篠島の海水浴場は良く整備されていました。ホテルは海水浴場に面していて一晩中波音が心地よく聞こえました。
夕食の付き出しからなかなか美味しいものが出ました。
翌朝チエックアウトして島内を歩きました。松が生えた小島の向こうを外航船が往来していました。
ホテルの親戚の土産物屋を紹介されましたが・・・・。
船で師崎港に戻り、名鉄で名古屋駅まで戻りました。
地下街で味噌煮込みうどんを食べた後、私は名古屋・難波間の近鉄特急で帰りました。神戸のチケット屋でもその回数券は3200円で売られています。つい数年前まで車内でおしぼりサービスがあった近鉄特急も乗客減でコスト切り詰めに走っており、おしぼりサービスはおろかワゴンの車内販売もなくなっています。しかし安全に安価で、定時運行を維持し目的地まで行ってくれれば交通機関としてそれで充分なサービスだと思います。
篠島はそういう島があることも知りませんでしたが、2000人の人が住みその7割の住人は
漁業に従事しているそうです。篠島には知多半島の先端の師崎港からフェリーに乗ります。
夏には海水浴客で賑わうというのも納得のきれいな水と海岸がありました。
画像は、宇治川と木津川に挟まれた京都府久御山町にお住いの玉木英雄先輩が撮影されたものです。
上はホテルのロビーから見た海岸。
泊まったホテル。設備が新しくていいホテルでした。
海水浴場
島内を歩きました。
大きな外航船も見えました。
魚貝中心の料理はなかなかのものでした。
(以下2枚は管理人撮影)師崎港から船に乗りました。
結構民宿があるようです。
阿智胡地亭が生れた三重県の四日市は伊勢湾を挟んで知多半島の対岸に位置します。
その四日市の港中学校で同級だった鈴木くんの便りでは、小学校時代、
そろばん塾からの遠足で、篠島へ四海丸という400トンぐらいの船で
遊びに行ったことがあるそうです。彼の便りには続いて
「その後もう少し大きくなってからも行きましたが、まったく
田舎の漁師の島でした。今は、結構なリゾートになっているのでしょうか。」
とありました。しかも彼は知多郡大高町から四日市に引越して来たのだそうです。
瀬戸内海を海上の道にして伊予の国と安芸の国が往来していたように、きっと
古来から伊勢湾が海上の道になって伊勢と知多は親しく往来していたのでしょう。
焼き物を利用して作られた散歩道の一部。
こちらにもこんな道がありました。
オロ○ミンやボン△レーの懐かしい琺瑯びきの看板がそのまま残っていました。
新建材がなかった昭和20年代30年代の家屋はみなこんな感じでした。懐かしくてつい1枚撮りました。
窯跡の煙突群。歩いているとこういう場所がいくつもありました。
☆トップの画像は旅行をご一緒した神戸市のT先輩の撮影。Tさんは長年写真をやっておられますが、そのなかの「四国八十八ケ所歩き遍路の記録」が、個性的で美しい画像と共にこちらに掲載されています。このページからTさんの他の作品のページにも入れます。お勧めします。
住人の生活路地でもあり、作品の展示場でもあり・・。結構長く続く不思議な空間にピンキリの焼き物が展示されていました。道の順序でなくランダムに画像を並べます。
上は今は使われていない煙突のある路地。
こちらは売る気はなかろうと思える大きな甕。
なんかこっちも笑いたくなる空間でした。
あちこちこんな感じで無造作に作品を置いている店が沢山あります。
時間を作って1日好きなものを探すと自分に合うものがあるかもしれません。
毎年ここで雛が孵るツバメの巣に大きな口が3つ見えました。
当地の大きな廻船問屋だった瀧田家の屋敷が復元工事を終え、公開されていました。蒸し暑い日だったので屋内のヒンヤリした空気はご馳走でした。
江戸時代の道具類などの展示と共に、一族の「瀧田あゆち」さんが創業期の日本航空で活躍した頃の写真が多く展示されていました。こちらです。
上のHPから一部引用;
瀧田家は、およそ150年前の江戸末期から明治10年代後半まで約40年間にわたり海運業を営んだ常滑を代表する船主です。また、明治初年より木綿業を開業し、昭和35(1960)年代まで実質的な営業を行っていました。また、あゆちさんの父・英二さんは、焼き物を中心とした常滑の歴史に詳しく「常滑史話索隠」などの著書があります。あゆちさんの兄・文彦さんは東京大学仏文科を卒業し、東京大学教養学部の仏文科の教授となり、フランス文学の研究を行うとともに、多くの翻訳に携わりました。
瀧田家の屋敷は、嘉永3年(1850年)に建てられた町家造りの住居です。平成12(2000)年に「旧瀧田家住宅」として常滑市指定文化財となりました。現在、江戸末期の常滑の豪商の家に復元・整備した「廻船問屋瀧田家」として公開しています。
飛行場の見学と昼食を済ませ、常滑市に向かいました。事前に調べてなかったので知りませんでしたが、
常滑は伊奈製陶(現INAX)の発祥の地でもあり本社所在地で、ソニーの盛田元会長の生家である造り酒屋(ねのひ)があった町です。
常滑は古代からやきものの町でもあり、江戸時代には廻船問屋が多い豊かな港町でもあったようです。
自分には懐かしいザ・ピーナッツが常滑生まれとは知りませんでした。
また、いずれも故人ながら、
谷川徹三(哲学者、評論家。谷川俊太郎の父)
平岩外四(東京電力社長、経団連会長)
石田退三(トヨタ自動車工業社長)さんなどが当地の出身だそうです。
常滑(トコナメ)の地名の由来はこの地方は陶土が多く、滑りやすいので「床滑らか」から来たという説があるそうですが、
それは「トコナメ」という音に朝鮮から入った漢字を万葉仮名方式で当てて、後年逆にその漢字の意味から推し量るという例の一つのような気がします。
漢字が入る前の古代日本語の研究がすすみ、「シマント」や「フジ」のように地形を表すアイヌ語源の地名が全国にあることがわかってきていますが、
「トコナメ」もその一つではないでしょうか。
常滑駅から歩いて10数分のところに、良く言えば風情のある、しかしややうらぶれた町並みが続く「やきもの散歩道」が整備されています。
蒸し暑い日でしたが、ぶらぶら散歩するにはちょうどいい1.5キロでした。
②へ続く
全員が還暦すぎて何年にもなりますが、40年前の世代より10歳は若く見える16人がある日の10:45に新幹線名古屋駅北改札口に集合しました。
昔同じ弓道場で弓を引いたことのあるOB会の集まりです。私はジパング倶楽部を利用するのでJRは3割引きになりますが「のぞみ」は利用出来ません。
「ひかり」に乗って名古屋駅に早く着き、上りホームの店で冷やしキシメンを食べてから集合場所に向かいました。
いつもは下りホームの店でキシメンを食べるのですが、今回確かに噂どおり、上りホームの店の方が旨いように思いました。
名鉄に乗り換えて常滑線の電車に乗り、まずは中部国際空港を目指しました。
開港してかなりになるはずですが当日が日曜日のせいか見学者も多くそれなりに混雑していました。関空と同じで電車(ここは名鉄)が乗り入れています。
空港駅から空港内へのエントランスと空港の中の画像。
そんなに大きな施設ではありませんが効率はよさそうな感じです。
屋上は広い見学デッキになっていてよく飛行場が見えました。
昼食どきはどの店も満員で並ぶほどでしたが幸い待つこともなく軽食の店に座れました。
「雨を覚悟で「ニッコウキスゲ」を見に霧降高原に出かけましたが、名前のとうり深い霧につつまれ何も見えませんでした。 ただ霧の中の「ニッコウキスゲ」はなかなか風情があり出かけた甲斐がありました。(今年は花の開花がすこし遅れているようです・・・)
「キスゲ平」まで一人乗りのリフトに初めて乗りましたが、不安定であまり乗り心地の良いものではありませんでした。我が女房殿は座席のポールにしがみついておりました。(くわばらくわばら・・・・)
下りは山道を歩きましたが、これが急な坂道で雨で滑りやすく木の枝にぶら下がったり、太めの白樺にしがみ付いたりで少々難渋した次第です。帰路は温泉で汗を流しビールで喉を潤し元気を取り戻し帰宅しました。」
霧の中のニッコウキスゲは凛とした風情で美しいですね。有り難うございました。
日光観光協会のHPはこちら。
霧降の滝