神倉神社の社殿の軒下で雨宿りをしていましたが、まったく止みそうにもないので、傘をさして熊野速玉大社へ向かうことにしました。


柿ソフトクリームはどんな味かなぁ
懐かしいポスト
徒歩約10分で、熊野速玉大社到着。


秋晴れよ丹鶴城址児に見せむ 春夫
※丹鶴城址=紀州徳川家家老水野家居城跡
※この看板の左に大きな石の句碑が立っていましたが、字がかすんでいて全く判読できません。
鳥居の社額は「熊野権現」


日本の祈り 未来へ繫ぐ
社額は「全国熊野神社 総本宮」
拝殿
中世には23方、141度に及ぶ熊野御幸(宇多上皇延喜7年907年~玄輝門院嘉元元年1303年)があったようです。
その中でも、後白河上皇は33度、後鳥羽上皇は29度、鳥羽上皇は23度も熊野へ参詣ています。
こんなにも遠いところへ、この回数の参拝。
熊野信仰の強さがわかります。


御神木「梛」なぎ
平安末期に熊野三山造営奉行を務めた平重盛の手植えと伝えられています。
梛としては日本最大とのこと。
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http://kumanohayatama.jp/?page_id=16より引用
境内にそびえる樹齢千年のナギの大樹は熊野権現の象徴として信奉篤く、古来から道中安全を祈り、この葉を懐中に納めてお参りすることが習わしとされています。熊野牛王とナギの葉をいただくことが、難行熊野詣を無事果たす大きな支えとなりました。
「千早ふる 熊野の宮のなぎの葉を 変わらぬ千代のためしにぞ折る」藤原定家
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武蔵坊弁慶の出自は速玉大神に仕えた熊野三党の一つ鈴木一族とされているそうな。
また、その最期においては、頼朝からの追討を受け、この地で討ち死にしたとも伝えられているそうな。

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http://kumanohayatama.jp/?page_id=4より引用
神倉山と新宮
「熊野権現御垂迹縁起」(一一六四年長寛勘文)はじめ諸書によると、熊野の神々は、神代の頃、まず初めに神倉山のゴトビキ岩に降臨され、その後、景行天皇五十八年、現在の社地に真新しい宮を造営してお遷りになり、「新宮」と号したことが記されています。
初めは、二つの神殿に熊野速玉大神、熊野夫須美大神、家津美御子大神を祀り、平安時代の初めには現在のように十二の神殿が完成しました。
日本書紀には、神武天皇が神倉に登拝されたことが記されています。悠久の古より人々から畏れ崇められてきた神倉山には、初め社殿はなく、自然を畏怖し崇める自然信仰、原始信仰の中心であったと思われます。また、ここから弥生時代中期の銅鐸の破片も発見されています。 十月の例大祭では、お旅所に新宮の由来となった最初の宮である「杉ノ仮宮」を造り、古式に則って神事が行われます。
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http://kumanohayatama.jp/?page_id=10より引用

熊野牛王(くまのごおう)は、熊野権現にゆかりある烏を絵文字化した護符で、戦国時代からその形を変えることなく伝わってきました。熊野速玉大社の牛王は、四十八の烏文字で描かれているところから、よとやの神咒(かじり)とも言い、速玉大神の衆生を救う願いが一羽一羽の烏に込められていると謂われています。
病気平癒、災難除けのみならず、熊野牛王は戦国武将間で忠誠心や絆を強く結ぶために用いられたほか、江戸時代には遊女が起請文として使うなど、広く庶民の間に親しまれてきました。太閤秀吉は諸国大名との誓約に、熊野速玉大社の熊野牛王を使いました。
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http://kumanohayatama.jp/?page_id=4より引用
人生甦りの熊野詣で
自然信仰を原点に神社神道へと展開していく熊野信仰は、六世紀に仏教が伝わると早くから神仏習合が進み、「熊野権現信仰」が全国に広まっていきます。「権現」とは、神が権り(仮)に姿を仏に変え、衆生を救うために現れるという意味で、過去・現在・未来を救済する霊場として熊野は広く人々に受け入れられていきます。
さらに、強者弱者、地位や善悪、信不信を問わず、別け隔てなく救いを垂れる神仏として崇敬され、人々は難行を覚悟で、熊野をめざし、「蟻の熊野詣で」の諺も生まれました。
熊野古道は、滅罪と救いを求めて難行を続ける人々がつけた命の道です。険しい山路を越えてやっとのことで宝前に辿り着いた人々は、皆涙に咽んだといいます。そして、熊野の神にお仕えする私達の祖先は、たとえ参詣者のわらじが雨で濡れていてもそのまま温かく拝殿に迎え入れました。これを「濡れわら沓の入堂」といい、熊野速玉大社の社訓になっています。
美しい感激の涙で心が洗われ、自分本来の姿を取り戻す旅・・・。熊野は生きる力を、もう一度受け取りに来るところなのです。命がけの旅は、私達が生まれた時に持っていたはずの純真なこころと姿を取り戻す試練の旅でもあったのでしょう。
難行苦行の果てにあるもの・・・それは、迷わず人生の再出発を踏み出すための勇気と覚悟の加護にほかなりません。熊野速玉大社が「甦りの地」といわれる本意は、正にここにあります。
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http://kumanohayatama.jp/?page_id=20より引用
熊野曼荼羅の絵解き
熊野速玉大社では、かつて熊野比丘尼(びくに)が全国を巡り、熊野信仰を説いて歩いたという『熊野観心十界曼荼羅』の
絵解きを行っております。
地獄・極楽いずれに行くかは現世の罪次第・・・。
絵解きを受けて豊かな熊野詣の旅を!
初穂料500円
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柿ソフトクリームはどんな味かなぁ

懐かしいポスト

徒歩約10分で、熊野速玉大社到着。


秋晴れよ丹鶴城址児に見せむ 春夫
※丹鶴城址=紀州徳川家家老水野家居城跡
※この看板の左に大きな石の句碑が立っていましたが、字がかすんでいて全く判読できません。
鳥居の社額は「熊野権現」



日本の祈り 未来へ繫ぐ
社額は「全国熊野神社 総本宮」

拝殿

中世には23方、141度に及ぶ熊野御幸(宇多上皇延喜7年907年~玄輝門院嘉元元年1303年)があったようです。
その中でも、後白河上皇は33度、後鳥羽上皇は29度、鳥羽上皇は23度も熊野へ参詣ています。
こんなにも遠いところへ、この回数の参拝。
熊野信仰の強さがわかります。


御神木「梛」なぎ

平安末期に熊野三山造営奉行を務めた平重盛の手植えと伝えられています。
梛としては日本最大とのこと。
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http://kumanohayatama.jp/?page_id=16より引用
境内にそびえる樹齢千年のナギの大樹は熊野権現の象徴として信奉篤く、古来から道中安全を祈り、この葉を懐中に納めてお参りすることが習わしとされています。熊野牛王とナギの葉をいただくことが、難行熊野詣を無事果たす大きな支えとなりました。
「千早ふる 熊野の宮のなぎの葉を 変わらぬ千代のためしにぞ折る」藤原定家
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武蔵坊弁慶の出自は速玉大神に仕えた熊野三党の一つ鈴木一族とされているそうな。
また、その最期においては、頼朝からの追討を受け、この地で討ち死にしたとも伝えられているそうな。

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http://kumanohayatama.jp/?page_id=4より引用
神倉山と新宮
「熊野権現御垂迹縁起」(一一六四年長寛勘文)はじめ諸書によると、熊野の神々は、神代の頃、まず初めに神倉山のゴトビキ岩に降臨され、その後、景行天皇五十八年、現在の社地に真新しい宮を造営してお遷りになり、「新宮」と号したことが記されています。
初めは、二つの神殿に熊野速玉大神、熊野夫須美大神、家津美御子大神を祀り、平安時代の初めには現在のように十二の神殿が完成しました。
日本書紀には、神武天皇が神倉に登拝されたことが記されています。悠久の古より人々から畏れ崇められてきた神倉山には、初め社殿はなく、自然を畏怖し崇める自然信仰、原始信仰の中心であったと思われます。また、ここから弥生時代中期の銅鐸の破片も発見されています。 十月の例大祭では、お旅所に新宮の由来となった最初の宮である「杉ノ仮宮」を造り、古式に則って神事が行われます。
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http://kumanohayatama.jp/?page_id=10より引用

熊野牛王(くまのごおう)は、熊野権現にゆかりある烏を絵文字化した護符で、戦国時代からその形を変えることなく伝わってきました。熊野速玉大社の牛王は、四十八の烏文字で描かれているところから、よとやの神咒(かじり)とも言い、速玉大神の衆生を救う願いが一羽一羽の烏に込められていると謂われています。
病気平癒、災難除けのみならず、熊野牛王は戦国武将間で忠誠心や絆を強く結ぶために用いられたほか、江戸時代には遊女が起請文として使うなど、広く庶民の間に親しまれてきました。太閤秀吉は諸国大名との誓約に、熊野速玉大社の熊野牛王を使いました。
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http://kumanohayatama.jp/?page_id=4より引用
人生甦りの熊野詣で
自然信仰を原点に神社神道へと展開していく熊野信仰は、六世紀に仏教が伝わると早くから神仏習合が進み、「熊野権現信仰」が全国に広まっていきます。「権現」とは、神が権り(仮)に姿を仏に変え、衆生を救うために現れるという意味で、過去・現在・未来を救済する霊場として熊野は広く人々に受け入れられていきます。
さらに、強者弱者、地位や善悪、信不信を問わず、別け隔てなく救いを垂れる神仏として崇敬され、人々は難行を覚悟で、熊野をめざし、「蟻の熊野詣で」の諺も生まれました。
熊野古道は、滅罪と救いを求めて難行を続ける人々がつけた命の道です。険しい山路を越えてやっとのことで宝前に辿り着いた人々は、皆涙に咽んだといいます。そして、熊野の神にお仕えする私達の祖先は、たとえ参詣者のわらじが雨で濡れていてもそのまま温かく拝殿に迎え入れました。これを「濡れわら沓の入堂」といい、熊野速玉大社の社訓になっています。
美しい感激の涙で心が洗われ、自分本来の姿を取り戻す旅・・・。熊野は生きる力を、もう一度受け取りに来るところなのです。命がけの旅は、私達が生まれた時に持っていたはずの純真なこころと姿を取り戻す試練の旅でもあったのでしょう。
難行苦行の果てにあるもの・・・それは、迷わず人生の再出発を踏み出すための勇気と覚悟の加護にほかなりません。熊野速玉大社が「甦りの地」といわれる本意は、正にここにあります。
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http://kumanohayatama.jp/?page_id=20より引用
熊野曼荼羅の絵解き
熊野速玉大社では、かつて熊野比丘尼(びくに)が全国を巡り、熊野信仰を説いて歩いたという『熊野観心十界曼荼羅』の
絵解きを行っております。
地獄・極楽いずれに行くかは現世の罪次第・・・。
絵解きを受けて豊かな熊野詣の旅を!
初穂料500円
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