2009年の秋場所を桟敷で観ました。
2009年の秋場所を桟敷で観ました。
今年の船橋社中の新年会は男女3人づつの合計6人の参加者でした。よく喋り、よく飲み(但しほぼ二人が・・)、
よく食べてあっという間に4時間が過ぎていました。外国人記者クラブでは選ばれた10人の会員写真家の代表作が大きなディスプレイに
順次投影されていました。新年会メンバーの一人である写真家・栗田格さんの作品に皆でしばし見入りました。
メニューは定番料理と新参加のものがありますがいずれもgoodです。
場所はもう恒例になった有楽町電気ビル北棟20Fにある外国人記者クラブのメインバーでした。
Hさんのメールから引用。『箱根、富士山方面は少し靄が掛り、富士山も霞んで写真では良く判りません。450メータの高所から東京を眺めると、やはり東京都は広いとつくづく思いました。 スカイツリーに登るのは今でも個人で行くと最低二時間は待たされます。我輩は「日本セカンドライフ協会」の会員に成っており、団体予約で参加したので予約時間に集まって比較的すんなりと登ることが出来ました。』
トップ↑の画像は荒川遠景。身内が住んでいる江戸川区も見えそうです。
東京ドーム。
浅草寺。
国技館。
隅田川・荒川分岐点。
アサヒビールのンコビル。
アサヒビール遠景。
東京湾ゲートブリッジ。
大きなしだれ桜の木がありました。この日は大雪のあとの整備とかで歩ける範囲が制限されていました。
前政権の高官の個人所有物を、新政府に出入りする元土佐藩諜報担当の下士だった商人が入手する。その土地に立つと、確かに明治維新と言われる幕府崩壊は、勝ち組の下級武士たちにとっては、下剋上のある種の階層革命だったと実感します。
六義園を出ても新年会の時間まで余裕が出来たので、先に今夜の宿にチエックインすることにしました。
昼食がまだだったので、両国に来て時間があれば必ず寄る、立ち食い蕎麦の「文殊」でかき揚げソバを食べてから有楽町に向かいました。
東京勤務の13年間、週に2,3回は食べていたからか、醤油味が濃い東京の立ち食い蕎麦の出汁に慣れて、今回もおいしく
食べました。この店はオーダーを受けてから客に出すまでのルーティンがしっかり守られていて、旨さのレベルが高く
維持されています。この店を目指してきたらしい隣席の中年山ガールも、リュックを下してじっくり味わって食べていました。
御茶ノ水駅の『明神そば』もそうですが、店員の手際がいい店は手順が守られていておいしい蕎麦を出します。
両国駅のホームからもスカイツリーが見えました。
東京駅につくと山の手線で駒込駅へ向かいました。駅で知人と落ちあいドトールで珈琲を飲んだ後、「東洋文庫ミュージアム」まで10分ほど歩きました。伊勢白子から江戸へ向かった大黒屋光大夫を船頭にする船が、暴風でアリューシャン列島まで流され、苦難の果てにたった二人だけロシアから江戸まで生きて帰りました。光大夫と共に生き延びた白子の水夫『磯吉」の聞き書きが展示されているのをネットで知り、それを見たさにミュージアムを初めて訪ねました。
収蔵品の一部
◎41枚のアルバム。∇をクリックするとスタートします。
なお、吉村昭が書いた「大黒屋光大夫」という本は、漂流した日本人が、この男を必ず生きて母親のいる故郷に返してやりたいと出会うロシア人、ロシア人に思わせて味方につけ、彼らの強固なサポートを受けてついに帰国するまでを描いています。光大夫は当時の露国の首都サンクトペテルブルグまで冬のシベリアを橇コンボイで渡り、ついに女帝エカテリーナに拝謁することができました。そして幽閉中に身につけたロシア語で彼は帰国を直訴し受け入れられました。『俺は必ず生きて日本に帰る』という意思が強かった2人だけが、生きて日本に帰国することが出来ました。(17名のうち一人は光大夫たちと共に北海道まで帰り着いたが、着いてすぐに病没した)。多くのロシア人を魅了し、サポーターにし、ロシアで生き抜いた一人の日本人の姿を活写した本です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
☆「大黒屋光太夫 上下」
吉村昭著
新潮文庫
平成17年6月1日初版発行
定価各514円(税別)
☆難波発の名古屋行き近鉄特急が三重県内に入り、白子駅に近づくと、「大黒屋光太夫の生地、白子」と言う大きな看板が目に付きました。
この路線にはもう何年も何回も乗っているのに、いままで気がつきませんでした。
大黒屋光太夫は井上靖が書いた「おろしゃ国酔夢譚-昭和41年刊」を読んでいたので、彼が伊勢の生まれであることは知っていましたが、白子に関係していたことは忘れていました。
今回新潮文庫から出た吉村昭が書いた「大黒屋光太夫」上下を、あらためて読む気になったのは、あの看板をこの夏に四日市に行ったとき見た
からかもしれません。そしてこの吉村本が平成15年に毎日新聞社からハードカバーで出たのが、鈴鹿市があの看板を出す事になったきっかけかなと想像しました。
江戸時代に、白子から江戸へ向かう千石積みの廻船が難破して、ロシアへ流された17人の日本人(うち10年後に二人だけが江戸の土地を
踏むことが出来た)がいました。かれらの、この遭難記録小説を読んで思ったことが2点あります。
その一つは「この男を生まれた国へ返してやりたい」と、当時のロシア人貴族や高官に自然に思わせ、そのための協力を彼らに最大限させた
「大黒屋光太夫」と言う男の人間の魅力と、それを周囲に認めさせ得た彼の人間関係能力・コミュニケーション能力の高さです。
もう一つは「地方に今でも発掘される日本の歴史資料の奥の深さと、歴史記述はその時々に得られる資料を超えられない」と言う面白さです。
「光太夫の人間性とその驚異的な望郷の思いが周囲を変えていく」
彼の一行の前にも何人もの遭難者がロシアにたどり着いていますが、帰国できた人間はいませんでした。
なぜ彼ら一行が、カムチャッカ半島から、モスクワよりまだまだ西側の当時の都、ペテルスブルグまでエカテリーナ女王に帰国を直訴する
旅に出ることが出来たのか、そしてなぜ謁見を実現出来たのか?そしてなぜ帰国出来たのか?
吉村昭は直接的にこの点に焦点をおいているようには思えませんが、この本を書く大きな動機の一つに,このことがあったに違いありません。
当時の白子浦は全国の湊の中でも特別な地位を占めていました。その理由をこの本から要約すると;
「家康は本能寺の変のあと三河へわずか30数名の手勢と共に落ち延びたが、伊賀者の巧妙な手引きで、途中の郷民の落ち武者狩りに会わずに、
信楽から加太越えで白子浦にたどりついた。そしてこの地の廻船業者に渡船を依頼した。業者は快諾して船を出し一行は無事に三河の国大浜に
上陸して岡崎に帰城した。
その後、これを多として幕府は白子浦は特別な港として目をかけ、紀州藩の藩領にし、江戸に大店を持つ伊勢商人たちの商品積出港ともなって大いに発展した。
光太夫はそんな環境の中に育ち「神昌丸」の沖船頭としてこの航海の指揮を執りましたが、彼は一言で言えば、船乗りを生業(なりわい)にした
人間ではなく商人(あきんど)として育った人間でした。
この本を読んで当時の日本の第一級の商人は、この時代の世界水準で言っても、世界のどこに出ていっても全く一流の人間であったと思いました。
彼は、宮廷の高官、高級軍人、貴族、そして宿屋の主人や庶民やその他の誰の前でも臆することなく、誰の前でも態度を変えずに、
自分の思いや考えを述べています。江戸時代に生まれ、育った人間の、この一人を知ったそのことだけでも、この上下2冊1080円は貴重な投資でした。
2005年08月27日(土)ブログ「阿智胡地亭の非日乗」に掲載
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「大黒屋光大夫はどうやってロシア語を学んだか こちら」
例年と同じく最寄駅で買った『六甲山縦走弁当』をカップ酒のお供で楽しみながら、新年会の旅@東京をスタートさせました。
撮影して一分もしないうちに山頂部も雲に覆われて、富士山は見えなくなりました。ありがたいことに、わずかな時間差で美しい霊峰を今年もカメラに納めることができました。
デジカメの望遠を少し使って撮りました。新幹線の中からのデジカメの画像としてはなかなかのショットになったのでは。
2013.01.20 ~ 2013.01.26
閲覧記事数: 6683 PV
訪問者数: 2286 IP
週間ランキング: 2089 位/1,817,125ブログ(gooブログ)
01月25日(金)信濃毎日新聞
(トップの画像) 降りしきる雪の中で拝観式を行う八剣神社の宮坂清宮司ら関係者=25日午前8時48分、下諏訪町東赤砂
結氷した湖面がせり上がる「御神(おみ)渡り」が2季連続で出現した諏訪湖で25日、氷の筋や方向を正式決定する神事「拝観式」が行われた。御神渡りを代々記録する諏訪市小和田の八剣(やつるぎ)神社は拝観後、1683(天和3)年から伝わる記録と筋を照合。ことしの世の中を「現状は厳しいが明るい兆しあり」、農作物は「やや良」と占った。
御神渡りは、諏訪大社上社(諏訪市、茅野市)の男神「建御名方命(たけみなかたのみこと)」が、下社(諏訪郡下諏訪町)の女神「八坂刀売神(やさかとめのかみ)」の元へ通った跡という言い伝えがある。
雪が降る中、宮坂清宮司(62)や氏子総代ら計約60人は午前7時40分すぎ、諏訪市渋崎の旧六斗川河口に集まり、住民や観光客、報道関係者ら約300人が見守る中、式を開始。この地点を筋の起点「下座(くだりまし)」と確認し、対岸の下諏訪町東赤砂まで延びる1本の筋を「一之(の)御渡り」と認定した。
一行は湖周を反時計回りに移動し、東赤砂の到達点を「上座(あがりまし)」と確認。さらに、同市渋崎の上川河口付近から同町高浜の承知川河口付近までの筋を「二之御渡り」、2本の筋と交わる形で、建御名方命の子「興波岐命(おきはぎのみこと)」が祭られた新海三社神社(佐久市田口)がある北東方向の同市湖岸通りから南西に走る筋を「佐久之御渡り」とした。
今冬の諏訪湖は今月5日にほぼ全面結氷。14日の大雪で御神渡りは出現が一時危ぶまれたが、22日、昨季より13日早く認定された。拝観式後、宮坂宮司は「自然の大きな力を感じる。災いのない穏やかな一年になってほしい」と話した。
この日朝の諏訪の最低気温は氷点下0・6度と3月下旬並み。諏訪湖はここ数日の暖かさで氷が緩み、県や同神社などは湖面に立ち入らないよう注意を呼び掛けている。
御影高校の運動場も国道に面しています。
ゆるキャラばやりとは言いながら、ここまでゆるくていいのでしょうか?どうみても御影石ではなくジャガイモです!!
野坂昭如の「火垂るの墓」にも出てくる御影公会堂はまだ現役です。
公会堂のすぐ横を東灘区と灘区の境界になる石屋川が流れています。
そろそろ時分時になったので、ラーメンでもと思いましたが、この店のラーメンはボリュームが凄いのを思い出して
止めました。震災前から、いつも作業服姿の若い人で一杯です。
桜口交叉点まで来ると、近くに月曜会メンバーのYさんが働いているスーパーがあるので、Yさんに携帯で連絡して
「うおぎん」で一緒に昼飯にしました。このサービスランチ780円には大きな椀にたっぷりの赤出汁がつきます。
先ごろ、久しぶりに店の前を通りかかったら、店に全く人の気配がありませんでした。昼前の時間ですが店内に明りもありません。どうも店を閉めたようです。
◎2012年10月12日に掲載した記事
⇒ 【別の日、国道2号線沿いを歩きました。御影中前交叉点の所にあった寿司屋がカフェに変わっていて、モーニングサービスの案内が出ていたので入ってみました。トーストのモーニングを頼んだら、出てきたボリュームに驚きました。500円でこの内容とは名古屋のモーニングサービスを越える?
店員も客から名古屋みたいなモーニングやなと言われると言っていました。出てきたものは残せない世代の人間ですから食べましたが、やはりToo muchのボリュームでした。
経営者は名古屋の人ですかと聞くと、姫路だと言います。姫路に本店があるのになんで店名が「太郎茶屋 鎌倉」???。昼や夜のメニューを見ると、このあたりの他店のレベルからしてプライシングに割高感が。経営者と店の責任者は店を出す前に、進出した新立地の競合相手の店を巡って、食べ歩きをしたのでしょうか? そしてどういう客筋を想定したのでしょうか。幼稚園のママさんたちの口コミでは、ランチの味はも一つと流れているとか。半年後もこの場所で残っているかどうか。私は消える方にかけます】。
⇒商売やビジネスに特別な離れ業は何もなさそうです。店や会社の利益を優先ではなく、お客さんの好みや懐の都合に合わせられるかどうか。そうすれば儲けはついてくる・・。この店はこの地域の競合相手の価格と味のレベルの事前調査も足りなくて、半年も持たずに閉店になったようです。
Hさんから今年も季節の便りをもらいました。
⇒「 さて、今年も冬の上高地を歩いてきました。13日に歩きましたが最高の天気でした。しかし、夜から大雪となり14日は大雪で高速道路が通行止めになり、国道19号線などで中津川まで帰ってきましたが雪道が渋滞し大変でした。
トップの写真↑ 秘湯 卜伝の湯(釜トンネルの横・国道沿いにある)
大正池からの穂高連峰(右端の明神岳で正月に2人が遭難)
大正池からの焼岳(噴煙がかすかに)
穂高連峰のパノラマ写真
河童橋から穂高を見上げる仲間たち
宿泊した沢渡のペンション(一夜で50㎝ほどの積雪)
」
Hさん、今年も上高地のスノートレッキングを楽しまれたのですね。雪景色の写真は難しいですが、パノラマを含めて見事なショットばかりです。
夏の大正池はなじみがありますが、雪の大正池の画像は珍しいです。貴兄の上高地のスノートレッキングの写真は 毎年の楽しみになってきました。