先日東京に住む昔からの知り合いのTさんが神戸に来ました。一時間半ほど六甲台を一緒に
あちこち歩きましたが、その話の中であの絵の原画を一度見てみたいと言われました。
この日は都合でお見せ出来ませんでしたが、その絵を今回再掲載します。
原画は10センチ四方の小さいもので、このコラージュの中の一枚です。
幼稚園と小学校3年生まで過ごした茨城県北相馬郡藤代町(現在は取手市藤代町)の生活を思い出して、次女が7,8年前に描きました。彼女のweb画廊はこちらにあります。
西宮郷のお酒白鷹(クリック)の「蔵出し生原酒」は直接、工場に行かないと手に入りません。その貴重な酒を頂いたので、居酒屋“e”に持ち込みました。瓶を見たとたん女将の目がキラッと光ました。
こらヤバイと思った時はもう既に遅く、女将のコップにどばっと注がれていました。sigh。
写真を撮ろうとした時は肴に箸をつけずに飲みだして、15分くらいでしたが、
もう残り少ないので驚きました。
干物は沼津産だそうで、素晴らしい酒と肴の取り合わせの一夕でした。
こらヤバイと思った時はもう既に遅く、女将のコップにどばっと注がれていました。sigh。
写真を撮ろうとした時は肴に箸をつけずに飲みだして、15分くらいでしたが、
もう残り少ないので驚きました。
干物は沼津産だそうで、素晴らしい酒と肴の取り合わせの一夕でした。
神戸市灘区の東部、もう、すぐ隣が東灘区と云う所に高羽交差点があります。
六甲ドライブウェイーを下りてきて最初に神戸の市街地に出る場所です。
その陸橋から昨日撮りました。春霞で六甲アイランドもはっきり見えませんでしたが。
すぐ近くに高羽小学校がありますが、おなじ校区の中学校の名前は鷹匠中学校です。
きっとこの高羽の文字は元々は鷹羽だったのが、いつか書きやすい高羽と云う
当て字に変わったのでしょう。
いまでこそ当て字は厳しく咎められますが、文部省全国一律教育が始まる前は、
当時の一流の文人でも結構おおらかかつ適当に字を当てていました。
漢字が朝鮮から導入されたあと、「万葉集」の万葉仮名のように使われた感覚は
その後も長く、そして今もまだ残っているのでしょう。
こちらも昨日六甲台から見た灘区、東灘区の画像です。正面が六甲アイランドですが春霞か黄砂でよく見えませんでした。
六甲ドライブウェイーを下りてきて最初に神戸の市街地に出る場所です。
その陸橋から昨日撮りました。春霞で六甲アイランドもはっきり見えませんでしたが。
すぐ近くに高羽小学校がありますが、おなじ校区の中学校の名前は鷹匠中学校です。
きっとこの高羽の文字は元々は鷹羽だったのが、いつか書きやすい高羽と云う
当て字に変わったのでしょう。
いまでこそ当て字は厳しく咎められますが、文部省全国一律教育が始まる前は、
当時の一流の文人でも結構おおらかかつ適当に字を当てていました。
漢字が朝鮮から導入されたあと、「万葉集」の万葉仮名のように使われた感覚は
その後も長く、そして今もまだ残っているのでしょう。
こちらも昨日六甲台から見た灘区、東灘区の画像です。正面が六甲アイランドですが春霞か黄砂でよく見えませんでした。
神戸市灘区の東部、もう、すぐ隣が東灘区と云う所に高羽交差点があります。 六甲ドライブウェイーを下りてきて最初に神戸の市街地に出る場所です。
その陸橋から昨日撮りました。春霞で六甲アイランドもはっきり見えませんでしたが。
すぐ近くに高羽小学校がありますが、おなじ校区の中学校の名前は鷹匠中学校です。
きっとこの高羽の文字は元々は鷹羽だったのが、いつか書きやすい高羽と云う 当て字に変わったのでしょう。
いまでこそ当て字は厳しく咎められますが、文部省全国一律教育が始まる前は、 当時の一流の文人でも結構おおらかかつ適当に字を当てていました。
漢字が朝鮮から導入されたあと、「万葉集」の万葉仮名のように使われた感覚は その後も長く、そして今もまだ残っているのでしょう。
こちらも昨日六甲台から見た灘区、東灘区の画像です。正面が六甲アイランドですが春霞か黄砂でよく見えませんでした。
3月もかなり女将の店に行きました。メニューがお任せなのが楽でいいです。
壁に架かっている「いつもニコニコ現金払い」と云う手書きの達筆の書は
誰が書いたのやら。
こちら(クリック)に3月のメニューのアルバムがあります。。
壁に架かっている「いつもニコニコ現金払い」と云う手書きの達筆の書は
誰が書いたのやら。
こちら(クリック)に3月のメニューのアルバムがあります。。