驚くほど沢山落ちています。

 よく下を見て歩かないとすぐ踏んでしまうくらいそこらじゅうにあります。それは犬の糞でした。

マンションやアパートなどの集合住宅で飼われている犬達が早朝飼い主に散歩に連れ出され、排便したものでした。

フランスではポピュラーな煙草、ジタンを買ってホテルへ帰る途中、

大きなタンクローリーが走ってきて道路中に水を撒き、犬の糞を側溝へ押し流しているのが見えました。

ああそうかパリの有名な下水道に流しているんだと気が付きました。

 クロワッサンとコーヒーの朝食を済ませて、お客さんのオフィスへ出かける頃の道路は鏡のように塵一つないきれいな街路でした。

毎朝、パリの全ての街路で恐らく何百年もされていることを見ることが出来たと一人ごちたことでした。

写真はネットから引用。当時の風景ではありません。

2)フランス語もメルシーボクーくらいしか解らないので、1人でホテル暮らしの時は、近くのスーパー(昭和52年頃の当時、

もうパリの街のあちこちにありました)に行って結構おいしい当地のサンンドイッチや惣菜類を買って食べていましたが、

ある時、日本メシが食べたくなり、JALがくれたパリマップを見てホテルの近くに「伊勢」という日本料理屋を見つけ歩いて行きました。

 入るとすぐのところに寿司のカウンターがあり、35、6才のフランス人が1人黙々とうまそうに寿司を食べていました。

後で店の女の子に聞くと、日本で働いて日本食にはまったフランス人が、国へ帰ってきて

一ヶ月に一度、給料を溜め、ああやってこの店に来る人が結構いる、その1人だとのことでした。

 寿司は高かったので、椅子席でメニューを見てそこそこの値段の親子丼を頼み、着物姿の日本人のアルバイトらしい女の子に

「伊勢」という店の名前はどうしてついたのか聞きました。

「マスターが確か三重県の出身だから伊勢と付けたと聞いた」と言ったので、「自分も三重県に居たことがあるので、

もしマスターが手が空いたら席にきてくれないか」と頼みました。日本酒を頼み、久しぶりの親子丼をおいしく食べ終わった頃、

マスターが来てくれました。パリに来てこの店を初めて3年くらいのこと。

 話をしていくと、驚いたことにマスターは四日市市の出身で、しかも同じ市立港中学校の3年後輩ということがわかりました。

習った先生方も丁度一回りした同じ先生達でした。大入道の四日市祭など話が弾みました。

 父親の数多い転勤のせいで住む土地が頻繁に変わり、小学校は3校、高校は2校に通いましたが、中学だけは唯一入学して同じ学校を卒業しました。

 その中学校の後輩にここパリで会うとはと驚きました。

板前も自分でやっているその主人の名前も顔も忘れてしまいましたが、先般、娘が友人と二人でパリを旅行した時、

行かなかったけどマップの[味でお薦めの店]に「伊勢」があったと聞き、後輩はずっとパリで 頑張っているんだと嬉しく思い出しました。

一言多いとあいかわらずヒンシュクを買うことが多いボクですが、どうして店名が「伊勢」なんだろう?と好奇心を持って聞いてみて良かったと思いました。

(本稿は2000年ごろ作成して知人友人に送信)

  パリの日本レストラン  引用元 

 いまパリには日本食のレストランはどのくらいあるのか。一説では1000軒を超えるという。

パリ1区のサン=タンヌ通りの両側には和食、ウドン、ラーメン屋などが軒を連ね、昼どきともなると、ラーメン屋の前に行列ができて、

そのなかには多くのフランス人も多く混じっている。言わずと知れた日本色ブームだが、なかには外国人がスシを握ったり、ラーメンを茹でたりしている店も多いと聞く。


 最初にパリに住んだ1970年代初頭、この界隈にはすでに数軒の日本レストランができていた。

サン=タンヌ通りがオペラ大通りと交わる角に東京銀行の支店があり、パリ在住の日本人の多くが口座を開いて、故国との金銭の送金をしていた。

戦前の横浜正金銀行の流れをくみ、海外貿易の決済や外国為替業務に慣れた東京銀行がもっとも便利だったのである。

そのためこの界隈を大勢の日本人が往来し、それにつれて日本食を供する店が出来ていった

本格的な店としては1958年に開店した「たから」や、その後にできた「伊勢」などがあった。

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ジャカルタ空港の「鮭の新巻き10本」の通関には大汗をかいた           昭和50年代の海外あちこち記 その3

2024年03月28日 | 昭和50年代の海外あちこち記

1976年12月、インドネシアのジャカルタへ出張しました。

 入社9年後に突然 それまでの国内営業部から貿易部に配属されて海外出張2回目に、インドネシアのジャカルタへ年末に役員のお供で出張しました。
 
 アルミのアサハンプロジェクトが立ち上がり、お客さんの会社がジャカルタオフィスを開いていたので、受注活動の一環で陣中見舞いの年末ご挨拶です。
 
役員は「お客さん達が正月を初めて家族でジャカルタで過ごすんだから、鮭の新巻をお土産に持ってくぞ」と言い、10本の新巻きを持って行くことになりました。
 
 さあ、ガルーダ航空がジャカルタ空港に到着し通関です。同行のみなさんは機内のお酒で、機嫌よくパスポートチエックの方に行き、通過していきます。
 
空港の税関で 持ち込んだ10本の鮭の新巻を通すのは一番下っ端のボクの仕事です。
 
 カートに自分のトランクと新巻10本を乗せて後をついていったボクは、係の役人からこっちへ来いと別室に連れ込まれました。
 
物凄い剣幕で「この大量の荷物は何んだ?」と言っているようですがよくわかりません。
 
しどろもどろで「魚のサーモンのソールト漬・・なんじゃかんじやです」と説明しますが、こちらの英語もいい加減、向こうはハナから聴く耳もたずです。
 
 時間は経っていくし、これをここで没収されたらエライ人から何を言われるかわからんと大汗かいて全身が熱くなりました。
 
そうこうするうちに 相手の口はガタガタ言っているけど目はニヤニヤ笑っているのに気が付きました。
 
そうか話に聞いていたアンダーテーブル・袖の下や と米ドル10ドルを財布から出して渡すと
 
(早くそれを出したらいいんだよ)という感じですぐにポケットに入れ、向こうのドアを開けてくれました。
 
 それでも、出張の一行が心配そうな顔で出口で待っていてくれました。
 
「やっぱり引っかかったか」と役員が言いました。
 
「よう通してきたな」というお褒めの言葉を期待していたボクの甘さを思い知りましたが、これから後の同じような経験の初めの始めでした。
 
役人の給料が安いのでこうして集めた金をプールしておいて年末なんかに仲間内で分けると後で聞きましたが、
 
その後各国でこのような事を何遍経験しても、その都度身体がフリーズして大汗かきまくりでした。
 
 海外出張2回目の社員に外国の通関には日本と全く違う事態がありうると その対処についてなど貿易部の上司が誰も教えてくれないのに
 
困惑の中でああこれは袖の下で解決する状況だなとわかったのは 学生時代から好きで いろんな日本人の海外旅行記をそれまでに読んでいたおかげかも知れません。
 
 そして10ドル紙幣を持っていたのは 海外出張一回目のスマトラ島メダンへの出張時に
 
同行の大阪コンベヤ設計部の竹中技師が1ドル紙幣を何十枚も持ってきたことを知っていたからです。
 
なぜ米ドルを1ドルに小さく崩して持ってきたのですかと問うと、「あんなあ 阿智やん、ドル札の現金は世界最強や。
 
どこの国に行っても困ったときにはこれが効くんや」と。
 
 この話を聞いていたので 私も貿易部にいて出張のときにはずっと何枚かドル現金を小さく崩して財布の中に忍ばせていました。
 
 
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