三宮の国際会館で文珍の落語を大笑いして聞いたら腹が減りました。三宮のセンター街をぶらぶら元町まで歩いて「オステリア・ガウダンテ」に入りました。最初は親戚になったR.Yさんから紹介してもらって行きだしました。店のシェフはイタリア人でYさんは勉強中のイタリア語をここで試すのだそうです。その後友人のFさんやMさんも前から贔屓にしている店だと知りました。彼らも味へのこだわり、感度が高い人たちです。店は三宮から元町へ伸びるJRのガード下にあるせいか格式ばってなく、とても気楽でいい雰囲気です。味は自分でも自宅でイタリア料理を作るYさんのお墨付きで、何回行ってもその都度大満足です。ハウスワインにチョイスが多いのも私の気に入りです。この日は赤ワインをハーフカラフェで頼みました。
前菜盛り合わせ。 若いときなら別でしょうが、今の我々にはどの皿も二人に一つで十分な量です。
茄子と雲丹の取り合わせ
パスタは「シェフの田舎のパスタ」。太くてコシの強い麺にアンチョビソースがたまらなく合っている。アングルが上からなので少量に見えるけど、ほどくとボリュームがガッツリあっていつも驚く。
ナッツ入りのアイスクリームを相方から少しわけてもらい、エスプレッソで締めたらもうこれ以上は・・。
いつもメインデイッシュを取らずに終わってしまう。
ほどよいタイミングで温かいパンと冷たい水のサーブがあるのも嬉しい。
祭の動画もそうですが、デジカメの動画機能で撮影しているので画面がちょっと粗いですが、
館内はこんな雰囲気でした。
場に臨んで素早く撮影するためと、簡単に操作が出来るのでデジカメFinepixF710一台で
スチルも動画も望遠、接写も全てまかなっています。
久しぶりにふんどし姿の男衆が躍動する姿を見て、日本列島に住む人間の基層はやはり、先にポリネシア、フィリピンなどの南方から渡ってきた人間で出来ていると実感しました。あとから鉄の武器や馬を持って大陸から渡ってきた北方大陸系のヤマト族の戦士、例えば「日本武尊(やまとたけるのみこと)」はふんどし衣装ではなく、埴輪の戦士のようなズボン姿で戦ったでしょうから。
東京江戸川区の平井に諏訪神社があります。今年は享保年間に信州諏訪大社からこの地に祭神を勧請して三百年とのことで、盛大なお祭がありました。
二年前の祭のサイトにこうありました。
「下町ならではのイベントとして親しまれているこのお祭りは、町をあげての神輿の練り歩きがメイン。
10時に本社神輿の宮出しが行われると、昼過ぎにかけて平井駅周辺を重さ1トンを超える神輿が練り歩く。
さらに夕方16時には連合神輿6基、子ども神輿1基が平井駅の商店街に登場。夜20時30分ころまで駅周辺を盛大に練り歩き、町をお祭りムード一色に染め上げる。
駅周辺の商店街には露店なども出て雰囲気は最高。」駅を降りるとちょうど神輿が動き始めたところでした。
宮神輿は大正15年の建造で台座は三尺五寸(107cm) 五段の桝組みや木彫が素晴らしい勾欄造りの神輿です。駅から町内をこうして練り歩きます。
この下町で三百年もこうして祭が継続し、町の人が心を合わせて、それぞれお互いの役割を担って参加している様を目の当たりにして感激しました。
ああ、これが町方が伝えてきた日本の一つの伝統なんだと。
獅子頭の神輿は出番を終わって拝殿の横に置かれていました。
「木遣り保存会」と染め抜いた半被を着ている方々がいたので、声をかけたら下諏訪から4年に一回この祭に招待されて来ているという「諏訪御柱祭」の「木遣り隊」の6人でした。
「長持ち隊」20人と共に朝5時半に下諏訪を立って当地に来られたのだそうです。
自分は今は神戸に住んでいるが、諏訪に縁がある人間ですと話したら、「来年は御柱の年だで、また来たらいいわね」と言ってもらって嬉しかったです。
木遣りを歌う時に手にする“オンベ”を見せてくれました。
日が暮れると駅の広場に飾られた提灯アーチに灯が入りました。
これが今身内が住んでいる町内の神輿です。借りる部屋を探して都内をあちこち歩き回った末、条件が合った部屋をみつけて平井に住み着いたのはたまたまですが、
その平井に、祖父母が生まれ育った諏訪の神様がおられるとは、祭があるまで思いもしなかったそうです。
まさか諏訪の神様が彼らを平井に呼んでくれたのではないとは思いますが・・。
私もテレビの番組で見て興味を持った南大東島まで行かれています。
まさに北から南までの、日本の主だった島々が網羅されていてることに驚きます。花をテーマにして、日本だけではなく世界各地に奥様と旅をされていますが、このような写真エッセイ集にまとめられると、楽しみが倍増するのではと思いました。
昭和41年の4月に初めて出会ってから、もう43年の月日が経過しました。別々の部門で過ごし、勤務地も全く別でしたが、いまもこうして花を通して交流が続く。同期入社というご縁もありがたいものです。書中の6ページ目をスキャンしてみました。
11時半ごろには両国の国技館に入りました。席に荷物を置いてからチャンコの列に並びました。
今場所、国技館で出されるチャンコは九重部屋のレシピで、当日はしょう油チャンコでした。塩チャンコの日もあるそうです。
12時前から長い列が出来ていましたが、動き出すとそう待たされることなく食べる事が出来ました。
お椀にたっぷり野菜やカシワ、こんにゃくなど具沢山で満足しました。一杯250円という値ツケも絶妙だなと思いました。
まだ早い時間なのに正門から、わたしたちを含めて老若男女、善男善女が切れ目なく入場していました。
切符は東京の身内が、売り出し初日に必死で電話してなんとか向正面の後ろの升席を確保してくれていました。
切符そのものは全国のコンビニで受取れるというのは便利なことです。
売り出しの翌日からはネットでも予約できるそうですが、おそらくいい席は初日に売れてしまうのかも。
この時間は3段目の取組みで前の方に行って見ていてもいいようです。
ここは向正面でいつも舞の海親方が解説する席のようでした。
驚いたことには若い女性4人組の升席があったり、若いカップル二組の4人の白人が狭い狭い升で初めから終わりまで楽しんでいたりしていました。
琴欧州や把瑠都など東欧からの白人系力士が増えたことも影響しているのかも知れません。
子供の頃、連合国のでかい白人系占領軍兵士の姿を見てきた身にとっては、世の中にはハングリーな白人たちもいて、
極東の金持ち国へきて、日本人なら違和感はないふんどし姿での出稼ぎもいとわないのだという、考えたらごく当たり前のことを、大相撲が教しえてくれています。
昨年の10月、従姉のChinamiさんと一緒に日本橋高島屋で「柳原白蓮展」を見た後、昔は“洋書の”というキャッチフレーズがついていた「丸善」日本橋店のカフェでお茶を飲みました。
なかなかいい雰囲気の店だったので、時分どきに前を通りかかった今回また行ってみました。 小腹が空いていたので「ハヤシライス」を食べました。
「ハヤシライス」は「丸善」の創業者である(早矢仕 有的)が日本で最初に作りだしたという話があり、丸善のカフェの定番メニューになっています。
早矢仕ライスの中でも期間限定と書いてあった一品をあいかたと共に頼みました。
凄くコクがあって堪能しました。Chinamiさん、いいお店を紹介して頂いて感謝です。
家の土産にハヤシビーフの缶詰を買いました。
本屋さんのキャッシャーに缶詰を持って行くというのは、昭和60年代までハイカラな舶来品全般を扱っていた「丸善」だからあまり違和感はありません。
それにしても時代のニーズに合わなくなって、神戸の「丸善」も京都の「丸善」も閉店してしまったのは、ある時代の文化の発信場所がなくなったような感じで少し寂しい思いがします。
現役時代は元町商店街にあった神戸丸善のバーゲンの案内が来ると、よくネクタイを買いに行きました。