真田太平記15(真田丸)1
— 奄美海風荘 (@amami_kaihu_so) 2016年9月4日
徳川方が警戒したのは父昌幸であり信繁(幸村)の蟄居生活への見張りはゆるく難なく大坂入城を果たす。惣構えの下見中「この高処(たかみ)に出丸(真田丸)を築こう」と思いたった場所は後藤又兵衛基次https://t.co/ROaXrbXXy5の縄張りだった。
真田太平記15_2十五年ぶり対戦を前に物語はゆっくり流れ人物エピソードに紙幅が割かれる。その一、家康は長年苦楽を共にした老臣本田正信が伏見城に入ると自ら大台所に足を運び吸い物の塩加減を正信に好みに合わせるよう何度も直させる。破格のことに泣き崩れる正信に傍の息子正純がいぶかる 続く
— 奄美海風荘 (@amami_kaihu_so) 2016年9月6日
真田太平記15_3承前「男というものは、泣くべきときに声を放って泣くものじゃ。ぬしは、それができぬ・・」正純「父上も、お年をめされて、泪もろくなられたわ」苦笑して侍臣に漏らしたそうな。しかし正純は後年、秀忠が将軍位時に失脚追放され配流地で没する。戦国時代の親子・兄弟の関係が随所に
— 奄美海風荘 (@amami_kaihu_so) 2016年9月6日
真田太平記15_4 本巻もそろそろ終わるのに真田丸の戦闘は中々始まらない。家康は「負ける事はない」73歳長寿で壮健。軽武装で単騎「茶臼山へまいる」など気力充実。一方秀頼22歳は暖衣飽食、肥満で近頃は顔に化粧を施し軍議では戦陣経験なく無言。勝てるわけ無い。双方共休戦和睦の思惑 続く
— 奄美海風荘 (@amami_kaihu_so) 2016年9月7日
真田太平記15_5この頃江戸留守居の真田信之(史実は大坂の陣病欠)の元へ家康から「急ぎ上洛すべし、この旨幕府に届出無用」の急使。「ナゼ今頃?」東海道の馬上で思案する信之。非凡の家康、真田丸の凄さを実感し、わしに幸村を関東方に?否、弟幸村がそんな、馬上暗然、信之は大坂へ向かっている
— 奄美海風荘 (@amami_kaihu_so) 2016年9月7日
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大坂場内には関東方の間者が多数紛れ込んでいて、中の様子は筒抜けであったろう。
また、また味方同士の間でも、相手方と通じているとの、疑心暗鬼の空気も。
幸村も※織田有楽について(有楽殿はまぎれもなく関東と通じている)と感じている。
豊臣家としても、それと知りながら城内にとどめているふしもないではないのだった。
※織田有楽(うらく 信長の末弟 織田長益 織田信秀の十一男)は秀頼生母淀君とは血筋の叔父にあたる)
豊臣家としては、この戦、勝って再び天下を、とは思っていず、何とか持ちこたえて幕府に豊臣家の存在を認めさせ、
そのうち高齢の家康が病没してしまえば・・・などと考えている。
なんといっても、秀頼夫人は現将軍秀忠の娘であり、秀忠夫人は淀君(秀頼生母 母は織田信長の妹・市。織田信長の姪)の実妹なのだ。
家康とて、戦前から和睦の道筋を考えていた。大坂城は巨大な構築をもっていて、半年や一年では攻め落とせるものではあるまい、と見抜いていた。それに諸国大名の戦力は一昔前とは比べものにならぬほど下落している。
・・・・・
この巻は、真田丸の「胸のすくような」大勝利のあと、
東西和睦の誓紙をかわしたあと、あっけなく関東方により破却されるところで終わる。
そして大御所家康の密使慈海和尚が真田家の京屋敷にあらわれる。
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