奄美 海風blog

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去年の記事 ★祭りうちわ / ★名瀬港夜釣り見物で大物

2018年08月16日 | You Tube 動画
 
★祭りうちわ /名瀬港夜釣り見物で大物
 ★祭りうちわ☆69円(税抜き)だった。クーラーの部屋で使えば涼しい風が。 pic.twitter.com/Ocmy6lXL19— 奄美海風荘 (@amami_......
 

去年の花火大会は、8月初旬の予定が台風接近で延期になり、8/10日(木)に行われた。

今年は、花火は一発も見ずじまい。


西郷どん 第30回「怪人 岩倉具視」 笑福亭鶴瓶が怪演も視聴率10.3% 番組ワースト

2018年08月14日 | 歴史 民俗

↑ パラパラとめくってみたが、妖怪岩倉には、ほんのすこししかふれていない。登場人物たちの言葉づかいもTVよりずっとやわらかだ。

=====5分で分かる「西郷どん」第30回『怪人 岩倉具視』 https://youtu.be/UUNg-oJxd2U

西郷どん 第30回「怪人 岩倉具視」 笑福亭鶴瓶が怪演も視聴率10.3% 番組ワースト
 
最低視聴率は、 岩倉具視の出番が多すぎたせいなのかも知れないな。
維新の三傑がそろって岩倉の賭場で、賭けに興じるなど、面白すぎて、おもろない、と
思われたのかも知れない。
東日本の人たちだけでなく長州のひとにも逃げられたのかも。
これまでの登場人物が、ときどき一斉に消えたり、長い間でなくなるのもさびしい。
でもま、笑福亭鶴瓶さんの顔と怪人 岩倉具視の顔は、聞いただけではピンとこなかったが
演技を見ていると、あの旧500円札の岩倉に似てくるから不思議だ。
ネットショッピングのページでは、旧札が3700円とか7000円などの数字がおどっている。
ま、あれですね、大久保や西郷が薩摩の殿からとか言って金を渡す。
それをひったくるように懐にいれる岩倉。
それっち、島津の殿が島のサトウキビを搾りにしぼって、さらに島民の必需品も高く売って商売して
儲けた金じゃないか、などと彼岸で見たりしたので楽しめたのだが。
===
いまでは教科書からも江戸時代の「士農工商」という表現は消えた(それほど身分は固定的ではなく、現実に施行された制度ではないことが1990年頃から理解されるようになった)そうだが、
官尊民卑、男尊女卑などの封建的イメージの強い(かった)鹿児島藩が
じつは、儒教では卑しいとされる金儲けや、密貿易、さらには贋金作りなど
堂々?とやっていたところが、薩摩の強さ、おもしろさで、それが維新の原動力にもなり、
これからドラマでは、攘夷、攘夷と観念論的なアブナさが見ていられない長州が描かれそうだが、アブナイ長州の原動力(長州も商売をした)がなければ欧米列強のアジア進出で阿片戦争、アロー戦争などで半植民地化の道へ突き進まざるをえなかった清国の二の舞になったかもしれない、という歴史の面白さ不思議さ。
その薩長同盟は、次の次32回で成立するという。あ、坂本龍馬も教科書から消えていくらしい。
あゝ昭和も遠くなっていく、平成最後の夏、明治維新150年。
ーーー
西郷と岩倉は、いくらか共通点もなくはない。調べてみた。
西郷は貧しい下級武士の出身とうたわれるが、西郷家は貧しくはあるが城下士で、武士人口が全国平均の2倍あまりも高い薩摩藩には、その下に外城士(郷士)や郷士格(奄美にもあるんですよ)などさらに低い身分の多くの人たちがいる。土佐藩の武士階級はやや複雑だが、商家出身で下士の坂本龍馬は裕福ではあったが身分的には西郷の方が上だろう。(西郷と岩倉は、身分が低いということと貧困にあえいだ経験を持つという意味では似ている)

一方の岩倉。名門五摂家鷹司政通へ歌道入門したり、朝廷改革の意見書を政通に提出し下級公家にすぎない岩倉具視は、朝廷首脳に発言する機会を得ているが、
これも西郷が斉彬に農政改革の意見書を提出して、大抜擢されたことと似てなくもない。大久保も久光の好きな碁をならい殿にの信頼を勝ち得ている。また、岩倉は、天皇にも親幕派と疑われ、1862年蟄居命令を受け、帰参が許される慶応3年(1867年)まで、岩倉村で5年間も蟄居生活を送ることとなるが、
西郷の島暮らしも、時間的に3年ほどの差があるが計5年ちかくにおよぶ。奄美島に安政6年(1859年)から3年半ほど、そして沖永良部島から鹿児島に帰ったのは元治元年(1864年)2月。
 
====関連記事 このブログ 西郷どん 第29回「三度目の結婚」視聴率11.6%

奄美大島 龍郷町の仏像墓 1725年ごろの奄美

2018年08月13日 | 歴史 民俗

 

奄美市名瀬から、国道58号線で龍郷町役場の前の交差点を左折して県道81号線に入りしばらく走ると、

ここへ着きます。↑ ↓

県道から別れ、西郷南洲流謫跡の方へ左折。

数十メートルで、ここ↑↓に至る。

流謫跡へ行かず、仏像墓へ左折します。

↑↓ すぐに、西郷と愛加那も利用した伝わる「愛加那の泉」イジュンゴが見えます。

愛加那の泉」から数百メートルでしょうか、道が分かれ案内板があります。↑↓

少し行くと、説明版があり、左折して未舗装の道路に入ります。

時によって道には草が生い茂っている場合があります。墓まで、あと数十メートルでしょうか。

↑ 行政機関による説明版

仏像墓

路は行き止まりで、車のUターンは時に容易ではありません。

より詳しくは 関連記事 2005年2/3日のこのブログ 仏像墓、1725年ごろの奄美

 


『語り継がれた西郷どん』 発掘!維新スクラップブック (朝日新書) 新書 – 2018/2/13

2018年08月11日 | 本と雑誌
『語り継がれた西郷どん』 発掘!維新スクラップブック (朝日新書) 新書 – 2018/2/13
一坂 太郎 (著)
1 件のカスタマーレビュー
 
amazon 内容(「BOOK」データベースより)
東大赤門前の古書店で偶然、著者が見つけた、古びた一冊の新聞スクラップブック。そこには、生麦事件や薩英戦争を戦い抜き、西郷や大久保利通と直接話した人たちの証言が詰まっていた。同時代人が語るリアル西郷。
 
これは、西郷に関する新しい知識を得ようとか思って受動的な気持ちで読むのは、すこしつらい。
血縁や身近に西郷と接した同時代人が語る語り口から自ら想像し、さらなるリアル西郷にせまる過程を楽しむつもりで読んだ。
 
合わせて、名もない同時代の人が語る言葉の端々からも、諸説入り乱れる西郷にまつわるエピソードの真偽の判定に役立つ何かが、伝わるものだ。
著者はあまり語らないのだが・・、自ら語るよりも貴重なものを”発掘”した喜びとそれを整理した苦労も伝わってきたのであった。
 
ひとつだけ例をあげると。
 
 新聞に掲載された菊次郎の談二篇
「西郷南洲邸の家庭教師」「(西郷隆盛)五十年祭と親の意志」
菊次郎 京都市長時代
 
記事 西郷南洲邸の家庭教師 生存せし月照と唱えられし人、南洲の代筆者
 
p129現に十年戦役当時の如き一家の男子ことごとく軍に加わりしも、氏は独り家に留まりて、老幼婦女を保護せり。
しかも常に多くは家に在りて外に出(いで)ず。また深く人と交わらず。
ここに於いてか、人として西郷邸における一奇(田に奇)人は即ち薩海に没して死せしと称する僧月照なりなどと云わしむるに至れりp130
鹿児島新聞 昭和2年 1927年 10/24日
 
ドラマ西郷どんでは先週、川口雪篷が沖永良部島から鹿児島に戻り西郷家に寄寓することになった。
島で雪篷は「革命」と書いた旗を振って西郷を見送ったのだったが
それを風呂敷にして担いで鹿児島に帰ってきていた。
雪篷=大塩平八郎説もきいたことがあるのだが、月照説もあったのだ。
 
 

リュウキュウコクタン (琉球黒檀)の実 カキノキ科

2018年08月09日 | 植物

もっと熟すと黒紫いろに。

wikipedia ヤエヤマコクタン(八重山黒檀)
 
リュウキュウコクタン若しくはヤエヤマクロキとも。沖縄語においてはヤエヤマクルチ エーマクルチ。合弁花類カキノキ科の常緑高木。
 
心材は黒色であり非常に硬く重い為加工は困難を極める。種子は食用ともなり、果実は楕円形で長さ約1センチ。用途は街路樹・防風林・防潮林・観賞用庭木 心材は楽器の三線などに加工され、高級材で成長が遅い事から、乱伐による資源の枯渇が問題となり保護の対象となる地域も増えており、維管束植物レッドデータブック (環境省)にも登録されている。
原産はインド。分布は一部薩南諸島及び鹿児島県から沖縄県を北限とし東南アジアに多く、台湾、中国南部にも分布する

奄美大島名瀬浦上の国道58号

県道のビロウよりも見栄えはいい。

 


西郷どん 第29回「三度目の結婚」視聴率11.6%

2018年08月07日 | 歴史 民俗

奄美大島 龍郷町 西郷隆盛上陸の地前の海

 

まず、先週見逃した場面から。
「西郷はどうだった?」と勝海舟に訊かれて
坂本龍馬が、初めて会った西郷の印象を語る。
あの有名な「小さく打てば小さく響き、大きく打てば大きく・・・」
と答え、「よくわかってんじゃねえか」と勝。
「当たっちょりますか?」
「大当たりだ、小さく打ったお前が、まだまだ小さいってことだよ、はっはっはっ」
龍馬の西郷評は、考えるほど名言になってくる。
「大きく揺れちょう鐘」っちゅうのもいい。
 
今でも西郷評は揺れている。時代が混迷の度を増すごとに
西郷が語られ続けている。
龍馬の言には、うかつに西郷を語ると西郷に「試されてしまう」という含意もあるのだろう。
西郷ほど毀誉褒貶の激しい歴史上の人物はいない。と海音寺潮五郎は言っている(要出典)。
私が島の学校を卒業するころは、あまり西郷西郷ち言うと、無知だ、右翼だ
とか言われそうな雰囲気だった。
 
海音寺潮五郎はこうも言っている「大久保はフランス式の内務省を設置し、日本を一種の警察国家組織にすることを考えていたのであり、西郷は富国強兵を超えた向こうに、道義国家の建設を考えていたのです」(史伝『西郷隆盛』第一巻)西郷隆盛』 第一巻 単行本 – 2007/11/7 海音寺 潮五郎 (著)

とまあ、龍馬の言うように大きくたたいたつもりのものですが、
 
勝海舟「氷川清話」
「成程西郷といふ奴は、わからぬ奴だ。少しく叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く。もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だらうといつたが、坂本もなかなか鑑識のある奴だよ」
 ----
 
5分でわかる西郷どん 29回 https://youtu.be/gr5Wf9qrvvY
 
今週のシーンは、そんな西郷の大馬鹿者に、大きく響いた、三度目の嫁、糸さんとの会話。
ナゼか大久保との違いも西郷自ら語っていたので。

子ができず離縁され、出戻りとなっていた糸に、♪嫁に来ないか♪、いや「あん家に来てくれもはんか」っち言いに糸の家を一人訪ねる西郷。
あの貧乏な家にである、しかも理由は「家のもんも喜んびもす」
 
西郷糸子wikipedia 薩摩藩士である岩山八郎太直温の次女として生まれる。
元治2年(1865年)、西郷隆盛と結婚する。隆盛は3回目、糸子は再婚。
隆盛との間に寅太郎・牛次郎・酉三の子どもを産む。また、隆盛の奄美大島における島妻である愛加那(愛子)との子である菊次郎・菊(菊子)を引き取り養育した
 
実況
「糸どんさえ良ければ、あん家に来てくれもはんか?」
糸どんが来てくれたら家のもんも喜んびもす」
「吉之助さあは、昔からやさしかあー、居場所のなか私を憐れんで貰ってくれようっち
しちょっとではありもはんか?」
「いやそいは違う、おいには、おなごを憐れんだり、おなごに惚れたりしっちょう暇はなか。
そいばかりか、いつまでこん命が持つかさえわからん」
「糸どんじゃってん言うが(糸さんだから言うのだが)、おいは今、とんでもなかこつを
しようっち、しちょうお(しようとしている)、日本中がひっくり返るような・・」
「日本中がひっくり返る?」
「おいはのう、民のための国っちゅうもんを作りたか(作りたい)みんなが腹いっぱい飯を食って、笑って生きていける国を作りたかとじゃ、そんためにはどげんしてもやらんならんこつがある。一蔵どん(大久保)には分かってもらえんかった。じゃっどん糸どんならおいの志をわかってくれそうな気がして・・・一人でも分かってくれる人がいたら・・こころ強か。・・どげんな」
・・・・
「すんもはん」
「そうか、・・うん、・・・無理を言うたな」・・・・「ごちそうさん」
家に帰り、結果報告、
何っちいうだんじゃと問う、島(沖永良部)帰りの川口 雪篷
「惚れる暇はなかどん、家のもんが喜ぶっちゅうて」
「惚れる暇はなかち、はっはっはっはっは、おなごにそげな事いうたことがいちばんじゃっとが、おおばかものめが、はっはっはっはっは」ひざと床をたたいてあきれる。
弟の嫁「嘘でもおなごは惚れたと言うて欲しいですよ」
弟「父上も言うちょおられもした。まず、相手に惚れるこっちゃ!そっから夫婦は始まるっち」
みんなあ、申し訳なか
「もうよか!兄さあのやっせんぼう(役せぬ坊ー役立たず)は死ぬまでなおらん」
一同「うわっははは」
 
=====糸の実家
糸の父上(有名な俳優さんでなかところがよかった)「糸、西郷どんは、今日、旅立つそうじゃ・・よかとか?」
「いいもないも・・・」
「おはんには、すまんことをしたち、ずーっと思っちょった・・わしが決めた縁談で、つらか思いをさせてしもうて・・・」
「父上ぇ・・・」
「こんどは、・・こんどは・・・、おはんが決めたらよかっ!」
子が泣いているがなっち言って糸に、なんばっしっととな、と責める姉。
糸っ!なんよが、ぬくぬくしっちょとっとな!」(なんで、ぼっとぼっと、しているのか)
父「じゃかましかっ! 自分の子っじゃっとがっ!」正座の両膝をはげしく叩いて激怒の父上。
「糸、も、二度と会えんかも知れんどっ!」
「父上・・」
糸、西郷どん言葉を反芻する。
 
「おいはのう、民のための国っちゅうもんを作りたか(作りたい)みんなが腹いっぱい飯を食って、笑って生きていける国を作りたかとじゃ」、そんためにはどげんしてもやらんならんこつがある。一蔵どん(大久保)には分かってもらえんかった。じゃっどん糸どんならおいの志をわかってくれそうな気がして・・・一人でも分かってくれる人がいたら・・こころ強か。・・どげんな」
 
父上に深々と一礼して、糸は持ち前の健脚で甲突川河畔を駆け、懸命に西郷を追う。
いつもよく出るあの木の橋だ。
「糸どん・・・・どげん(どう)した?」
「死んだら、やっせん(役に立たない、ダメ)。待っちょります。あの家でお帰りをまっちょりもす。」
 
まあ、セリフとしては、ここらでよかろち思ったが・・・。
 
「西郷吉之助の妻として、新しか国を見たか
ふつつかものじゃっどん、よろしくお願いいたしもす」
「西郷吉之助、チェスト、気張れ~」は西田さんが言うのも、ちと、あれなんですが、
この場面の糸どんが言うと、どうなのだろう。
チェストっち、島でいう、「ちゃ、すっとごれ」という意味だろうか。
 
========視聴率 前回より0・5ポイントアップ
 
西郷どん
第29回「三度目の結婚」視聴率11.6% 吉之助に再婚話 柏木由紀が初登場! 
毎日新聞
NHK「西郷どん」異例の現象“西高東低”視聴率 局関係者も驚き
2018年8月5日 8時0分 スポニチアネックス

『西郷どん』久々の「良回」、歴史はイマイチだが恋愛描写は秀逸…いよいよ西郷隆盛が覚醒?
ビジネスジャーナル
などの見出しがならんだ。
 

セイヨウニンジンボク シソ科 ハマゴウ属

2018年08月05日 | 植物

セイヨウニンジンボク wikipedia

(チェストツリー、学名:Vitex agnus-castus)

シソ科(旧分類ではクマツヅラ科)ハマゴウ属の植物である。

↓ ハマゴウ属 ハマゴウ

原産地は南ヨーロッパから中央アジアである。

ハーブとして用いられるほか、見た目が似ていることからコショウの代わりとしても使用されていた。


「鳴きもせでぐさとさすや田原坂」 漱石句集より

2018年08月04日 | うんちく・小ネタ

鳴きもせでぐさとさすや田原坂

『漱石俳句集』(岩波文庫)より

西南戦争から二十年ほどの明治30年代 漱石の熊本時代

同じころのの句に

★菫(すみれ)程な小さき人に生れたし

★無人島の天子とならば涼しかろ

などもある

明治二十八~三十二年は漱石がとりわけ熱心に作句にはげんだ時期で,子規はこの頃の漱石の俳句を評して意匠が斬新で句法もまた自在だといった 句集の説明より

====

俳句と写真の関連はありません。

奄美大島潜居の際、西郷が上陸した龍郷の阿丹崎には、彼を乗せた船が、とも綱をつないだと伝えられる大きな松の木がありましたが(西郷松)、近年、松枯れで伐採されてしまいましたが、その西郷松を利用した作られた西郷隆盛と愛加那の木像が、りゅうがく館(鹿児島県大島郡龍郷町瀬留968-1)の入口に展示されています。

奄美大島の松の木は、松くい虫の被害で、立ち枯れの松が目につきますが、

ここ、西郷潜居あと近くや、久場地区の付近は多くの青々とした大きな、松の木が立ち並んでいるのを見ることができます。


★ハナシュクシャ(花縮紗)ショウガ科

2018年08月02日 | 植物

水気の多いところに、わりとよく見る事ができます。


7/29日放送「西郷(せご)どん」第28話「勝と龍馬」

2018年08月01日 | 歴史 民俗
7/29日放送「西郷(せご)どん」第28話「勝と龍馬」
平均視聴率が11・1%だった。
過去最低の第16話「斉彬の遺言」11・1%に並んでしまった。
==

後半あと15分ほどのところからしか録画できず、「勝と龍馬」との面会の場面は見逃した。
第一次長州成敗の場面であろうか、征長総督の徳川慶勝(よしかつ尾張藩前々藩主)が、陣羽織姿で、自らが征長軍全権を委任し参謀格となった西郷に、よくやったとかいう場面から録画されていた

これは二人の間で事前に合意(この時西郷は、慶勝から脇差一刀を与えられている)のあった長州藩降伏のプロセスがうまくいったことに対するねぎらいの言葉であったであろうか。
 
しかし、西郷のこの長州に対する寛大な処置は慶喜の怒りを買う。
 
この西郷と慶喜の対面の場面を、今週の一場面にしよう。

「腹を切れ」怒りのあまり、慶喜は牛男、西郷に、そう言い放ってしまった。
とんでもない話だが、

これに、たいし、西郷もとんでもない行動に出た。

西郷の凄みにおののく慶喜の股の間の畳に、牛男が、刀痕も鮮やかに短刀を突き刺してしまったのであった。

期将軍と目される慶喜に対し、あわや刃傷沙汰か?
これは、無位無官の国父久光に対し「田舎者」とののしった、あの話とは、ちと違う。

島帰り(沖永良部)の西郷が、少し大人になっていたのは、7/15日放送の「西郷、京へ」(視聴率12.2%)であった。
王様に向かって、裸と言ってのける子供のような西郷の純な気持ち、それはかつて慶喜が「俺にくれ」といった「熱き心」でもあったのだが、おそろしい熱い心を見てしまい、ここで慶喜は西郷から絶縁を宣言されてしまう。
 
「西郷の短刀」と言えば思い出すのは、今から約4年後の、あの「小御所会議」。
 
大政奉還した徳川慶喜の官職の辞職と徳川家領の削封が決定され(徳川慶喜の辞官納地)
「王政復古クーデター」と呼ばれることにもなったあの会議でのこと、
紛糾で休憩に入り、
 
西郷が大久保のに漏らした「短刀一本あれば片づく」の一言が、倒幕派の計画通りに決議されることになり歴史を動かした一言となったのであった。また西郷のこの一言は、西郷に対し否定的に「武断派」のレッテルを貼る論拠のひとつのエピソードにもなっている。
 
と、話はすこし飛んだが、慶喜のまたぐらに刺したこの短刀は、
6/3日放送の第21回(「別れの唄」平均視聴率は12.0%)で、
西郷を説得するため、あろうことか奄美大島まで大久保がやってきて
愛かなに託したあの短刀なのではなかろうか。
 
それは、たしか斉彬から「なんにでも命を懸けるものではない」とかいっていただいたのでななかったか。
 
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