阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

SANTA ISABELLAの進水式 @川崎造船神戸工場           20年前からの「神戸あちこち」その2    2005年12月17日の本ブログに掲載

2025年02月07日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

左側にワイヤーカット用のナイフが見えます。

招待された近所の幼稚園児も、船の余りの大きさに声も無く上を見上げて、指定席に向かいます。

神戸市消防団音楽隊は「国歌」から「モスコウ」までレパートリー広く演奏してくれました。


手順に従ってきびきびと多くの作業員が動き、巨体を支えていた添え木を3段階で外していき、それが完了したことが確認されたあと、

造船所長がおごそかに船主に「進水準備が完了しました」と告げると、船主令室がナイフで一気にロープを切断しました。

その瞬間、「シャンパン」が割れ、巨体は音も無く、船台をするすると滑り出すと“くす玉”が割れました。

船体が船台を完全に離れた瞬間、錨が落とされ水しぶきが上がりました。

船は安定した状態で、タグボートで神戸港の所定の位置に移動していきました。これから2月末まで艤装をおこない、そのあと船主に引き渡されるそうです。


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上の画像は:

ばら積運搬船“SANTA ISABELLA”主要目
       2005年 12月16日進水

船主            FOREVER SHIPPING,S.A
船級                日本海事協会
船籍                   パナマ
全長                約189.90メートル
長さ(垂直間長)           185.00メートル
幅    (型)           32.26メートル 
深さ   (型)           17.80メートル
総トン数               約31,000トン
載貨重量               約55,500トン
連続最大出力          8,200kw×110回転
定員                    25名

という船の、12月16日に川崎造船神戸工場でおこなわれた進水式の模様です。

 進水式見学2回目の今回は、式台の上の船主や造船所長、日本海事協会支部長
などの隣のブースで、セレモニーの全容を見せてもらいました。

☆今日の神戸新聞に写真つきで掲載された記事によると、「船体が海へ動き出すと、会場に招かれた市民ら約1,000人から
歓声と拍手が沸き上がった。同社が建造する同型シリーズの7隻目。穀類、石炭、鉱石などを約5万5千5百トンまで積める。
船首は水の少ない形状で、燃料を節約できるほか、4基のクレーンを船上に備え、荷役設備が無い港湾でも積み下ろし作業が出来る。・・」
とありました。

この船の[排水量]は世界最大の戦艦といわれた「戦艦大和」にほぼ匹敵するという安田さんのお話も事前に聞いていましたが、
身近に見るとまあなんとも魂消る巨船でありました。

そしてこの船体を構成する大小さまざまな船殻(ブロック)を巨人の手のように吊り上げ、組み立てる多数の大型ドックサイドクレーンが
自分に縁があったメーカー製であるのも個人的に嬉しいことでした。

安田健二さん今回も本当にお世話になりました。ご一緒した清水さん、吉村さん有難うございました。

日本晴れの青空のもと、電子製品にはない、鉄の大きな塊(ドンガラ)の婉然たる美しさをあらためて感じました。

実は、その中には、ドンガラをたった25名で操船できる最新・最新鋭の電子機器も多く装備されているのですが。

 式のあいだ、自分も新入社員時代の数年、四国で勤務した鉄を加工する製造現場の機械油や溶接の煙などの

何ともいえない懐かしい匂いが鼻腔をくすぐって、嬉しかったです。

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湊川神社から神戸新開地へ             20年前からの「神戸あちこち」その1    2005年12月5日の本ブログに掲載

2025年02月05日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

先週の金曜日に 六甲道の文化センターの「朗読講習」5回目が終わり、今回の初歩講習はあと一回になりました。

来年の1月から「実習コース」になりますが、それらを卒業して実際に活動をしているグループがいくつかあるそうです。

既に活動しているグループの交流会がありますが、希望者は見学できますよとの、先生のお話があったので行ってきました。

今日は家を出ると駅までの道筋は身体が飛ばされるような強い風が吹いており、阪急御影駅のプラットホームも強風にさらされていました。

場所はJR神戸駅前の湊川神社の境内にある「楠公会館」でした。私は三ノ宮から高速神戸駅のルートを使いました。

駅を上がるとすぐ湊川神社です。



6グループの発表は経験年数の差で多少の違いはありましたが、演者自身がみな楽しそうにやっていたのが印象に残ります。

3ヶ月先の結果は別にして、講習をもうワンクール受けてみようかなと思いました。

終わってから、淀川長治さんが幼児時代から親に連れられて通ったという新開地に行き、



「トシヤ」でいつもの「ソバ焼き」を食べて帰りました。

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今日からこのブログは20年目に入ります。   初めての日のエントリーのタイトルは「万博公園のこんなアングル」でした。

2024年12月03日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

2005年12月3日にブログを始めた最初のエントリーです。

⇒ 万博公園で見つけた木の瘤。目に入った一瞬、爬虫類が木にへばりついていると思ってゾッとしました。

ソラードは木々の樹冠が見えるように、高く歩廊が巡らされています。

そこからドングリの実が沢山見えました。



公園には好きな竹林も沢山ありました。もともと千里丘陵は竹の叢に覆われていたと聞きます。


この角度の太陽の塔を見たとき、意外に猫背なんだと笑ってしまいました。


バラ園もありました。一枚接写しました。



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昭和33年発行 祖父の俳句集「岱風句抄」から 六句

2024年11月21日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

「岱風(たいふう)句抄」の全句を冊子の掲載順に並べ替えて保存しました。

                  
  最初の六句です。

春寒う 市立てる町の  人出哉

溝幾筋にして  桃李園  長閑

庭隅の残雪や  松の葉の  こぼれ

街道埃  軽く吹き居り  木の実植ゆ

紙鳶糸のもつれる  夕雨落ちて

夕暮るゝ  丘にさえずり  移りせり

  ♪ 句抄の中に

蛙鳴くや  末の児が  夕餉をせまる

と言う句があります。この夕餉(ゆうげ-夕ご飯)を迫った末の児は、自分の父親のことなんだろうか、
それとも三男の父と10歳違いで産まれた四男の叔父のことだろうかとふと考えます。

   Click⇒岱風句抄 

祖父の岱風は 諏訪藩が廃藩置県で無くなってから、「家のなりわい」の花火製造販売業をある事情で廃業し、しばらく足袋屋をしていたようです。

その後、足袋屋は時代の変化に合わなくなり、彼は東京に出て、テイラーの店に住み込みました。

その店で縫製を修業し、洋服仕立ての技術を身につけて上諏訪に帰りました。そしてテーラーメードの店、「ハナビヤ洋服店」を開業しました。

店名は風変りですが、親代々の一家の「なりわいー生業」に敬意を払ったのかもしれません。

彼は大工の棟梁だった親友の妹と結婚し、四人の男子を縫い針の稼ぎで育て、それぞれ教育を受けさせました。

 亡くなるまで、洋服屋の主人であり、居職の洋服仕立て職人でもあった彼は、

いつも傍らに小さな手帳をおき、浮かぶままに俳句を書きつけていたと聞きます。

時代の変化は激しく、祖父から伯父へ、伯父から従兄へ引き継がれた注文仕立ての洋服店は30年ほど前に閉店しました。

 

 

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 ほとけの教えはつぎのとおりである。“猛暑の妄想”。   上出拓郎さんから頂いたメールの中から。

2024年11月09日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ
2010年08月17日(火)  「阿智胡地亭の非日乗」掲載

☆新居浜市の響灘の住人こと「上出拓郎」さんから“猛暑の妄想”という一文を寄せていただきました。

一読後、より暑くなるか、涼しくなるかはあなた次第です。  ☝響灘

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暑い日が続き、動くのがいやだから、
インド人のように横になって、
妄想をめぐらすのがやっとです。


分子生物学者は次のように言っている。
生命の構成成分は絶え間なく流れながら存在して
おり、ある遺伝子が欠落しても、別の遺伝子が
それを補うように柔軟に働き、全体でバランスを保つ
動的平衡にある。

科学は発見を通じて人間生活に進歩をもたらして
いると見える。
ところが必ずしもそうとばかりは言えない。 
例えば、抗生物質の開発の歴史は、それを克服
する新しい耐性菌を次々に生み出した歴史
でもある。

ある局面だけを切り取れば、抗生物質はばい菌を
退治して多くの人たちを衛生的な生活に導いた
ように見える。 しかし長い時間軸で見ると、
そんなに効率的ではないことがわかる。

抗生物質が菌を退治するのではなくて、
菌の繁殖のスピードを遅くすることに手を貸すことで
私達の身体が新しい動的平衡を取り戻すことに
手を貸しているのである。 
逆に菌は抗生物質に抵抗力を持つように進化を
遂げている。

農業に目をうつして見よう。
モンサント社はベトナムに後遺症の大惨禍を
もたらした枯葉剤を生産することで成長した。 
現在は遺伝子操作によって除草剤でも死なない
作物を開発し、百姓はこれを播種、成育後除草剤を
散布、農作に邪魔な雑草を除去するということで、
土地の生産性を上げるとして世界農業の制覇を
めざしている。 
同社は米国、その他の国々で農業における支配権
を確立した。

ところがどっこい、数年後には、除草剤で死なない
スーパー雑草が出現して米国の百姓たちは大損害を
受けた。


   ほとけの教えはつぎのとおりである。 

人々の苦しみには原因があり、人々のさとりには
道があるように、すべての物は、みな縁(条件)に
よって生まれ、縁によって滅びる。

雨の降るのも、風の吹くのも、花の咲くのも、
葉の散るのも、すべて縁によって生じ、縁によって
滅びるのである。

この身は父母を縁として生まれ、食物によって
維持され、またこの心も経験と知識とによって
育ったものである。
だから、この身も、この心も、縁によって成り立ち、
縁によって変わるといわざるを得ない。
網の目が、互いに繋がりあって網をつくっている
ように、すべてのものは、つながりあっている。

網の目は、ほかの網の目と関わりあって、ひとつの
網の目といわれる。 
網の目は、それぞれ、ほかの網が成り立つために
役立っている。

すべてのものが、縁によって生じ、縁によって滅びる
のは永久不変の真理である。 
遷り変わり、常にとどまらないことは、
不動の真理であり、これだけは変わらない。

 トップの写真はwebから引用。 

  次のエントリーも上出拓郎さんから頂きました

天体力学が思想家に与えた負の影響、あるいは格差問題の本質 - 阿智胡地亭のShot日乗

安芸の軍勢の焼き討ちから再び芽生えた新居浜市の一宮神社の楠の大木        2010年の今日8月10日に掲載 - 阿智胡地亭のShot日乗

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長らく闘病中と伺っていた上出拓郎さんが2024年10月17日に新居浜市でお亡くなりになりました。

心よりご冥福をお祈り申し上げます。

 1966年に初めてお会いして以来お付き合いを頂き 2005年頃からはずっとメールやfacebookなどで週一回ほどの交信を続けていました。

ここ2年ほどは残念ながらご病気でやりとりが かないませんでした。

 

 長いご交誼の中で上出さんの中国からの引き揚げ体験など、幼児からの個人史や母上の句集なども折に触れて知りました。

新居浜に行くたびに必ず上出さんは松岡さんとお二人で時間を空けて下さいました。

 

 自分が貿易部にいた時は 当時ニューヨーク支店におられた上出さんに、ニューヨークのこぶりなロシア料理店でロシア民謡とウオッカをたっぷりとか・・

森哲雄さんに続いての長いご厚誼をいただいた方のご逝去はまことに残念です。

  いろんな思い出が頭の中を巡ります。

上出さんは にこやかな表面の中に曲がったことは大嫌い、人間としてやらないといけないことはやりとげるという面も持つ厳しい人でした。

 そして人にはやさしい目を向け 飲み助とのお酒の付き合いが大好きな・・・。

  しかし私は時にこの人は いざとなったら裂ぱくの気合を持ってことに当る人だなと時々むけられる鋭いまなこから感じる人でした。   

これまで多くの先輩方の存在のおかげになってきましたが上出さんはその中の大きなお一人でした。

 ありがとうございました。

                      合掌

JPS61255793A - 高速スクリユ−プレスの駆動装置 - Google Patents

パワージェネレータによる成形装置の駆動 | 文献情報 | J-GLOBAL 科学技術総合リンクセンター

 

 

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映画「BoX 袴田事件 命とは」を観ました。        2010年07月27日(火)  「阿智胡地亭の非日乗」掲載

2024年10月09日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ
 

映画はどんな映画でも「ある意図を伝える、伝えたい」ということで製作される。そういう意味では“中立公正な新聞・テレビ”がこの世に存在しないのと同じく、

映画は全てバイアスがかかって偏見に満ちていると言える。例えば娯楽映画でも何らかの意図がなく、俳優のギャグだけに頼る映画は、面白くないし客を呼べない。

しかし意図を伝えたい映画であっても、入場料を払ってまで、客が映画館に来てくれるかどうかはわからない。見た人の口コミで面白いよと噂が広がっていくかどうか。

 少なくともこの映画は、最初から多くの客を呼べる面白い映画ではない。

映画の製作意図ははっきりしている。裁判当時、公判を担当した判事だった「熊本 典道」さんが(死刑判決後しばらくして退官、

以降は弁護士として過ごす)2007年2月に袴田巌」は無罪だと発言したことをベースにして製作された。

つまり死刑判決を下した裁判官自らが、後に「実は被告は罪を犯した真犯人ではない」と発言した、いわゆる「袴田死刑囚冤罪事件」を映画化したものだ。

ある意味、最近テレビでよくなされる「再現ドラマ」を映画館で見ることになる。

この映画の製作及び製作費用はおそらく、多くの袴田死刑囚支援団体(日本プロボクシング協会・ファイティング原田前会長など)もあってなされたような気がする。

出番は少ないが重要な役を演じている、大杉漣、國村隼、吉村実子、岸部一徳、塩見三省、石橋凌などのベテラン俳優たちも、

おそらくこの映画を製作した“高橋伴明”監督の製作意図に賛同して出演したような気がする。

最も大杉漣のように高橋監督とはピンク映画時代からの戦友と言う縁で出た俳優もいる。

*1966年6月30日、静岡県の味噌醸造会社の経営者一家4人が殺され、家は放火された。強盗殺人放火事件の容疑者として袴田巌が、

同年8月18日に逮捕され、以来一度も拘束を解かれることなく、裁判で死刑判決を受け、30歳当時から74歳の今年まで44年間、死刑囚として刑務所に収監されている。

獄中の袴田は、毎朝、刑務官の足音に恐怖しているうちに(三人の足音がすれば、それは死刑の執行を意味する)拘禁症がすすんで、ついに精神に異常をきたした。

今日も尚、彼は死刑を執行されずに刑務所の独房で人生を送っている。 映画感想ここまで

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◎ 最新の判決では、最高裁が2008年に特別抗告を棄却している。

死刑判決を出すのは、裁判所であるが、実際の執行命令書に署名するのは国会議員から任命された法務大臣だ。

一人の人間を精神異常に追い込むほどの44年という長期間、死刑を執行しないというのは酷いことだと思う。

法務大臣在任中、死刑執行に多くの署名をして朝日新聞に死刑執行人と書かれた鳩山邦夫元大臣も、同じく在任時代に何人かの死刑執行をした森英介元大臣も、

袴田死刑囚の死刑執行書に署名していない。映画をみているうちに司法当局が,これまで時の法務大臣に袴田死刑囚の死刑執行署名を求めない理由は何か?と考えてしまった。

刑事訴訟法によれば、死刑執行の命令は判決が確定してから6か月以内に行わなければならないが、再審請求などの期間はこれに含まれない。)

事件が起きて捜査を担当する警察の前線の初動の視点が狂うと冤罪が起きる。最初が肝腎だが、警察もいつも初動捜査に万全であることはない。

時間がたてばたつほど真犯人捜査は困難になり、そうなれば、警察は当初の予断に基づくシナリオにしがみつくしかない。

一警官から最高裁判所の判事まで、その職についている公務員の面々が、「人を裁いて死にいたらしめる」ことの意味を、ほとんど考えていない・・。

彼らにとっては、事件や公判は、片付けなければならない毎日の仕事で、それをこなしていくだけだ。

 しかし、この組織の裁きは「私刑」ではなく、「国家刑」だから、もし冤罪で死刑になった場合は、例え無実であってもくにたみが任せた司法専門職の人たちに、

容疑者は公的に殺されたことになるそしてこの公的殺人は、携わった誰も殺人罪の咎を受けることは無い。

「お上のやることに間違いはない(官の無謬性)」のであり、いや、それに守られて「間違ってもそれはなかったことにする」にいたる・・。

一人のくにたみとしては、こんな映画は戦前には検閲でとても上映できんかった、こんな映画が製作されて公表されるだけでも一歩前進かなあと思うしかない。

熊本元判事は、退官後に自責の念から、自殺を図るまで追い詰められ、奥さんと女の子二人の家族と離縁するまでになっている。

高橋監督は袴田巌の、そしてもう一人熊本典道の人生を、彼の目を通したドラマで記録に残し、日本の司法制度に携わっているお役人さまたちに迫っている。

チョー真面目な映画ではあるが、さすがテダレ(手練)の高橋監督!要所要所で法曹ムラの住人たちをおちょくるシーンを挿入して笑わせてくれる。

 冤罪を司法が起こすと、真犯人は追い詰められることなく逃げ切ることが出来る

人が自分の身代わりで死刑になろうとも、名乗りを上げることはない人間がいる。この人間の心の闇も恐ろしい。


  (7月21日大阪・十三「第7芸術劇場」にて中村隆次さんと観る)

映画『BOX 袴田事件 命とは』予告編

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袴田さんの再審開始が確定、無罪の公算強まる 検察側が特別抗告を断念 1966年一家殺害 死刑事件で5例目

2023年3月20日 20時56分  東京新聞
 
1966年に静岡県で起きた一家4人強盗殺人事件で死刑が確定した袴田巌さん(87)の第2次再審請求差し戻し審で、
 
東京高検は20日、再審開始を認めた東京高裁決定に対し、最高裁への特別抗告を断念したと発表した。
 
袴田さんが犯人との認定に「合理的な疑いが生じる」とした高裁決定が確定し、今後静岡地裁で再審公判が開かれる。
 
事件から57年を経て、袴田さんが無罪を言い渡される公算が大きくなった。(奥村圭吾)
 
 死刑が確定した事件で再審が行われるのは5件目。東京高検の山元裕史次席検事は「決定には承服しがたい点があるものの、
 
法の規定する特別抗告の申し立て事由が存するとの判断に至らず、特別抗告しないこととした」と文書でコメントした。
 
 差し戻し審の争点は、犯行着衣とされた「5点の衣類」の血痕の色。衣類は事件の1年2カ月後にみそタンク内から見つかっており、
 
13日の高裁決定は、長期間みそ漬けされれば赤みは消えるとした弁護側の実験結果を「無罪を言い渡すべき明らかな新証拠」と判断。
袴田さんを「到底犯人と認定することはできない」とし、捜査機関が「5点の衣類」を捏造ねつぞうした可能性にも言及した
 検察側は、5点の衣類がみそ漬けされた状況と実験とでは条件が異なり「赤みが残らないと断定はできない」と主張していた。
 
最高裁への特別抗告は、憲法違反や判例違反がある場合に限られ、高裁の認定を覆すのは難しいと判断したとみられる。
 都内で記者会見した弁護団長の西嶋勝彦弁護士は「(検察の判断は)当然だと思う。再審公判で袴田さんの無実を明らかにしたい」と力を込めた。
 
袴田さんの姉ひで子さん(90)は「(検察が)腹を決めてくれたと思う。うれしくてありがとうという言葉しかない」と話した。
 
 2008年から始まった第2次再審請求審では、14年に静岡地裁が再審開始を決定し、袴田さんは逮捕から48年ぶりに釈放された。
 
検察側の即時抗告を受け、18年の東京高裁は決定を取り消したが、最高裁が20年、血痕の色に争点を絞った上で審理を高裁に差し戻した。
 
 弁護団は高裁決定後から3度にわたり、高検に特別抗告をしないよう求める申し入れ書を提出。
 
弁護団が呼び掛けたオンライン署名は3万5000筆を超えるなど、特別抗告に反対する世論も高まっていた。
 
 
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庭をイタチが走った! YouTube        2016年4月20日掲載

2024年08月31日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

2016年4月20日 イタチが走った!

2016年4月20日 庭で撮影。 場所が神戸市東部の六甲山の麓のせいか あちこちの家の天井や納屋にイタチが棲みついているようだ。

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 神戸市東灘区から 兵庫県の室津を訪ねた      2002年3月     日本あちこち記から  その7 

2024年08月14日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

室津へは10数年ほど前、神戸に戻って暫くして日帰りで行ったことがありますが、今回はガイドブックで見つけた「きむら」という旅館に一泊の予約をしました。

この旅館は竹久夢二や谷崎潤一郎が滞在し創作や執筆をしたと紹介されていましたが、いまは町中から出て高台へ移転しています。

宿の一角に夢二の絵が沢山掛けられていました。

 竹久夢二はここからそう遠くない岡山県の邑久郡の出身です。(このことは大阪勤務の時、仕事で邑久のヤンマー造船所へ行った時に知りました)

室津は江戸時代、参勤交代の西国大名が参勤交代のため瀬戸内海を船で移動するときの船本陣があった自然の良港です。

宿に車をおいて部屋で一休みしました。 部屋からは、港と小さな湾を囲んだ平地にぎっしり立ち並んだ家々と漁船の群れが真下に見えました。

その後、宿のある高台から港までおりて町に入りました。町には昔の本陣と脇本陣だった建物が二つだけ保存され、博物館になっておりよく維持されていました。


江戸時代、北海道、秋田、酒田などと交易をした北回船の胴元達もこの地にいたり、本陣もいくつもあったりで、

室津は近隣では飛びぬけて富裕な土地柄だったため、姫路藩が飛び地として所有、支配していました。

姫路の殿様や上級武士はここの金持ち連中から毎年盆正月に借金しては踏み倒し、その代償として苗字帯刀、駕籠使用の許可などで、

商人のご機嫌を取っていたような説明があり、思わず笑ってしまいました。

ロシア宮廷も清朝も江戸幕藩体制も末期になると人間のやることは皆同じで、経済が商業資本に実質的に、押さえられています。

脇本陣の家は革細工の煙草入れの製造元でもあり、当時から大阪船場に販売の店を持っていたそうです。

今に続く姫路の革産業は歴史があるんやなあと思ったことと、この豊野家の「豊」という字は姫路藩の筆頭家老である「豊田」氏から使用を許され、

名乗ったという説明で、そう言えば、元の勤務先で知っているあの方も姫路西高の出身だったなあとフト頭に浮かびました。

◎江戸時代、参勤交代の西国大名の往来で栄えた頃、「室津千軒」と言われたという町中を歩くと今は全くの漁師町ですが、

立派なお寺やソテツの群生がある岬の丘に結構大きな「賀茂神社」があり、長年旦那衆がいたところだと実感します。


余談ながら加茂、鴨、賀茂と漢字は色々ですが、古代、海洋民族の「KAMO族」が南洋から日本に、次々と数多く漂着し各地の海辺に定住したり、

魚を追い、川を溯って山国へ移動して住みついたりしたため「賀茂川」や「賀茂」という地名は全国各地に数知れません。

また賀茂神社は京都の下賀茂、上賀茂神社のように日本の神社の中でも相当古い神社のようです。

京都の下賀茂神社にお参りした時、その建築物が、高床式で柱と屋根だけのマレーシア、サラワクやフィリピンの家と殆ど同じ形式なのに驚きました。

とても寒い京都の気候から生まれた構造物ではありません。また祭られている神様は当然「水」の神様です。

◎魚中心の夕食を旅館なので部屋に運んで来てくれ、ゆっくりおいしく食べました。

食事の後、ロビーの夢二のコレクションを見て早めに休みました。

何となく外が騒がしいので目が覚め、時計を見ると明け方の5時半でした。窓を開けるとドッドドッドとエンジンを轟かせ漁船が次々と港を出て行くところでした。

真っ暗闇の中をマストに赤と緑のランプをつけ、前だけを照らして同じ間隔を取って出港していきます。小さな漁船が100艘ほども一列縦隊で出て行くのを始めて見ました。

思わず最後の一艘が出て行くまで見てしまいました。朝食の時にいいものを見たと宿の女性に言ったところ、

彼女には毎朝の出来事らしく、なんでそんなものが珍しいのかという顔をされてしまいました。


③港で干物を買って、赤穂御崎を目指しました。カーブの多い海岸線に沿って走っていくと、建造中の大きな自動車専用船が何ばいか見えてきました。

いつしか相生市に入っていました。


船が建造されていたのはIHIの相生造船所でした。本館と思える建物やドックを過ぎると、中国から江戸時代?に移入された「ペーロン船」の競争会場が現れ

赤と金を多用した中国風の記念館があって、テレビでしか見たことがない場所に突然紛れ込みました。

車で移動すると時々こういう思いがけない楽しみがあります。

赤穂御崎でゆっくり海を眺めたあと、山陽自動車道の赤穂ICで高速に乗り、

帰りは2時間ほどで家に帰り着きました。走行距離計は242kmでした。

  2002年3月記。画像は全てネットから蒐集。

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長崎「焼き場の少年」広がる共感 原爆「悲しみ」を発信  [長崎県]、西日本新聞。   映画「TOMORROW 明日」

2024年08月09日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ


長崎「焼き場の少年」広がる共感 原爆「悲しみ」を発信  [長崎県]、西日本新聞
2018年08月15日06時00分 (更新 08月15日 06時20分)

原爆投下後の長崎で撮影されたとされる写真「焼き場に立つ少年」への共感が、時代や国境を超えて広がっている。

昨年末にローマ法王フランシスコが「戦争がもたらすもの」とのメッセージと自筆の署名を添えて、写真を世界に発信するように呼び掛けた

日本ではカトリック中央協議会(東京)が7月上旬に日本語版の写真カードの配布を始めると希望者が相次いだ。

唇をかみしめ悲しみをこらえる少年の姿が人々の心を揺り動かしている。


 写真は米軍のカメラマン、ジョー・オダネル氏(1922~2007)が1945年に撮影。直立不動の少年が、亡くなった弟を背負い、

焼き場で火葬の順番を待つ姿を写している。


 国内では核兵器廃絶を訴えるローマ法王の呼び掛けに長崎大司教区の高見三明大司教(72)が応じて、カトリック中央協議会が動いた。

「被爆地・長崎にいる私たちが動かないといけない」。オダネル氏の遺族の使用許可を得て20万枚の写真カードを作り、

全国の教会を通じて配布を始めた。

はがきとほぼ同じ大きさの写真カードの裏面には「この少年は、血がにじむほど唇を噛(か)み締(し)めて、

やり場のない悲しみをあらわしています」との説明文がある。


 長崎市で生まれた高見氏自身、胎内で被爆。祖母ら親族10人以上を原爆で亡くしている。法王の呼び掛けを聞いて、親族に思いを巡らせた。

被爆から6日後に亡くなった祖母は想像を絶する苦しみだったはずだ。

母の妹の1人は畑仕事中に爆風や熱線を浴び、もう1人は遺体すら見つかっていない…。

 

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「人間は私の父と母のように、霧のように空中に消されていいものだろうか」

今から78年前の8月9日、両親を長崎の原爆投下で失った人の言葉です。

映画「TOMORROW 明日」の冒頭にこの言葉がスクリーンに写しだされました。

 1)子供たちが道路でチャンバラをしている遠景に日本人の修道女が二人歩いてくる。

夜、逢引する場面の向うに墓地が見え、その中にいくつか十字架のお墓が見えている。

そして殆ど終盤にマリア像が大写しされる。

見ていてそのことにすぐ気がついた。

キリスト教の日本における布教史の中では、特別な位置を持つ長崎。

その長崎をキリスト教国のアメリカが、広島に次いで人類に対する2番目の一般市民大量無差別虐殺のターゲットにした。

歴史で原爆を習い、また、江戸以前からの日本のクリスチャンの過酷な信教の歴史を知りだしたころ、アメリカ政府は天主堂がある場所を含めて

なぜ長崎へ原子爆弾を投下したのか、自分は単純に不思議に思った。今もその疑問はそのままだ。 


街の中に普通に日本で一番キリスト教が根づいている長崎の街と長崎のひとたち。

黒木監督もそのことが頭にあったのかなあと、そのことが気になりながら映画に見入っていった。

 2)黒木和雄監督は先日、残念ながら早い死を迎えられた。その追悼のため戦争三部作と言われる作品の追悼上映が催され、

その最初の上映が1988年制作のこの映画だった。

映画は長崎に原爆が落とされた昭和20年8月9日の前日、8日の長崎市民の一日を淡々と描いている。

肺浸潤のため徴兵されなかった工員(佐野史郎)と長崎医大の看護婦(南果歩)のささやかな婚礼。

夫が出征しているその姉(桃井かおり)の出産。その妹(仙道敦子)と医大生との恋愛。そしてその両親の1日。近所の市電の運転手夫婦の日常。

捕虜収容所のB29の乗員たちの生活も。

皆にとって、7日の昨日もそうであり、9日の明日もそのように続いていくはずだった。

女学生の妹が学校から引率されて工場に向かう9日の朝、道の途中で白雲のわく長崎の空に現れた米軍機をふと見上げた次の瞬間、

画面は白と黒だけに変わり、真っ白な灼熱の空気が強く流れてくる。

そこで映画は何も語らず終わる。

この映画は始まるとすぐ、画面に文字だけが出た。

人間は私の父と母のように、霧のように空中に消されていいものだろうか
(長崎の被爆体験者の証言から)

 3)結果的に「父と暮らせば」、「美しい夏キリシマ」、「TOMORROW/明日」という制作年度の若い順とは逆の順番で3本を見たことになった。

どの映画も二十歳前の黒木監督自身の戦時体験が映画を作るモチベーションになっていて、見る順番は関係なくどれも胸のどこかに沁みこんでいく。

人間は突詰めれば 他者に対する想像力を育て、想像力を持つ者だけが人間となり、それを持たぬもの

持てぬ者は人間の形をした一哺乳類のままのような気がするが、黒木監督はきっと人間の行動に感度の高い想像力があり

、自分が生まれた時代に意味を求め、生きる意味をこれらの映画作りに託したのだと思う。

何事もなく過ぎていくと思っていても、次の日には何が起こるかわからない。それは自分の明日にも。

こんなことが通るようではおかしい、変だと言うことを、自分がそのままにしておくとその結果は必ず間違いなく誰の上にも例外なく来る。

黒木和雄と言う人は日本人だけではなく、地球上の人間にそういう強いメッセージを送り続けて生きてきた、ような気がする。

黒木和雄監督 戦争レクイエム4部作予告編

  2006年8月12日 ブログ『阿智胡地亭の非日乗』に掲載

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長崎原爆の爪痕を残していた浦上天主堂。  解体されてしまった理由は?

2024年08月09日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

一部引用・・・長崎市北部に位置する浦上地区は、戦国時代末期にイエズス会領になっていたこともあり、カトリックの信者が多い地域だった。

その後、江戸幕府のキリシタン禁教令によって、4度に渡る「浦上崩れ」という激しい弾圧を受けるが、地元住民はキリスト教への信仰を捨てなかった。

「潜伏キリシタン」として明治時代まで信徒が存続していた。

 江戸末期から明治初期に起きた「浦上四番崩れ」が欧米から批判されたことを受けて、ようやく1873年に明治政府がキリスト教の信仰の自由を認めた。

釈放された浦上の信徒たちの間で、天主堂の機運が盛り上がった。1895年にフレノ師が設計、ラゲ師に引き継がれ、20年後の1914年に完成した

これが、石とれんが造りのロマネスク式大聖堂「浦上天主堂」だ。高さ25メートルの双塔の鐘楼を備え、「東洋一の大聖堂」と謳われるほどだった。

しかし、1945年8月9日午前11時2分、米軍が長崎市の上空に投下した原爆「ファットマン」によって、浦上天主堂は、一瞬にして崩壊。一部の外壁だけが残された。

西田三郎、玉屋房吉の二人の神父と、奉仕作業をしていた信徒十数人が天主堂と運命をともにした

 画像をクリックすると本文のサイトに飛びます。

 

原子爆弾投下で破壊される前の教会

アメリカ軍撮影の長崎投下後のキノコ雲

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2024年08月09日 追記

長崎原爆の爪痕を残していた浦上天主堂。解体されて「幻の世界遺産」になった理由は?⇒こちら

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 天皇陛下が靖国参拝を中止されるようになった理由は?   富田メモ      隠居の茶話  その六   

2024年08月01日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

  2006.07.22作成、メルマガ発信。

売れない落語家の 阿智胡地亭辛好 が今日も今日とて、楽屋横の隠居部屋に上がりこみ、席亭のご隠居と毒にも薬にもならない話で盛り上がっております。
 
辛 好:先代の天皇はんが「私が靖国神社を参拝しなくなった理由」をお話になったちゅう富田メモが出てきたようですな。


それにしても、この今のタイミングで、しかも日本経済新聞のスクープちゅうカタチで出たのはおもろいでんな。

隠 居:ほう、オマエさんでもそんな風に考えるか。富田元宮内庁長官の遺族からそのことが明らかになったと書いてあるが、

そんな手帳があってその中にそういう記載があることは、昔から知る人ぞ知るやったはずやわな。

それが今なんで公表されたかはなんか意味があると思うわな。いずれにせよ、この記事を新聞のトップ一面に掲載するには

新聞社の役員間でも相当な激論があったやろうちゅうのは想像できるな。

辛 好:そらまたなんでです?これは一大スクープやさかい、ごちゃごちゃ言うことなく載せたんちゃいますの?

隠 居:せっかく、珍しくええ切り口から入ってきたとおもたのに、やっぱりな~んも考えてないなあ、オマエさんは。

ええか、こないだ経済界は経済同友会を先兵にして、政府自民党に首相の靖国参拝を中止するよう意見具申したんや。

それに対して自民党幹部から、「愛国心のカケラもないガリガリの金儲けしか考ん野郎どもが何抜かす」みたいな大反撃をくろうたんや。

要は政府自民党は経済界の言い分には聞く耳もたんちゅうのがはっきりした訳や。

そんなことも背景にあって、このままでは一方向に傾きすぎるさかいバランスを取らんと、貿易立国日本の経済活動に支障が出ると


う懸念が経済界にかなり強なってるはずや。

しかし記事掲載については、オマエさんが言うたように、問題は、元ネタが個人のメモやちゅうことと、掲載のタイミングや。

そら、トップ記事のスクープ扱いがすんなり内部決定したとはとてもおもえんで。

新聞社にも内部には右から左、言論人から営業部門までいろいろおって1枚岩ではないはずや。

これを載せるちゅうことはある意味、コイズミはんを見捨てて、しかも次の後継者にもあるメッセージを出すことやわな。

つまりは靖国問題に対して旗色を鮮明にするわけや。それをやると踏み切ったんは新聞社だけの判断やないでこれは。

辛 好:ワタエのダチの「陰謀好き」の伝八やったらすぐに言いまっせ。「これは、アメリカの陰謀や、アメリカがバックで糸引いとるで」て。

隠 居:いや意外とそうかも知れんで。こないだのコイズミはんの訪米の時、プレスリー詣でまでさせてやって

「コイズミの首相任期中の(アメリカ一辺倒の協力)へのお礼は終わり。

これ以上、中韓と日本の関係が悪化すると、これからますます拡大する中近東、イスラエル・レバノン問題に注力したい


アメリカにとって不利益やから、まず日中韓の喉に刺さった靖国問題ちゅうホネを抜いたろ」とアメリカが思うたかもしれん。

いくら財界の広報紙と言われる日経でも、日経の考えだけでこの記事はよう載せんやろからなあ。

そう言うても、これはどこにも証拠のない話やけどな。

まあしかし、結果としては、日本の民間産業界というか経済界が、外交ルートでは出来へんさかい、日経と言う新聞を使って、

中韓2国に対しこんな考えを昭和天皇は持っていた、小泉さんの考えは必ずしも日本を代表するものではないよと言うことを伝えたのは間違いないやろ。

辛 好:「陛下が参拝を取りやめるのは陛下の心の自由、私は私の心の自由で参拝をやめるつもりはない」とコイズミさんが

言いはったらしいけど、わしら庶民からすると、コイズミはんて天皇さんと自分を同じ位置においてるみたいで なんやこの発言なじめまへんなあ。

隠 居:いや、亡くなられても日本人の心象には昭和天皇はんの存在はいまだに大きいなあとワシもおもたわ。

あの記事読んだ後からコイズミさんには悪いけどが、コイズミはんがなんぼモノ言うても、

エエシの我がままお坊っちゃんが駄々こねてるようにしか聞こえんようになってしもたもんな。

遠い昔から日本では「錦の御旗」に立ち向かうと逆賊・逆臣やと言われたもんやが、

さすがに平成の御世やからそんなことにはならんやろけど。

ところでアメリカの陰謀はさておいて、一国の首相を一夜明けたら突然ピエロみたいな状態にするやなんて

冗談にしては結構キツイ冗談やで、今回のこの一連の動きは。

辛 好:いや、コイズミはんはコイズミはんらしうゅに、心の自由は誰にでもあると最後までガンバリはると思いまっせ。

そら、お役目ご苦労さんと他国に首相がピエロにされて終わるようでは、情けないもん。

隠 居:ところで話が長ごなったが、今回の茶話はこれでオチもお笑いもなしで、「しょうことなし」に終わるんかいな。

辛 好:そら本線が 「証拠のない」話しやから仕方おまへんワ。

           お後がよろしいようで。


参考:富田メモ Wikipediaから部分引用

公開された富田メモの一部は以下の通りである。

靖国神社についての発言は1988年4月28日(昭和天皇の誕生日の前日)のメモにあった。一連のメモは4枚あったとされ、

そのうちの4枚目にあたる。

「前にもあったが どうしたのだろう 中曽根の靖国参拝もあったが 藤尾(文相)の発言。

=奥野は藤尾と違うと思うがバランス感覚の事と思う、単純な復古ではないとも。

私は或る時に、A級が合祀され その上 松岡、白取までもが

筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが 松平の子の今の宮司がどう考えたのか 

易々と

 松平は平和に強い考えがあったと思うのに 親の心子知らずと思っている

だから 私あれ以来参拝していないそれが私の心だ」

※「易々と」の左側の位置から「そうですがが多い」「全く関係者も知らず」の2行が縦書きで書かれている。

メモは、「私は或る時に、A級が合祀されその上 松岡、白取までもが、筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが」と記している。

松岡は日独伊三国同盟を締結し、A級戦犯で合祀されている元外務大臣の松岡洋右、白取はこれもA級戦犯で合祀されている

元駐イタリア大使の白鳥敏夫、筑波は1966年に旧厚生省からA級戦犯の祭神名票を受け取りながら合祀しなかった

靖国神社宮司の筑波藤麿とみられる。

昭和天皇は、筑波宮司がA級戦犯合祀に慎重であったのに対し、筑波が退任後、A級戦犯が合祀されたことに懸念を表明し、

その中でも松岡洋右と白鳥敏夫までもが合祀されたことに強い不快感を表明した。

メモは、さらに「松平の子の今の宮司がどう考えたのか」「松平は平和に強い考があったと思うのに」と記している。

「松平」は終戦直後の最後の宮内相の松平慶民。「松平の子」は、長男で1978年にA級戦犯を合祀した当時の靖国神社宮司・松平永芳とみられる。

「親の心子知らずと思っている」として、松平慶民は合祀に慎重であったのに、

その子供である松平永芳が、「易々と」合祀してしまったことに対して昭和天皇は強い不快感を表明した。

末尾には「だから 私あれ以来参拝していない。それが私の心だ」と記述されている。

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 神戸市東灘区から兵庫県揖保郡の「綾部山の梅林」を見に行った。     2002年3月            日本あちこち記から  その6  

2024年07月31日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

このところ、綾部山(兵庫県揖保郡御津町)の梅林のことを神戸新聞が盛んに紹介するので、

かなり前に行った事がある同じ御津町の室津やその先の赤穂御崎にももう一回行くことにして梅を見に出かけました。

43号線のセルフのスタンドで給油をした後、阪神高速でなくそのまま国道2号線を走りました。

須磨を過ぎると、山と海の間の狭いゾーンにJR山陽本線、私鉄の山陽電車、国道2号線の3本だけが隣り合って走っている個所があります。

外には何も通る余地はなく狭いエリアにこれしかありません。戦時、交戦相手国がここに爆弾を落とせば、一発で日本の東西の物流の大動脈を

ぶちきる効率のいい場所だとここを走るたびに思います。

暫く走ると明石ですが、明石ではいつもなら「魚ん棚(ウオンタナ)」に行き、昼網のトレトレの魚か鯨専門店で鯨肉を買って帰るのだが

今回は寄り道なので断念し、これも外したことはない駅前から浜側へおりた「きむらや」の<玉子焼>をテイクアウトで買い、車の中で食しました。

やはりウマイ。カカーナビも私も大満足で折りの中身を変わりばんこに食べました。


この他所でいう「タコ焼き」を漬け汁にひたして食べる<明石の玉子焼>は「明石浦の地タコの生きのよさ、つけ汁の珍味、卵白と黄身の

ミックスには元祖としてきむらやの貫禄十分で名物としての舌覚味あり。」と包み紙に地元紙の昭和初期の記事が印刷されている惹句どうりで、

これまで一回も裏切られたことがない。

この店の大ダコの足のおでんも軟らかさと味の良さで外では食べられないが、今回は遅い朝飯で家を出てきたため、無念ながらパスした。

明石からは県道718号とそれに続くR250を行きました。

沿線にはダイセル、日本触媒、多木肥料、アースなどの工場があり、仕事で昔行ったことがある会社も出てきました。

この沿線は百年ほど前までは白砂青松の海岸だったのでしょうが、今は工場と住宅、マンションと畑、たんぼが無秩序に連なり

川端康成の「美しい日本である私」はどこやねんという感じです。

会社同期の友人野本夫妻の在所の高砂/曽根を通る時にメーターを見たら丁度家から60kmで、新日鉄広畑の正門前が80kmでした。

結婚式でよく謡われる謡曲の「高砂や、尾上の松の・・・」は高砂あたりが舞台で、高砂市を通過する時に大きく

「ブライダル都市高砂」と看板が出ていたので、市も頑張ってるやんと思いましたが、今日びどれだけの人がわかるんやろうとも・・・。

昔の街道跡の道を、山陽電車のレールと平行して走ったり、古い商店街を注意して走ったりして国道250号を姫路、網干をすぎ新舞子の綾部山の梅林に着きました。

一目2万本という宣伝文句をあまり信じてなかったのですが、行ってみて一山全て梅林というスケールの大きさとむせ返る梅の芳香に驚きました。

ここまで凄い梅林は始めてでした。


◎梅林は 幹の太い沢山の古木が良く手入れされていて、てっきり江戸時代からの梅林かと思ったら昭和43年に農林省の何かの補助金をうまく利用して、

土地の人たちが、梅の実を採集する組合をつくり梅の植林からスタートしたとのことでした。ゴルフ場で使われているカートのレールが斜面に張り巡らされ、

手入れの道具、肥料などの運搬に使われ、良く見ると給水パイプも全山に敷かれていました。


「桜切るバカ、梅切らぬバカ」といわれるとおり、よく手入れがされていて枝がバランスよく裁断され、また高さも低くトリミングされていて斜面に立つと丁度目の高さに、

白や紅やピンクが織り込まれた絨毯が見渡す限りひろがっていました。

知らなかったが、相方によると実がなるのは白い梅とのことで、なるほど 8:2くらいの割合で白梅が多かった。

山の下から上まで梅の芳香に包まれて上っていくと、黒崎の市街地や塩田あと、そして新舞子海岸のある瀬戸内海が視野に入ってきて春霞の中に雄大な眺めが広がりました。

充分堪能して、 ここで取れた梅で作られたウメ缶ジュースをサービスでもらい、おいしく飲み干し、室津に向かいました。

2002年3月記。画像は全てネットから蒐集

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「戦争とマスコミ」   「ジャーナリズム」の本質

2024年07月30日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

2006年07月28日(金)ブログ「阿智胡地亭の非日乗」掲載

▼「ジャーナリズム」の本質

 従来、日本では「マスコミは、政府から何の規制も受けずに報道している」というのが「常識」で、その常識からすると、

日本のマスコミが政府の意を受けてレバノン戦争のニュースの扱いを小さくしていると考えるのはおかしい、ということになる。

だが、911以来、日本にとっての「お上」であるアメリカが戦時体制を続けていることから考えて、今では日本のマスコミの上層部が、

日本政府から何の「アドバイス」も受けていないとは考えがたい。

 世界的に見ると、ある国が戦争を始めたら、その国のマスコミが戦争に協力した報道を行うことは、半ば義務である。

マスコミが政府の戦争に協力しなければならないのは、公的な組織として、抵抗しがたいことである。

 マスコミ業界の世界的な中心地であるアメリカでは、マスコミは、開戦後に戦争に協力するだけでなく、

政府による戦争開始の策動に協力してきた。


アメリカのジャーナリズムの賞として世界的に有名なものに「ピューリッツァ賞」があるが、この賞を作ったジョセフ・ピューリッツァは、

1898年にアメリカとスペインの戦争(米西戦争)が始まる原因を作った人である。

 米西戦争は、当時スペイン領だったキューバに停泊中のアメリカの戦艦メーン号が何者かによって爆破沈没され、

これをピューリッツァの新聞「イブニング・ワールド」などのアメリカのマスコミが「スペインの仕業に違いない」と煽り、開戦に持ち込んだ戦争である。

メーン号が沈没した理由が、故障による自損事故だったことは、後から判明した。

 この米西戦争開始の経緯を見ると、アメリカのマスコミが政府の肝いりで「イラクは大量破壊兵器を持っているに違いない」と煽って開戦に持ち込み、

後で、実はイラクは大量破壊兵器を持っていなかったことが分かったという、105年後の2003年に起きたイラク侵攻と、ほとんど同じであることが分かる。

 ピューリッツァとその後の同志たちが巧妙だったのは、自分がやっていた扇動ジャーナリズムを、

洗練された知的で高貴な権威あるイメージに変えることを企図し、成功したことである。

ピューリッツァは、ニューヨークのコロンビア大学に巨額の寄付を行い、ジャーナリズム学科を創設した。

今では、コロンビア大学のジャーナリズム学科は、ジャーナリズムを学ぶ場所として世界最高の地位にあり、ピューリッツァ賞は、世界最高の賞となっている。

「ジャーナリスト」は、世界中の若者があこがれる職業になった。

 しかし米西戦争からイラク侵攻まで、「人権」などの一見崇高なイメージを使って敵方の「悪」を誇張し、

自国にとって有利な戦争を展開することに協力しているアメリカのマスコミのやり方は、巧妙さに磨きがかかっただけで、本質は変わっていない。

(ベトナム戦争では例外的に、アメリカのジャーナリズムが自国の政府や軍を批判したが、これは、米政界内で、冷戦派と反冷戦派が暗闘していたことと関係している)

 人々が、マスコミによるイメージ作りに簡単にだまされてしまう状況も、105年間、ほとんど変わっていない。

むしろテレビがお茶の間を席巻した分、昔より今の方が、人々は世界的に、より簡単にだまされてしまう状況になっている。

上記は「田中 宇」clickの7月25日付同題の記事からその一部を引用しました。 

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2024年7月30日追加

ヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリングは、ナチス・ドイツの政治家、軍人。ナチ党の最高幹部で総統アドルフ・ヒトラーの後継者であった。

ドイツ空軍総司令官であり、軍における最終階級は全ドイツ軍で最高位の国家元帥 。 第一次世界大戦でエース・パイロットとして名声を得る。

 ウィキペディア

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松坂選手の会見に見る、日本とアメリカのスポーツ記者の質問の仕方の真逆            

2024年07月29日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

 (2007年04月22日(日)のブログ「阿智胡地亭の非日乗」に掲載)

MLBの日本版のコラム(2007年4月19日付)でこのタイトルの興味深い記事を読みました。書いたのは<ジェフ・ゴールドバーク>という人です。

・・前略・・

その日、松坂の会見は日米のメディアが合同で行った。マリナーズ戦のときは最初が米国、次に日本と分けられていた。

だから松坂にとっては、日米の両メディアから黒星について訪ねられたのは、あのときが初めてだ。

そして偶然というか、両国のメディアが興味を示したのはただひとつ、押し出しを含む3四球を与え、2点を失った4回のピッチングについてだった。

この件については、私を含む2人の米国人記者が質問をした。

一方、日本人メディアの質問の大半は、松坂が好投した部分に集中していた。

 我々、米国のメディアは、批評することを重視している。

それに対し、我々以上に松坂と親しく、話す機会の多い日本のメディアは、選手の批評や批判は好まないのだろう。

または、会見はそういったことを聞く場ではないという認識なのかもしれない。・・後略・・


「日本のメディアは、選手の批評や批判は好まないのだろう」

この表現はいまの日本のメディアの本質を現している言葉だと思った。

 スポーツだけでなく政治家、議員、行政など全ての取材に批評や批判の視点がない。

米飯や山食パンでなく砂糖とチョコレートをかけたケーキやお菓子などジャンクフードの記事で満足している我々日本の読者と、

固くて辛い記事を望むアメリカの読者の差が日米のメディアの差を作っているのかもしれない。

つまり取材する側とされる側の一種の談合結果の記事が蔓延しているのは芸能記事だけではないと思う。

日本のメディアそのものも「新聞宅配制度」の維持などで業界談合をしているし、

この島国では「シマ」うちに入らない・入れない人間は談合の食いものにされる対象にしか過ぎないのかも。

「談合国家日本」ではどの分野、業界でも“シマウチ”に入ることでしか生存の保険はかからない?

アメリカにdice-Kの取材で出かけている各社のエリート記者さんも取材の舞台がアメリカであっても取材の中身を知ると、

日本の「野球業界のシマウチ」から一歩も出ていないのがおかしい。

   

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大阪・九条の茨住吉神社の祭礼で、獅子舞が「伍久楽」にご祝儀躍り込み!!   11年前の今日 2013年7月25日の本ブログに掲載

2024年07月25日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

動画で大阪の下町の祭礼の雰囲気をどうぞ。

 獅子舞が躍り込んだ大阪市西区九条の「伍久楽」のハモ料理はおいしかった。このあたりは昔日は松島遊郭で鳴らした場所ですから、

吉原などと同じで旨いものを喰わせる店が多くあったのだと思います。「伍久楽」はその伝統を引き継いでいる店かもしれません。冬はフグ鍋もいいそうです。

 ハモシャブは初めて食べました。






 

トップの画像は松島料理組合のネームプレートが掲げられている、昭和30年代以前の松島新地の雰囲気を残す街中に消えていく、

もとい、通り過ぎていくだけの大椎会の会員たち。

九条は元々、長田駅で近鉄線と相互乗り入れで奈良と大阪市内をつなぐ地下鉄中央線の駅があり、

最近になって神戸と大阪の難波をつなぐ阪神なんば線の駅も出来たことから人口も増えているようです。

 私は九条には映画館のシネヌーヴォに映画を観に行く時の、阪神御影から尼崎で乗換えて九条へのルートで神戸から往復しました。

梅田回り本町乗換で行くより時間も短縮、交通費も安いというありがたいルートです。

「伍久楽」へ案内してくれたのは、大椎会の会員で水耕栽培のプロ作田光水こと野本さん。

 「水耕栽培による家庭菜園」はこちら

◎ 京阪神交通路線図

阪神なんば線

大阪市営地下鉄中央線

◎松島遊郭とは。(Wikipediaから部分引用)

松島遊廓(まつしまゆうかく)は、明治時代に築かれた遊廓、赤線。通称は「松島新地」。江戸時代の新町遊廓に代わる大阪の新たな遊廓として、

木津川と尻無川 の当時の分流点である寺島(現在の大阪市西区千代崎1丁目・2丁目)に明治に成立した。

以後、市電の便もよい松島は歓楽街として繁栄し、周囲の九条新道も都心有数の商店街として栄えたが、戦争と大空襲でその面影も消えたが、戦後はいわゆる赤線として復活した。

同じ松島とよばれているが位置は若干異なり、現在の西区九条1丁目・本田2丁目が中心となった。しかし1958年の売春防止法施行で名目上は廃止された。

 「松島」の名の由来は当時そこに樹齢300年とも言われた松の木があり、それが寺島の先(現在の松島公園の北端あたり)にあったことから「松が鼻」と呼ばれていた。

また当時の名前の寺島の一文字ずつを取って「松島」と命名された。(『松島新地誌』松島新地組合・1958年)

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