玉江橋の上から。リーガロイヤルホテルとその向うに大阪国際会議場。
新しく出来た京阪中之島線のターミナル中之島駅は国際会議場とホテルの間にあります。
堂島大橋の向うに大きなマンションが見えました。
会議場の3階、イベントホールの映画「火天の城」の試写会は朝日放送主催、大阪芸術大学後援で、大学の学長が大学紹介のプレゼンをしたあと、映画の田中監督と主演の西田敏行が登場しました。
映画が終ると冷房の効きすぎた会場を急いで出て、京阪で大江橋まで乗り、歩いて5分の、淀屋橋のかってよく寄った居酒屋「小ぼけ」で熱燗を飲み一息つきました。そのあと二人で芋のロックを何杯か楽しみました。また声をかけてくださいね。
00年7月27-29日に剣山荘から剣岳に登ったそうですが、このときは雨が降り出し、ガスで全く見通し・見晴らしがなく、単に登っただけになってしまったそうです。そしてその翌年、01年7月22日に立山に行き、浄土山・雄山・大汝山・真砂岳・別山と縦走したときは実にいい天気で、別山からの剣岳の眺めが最高だったそうです。
♪なんとも雄大で本当に美しい写真です!!迫力のある大型サイズで送ってもらいましたが掲載のため、縮小せざるを得ないのが残念です。
Sくんは年期の入ったマラソンランナー(北京・ホノルル・東京マラソンなどに参加)ですが、長年ご夫婦での登山も続けておられるようです。
映画「剱岳」のレビューはこちらです。
神戸朝日ビルは「神戸市中央区の旧居留地に建つ超高層オフィスビル。竣工は1994年。外壁はアルミカーテンウォールを使用しているが、
低層階の外壁は重厚な造りになっており、これは以前あった旧神戸証券取引所(渡辺節設計、1934年築)の外観を復元したものである。
1・2階のピロティは、毎年神戸ルミナリエの会場になっている。地階にはシネマコンプレックス「シネリーブル神戸」がある。・・wikiから引用。」
こちらは海岸通り方面
こちらは大丸方面
この日はアメリカ映画「俺たちに明日はない」のハンガリー年金生活者バージョン「人生に乾杯」を「シネリーブル神戸」で見ました。
「おもしろうてやがてかなしき・・」映画をハンガリーのてだれ(手練)の映画人たちが楽しんで作っていて堪能しました。
余談ですが、エンドクレジットを見ていて気がつきましたが、ハンガリーでは人の名前を日本と同じように、「姓・名」の順で表記します。
ハンガリー国民の97%を占めるマジャール人が使う言語は、インドアーリア語ではなくウラルアルタイ語に属しているので、
東北アジアの朝鮮・日本の住人が使う言葉と親戚の面があるそうです。
次の映画は西原理恵子原作のこの映画を見ようと思っています。
25日の夕刻、ホールインワンのお祝いの集まりがありました。六甲国際ゴルフ倶楽部東コース6番ホールで「兵庫経営塾」(クリック)の清水さんが見事に達成されました。
清水さんご夫婦を囲んだ20人ほどの仲間はなごやかな時間を過ごしました。34階の部屋から見ると真下に神戸港が広がっていました。
ホテルオークラ神戸の一階にあるバーには時々寄りますが、上の階には初めて上がったのでしばらく景色も楽しみました。
神戸メリケンパークオリエンタルホテルの横に船が停泊していました。その向こうに「モザイク」が見えました。
空に規則正しく並んだ空飛ぶ円盤の編隊が見えました。
こちら側の部屋の天井の埋めこみライトがガラス窓に写っていたのでした。
心霊写真などトリック画像の製作が簡単に出来るのがわかるような気がします。
ポートタワーをこのアングルで見るのは初めてです。
東の窓からは「ポートアイランド」とその先端の「神戸空港」が見えました。
宴のお開きには、清水さんご夫妻からお洒落な記念品を頂きました。
絵本の裏表紙にはさりげなく記念のシールが貼ってありました。
単独での旅行とは違い、うちでは二人の旅行の場合の費用は別の財布が出動するのですが、ジパング倶楽部加入のお陰でその財布も私の財布も相当な節約の恩恵に預っています。
切符を買って外に出ると真夏の太陽が照りつけるバスプールはがらんとしていました。
漬物で嫌いなものはありませんが、このセロリの浅漬も好きです。居酒屋“e”でも時々出してくれます。
あとは釜揚げシラスと青椒牛肉糸(チンジャオラオスー)。青椒牛肉糸には石垣島の「島のらーゆ(スパイシーらーゆ)」を少々をかけました。
『阿智胡地亭便り#28』から 【セロリ栽培・日本はじめて物語】
2003.7.14 記
戦前、日本では野菜のセロリ(celery/和名・オランダ三つ葉)は殆ど知られていませんでした。
☆ 日本が太平洋戦争に敗けた後、米軍(英、豪州軍も)が日本各地に占領軍として数多く駐留しました。
昭和20年の占領初年から、この8月15日で丸58年が経過し、彼らは名前が変わって同盟軍として58年経つ今も、
継続して駐留してくれています?占領軍のトップであるゼネラル・マッカーサー始め米軍将兵は生の野菜をサラダで常食するので
その材料の調達が毎日毎日必要でした。
☆ しかし日本に新鮮な野菜はありましたが、生で食べる事が出来る野菜は調達出来ませんでした。
なぜなら、当時の日本では、殆どの野菜農家は日本列島太古からの伝統リサイクル黄金肥料(早い話が人糞肥料)もかなり使っているのがわかったからです。
戦前の日本では今の中国、台湾人と同じで野菜を生で食する習慣は一般家庭では殆どありませんでした。
また日本人は昔から低コストで資源の有効活用をしていたのです。
止むなく占領軍の調達部は日本政府に命じ、清潔な環境で化学肥料のみを用いて野菜を作らせるようにしました。
米軍調達部”野菜栽培Cord”で作らせた野菜の中には、ジャガ芋、ニンジン、キャベツ、玉葱、などに交じって彼らの好物ではあるが、
それまで日本ではあまり栽培された事が無い種類がいくつかありました。
その一つにセロリがありました。
当時の農林省は、アメリカ本国でセロリを栽培している土地の気候風土を調べたところ寒冷地が適地であり、朝夕と昼間の気温差が大きく、
カラッとして湿度が低い土地に良質のセロリが育つという事がわかり、北海道や長野県で試験栽培しました。
長野県で栽培されたのは八ヶ岳の麓の高地で、現在の茅野市や今ペンション村で知られる原村あたりがその中心です。
色々と試行錯誤の結果、アメリカで採れるセロリ並みの品質のものが出来るようになり、苗の生育、成長途中、取入れ、洗浄、梱包、輸送と
米軍検査部門の厳密な検査にパスし関東、中京地区の米軍駐屯地へ出荷されるようになりました。その輸送箱にはわざわざ「清浄野菜」というラベルが貼られて出荷されました。
日本の普通の八百屋(日本にスーパーが出現する10数年前の時代です)で売られて、我々の親や我々が日々食した野菜は、彼らにとっては清浄ではなかったのですね。
☆ 中学校の夏休みに母の里の八ヶ岳山麓の地区へ四日市から遊びに行って、始めてセロリに出会ったとき、セロリが積んである土間へ入ると、
あの独特の匂いが漢方薬の匂いのようだと思いました。ただしその後長い間セロリは四日市の家の近くの八百屋では見かけませんでした。
そして時代が下って、セロリも徐々に人に知られるようになり、関西でも万博以降マーケットにも少しづつ出回るようになり、
今ではどこのスーパーでも売られている野菜になりました。
茅野の私の母方の従兄はもう何十年もセロリ専業農家をやっていますし、また諏訪地方ではセロリは、ごく普通のポピュラーな野菜として
味噌汁の具や漬物にも使われて良く食べられています。
洗ってマヨネーズをつけて一本そのままバリバリ食べるのと、漬物にしたセロリの浅漬けは私の大好物の一つです。
諏訪・茅野地区は寒天や凍豆腐(高野豆腐)の産地でもあるほどの寒冷地なので、お米の単位あたりの収穫量は良くない土地ですが、
セロリは東京という大消費地へ出荷が出来る夏季の有利な近郊野菜として栽培が長く続いています。恐らく今でもセロリの出荷額では
日本の中では長野県がトップだろうとおもいます。
♪ところで昭和20年代後半の朝日新聞に連載された「ブロンディ」というアメリカ家庭漫画があり、亭主のダグウッドが会社で弁当を食べる場面で、
紙袋からパンとは別に、白くて長いものを出してかぶりついている場面がよくあり、あれはなんだろうと長年思っていたのですが、
あるとき「ひょっとしてセロリじゃないか」と思い当りましたがどうなんでしょうか。
websiteで調べたら:
空芯菜はヒルガオ科サツマイモ属のつる性多年草で、作物としては1年草扱いの熱帯アジア原産の植物です。
空芯菜は燕菜(エンサイ、アサガオ菜)とも呼ばれ茎の中が空洞になっているのが名前の由来です。
栄養分はほうれん草とほぼ同じですが、カルシウム、ビタミンA・B・Cはほうれん草の2~5倍程度多く、βカロチン、鉄分、ポリフェノールなども含まれています。
空芯菜は中国やベトナムなどで広く食べられている野菜で、くせが無く様々な料理に使え、特に茎はシャキシャキとした歯ごたえが特徴です。炒め物、天ぷら、味噌汁やお吸い物の具などの料理方法があります。