「岱風(たいふう)句抄」の全句を冊子の掲載順に並べ替えて保存しました。
最初の六句です。
春寒う 市立てる町の 人出哉
溝幾筋にして 桃李園 長閑
庭隅の残雪や 松の葉の こぼれ
街道埃 軽く吹き居り 木の実植ゆ
紙鳶糸のもつれる 夕雨落ちて
夕暮るゝ 丘にさえずり 移りせり
♪ 句抄の中に
蛙鳴くや 末の児が 夕餉をせまる
と言う句があります。この夕餉(ゆうげ-夕ご飯)を迫った末の児は、自分の父親のことなんだろうか、
それとも三男の父と10歳違いで産まれた四男の叔父のことだろうかとふと考えます。
Click⇒岱風句抄
☆新居浜市の響灘の住人こと「上出拓郎」さんから“猛暑の妄想”という一文を寄せていただきました。 一読後、より暑くなるか、涼しくなるかはあなた次第です。 ☝響灘 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー トップの写真はwebから引用。 次のエントリーも上出拓郎さんから頂きました。 天体力学が思想家に与えた負の影響、あるいは格差問題の本質 - 阿智胡地亭のShot日乗 安芸の軍勢の焼き討ちから再び芽生えた新居浜市の一宮神社の楠の大木 2010年の今日8月10日に掲載 - 阿智胡地亭のShot日乗 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 長らく闘病中と伺っていた上出拓郎さんが2024年10月17日に新居浜市でお亡くなりになりました。 心よりご冥福をお祈り申し上げます。 1966年に初めてお会いして以来お付き合いを頂き 2005年頃からはずっとメールやfacebookなどで週一回ほどの交信を続けていました。 ここ2年ほどは残念ながらご病気でやりとりが かないませんでした。
長いご交誼の中で上出さんの中国からの引き揚げ体験など、幼児からの個人史や母上の句集なども折に触れて知りました。 新居浜に行くたびに必ず上出さんは松岡さんとお二人で時間を空けて下さいました。
自分が貿易部にいた時は 当時ニューヨーク支店におられた上出さんに、ニューヨークのこぶりなロシア料理店でロシア民謡とウオッカをたっぷりとか・・ 森哲雄さんに続いての長いご厚誼をいただいた方のご逝去はまことに残念です。 いろんな思い出が頭の中を巡ります。 上出さんは にこやかな表面の中に曲がったことは大嫌い、人間としてやらないといけないことはやりとげるという面も持つ厳しい人でした。 そして人にはやさしい目を向け 飲み助とのお酒の付き合いが大好きな・・・。 しかし私は時にこの人は いざとなったら裂ぱくの気合を持ってことに当る人だなと時々むけられる鋭いまなこから感じる人でした。 これまで多くの先輩方の存在のおかげになってきましたが上出さんはその中の大きなお一人でした。 ありがとうございました。 合掌 JPS61255793A - 高速スクリユ−プレスの駆動装置 - Google Patents パワージェネレータによる成形装置の駆動 | 文献情報 | J-GLOBAL 科学技術総合リンクセンター
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映画はどんな映画でも「ある意図を伝える、伝えたい」ということで製作される。そういう意味では“中立公正な新聞・テレビ”がこの世に存在しないのと同じく、 映画は全てバイアスがかかって偏見に満ちていると言える。例えば娯楽映画でも何らかの意図がなく、俳優のギャグだけに頼る映画は、面白くないし客を呼べない。 少なくともこの映画は、最初から多くの客を呼べる面白い映画ではない。 以降は弁護士として過ごす)2007年2月に袴田巌」は無罪だと発言したことをベースにして製作された。 つまり死刑判決を下した裁判官自らが、後に「実は被告は罪を犯した真犯人ではない」と発言した、いわゆる「袴田死刑囚冤罪事件」を映画化したものだ。 おそらくこの映画を製作した“高橋伴明”監督の製作意図に賛同して出演したような気がする。 最も大杉漣のように高橋監督とはピンク映画時代からの戦友と言う縁で出た俳優もいる。 同年8月18日に逮捕され、以来一度も拘束を解かれることなく、裁判で死刑判決を受け、30歳当時から74歳の今年まで44年間、死刑囚として刑務所に収監されている。 獄中の袴田は、毎朝、刑務官の足音に恐怖しているうちに(三人の足音がすれば、それは死刑の執行を意味する)拘禁症がすすんで、ついに精神に異常をきたした。 今日も尚、彼は死刑を執行されずに刑務所の独房で人生を送っている。 映画感想ここまで ----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------- |
◎ 最新の判決では、最高裁が2008年に特別抗告を棄却している。
死刑判決を出すのは、裁判所であるが、実際の執行命令書に署名するのは国会議員から任命された法務大臣だ。
一人の人間を精神異常に追い込むほどの44年という長期間、死刑を執行しないというのは酷いことだと思う。
法務大臣在任中、死刑執行に多くの署名をして朝日新聞に死刑執行人と書かれた鳩山邦夫元大臣も、同じく在任時代に何人かの死刑執行をした森英介元大臣も、
袴田死刑囚の死刑執行書に署名していない。映画をみているうちに司法当局が,これまで時の法務大臣に袴田死刑囚の死刑執行署名を求めない理由は何か?と考えてしまった。
(刑事訴訟法によれば、死刑執行の命令は判決が確定してから6か月以内に行わなければならないが、再審請求などの期間はこれに含まれない。)
☆事件が起きて捜査を担当する警察の前線の初動の視点が狂うと冤罪が起きる。最初が肝腎だが、警察もいつも初動捜査に万全であることはない。
時間がたてばたつほど真犯人捜査は困難になり、そうなれば、警察は当初の予断に基づくシナリオにしがみつくしかない。
一警官から最高裁判所の判事まで、その職についている公務員の面々が、「人を裁いて死にいたらしめる」ことの意味を、ほとんど考えていない・・。
彼らにとっては、事件や公判は、片付けなければならない毎日の仕事で、それをこなしていくだけだ。
しかし、この組織の裁きは「私刑」ではなく、「国家刑」だから、もし冤罪で死刑になった場合は、例え無実であってもくにたみが任せた司法専門職の人たちに、
容疑者は公的に殺されたことになる。そしてこの公的殺人は、携わった誰も殺人罪の咎を受けることは無い。
「お上のやることに間違いはない(官の無謬性)」のであり、いや、それに守られて「間違ってもそれはなかったことにする」にいたる・・。
一人のくにたみとしては、こんな映画は戦前には検閲でとても上映できんかった、こんな映画が製作されて公表されるだけでも一歩前進かなあと思うしかない。
熊本元判事は、退官後に自責の念から、自殺を図るまで追い詰められ、奥さんと女の子二人の家族と離縁するまでになっている。
高橋監督は袴田巌の、そしてもう一人熊本典道の人生を、彼の目を通したドラマで記録に残し、日本の司法制度に携わっているお役人さまたちに迫っている。
チョー真面目な映画ではあるが、さすがテダレ(手練)の高橋監督!要所要所で法曹ムラの住人たちをおちょくるシーンを挿入して笑わせてくれる。
冤罪を司法が起こすと、真犯人は追い詰められることなく逃げ切ることが出来る。
人が自分の身代わりで死刑になろうとも、名乗りを上げることはない人間がいる。この人間の心の闇も恐ろしい。
(7月21日大阪・十三「第7芸術劇場」にて中村隆次さんと観る)
映画『BOX 袴田事件 命とは』予告編
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袴田さんの再審開始が確定、無罪の公算強まる 検察側が特別抗告を断念 1966年一家殺害 死刑事件で5例目
2016年4月20日 イタチが走った!
2016年4月20日 庭で撮影。 場所が神戸市東部の六甲山の麓のせいか あちこちの家の天井や納屋にイタチが棲みついているようだ。
室津へは10数年ほど前、神戸に戻って暫くして日帰りで行ったことがありますが、今回はガイドブックで見つけた「きむら」という旅館に一泊の予約をしました。
この旅館は竹久夢二や谷崎潤一郎が滞在し創作や執筆をしたと紹介されていましたが、いまは町中から出て高台へ移転しています。
宿の一角に夢二の絵が沢山掛けられていました。
竹久夢二はここからそう遠くない岡山県の邑久郡の出身です。(このことは大阪勤務の時、仕事で邑久のヤンマー造船所へ行った時に知りました)
室津は江戸時代、参勤交代の西国大名が参勤交代のため瀬戸内海を船で移動するときの船本陣があった自然の良港です。
宿に車をおいて部屋で一休みしました。 部屋からは、港と小さな湾を囲んだ平地にぎっしり立ち並んだ家々と漁船の群れが真下に見えました。
その後、宿のある高台から港までおりて町に入りました。町には昔の本陣と脇本陣だった建物が二つだけ保存され、博物館になっておりよく維持されていました。
江戸時代、北海道、秋田、酒田などと交易をした北回船の胴元達もこの地にいたり、本陣もいくつもあったりで、
室津は近隣では飛びぬけて富裕な土地柄だったため、姫路藩が飛び地として所有、支配していました。
姫路の殿様や上級武士はここの金持ち連中から毎年盆正月に借金しては踏み倒し、その代償として苗字帯刀、駕籠使用の許可などで、
商人のご機嫌を取っていたような説明があり、思わず笑ってしまいました。
ロシア宮廷も清朝も江戸幕藩体制も末期になると人間のやることは皆同じで、経済が商業資本に実質的に、押さえられています。
脇本陣の家は革細工の煙草入れの製造元でもあり、当時から大阪船場に販売の店を持っていたそうです。
今に続く姫路の革産業は歴史があるんやなあと思ったことと、この豊野家の「豊」という字は姫路藩の筆頭家老である「豊田」氏から使用を許され、
名乗ったという説明で、そう言えば、元の勤務先で知っているあの方も姫路西高の出身だったなあとフト頭に浮かびました。
◎江戸時代、参勤交代の西国大名の往来で栄えた頃、「室津千軒」と言われたという町中を歩くと今は全くの漁師町ですが、
立派なお寺やソテツの群生がある岬の丘に結構大きな「賀茂神社」があり、長年旦那衆がいたところだと実感します。
余談ながら加茂、鴨、賀茂と漢字は色々ですが、古代、海洋民族の「KAMO族」が南洋から日本に、次々と数多く漂着し各地の海辺に定住したり、
魚を追い、川を溯って山国へ移動して住みついたりしたため「賀茂川」や「賀茂」という地名は全国各地に数知れません。
また賀茂神社は京都の下賀茂、上賀茂神社のように日本の神社の中でも相当古い神社のようです。
京都の下賀茂神社にお参りした時、その建築物が、高床式で柱と屋根だけのマレーシア、サラワクやフィリピンの家と殆ど同じ形式なのに驚きました。
とても寒い京都の気候から生まれた構造物ではありません。また祭られている神様は当然「水」の神様です。
◎魚中心の夕食を旅館なので部屋に運んで来てくれ、ゆっくりおいしく食べました。
食事の後、ロビーの夢二のコレクションを見て早めに休みました。
何となく外が騒がしいので目が覚め、時計を見ると明け方の5時半でした。窓を開けるとドッドドッドとエンジンを轟かせ漁船が次々と港を出て行くところでした。
真っ暗闇の中をマストに赤と緑のランプをつけ、前だけを照らして同じ間隔を取って出港していきます。小さな漁船が100艘ほども一列縦隊で出て行くのを始めて見ました。
思わず最後の一艘が出て行くまで見てしまいました。朝食の時にいいものを見たと宿の女性に言ったところ、
彼女には毎朝の出来事らしく、なんでそんなものが珍しいのかという顔をされてしまいました。
③港で干物を買って、赤穂御崎を目指しました。カーブの多い海岸線に沿って走っていくと、建造中の大きな自動車専用船が何ばいか見えてきました。
いつしか相生市に入っていました。
船が建造されていたのはIHIの相生造船所でした。本館と思える建物やドックを過ぎると、中国から江戸時代?に移入された「ペーロン船」の競争会場が現れ、
赤と金を多用した中国風の記念館があって、テレビでしか見たことがない場所に突然紛れ込みました。
車で移動すると時々こういう思いがけない楽しみがあります。
赤穂御崎でゆっくり海を眺めたあと、山陽自動車道の赤穂ICで高速に乗り、
帰りは2時間ほどで家に帰り着きました。走行距離計は242kmでした。
2002年3月記。画像は全てネットから蒐集。
長崎「焼き場の少年」広がる共感 原爆「悲しみ」を発信 [長崎県]、西日本新聞
2018年08月15日06時00分 (更新 08月15日 06時20分)
原爆投下後の長崎で撮影されたとされる写真「焼き場に立つ少年」への共感が、時代や国境を超えて広がっている。
昨年末にローマ法王フランシスコが「戦争がもたらすもの」とのメッセージと自筆の署名を添えて、写真を世界に発信するように呼び掛けた。
日本ではカトリック中央協議会(東京)が7月上旬に日本語版の写真カードの配布を始めると希望者が相次いだ。
唇をかみしめ悲しみをこらえる少年の姿が人々の心を揺り動かしている。
写真は米軍のカメラマン、ジョー・オダネル氏(1922~2007)が1945年に撮影。直立不動の少年が、亡くなった弟を背負い、
焼き場で火葬の順番を待つ姿を写している。
国内では核兵器廃絶を訴えるローマ法王の呼び掛けに長崎大司教区の高見三明大司教(72)が応じて、カトリック中央協議会が動いた。
「被爆地・長崎にいる私たちが動かないといけない」。オダネル氏の遺族の使用許可を得て20万枚の写真カードを作り、
全国の教会を通じて配布を始めた。
はがきとほぼ同じ大きさの写真カードの裏面には「この少年は、血がにじむほど唇を噛(か)み締(し)めて、
やり場のない悲しみをあらわしています」との説明文がある。
長崎市で生まれた高見氏自身、胎内で被爆。祖母ら親族10人以上を原爆で亡くしている。法王の呼び掛けを聞いて、親族に思いを巡らせた。
被爆から6日後に亡くなった祖母は想像を絶する苦しみだったはずだ。
母の妹の1人は畑仕事中に爆風や熱線を浴び、もう1人は遺体すら見つかっていない…。
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「人間は私の父と母のように、霧のように空中に消されていいものだろうか」
今から78年前の8月9日、両親を長崎の原爆投下で失った人の言葉です。
映画「TOMORROW 明日」の冒頭にこの言葉がスクリーンに写しだされました。
1)子供たちが道路でチャンバラをしている遠景に日本人の修道女が二人歩いてくる。
夜、逢引する場面の向うに墓地が見え、その中にいくつか十字架のお墓が見えている。
そして殆ど終盤にマリア像が大写しされる。
見ていてそのことにすぐ気がついた。
キリスト教の日本における布教史の中では、特別な位置を持つ長崎。
その長崎をキリスト教国のアメリカが、広島に次いで人類に対する2番目の一般市民大量無差別虐殺のターゲットにした。
歴史で原爆を習い、また、江戸以前からの日本のクリスチャンの過酷な信教の歴史を知りだしたころ、アメリカ政府は天主堂がある場所を含めて
なぜ長崎へ原子爆弾を投下したのか、自分は単純に不思議に思った。今もその疑問はそのままだ。
街の中に普通に日本で一番キリスト教が根づいている長崎の街と長崎のひとたち。
黒木監督もそのことが頭にあったのかなあと、そのことが気になりながら映画に見入っていった。
2)黒木和雄監督は先日、残念ながら早い死を迎えられた。その追悼のため戦争三部作と言われる作品の追悼上映が催され、
その最初の上映が1988年制作のこの映画だった。
映画は長崎に原爆が落とされた昭和20年8月9日の前日、8日の長崎市民の一日を淡々と描いている。
肺浸潤のため徴兵されなかった工員(佐野史郎)と長崎医大の看護婦(南果歩)のささやかな婚礼。
夫が出征しているその姉(桃井かおり)の出産。その妹(仙道敦子)と医大生との恋愛。そしてその両親の1日。近所の市電の運転手夫婦の日常。
捕虜収容所のB29の乗員たちの生活も。
皆にとって、7日の昨日もそうであり、9日の明日もそのように続いていくはずだった。
女学生の妹が学校から引率されて工場に向かう9日の朝、道の途中で白雲のわく長崎の空に現れた米軍機をふと見上げた次の瞬間、
画面は白と黒だけに変わり、真っ白な灼熱の空気が強く流れてくる。
そこで映画は何も語らず終わる。
この映画は始まるとすぐ、画面に文字だけが出た。
「人間は私の父と母のように、霧のように空中に消されていいものだろうか」
(長崎の被爆体験者の証言から)
3)結果的に「父と暮らせば」、「美しい夏キリシマ」、「TOMORROW/明日」という制作年度の若い順とは逆の順番で3本を見たことになった。
どの映画も二十歳前の黒木監督自身の戦時体験が映画を作るモチベーションになっていて、見る順番は関係なくどれも胸のどこかに沁みこんでいく。
人間は突詰めれば 他者に対する想像力を育て、想像力を持つ者だけが人間となり、それを持たぬもの、
持てぬ者は人間の形をした一哺乳類のままのような気がするが、黒木監督はきっと人間の行動に感度の高い想像力があり
、自分が生まれた時代に意味を求め、生きる意味をこれらの映画作りに託したのだと思う。
何事もなく過ぎていくと思っていても、次の日には何が起こるかわからない。それは自分の明日にも。
こんなことが通るようではおかしい、変だと言うことを、自分がそのままにしておくとその結果は必ず間違いなく誰の上にも例外なく来る。
黒木和雄と言う人は日本人だけではなく、地球上の人間にそういう強いメッセージを送り続けて生きてきた、ような気がする。
黒木和雄監督 戦争レクイエム4部作予告編
2006年8月12日 ブログ『阿智胡地亭の非日乗』に掲載
一部引用・・・長崎市北部に位置する浦上地区は、戦国時代末期にイエズス会領になっていたこともあり、カトリックの信者が多い地域だった。
その後、江戸幕府のキリシタン禁教令によって、4度に渡る「浦上崩れ」という激しい弾圧を受けるが、地元住民はキリスト教への信仰を捨てなかった。
「潜伏キリシタン」として明治時代まで信徒が存続していた。
釈放された浦上の信徒たちの間で、天主堂の機運が盛り上がった。1895年にフレノ師が設計、ラゲ師に引き継がれ、20年後の1914年に完成した。
これが、石とれんが造りのロマネスク式大聖堂「浦上天主堂」だ。高さ25メートルの双塔の鐘楼を備え、「東洋一の大聖堂」と謳われるほどだった。
しかし、1945年8月9日午前11時2分、米軍が長崎市の上空に投下した原爆「ファットマン」によって、浦上天主堂は、一瞬にして崩壊。一部の外壁だけが残された。
西田三郎、玉屋房吉の二人の神父と、奉仕作業をしていた信徒十数人が天主堂と運命をともにした。
画像をクリックすると本文のサイトに飛びます。
長崎原爆の爪痕を残していた浦上天主堂。解体されて「幻の世界遺産」になった理由は? https://t.co/1UleK3A7ep
— 阿智胡地亭 辛好 (@achikochitei2) August 9, 2022
原子爆弾投下で破壊される前の教会
アメリカ軍撮影の長崎投下後のキノコ雲
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2024年08月09日 追記
長崎原爆の爪痕を残していた浦上天主堂。解体されて「幻の世界遺産」になった理由は?⇒こちら
2006.07.22作成、メルマガ発信。
売れない落語家の 阿智胡地亭辛好 が今日も今日とて、楽屋横の隠居部屋に上がりこみ、席亭のご隠居と毒にも薬にもならない話で盛り上がっております。
辛 好:先代の天皇はんが「私が靖国神社を参拝しなくなった理由」をお話になったちゅう富田メモが出てきたようですな。
それにしても、この今のタイミングで、しかも日本経済新聞のスクープちゅうカタチで出たのはおもろいでんな。
隠 居:ほう、オマエさんでもそんな風に考えるか。富田元宮内庁長官の遺族からそのことが明らかになったと書いてあるが、
そんな手帳があってその中にそういう記載があることは、昔から知る人ぞ知るやったはずやわな。
それが今なんで公表されたかはなんか意味があると思うわな。いずれにせよ、この記事を新聞のトップ一面に掲載するには、
新聞社の役員間でも相当な激論があったやろうちゅうのは想像できるな。
辛 好:そらまたなんでです?これは一大スクープやさかい、ごちゃごちゃ言うことなく載せたんちゃいますの?
隠 居:せっかく、珍しくええ切り口から入ってきたとおもたのに、やっぱりな~んも考えてないなあ、オマエさんは。
ええか、こないだ経済界は経済同友会を先兵にして、政府自民党に首相の靖国参拝を中止するよう意見具申したんや。
それに対して自民党幹部から、「愛国心のカケラもないガリガリの金儲けしか考ん野郎どもが何抜かす」みたいな大反撃をくろうたんや。
要は政府自民党は経済界の言い分には聞く耳もたんちゅうのがはっきりした訳や。
そんなことも背景にあって、このままでは一方向に傾きすぎるさかいバランスを取らんと、貿易立国日本の経済活動に支障が出ると
い
う懸念が経済界にかなり強なってるはずや。
しかし記事掲載については、オマエさんが言うたように、問題は、元ネタが個人のメモやちゅうことと、掲載のタイミングや。
そら、トップ記事のスクープ扱いがすんなり内部決定したとはとてもおもえんで。
新聞社にも内部には右から左、言論人から営業部門までいろいろおって1枚岩ではないはずや。
これを載せるちゅうことはある意味、コイズミはんを見捨てて、しかも次の後継者にもあるメッセージを出すことやわな。
つまりは靖国問題に対して旗色を鮮明にするわけや。それをやると踏み切ったんは新聞社だけの判断やないでこれは。
辛 好:ワタエのダチの「陰謀好き」の伝八やったらすぐに言いまっせ。「これは、アメリカの陰謀や、アメリカがバックで糸引いとるで」て。
隠 居:いや意外とそうかも知れんで。こないだのコイズミはんの訪米の時、プレスリー詣でまでさせてやって
「コイズミの首相任期中の(アメリカ一辺倒の協力)へのお礼は終わり。
これ以上、中韓と日本の関係が悪化すると、これからますます拡大する中近東、イスラエル・レバノン問題に注力したい
アメリカにとって不利益やから、まず日中韓の喉に刺さった靖国問題ちゅうホネを抜いたろ」とアメリカが思うたかもしれん。
いくら財界の広報紙と言われる日経でも、日経の考えだけでこの記事はよう載せんやろからなあ。
そう言うても、これはどこにも証拠のない話やけどな。
まあしかし、結果としては、日本の民間産業界というか経済界が、外交ルートでは出来へんさかい、日経と言う新聞を使って、
中韓2国に対しこんな考えを昭和天皇は持っていた、小泉さんの考えは必ずしも日本を代表するものではないよと言うことを伝えたのは間違いないやろ。
辛 好:「陛下が参拝を取りやめるのは陛下の心の自由、私は私の心の自由で参拝をやめるつもりはない」とコイズミさんが
言いはったらしいけど、わしら庶民からすると、コイズミはんて天皇さんと自分を同じ位置においてるみたいで なんやこの発言なじめまへんなあ。
隠 居:いや、亡くなられても日本人の心象には昭和天皇はんの存在はいまだに大きいなあとワシもおもたわ。
あの記事読んだ後からコイズミさんには悪いけどが、コイズミはんがなんぼモノ言うても、
エエシの我がままお坊っちゃんが駄々こねてるようにしか聞こえんようになってしもたもんな。
遠い昔から日本では「錦の御旗」に立ち向かうと逆賊・逆臣やと言われたもんやが、
さすがに平成の御世やからそんなことにはならんやろけど。
ところでアメリカの陰謀はさておいて、一国の首相を一夜明けたら突然ピエロみたいな状態にするやなんて
冗談にしては結構キツイ冗談やで、今回のこの一連の動きは。
辛 好:いや、コイズミはんはコイズミはんらしうゅに、心の自由は誰にでもあると最後までガンバリはると思いまっせ。
そら、お役目ご苦労さんと他国に首相がピエロにされて終わるようでは、情けないもん。
隠 居:ところで話が長ごなったが、今回の茶話はこれでオチもお笑いもなしで、「しょうことなし」に終わるんかいな。
辛 好:そら本線が 「証拠のない」話しやから仕方おまへんワ。
お後がよろしいようで。
参考:富田メモ Wikipediaから部分引用
公開された富田メモの一部は以下の通りである。
靖国神社についての発言は1988年4月28日(昭和天皇の誕生日の前日)のメモにあった。一連のメモは4枚あったとされ、
そのうちの4枚目にあたる。
「前にもあったが どうしたのだろう 中曽根の靖国参拝もあったが 藤尾(文相)の発言。
=奥野は藤尾と違うと思うがバランス感覚の事と思う、単純な復古ではないとも。
私は或る時に、A級が合祀され その上 松岡、白取までもが
筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが 松平の子の今の宮司がどう考えたのか
易々と
松平は平和に強い考えがあったと思うのに 親の心子知らずと思っている
だから 私あれ以来参拝していないそれが私の心だ」
※「易々と」の左側の位置から「そうですがが多い」「全く関係者も知らず」の2行が縦書きで書かれている。
メモは、「私は或る時に、A級が合祀されその上 松岡、白取までもが、筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが」と記している。
松岡は日独伊三国同盟を締結し、A級戦犯で合祀されている元外務大臣の松岡洋右、白取はこれもA級戦犯で合祀されている
元駐イタリア大使の白鳥敏夫、筑波は1966年に旧厚生省からA級戦犯の祭神名票を受け取りながら合祀しなかった
靖国神社宮司の筑波藤麿とみられる。
昭和天皇は、筑波宮司がA級戦犯合祀に慎重であったのに対し、筑波が退任後、A級戦犯が合祀されたことに懸念を表明し、
その中でも松岡洋右と白鳥敏夫までもが合祀されたことに強い不快感を表明した。
メモは、さらに「松平の子の今の宮司がどう考えたのか」「松平は平和に強い考があったと思うのに」と記している。
「松平」は終戦直後の最後の宮内相の松平慶民。「松平の子」は、長男で1978年にA級戦犯を合祀した当時の靖国神社宮司・松平永芳とみられる。
「親の心子知らずと思っている」として、松平慶民は合祀に慎重であったのに、
その子供である松平永芳が、「易々と」合祀してしまったことに対して昭和天皇は強い不快感を表明した。
末尾には「だから 私あれ以来参拝していない。それが私の心だ」と記述されている。
このところ、綾部山(兵庫県揖保郡御津町)の梅林のことを神戸新聞が盛んに紹介するので、
かなり前に行った事がある同じ御津町の室津やその先の赤穂御崎にももう一回行くことにして梅を見に出かけました。
43号線のセルフのスタンドで給油をした後、阪神高速でなくそのまま国道2号線を走りました。
須磨を過ぎると、山と海の間の狭いゾーンにJR山陽本線、私鉄の山陽電車、国道2号線の3本だけが隣り合って走っている個所があります。
外には何も通る余地はなく狭いエリアにこれしかありません。戦時、交戦相手国がここに爆弾を落とせば、一発で日本の東西の物流の大動脈を
ぶちきる効率のいい場所だとここを走るたびに思います。
暫く走ると明石ですが、明石ではいつもなら「魚ん棚(ウオンタナ)」に行き、昼網のトレトレの魚か鯨専門店で鯨肉を買って帰るのだが
今回は寄り道なので断念し、これも外したことはない駅前から浜側へおりた「きむらや」の<玉子焼>をテイクアウトで買い、車の中で食しました。
やはりウマイ。カカーナビも私も大満足で折りの中身を変わりばんこに食べました。
この他所でいう「タコ焼き」を漬け汁にひたして食べる<明石の玉子焼>は「明石浦の地タコの生きのよさ、つけ汁の珍味、卵白と黄身の
ミックスには元祖としてきむらやの貫禄十分で名物としての舌覚味あり。」と包み紙に地元紙の昭和初期の記事が印刷されている惹句どうりで、
これまで一回も裏切られたことがない。
この店の大ダコの足のおでんも軟らかさと味の良さで外では食べられないが、今回は遅い朝飯で家を出てきたため、無念ながらパスした。
明石からは県道718号とそれに続くR250を行きました。
沿線にはダイセル、日本触媒、多木肥料、アースなどの工場があり、仕事で昔行ったことがある会社も出てきました。
この沿線は百年ほど前までは白砂青松の海岸だったのでしょうが、今は工場と住宅、マンションと畑、たんぼが無秩序に連なり
川端康成の「美しい日本である私」はどこやねんという感じです。
会社同期の友人野本夫妻の在所の高砂/曽根を通る時にメーターを見たら丁度家から60kmで、新日鉄広畑の正門前が80kmでした。
結婚式でよく謡われる謡曲の「高砂や、尾上の松の・・・」は高砂あたりが舞台で、高砂市を通過する時に大きく
「ブライダル都市高砂」と看板が出ていたので、市も頑張ってるやんと思いましたが、今日びどれだけの人がわかるんやろうとも・・・。
昔の街道跡の道を、山陽電車のレールと平行して走ったり、古い商店街を注意して走ったりして国道250号を姫路、網干をすぎ新舞子の綾部山の梅林に着きました。
一目2万本という宣伝文句をあまり信じてなかったのですが、行ってみて一山全て梅林というスケールの大きさとむせ返る梅の芳香に驚きました。
ここまで凄い梅林は始めてでした。
◎梅林は 幹の太い沢山の古木が良く手入れされていて、てっきり江戸時代からの梅林かと思ったら昭和43年に農林省の何かの補助金をうまく利用して、
土地の人たちが、梅の実を採集する組合をつくり梅の植林からスタートしたとのことでした。ゴルフ場で使われているカートのレールが斜面に張り巡らされ、
手入れの道具、肥料などの運搬に使われ、良く見ると給水パイプも全山に敷かれていました。
「桜切るバカ、梅切らぬバカ」といわれるとおり、よく手入れがされていて枝がバランスよく裁断され、また高さも低くトリミングされていて斜面に立つと丁度目の高さに、
白や紅やピンクが織り込まれた絨毯が見渡す限りひろがっていました。
知らなかったが、相方によると実がなるのは白い梅とのことで、なるほど 8:2くらいの割合で白梅が多かった。
山の下から上まで梅の芳香に包まれて上っていくと、黒崎の市街地や塩田あと、そして新舞子海岸のある瀬戸内海が視野に入ってきて春霞の中に雄大な眺めが広がりました。
充分堪能して、 ここで取れた梅で作られたウメ缶ジュースをサービスでもらい、おいしく飲み干し、室津に向かいました。
2002年3月記。画像は全てネットから蒐集。
2006年07月28日(金)ブログ「阿智胡地亭の非日乗」掲載
▼「ジャーナリズム」の本質
従来、日本では「マスコミは、政府から何の規制も受けずに報道している」というのが「常識」で、その常識からすると、
日本のマスコミが政府の意を受けてレバノン戦争のニュースの扱いを小さくしていると考えるのはおかしい、ということになる。
だが、911以来、日本にとっての「お上」であるアメリカが戦時体制を続けていることから考えて、今では日本のマスコミの上層部が、
日本政府から何の「アドバイス」も受けていないとは考えがたい。
世界的に見ると、ある国が戦争を始めたら、その国のマスコミが戦争に協力した報道を行うことは、半ば義務である。
マスコミが政府の戦争に協力しなければならないのは、公的な組織として、抵抗しがたいことである。
マスコミ業界の世界的な中心地であるアメリカでは、マスコミは、開戦後に戦争に協力するだけでなく、
政府による戦争開始の策動に協力してきた。
アメリカのジャーナリズムの賞として世界的に有名なものに「ピューリッツァ賞」があるが、この賞を作ったジョセフ・ピューリッツァは、
1898年にアメリカとスペインの戦争(米西戦争)が始まる原因を作った人である。
米西戦争は、当時スペイン領だったキューバに停泊中のアメリカの戦艦メーン号が何者かによって爆破沈没され、
これをピューリッツァの新聞「イブニング・ワールド」などのアメリカのマスコミが「スペインの仕業に違いない」と煽り、開戦に持ち込んだ戦争である。
メーン号が沈没した理由が、故障による自損事故だったことは、後から判明した。
この米西戦争開始の経緯を見ると、アメリカのマスコミが政府の肝いりで「イラクは大量破壊兵器を持っているに違いない」と煽って開戦に持ち込み、
後で、実はイラクは大量破壊兵器を持っていなかったことが分かったという、105年後の2003年に起きたイラク侵攻と、ほとんど同じであることが分かる。
ピューリッツァとその後の同志たちが巧妙だったのは、自分がやっていた扇動ジャーナリズムを、
洗練された知的で高貴な権威あるイメージに変えることを企図し、成功したことである。
ピューリッツァは、ニューヨークのコロンビア大学に巨額の寄付を行い、ジャーナリズム学科を創設した。
今では、コロンビア大学のジャーナリズム学科は、ジャーナリズムを学ぶ場所として世界最高の地位にあり、ピューリッツァ賞は、世界最高の賞となっている。
「ジャーナリスト」は、世界中の若者があこがれる職業になった。
しかし米西戦争からイラク侵攻まで、「人権」などの一見崇高なイメージを使って敵方の「悪」を誇張し、
自国にとって有利な戦争を展開することに協力しているアメリカのマスコミのやり方は、巧妙さに磨きがかかっただけで、本質は変わっていない。
(ベトナム戦争では例外的に、アメリカのジャーナリズムが自国の政府や軍を批判したが、これは、米政界内で、冷戦派と反冷戦派が暗闘していたことと関係している)
人々が、マスコミによるイメージ作りに簡単にだまされてしまう状況も、105年間、ほとんど変わっていない。
むしろテレビがお茶の間を席巻した分、昔より今の方が、人々は世界的に、より簡単にだまされてしまう状況になっている。
上記は「田中 宇」clickの7月25日付同題の記事からその一部を引用しました。
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2024年7月30日追加
ヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリングは、ナチス・ドイツの政治家、軍人。ナチ党の最高幹部で総統アドルフ・ヒトラーの後継者であった。
ドイツ空軍総司令官であり、軍における最終階級は全ドイツ軍で最高位の国家元帥 。 第一次世界大戦でエース・パイロットとして名声を得る。
(2007年04月22日(日)のブログ「阿智胡地亭の非日乗」に掲載)
MLBの日本版のコラム(2007年4月19日付)でこのタイトルの興味深い記事を読みました。書いたのは<ジェフ・ゴールドバーク>という人です。
・・前略・・
その日、松坂の会見は日米のメディアが合同で行った。マリナーズ戦のときは最初が米国、次に日本と分けられていた。
だから松坂にとっては、日米の両メディアから黒星について訪ねられたのは、あのときが初めてだ。
そして偶然というか、両国のメディアが興味を示したのはただひとつ、押し出しを含む3四球を与え、2点を失った4回のピッチングについてだった。
この件については、私を含む2人の米国人記者が質問をした。
一方、日本人メディアの質問の大半は、松坂が好投した部分に集中していた。
我々、米国のメディアは、批評することを重視している。
それに対し、我々以上に松坂と親しく、話す機会の多い日本のメディアは、選手の批評や批判は好まないのだろう。
または、会見はそういったことを聞く場ではないという認識なのかもしれない。・・後略・・
「日本のメディアは、選手の批評や批判は好まないのだろう」
この表現はいまの日本のメディアの本質を現している言葉だと思った。
スポーツだけでなく政治家、議員、行政など全ての取材に批評や批判の視点がない。
米飯や山食パンでなく砂糖とチョコレートをかけたケーキやお菓子などジャンクフードの記事で満足している我々日本の読者と、
固くて辛い記事を望むアメリカの読者の差が日米のメディアの差を作っているのかもしれない。
つまり取材する側とされる側の一種の談合結果の記事が蔓延しているのは芸能記事だけではないと思う。
日本のメディアそのものも「新聞宅配制度」の維持などで業界談合をしているし、
この島国では「シマ」うちに入らない・入れない人間は談合の食いものにされる対象にしか過ぎないのかも。
「談合国家日本」ではどの分野、業界でも“シマウチ”に入ることでしか生存の保険はかからない?
アメリカにdice-Kの取材で出かけている各社のエリート記者さんも取材の舞台がアメリカであっても取材の中身を知ると、
日本の「野球業界のシマウチ」から一歩も出ていないのがおかしい。
動画で大阪の下町の祭礼の雰囲気をどうぞ。
獅子舞が躍り込んだ大阪市西区九条の「伍久楽」のハモ料理はおいしかった。このあたりは昔日は松島遊郭で鳴らした場所ですから、
吉原などと同じで旨いものを喰わせる店が多くあったのだと思います。「伍久楽」はその伝統を引き継いでいる店かもしれません。冬はフグ鍋もいいそうです。
ハモシャブは初めて食べました。
トップの画像は松島料理組合のネームプレートが掲げられている、昭和30年代以前の松島新地の雰囲気を残す街中に消えていく、
もとい、通り過ぎていくだけの大椎会の会員たち。
九条は元々、長田駅で近鉄線と相互乗り入れで奈良と大阪市内をつなぐ地下鉄中央線の駅があり、
最近になって神戸と大阪の難波をつなぐ阪神なんば線の駅も出来たことから人口も増えているようです。
私は九条には映画館のシネヌーヴォに映画を観に行く時の、阪神御影から尼崎で乗換えて九条へのルートで神戸から往復しました。
梅田回り本町乗換で行くより時間も短縮、交通費も安いというありがたいルートです。
「伍久楽」へ案内してくれたのは、大椎会の会員で水耕栽培のプロ作田光水こと野本さん。
「水耕栽培による家庭菜園」はこちら。
◎ 京阪神交通路線図
阪神なんば線
大阪市営地下鉄中央線
◎松島遊郭とは。(Wikipediaから部分引用)
松島遊廓(まつしまゆうかく)は、明治時代に築かれた遊廓、赤線。通称は「松島新地」。江戸時代の新町遊廓に代わる大阪の新たな遊廓として、
木津川と尻無川 の当時の分流点である寺島(現在の大阪市西区千代崎1丁目・2丁目)に明治に成立した。
以後、市電の便もよい松島は歓楽街として繁栄し、周囲の九条新道も都心有数の商店街として栄えたが、戦争と大空襲でその面影も消えたが、戦後はいわゆる赤線として復活した。
同じ松島とよばれているが位置は若干異なり、現在の西区九条1丁目・本田2丁目が中心となった。しかし1958年の売春防止法施行で名目上は廃止された。
「松島」の名の由来は当時そこに樹齢300年とも言われた松の木があり、それが寺島の先(現在の松島公園の北端あたり)にあったことから「松が鼻」と呼ばれていた。
また当時の名前の寺島の一文字ずつを取って「松島」と命名された。(『松島新地誌』松島新地組合・1958年)
ペンションに行くには8年ほど前に行った 藁葺き屋根の家屋が多く残され今は里山の伝統的農村として維持されている
美山町へ入る直前に27号線で和知町を通る。
この27号線は由良川に沿って走るが、道沿いの4、5キロにわたってなだらかな山の斜面に大小さまざまな農家がいい間隔で点在し、
甲州か信州を中央線の車窓から見るような風景だった。
走行する車も少なくゆっくりこの空間を楽しみながら走ったが、京都府にこんなところがあるとは知らなかった。
道の駅「和ーなごみ」で昼飯にした。
蕎麦定食と鮎の塩焼きを頼んだ。期待した以上の味で殆ど満員の席の理由がわかったような気がした。
「道の駅」というものの存在は、今から5年ほど前に、兵庫県と鳥取県の県境に近い新戸倉スキー場にある友人の野本君の山荘に誘われて、
中国道の山崎インターで下りて一般道を北上して走った時に知った。
要は一般国道のサービスエリアにあたり、当時の建設省の補助金を受け、市町村が事業主体になって建設、運営をしている車の旅人のための休憩所である。
パーキングエリアとトイレ設備に地元産品の販売店と食堂が併設されている。
最近は殆どの「道の駅」は業者に丸投げ委託で運営されるようになり、売っているものも野菜や果物の
農家直売品以外はいかにも土地のもののように見えるが、実際は大量生産の業者品が多くなっている。
ところが、この地の「和」という「道の駅」はレストランも土地の女性たちが勤め、店の産物も垢抜けないが
この町で作られた物が多く、鮎の甘露煮、黒豆羊羹、蕗の薹の佃煮などつい沢山買物をしてしまった。
ここは、いままで中国、四国、近畿地区を含めて訪れた「道の駅」の中でベストの駅だった。
◎ペンションからそう遠くないところに「北山杉資料館」があった。
北山杉の植樹から育成、伐採、床柱までの製品化の過程がパネルや実物で展示してある。
主として数寄屋造りの磨丸太や茶室などに使われた高級床柱も、今は需要がどうなんだろうと思いながら見てまわった。
室町時代から全国の分限者、御大尽、旦那衆が珍重した日本文化の粋の一つだったのだろうが、
戦後の嫉妬の税制のお陰で世界で唯一の社会主義国家となった日本で、そのユーザー層が数少なくなり、
こういう製品を購入する需要がどれだけあるのかと思ってしまった。
10数年前まで多くの皇族が見学されたようでそのおりの写真も沢山置いてあった。
江戸時代からこのあたりの村の人達は男女共に分業化し、このブランド化した製品で日本全国へ
販路を広げていたようだ。 京都ブランドは当時から価値があったのだろうと思った。
◎帰りは周山街道を次に高雄へ走り、何十年かぶりに神護寺に参拝して「嵐山・高雄パークウェイ」に入った。
途中の展望台から保津峡を眺め、嵐山に下りて渡月橋をわたってしばらく走ったところで、街の中を「舟」が動いているのが見えた。
保津川下りの舟が終点につきトラックに三杯ほど重ねて載せられ、また亀岡の出発点まで運ばれるているのだった。
話には聞いていたが、京都の狭い街中を舟が移動していくのは不思議なみものだった。トップの画像。
◎帰りは名神が混んでいるかもわからないので171号線(西国街道)に乗った。
そのお陰で、山崎付近を走行中に「大山崎山荘美術館」がこのあたりにあるはずと思い出した。
アサヒビールが「荒廃していた元加賀家の洋館」を買い取って復元したこの美術館は、戦前の関西のブルジョア資産家の一典型の御屋敷かと思う。
天王山の南麓にありテラスから木津、宇治、桂の三川が合流して淀川になるのが見えて驚いた。
まあ、本当に戦前の金持ち、資産家というのはヨーロッパの貴族階級とまではいかないにしても凄いもんやと実感する。
芦屋の六麓荘の広大な御屋敷街も田園調布の比ではないらしいが、ここも戦後の相続税制のため、大正時代当初の所有者の係累はもはや誰も住んでいないと聞いた。
◎171号線に戻って道路情報を携帯で聞くと、名神の下りは渋滞はないのがわかったので茨木インターで名神に乗り、阪神高速の魚崎ICで下りて家に帰った。
トリップメーターは382キロになっていた。 2002年8月記。
画像は全てネットから蒐集。
京都の北山杉を見に行くことにした。
京都府の北の京北町にある北山杉林の中の「愛宕道」というペンションに到着して、車を降り荷物を持ち、
玄関へ歩き出すとジャズバンドの生演奏らしい大きな音が聞こえてきた。
山中の一軒家のペンションだから、ここから聞こえてくるしかないが、静かなペンションと思い、
予約したのにこれは一体なんだろうと近づくと、女主人らしい人が玄関先で心配そうに待っていた。
彼女の話では立命館大学のジャズ倶楽部のOBが20数名ここで合宿しているとのこと。
中を覗くと食堂で、50代に見えるリラックスした格好の男連中が、ビッグバンドを組み、いい緊張感でかなりうまく演奏している。
女主人が心配そうに、やかましいと思われるようだったら、今晩の宿泊はキャンセルしてもらって結構ですと言う。
人出も少なくなると見はからって8月17、18日の2日間、京都府の北部をまわることにしたのだった。
神戸から名神を使って京都に入ると、まだ混んでいるかも知れないので、逆ルートで福知山から美山町を経由して京北町に入り一泊。
翌日、周山街道を走り北山杉を見て嵐山高雄パークウェイ経由で京都市内に入ることにした。
福知山へは中国道経由高速道路の舞鶴道に乗れば早いが、六甲トンネルを抜けて三田から無料かつ走りなれている地道のR176を走った。
時折舞鶴道の橋脚の下を通りながら丹波篠山地域を通過し丹南町、柏原町を道の両側の濃い緑の山並みに包まれて走る。
福知山の手前で三和町に右折し,田舎道や山道をあっちだ、いやこっちのはずと例のごとくカカーナビと争いながら何とか目指すR27に入った。
車に滅多に会わないどんな田舎を走ってもきれいに舗装された鏡のような広い道路があるので、田中角栄さんの「土建国家日本」政策の成果を実感する。
どの農家も大きく立派で瓦屋根が光り、日本の農家は残った長男が戦前と違い相対的に余裕のある生活をしているようにも見える。
それもこれも都会へ出て遠距離通勤で苦労したり、劣悪な住宅条件で都会に住む、サラリーマンになった次、三男から源泉徴収された税金が、
地方優先で使われていることにあるのかも知れない。
いまさら、別のところを紹介されてまた、でかけるのもしんどいし、聞くとある水準の演奏レベルみたいだしジャズは嫌いではないので、
予定どおりこのペンションに泊まる事にした。
予定通り泊まることにするとペンションの女主人に言うと彼女は喜んだ。そして彼女の娘さんが二階の部屋に案内してくれた。
部屋は候補が二つあって、一つは川に面したいい部屋らしかったがホール(食堂)の真上というのでこれは断って、ホールから一番遠い山に面した部屋にした。
食事は合宿メンバーと一緒で賑やかだった。リーダーらしい人から、メンバーが飲んでいたポートワインを大きなグラスにたっぷりついで回してきた。
ご迷惑をかけているのでと。ありがたく頂いたがおいしい。聞くとポルトガルで2週間前に買ったものだとのこと。
女主人との会話やみなの話を食事をしながら聞くともなく聞いていると、高松や和歌山など結構遠方からも参加しており、
まだ現役の銀行の支店長や商社マン、商店主などが年に一回こうしてOB合宿しているようだった。
駐車場の車も軽四、ボックスカー、クラウンから外車までバラエテイに富んでいた。
卒業して20数年たってはじめ、今年が4回目とのことで、最初はハチ高原のスキー宿でやっていたそうだ。
学生の音楽関係の夏季合宿は、殆どが信州のスキー場の宿屋や民宿を使う、
周囲に大音声が響いてもどこからも文句が出ないし、安くて涼しいからだとのこと。
30年近く前にジャズバンドを大学のクラブ活動ではじめて、いまだにこうして集まって楽しんでいる。
心底いいなあと思った。ほぼ同世代の人達が自分達のアマ演奏を楽しんでいるのを見て、日本も一面いい国になったなあと思った。
楽器を演奏できる人がほんとに羨ましい。いずれピアノに挑戦と先日も「オジサンのピアノ独習」だったかのNHKテレビのテキストを
本屋でみかけ衝動買いしたところだ。
質量ともに文句のつけようのない夕食(市内の下手な京料理よりはるかにおいしかった)を済ませて部屋に戻ると、下から調子合わせの音が聞こえてきた。
時計を見ると8時で夜錬がはじまったらしい。
心配したほど音はやかましくなく、メンバーに適度にアルコールが入って、気持ち良くスイングしている「聖者が町にやってきた」が、ボーカルつきで流れて来た。
持ち込み禁止のウイスキーを、旅行の時はいつも持ち歩いているスキットルからコップについで飲む水割りが一段とうまく感じられた。
まあ、ある技量の人が残っているのだろうが、年に1回必ず三宮の国際会館ホールへ聞きに行く、
「北野タダオとアロージャズオーケストラ」の演奏まではいかないにしても、プロに近い腕前のビッグバンドジャズの生演奏を何曲も、
京都の北山杉の山中できかせてもらうとは思ってもみなかった。
昨夜は随分遅くまで練習をやったと言っていたが9時には演奏も終り、こちらは専属運転手としての疲れもあって知らない間に寝ていた。
その2へ続く。 2002年8月記。
画像は全てネットから蒐集。