西郷と愛加那の長女の写真、龍郷町に子孫が寄贈 4月20日から公開 | 鹿児島のニュース | 南日本新聞 | https://t.co/NYnrpRkFor https://t.co/3OiHccAqTk @373news_twitさんから
— 奄美海風荘 (@amami_kaihu_so) 2018年3月8日
菊草(菊子)は大山巌の弟・誠之助と結婚するのだが・・
やや詳しく→https://t.co/c32QFhucqB 愛加那と大山菊子・菊草~西郷隆盛が奄美大島で愛した家族のその後 - 幕末維新
以下の記事は書きかけです。
西郷は安政の大獄で幕吏に追われる身となり、
安政5年(1858年)7月、京都で敬愛する斉彬の訃報を聞き、殉死しようとしたが、尊皇攘夷派の僧侶・月照らに説得されて斉彬の遺志を継ぐことを決意する。
尊攘派に危機が迫ると、西郷は近衛家から保護を依頼された月照を鹿児島へ送らせ、そこでかくまうことにしただ。
しかし、斉彬の死で薩摩の藩論は一変していた。幕府の追及を恐れた当局は月照ら追放する。日向国へ追放は、つまり道中での切り捨てを意味するのだった。
このことを悲観した西郷は、竜ヶ水沖で月照とともに入水。
だが西郷一人蘇生してしまう。
藩当局は西郷を幕府の目から隠すため藩命により、職を免じ、名を菊池源吾と改め、安政6(1859)年1月から約3年間、奄美大島龍郷に身を潜めさせることにした。
西郷は前年急逝した前藩主斉彬の寵臣であり、流罪人ではなかった。
はじめ6石、のち12石の禄が支給され、鹿児島の留守宅には金25両が下賜(かし)されている。
西郷は嘉永4(1851)年、伊集院すがと結婚したが、斉彬の江戸参勤に際し、江戸詰に任ぜられ、江戸に赴いた。(このシーンは西郷どん大河ドラマで見た)篤姫の徳川家入輿や、将軍継嗣をめぐる工作で西郷は家を留守にし、すがとは結婚後すぐに離縁している。円満離縁ではあったが、西郷家の経済的困窮も大きな原因だろう。西郷に生涯のの悔いを残した。
さて、奄美大島潜居の西郷は安政6年11月8日、大島随一の名家、龍一族の娘、於戸間金(おとまがね)(愛加那(あいかな))と結婚する。これは立派な披露宴も行われ正式の結婚であったことは強調しておくべきだろう。
西郷は自らを「土中の死骨」と称し、生涯その恥の思いを持ち続け、二度と本土へ帰る気持ちはなかく島に骨を埋めるつもりでいただろう。そんな西郷に、愛加那との出会いは生きる力を与える。西郷にとって人生でもっとも幸せな3年だっただろう。
菊池の変名は西郷家のルーツが南朝の忠臣、菊池武光に由来している。
島で生まれた長男菊次郎、長女に菊草(14歳で鹿児島にひきとられてからは菊子)の名の「菊」は、天皇家の象徴でもある。また「愛加那」は、本土風にいえば愛子となる。尊王家の西郷の有名な「敬天愛人」とのつながりはあるのだろうか。
きょうはここまで・・・。