高松出身ながら間もなく新居浜在住生活が60年になる旧友のIさんからの第2報です。
⇒2019年から大規模の改修工事中の道後温泉に行ってきました。 7年間かかります。
日本最古の温泉として知られ聖徳太子や皇族、古今の著名人が利用との記録があります。
明治27年に三層構造として建設され三階に夏目漱石の【坊ちゃんの間】があり現在も打ち鳴らす刻太鼓
が知られている。 本館東棟は皇室専用の浴室「又神殿」がある。
観光客が子供と一緒に人力車を楽しんでいました
本館の全景。 後方の工事用建物が規模の大きさを示している
「千と千尋の神隠し」のモデルと言われた道後温泉は年間約100万人が利用しています
工事中でも一階の神の湯は営業しています。 仮の入口は本館横にあります
正岡子規の銅像がからくり時計広場のすぐ横にあります。
松山生まれで明治16年に上京、東京大学予備門、帝国大学文化大に進学し夏目漱石、高浜虚子らと
親交が厚く、特にベースボールに熱中し野球ルールを紹介し普及に尽力した。 子規没後100年にあたる
平成14年に野球殿堂入りを果たした。
子規記念博物館
伊予鉄道の道後温泉駅。 明治時代の雰囲気ある建物。
夏目漱石も実際に乗車したマッチ箱のような坊ちゃん列車が待機していた
道後温泉近くにある「からくり時計。 定刻になると下部が一m突然せり上がる工夫をしている
定時になると小説「坊ちゃん」に登場するマドンナや赤シャツなどのキャラクター
が現れ軽快に動く。 観光客はこれを楽しみにしています。
下の写真と上の写真の違いをように見てんよ。
新型コロナウイルスがオオゴトになっていますね。 お互いに十分注意しましょう。
シゲさんが白内障の手術を13日にして無事成功したので3月には快気祝い
と称して卓戦の予定です。
2020年2月25日 6時00分 茅野市玉川穴山に「コミン家」をオープンした左から鈴木一司さん、ウナさん夫妻
民泊ONEBRIDGE(名古屋市)を主宰するイラストレーターの鈴木一司さん(58)、英会話講師のウナさん(49)夫妻が、
茅野市玉川穴山の御柱街道沿いにコミュニケーション・ミーティングハウス「コミン家」をオープンした。
地域住民をはじめ世界各地の人々が集い、楽しく学び交流する拠点「楽交(がっこう)づくり」を目指している。
3月中旬には農家民宿の営業を始める予定だ。
穴山歴史研究会の伊藤博夫代表によると、同所には明治大正期に栄えた旅館「油屋」があり、蚕種の買い付け人などでにぎわった。
戦中は小学校教諭や郵便局員の下宿屋、戦後は魚屋を営んだが、昭和50年代に空き家になり、親族が管理していたという。
コミン家は不動産会社がリノベーションした木造2階建ての古民家を借りて22日にオープンした。
手斧の跡が残る窓枠やあめ色の帯戸(板戸)など江戸時代や明治時代の家具や建材をふんだんに使い、
1階に掘りごたつの談話室やトイレ、風呂、2階に御柱を正面から見物できる畳の客室、一度に20~30人が利用できる大広間を設けた。
鈴木さんは名古屋市出身。37歳の時、仏教画を学ぶために来日した韓国系カナダ人のウナさんと出会い、
結婚。民泊は名古屋市の実家に続いて2棟目で、昨年夏に中学1年の長男(13)を含む家族3人で茅野市に移住し、同年11月ごろ穴山の古民家に出合い「ここならやりたいことが具体化できる」と確信した。
コミン家では、ウナさんの英会話教室や世界のお茶が楽しめるほか、展示会やコンサート、イベントの空間として開放する。
農家民宿は主に外国人旅行者を呼び込む考えだ。英会話サークル(1回1000~3000円)のメンバーも募集している。
鈴木さんは「諏訪は人と空気、水の純度が高い。今後はもっと外国人旅行者が増える」と語り、
「学年、年齢、職業、国籍に関係なく集まり、勉強や仕事、交流する場を作っていきたい。コミン家を地域の財産として活用していただき、
穴山全体が盛り上がれば」と話している。
施設は火曜定休で営業時間は午前10時~午後6時。カフェは1日1人500円(飲み物・菓子付き)から、
イベント利用は1日5000円、宿泊料は1泊5000円からで調整している。
問い合わせは、コミン家(携帯080・7997・7297、Eメールone‐bridge@hotmail.com)へ。
異例の要請、安倍首相が主導 背景に「後手」批判―臨時休校:時事ドットコム https://t.co/ZpBD4bNvtw @jijicomさんから
— achikochitei (@achikochitei1) February 28, 2020
全国一斉の休校、感染抑止効果は? 医師も見方が割れる:朝日新聞デジタル https://t.co/1HCTi5kwkA #新型肺炎・コロナウイルス
— achikochitei (@achikochitei1) February 27, 2020
いずれも画像クリックで本文に飛びます。
目次
第1章 排除するだけでは病気は治らない(ガンになる臓器と性格や生き方は対応している;
本物のガンでも治ってしまう人はいる;ガンは治療どころか診断すらしないほうがいい? ほか)
第2章 死と闘わない生き方とは(亡くなった人の生き方を聞く;病気を治す「薬師如来」と身心を癒す「阿弥陀如来」;
日本人にとって死は「無くなること」ではなく「どこかへ行くこと」だった ほか)
第3章 ガンになる「性格」「生き方」がある(ガンは「心の病気」;左乳ガンと右乳ガンの患者は生き方や性格がまったく違う;
メンタルなストレスとフィジカルなストレス ほか)
第4章 医療の仕組みがこわれる時(「山分けシステム:の中にいる医者は患者のことなど考えていない;
手術の達成感よりも大きかった患者さんからの言葉;医療はもともとお布施で成り立っていた ほか)
第5章 「死後」と向き合う(輪廻の思想は日本には入ってこなかった「お地蔵さん」は日本流にアレンジされた仏様;
患者さんが死ぬ瞬間、何かが「抜けた」感じがある ほか)
第6章 ガンは「概念」の病気(ガンは考えすぎることで起こる病気;理性は生命の働きを弱めてしまう;
一本の植物になって風になびいてみると ほか)
第7章 「不二」の思想と出会う(物事を二つに分け、片方を否定して片方を肯定するのは良くない;
「病気は悪いものだ」という考え方をやめれば世界が変わる;てず変化していくことを愛する ほか)
著者等紹介
玄侑宗久[ゲンユウソウキュウ]
1956年、福島県三春町生まれ。慶應義塾大学中国文学科卒。さまざまな仕事を経て、京都天龍寺専門道場に入門。2001年『中陰の花』で第125回芥川賞を受賞。2007年、柳澤桂子氏との往復書簡『般若心経 いのちの対話』で第68回文藝春秋読者賞、東日本大震災の被災地を描いた短編集『光の山』で平成25年度芸術選奨本賞を受賞。2008年より福聚寺第35世住職
土橋重隆[ツチハシシゲタカ]
外科医、医学博士。1952年、和歌山県生まれ。和歌山県立医科大学卒業。西日本で最初の食道静脈瘤内視鏡的栓塞療法、和歌山県で最初の腹腔鏡下胆嚢摘出手術を施行。帯津三敬病院にて終末期医療を経験、現在は三多摩医療生協・国分寺診療所で外来診療を行なっている。全国各地で講演活動を展開(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
トップクラスの技術を持つ外科医としてガンの手術現場で実績を上げ続けた医者がある時疑問を持つ。
手術は成功しているがその患者は人間として幸せになっているのか?と。
国と厚労省と医者集団と薬品業界は患者という人間を見ずに強力な山分けシステムを作っているだけではないのか?
そして臨済宗の僧侶は檀家のガンによる死を送るたびにそれぞれのガンとその檀家の生き方に共通性を感じてきた。
沢山の生死の現場を踏んできた医者と僧侶の対話。こんな思索をする医者も日本にはいるんだと目からウロコが落ちる本だった。
探したがこの本の書評も大手メディアにはなかった。テレビや新聞の広告の大スポンサーである医薬品業界の山分けシステムを
はっきり口にするこういう本は無視されるのだろう。
日本が犯した3度目の過ち、消費増税が経済に打撃繰り返される「消費増税は財政健全化が目的」という論理は一段と怪しくなっている#消費増税 #消費税 #ハードオンザストリートhttps://t.co/u31wrOUYAf
— ウォール・ストリート・ジャーナル日本版 (@WSJJapan) February 19, 2020
幕府瓦解後の
「下級士族とその関係者がメシを喰っていく仕組み」
が司法書士や行政書士を生み出したのではということです。
官が認許権を握って、その申請には普通の民間人ではとても
処理できないような複雑な書類の作成を必要とするようにした。
徳川幕府が倒れた後、それまで月々得ていた俸禄を失った
武士が全国にあまた出ました。
彼らに収入の道をあてがわなければ不満分子が集団で
新政府に対して力によって反抗する。
幕末の各藩の武士は既に武人ではなく、藩の行政官でした。
漢文や書類作成に強い彼らを各地の役所が雇用し、仕事を分散させ
窓口をたらいまわしにする仕事を作り、給料を払う仕事を作ってやった・・・。
今に続く官僚国家日本の萌芽は明治にはじまり、今に続いて
いるようですね。
手続きの効率の悪さはすなわち関与する公務員や書士さんたちが
おまんまを喰いあっているということかと思います。
日本人の誰もが改革に手を付けていないし、これからもこの仕組みは
続くと思います。なにしろ日本にはいまだ「民主主義」があったことは一度もなく
江戸幕府成立以来日本は「官主主義の国」であるからです。
文科省のOBの天下りは国立大学はもちろん私立の雄である早稲田慶応でも
NOといえない最近の例をみてもこれは明らかです。
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日本で「ウーバー」が使えない理由
山口周(以下、山口):僕の弟は尾原さんのように世界中を飛び回っているんですが、彼に言わせれば日本に帰るたびにびっくりするらしい。
なぜ、いまだにウーバーが使えないんだと。海外では、空港に着いて最初にやるのが配車アプリを開くことですよね。
尾原和啓(以下、尾原):そう。ウーバーは単に安くて便利なだけではありません。僕たちが海外でタクシーに乗るとき、
つねに二大不安がつきまといます。本当に目的地に行ってくれるのか、あるいはぼったくりに遭うんじゃないかと。
しかしウーバーなら、アプリで行く先を入力してアプリで決済までできる。つまり二大不安をテクノロジーの力で解決してくれたわけです。
しかもユーザーレビューがあるので、評判の悪いドライバーは退場するしかありません。
逆に言えば、レビューのいいドライバーなら言葉がカトコトでも、肌の色も性別も関係なく働ける。
あらゆるジェンダーバイアスから解放された労働環境を作ったんですよね。
山口:ところが日本では認められていない。「フェアネス」という観点で考えると、今ならある程度は民間のテクノロジーに
委ねることもできるのに、日本はすべて国家が決めようとする。方向性がまったく逆なんですよね。
しかも「疑わしきはフェアネスとして認めない」という方針のようで、これは相当やばいなという感じがします。
尾原:日本のフェアネスというのは、国家としての権益を守ることが最優先される。そこは選挙制度と結びついているので、
どうしても高齢者や既得権益者を守る傾向が強くなります。彼らにとっては、コントロールできない新規参入者によって、
自分たちが丁寧に築き上げてきた商売が壊れてしまうことが最も怖いわけですから。
新居浜住人のIさんとは1966年の初夏に初めて愛媛県新居浜市にある工場で顔を合わせてから、もう54年の歳月を閲する時間が流れました。
⇒阿智胡地亭さん
しばらくご無沙汰してました。
ツクシが採れましたので田舎の春の便りをお届けします。
タケノコもこれからボチボチ店頭に並ぶと思いますが、ワラビとタケノコ
の煮つけは大好きなので今から楽しみです。
毎年ツクシも少なくなっています。 以前のように群生しておりません。
時代とともに雑草が増えたり農薬も関係がありそうです。
明日はツクシの卵とじを季節を味わいながら頂きます
かってこのブログに彼の書いた「大黒屋光太夫」の読後感を掲載しましたが、その著作者吉村昭さんが7月31日に亡くなられました。
追悼の言葉が各誌に掲載されましたが、そのなかでも一番吉村昭の人となりを伝え、深い哀悼の意を表していると思った記事の一部を以下に抜粋します。
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追悼 吉村昭
昭和2年、東京の日暮里に生まれた吉村昭さんは根っからの町ッ子であった。ちょっとした言葉の言い回しや気の遣いかたに東京人特有の気質がうかがえた。
・・・中略・・・
敗戦まもなく20歳の吉村さんは肺結核の末期患者であった。半年間で60㌔の体重が35㌔まで減少した。
そんな大病の経験をしたせいか、吉村さんには生きるうえでの自分なりの流儀があった。
みずからの真情をあからさまに吐露することを嫌い、はにかみや、謙虚さや、少々のことなら我慢する、といった、古い東京人の培っていた節度をわきまえていた。
対人関係においても、なるべく相手のよい点を強調して、全体を容認しようとした。しかし、物事や人間関係の基本に関しては、理非曲直がはっきりしていた。
その二,三の現場に立ち会った私は、吉村さんのけじめのつけかたのきびしさに、むしろたじろいだ。吉村さんなりの好き嫌いの基準はいろいろあったのだろうが、
相手の立場を考えない、手前勝手な人間には、一番我慢がならなかったに違いない。
われわれはまた一人、昭和の戦前、戦後を生きた、さわやかな東京人を失った。
文壇というものが今あるとして、吉村さんはそれまでの文壇が作り上げた良質な美学やモラルをだいじにした。
そして文壇人と生きることに誇りを持ち続けた人、と思う。だが、作家は作品がすべて、と割り切って、孤独な創作作業に徹し、文壇付き合いというのを余りしなかった。
畏敬するあまたの作家を持ったが、自らちかづくということはなかった。
・・・・以下略。
筑摩書房月刊PR誌「ちくま」10月号
[哀悼 吉村昭] 大村彦次郎より抜粋引用。
なお畏敬する吉村昭さんは自らの生命をこのようにしておえました。
島田陽子さんは1929年東京生まれ、11歳から大阪在住の詩人です。
大阪弁で沢山の詩を書いています。その中から二つ。
「いけずかぞえうた」
ひとつ ひとより ひつこうて
ふたつ ふへいは ぶうぶういい
みっつ みんなに みせびらかし
よっつ よそもん よせんとこ
いつつ いけずが いっちすき
むっつ むげっしょ むねがすく
ななつ なぶって なかしたろ
やっつ やらしい やんちゃして
ここのつ ごてさく こんじょわる
とおで とことん どつかれた
むげっしょ
≒無慈悲 非道なこと
「いうてんか」
いうてんか
すきなら すきやと
いうてんか
いけずを せんと
いうてんか
いうてんか
いやなら いややと
いうてんか
きィもたさんと
いうてんか
いうてんか
やんぺなら やんぺと
いうてんか
かってに やめんと
いうてんか
「続大阪ことばあそびうた」㈱編集工房ノア刊
老年者の男女がゆっくり四分咲きの河津桜を楽しんで旧中川の堤を行きかっていました。
神社からあるいて4分の田尻商店に寄りました。年配のご夫婦お二人でやっている手作りおかきの店でとてもおいしい。
長年言い慣れた「おかき」と言う言葉は関東では「せんべい」に。
「スルメの天ぷら」は「裂きイカの天ぷら」に。関東と関西の日常語の使用語彙の違いになかなかなじめない(笑)。
漫歩計は5804歩でした。
戦争を引き起こした「昭和のエリート」との共通点
こう書くのは、ノンフィクション作家の保阪正康さんだ。保阪さんは在野の昭和史研究家として、これまでに4000人以上の人から証言を得て、近現代史の実証的研究を続けてきた。そうして先達たちが昭和の時代をどう生き、歴史と向き合ってきたかを考察してきた保阪さんには、「今のエリートとあの戦争を引き起こした『昭和のエリート』たちの姿が重なって見えてくる」のだという。
画像クリックで本文に飛びます。桜を見る会、IR汚職、日本郵政不正販売……日本型エリートはなぜ「自壊」するのか?保阪正康が指摘する“不祥事の根源” #不祥事 #官僚 #文藝春秋 #文春オンライン https://t.co/on6K9aQFiQ
— achikochitei (@achikochitei1) February 23, 2020
今回のルートが3.45度という、世界でも類を見ないほど難しいアプローチになった背景には、在日米軍との間で取り決められた「横田空域」の問題がある。今回の北回りの新ルートは米軍の管制下にある横田空域を一部通過することになるため、政府は米軍との間で交渉を続けてきた。最終的に横田空域を一部通過することの了承は得られたが、ただし米軍側が3,800フィート(約1,100メートル)以上の高度を通過することを条件として提示してきたため、羽田へのアプローチはどうしても3.45度という急角度にならざるを得なくなってしまった。3,800フィート以下の空域は米軍が占有で使うからだという。
いまさら言うまでもないことだが、横田空域などというものが日米地位協定や日米安保条約に明記されているわけではない。これは日本政府と在日米軍の間で地位協定の運用を協議する日米合同委員会の場で在日米軍と日本政府の間で合意されているというだけの、何の法的根拠もないものだ。しかも、日米合同委員会は議事録すら公表されていない。しかし、それがこういう場合も旅客機の安全性よりも優先して、日本の前に立ちはだかるのだ。
画像クリックで本文に飛びます。なぜ東京都心の真上を大型旅客機が飛ぶことになったか知っていますか #BLOGOS https://t.co/MzkTuCRWYJ
— achikochitei (@achikochitei1) February 23, 2020
拝観式で使うために準備していたしめ縄を燃やす、注進奉告祭の参列者ら=22日、諏訪市
諏訪湖を覆った氷が割れ、せり上がる「御神渡(おみわた)り」の判定や記録を担う諏訪市の八剣神社は22日、注進奉告祭を同神社で開いた。
宮坂清宮司(69)は今季、2季連続で御神渡りのない「明けの海」だったことを神前で告げた。
宮坂宮司が拝殿で「今年の諏訪の湖は全面結氷もせず、小波打ち寄する明けの海にて御渡(みわた)りござなく候なり」と注進状を読み上げた。
御神渡りの拝観式で使う予定だったしめ縄を燃やす「おたき上げ」もした。
同神社の記録によると、室町時代の1443(嘉吉3)年から今年まで、御神渡りのない明けの海は73回(不明の年は除く)。
平成以降、その頻度は増加傾向だ。宮坂宮司は「今年は本格的な冬の訪れを感じないまま春を迎える。複雑な気持ちだ」と話した。
奉告祭の後、総代らは諏訪大社上社本宮に出向き、注進状を奉納した。
(2月23日)
御神渡り「明けの海」 八剱神社で注進奉告祭 長野日報 2020年2月23日 6時00分
諏訪湖面に張った氷がせり上がる御神渡り(御渡り)の判定と神事をつかさどる八剱神社(諏訪市小和田)で22日、今季の結果を神前に告げる注進奉告祭があった。
総代や古役ら約40人が参加。令和最初の今冬は、御神渡りが出現しない「明けの海」となったことを奉告した。
神事で宮坂清宮司(69)は「全面結氷もせず、小波打ち寄する明けの海にて、御渡りござなくそうろう」と読み上げた。
神事後に、御神渡りの出現時に氷上で行う「拝観式」で総代らが肩に掛ける予定だったしめ縄70本を焚き上げた。
総代らは真剣な表情で炎を見つめていた。
平成に入ってから明けの海は22回目。2季連続で御神渡りが出現しなかった。宮坂宮司は「過去の記録を見ると今冬は平成18年末から
19年にかけての湖面の状況と似ている」とし、「この年は猛暑で雨が少なく、地震もあった。どうか穏やかな年であってほしい」と願った。
宮坂平馬大総代(66)は「ほとんど凍らない状況で氷の厚みを測るまでに至らなかった。温暖化が進んでいることを実感した」と声を落とした。
奉告祭に続き、結果を記した注進状を諏訪大社に奉納した。大社を通して宮内庁に言上、気象庁に報告される。
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