嵐昇菊(あらし しょうぎく)―
それが、父までの代々が名乗っていた歌舞伎役者の芸名でした、と金澤あかりは続けた。
「もともとは、“緒室屋(おむろや)”という屋号を持つ、名門だったらしいのですが……」
金澤あかりの祖父の代で家運は傾きだして―
「父が五代目を継いだときにはすっかり零落していて、役も思うように付かなくなっていたそうです。それで父は芝居に対する意欲を失って……」
三十五歳の若さ . . . 本文を読む
暴漢は中部地方出身の三十歳、「仕事を馘首(クビ)になりムシャクシャしてやった」と警察に話したと云うことを、僕はニュースで知った。
しかも、体内からは微量の大麻が検出されたとかで、僕は改めてゾッとさせられた。
知らなかったとはいえ、そんな危険すぎる男に、よくも立ち向ったものだ。
そして、あの若い女性警備員も……。
僕は、自分とたいして年齢(とし)の違わない男が、あのような事件を起こしたことに . . . 本文を読む
驚いて振り返った僕は、慄然とした。
ついさっきまで寝そべっていたあの浮浪者風の男が、刃物を振り回して暴れていたのだ。
床には、年配の警備員が、血潮のなかに倒れていた。
悲鳴をあげて逃げ惑う客たち。
昼下がりのエントランスは、いっぺんに地獄風景と化した。
男は相変わらず獣のような咆哮をあげながら、今度は目の前にいる女性警備員に襲いかかろうとしていた。
危ない……!
僕はそう叫ぼう . . . 本文を読む
いまの僕の楽しみは、自宅の最寄り駅のそばにオープンした大型ショッピングモールまで、散歩することだ。
だからといって、僕を暇人などと思われては困る。
僕の名前は近江章彦―大和絵を家業としていた公家、近江中納言家の末裔で、かつての家業をそのまま自分の職業にしている、“大和絵師”だ。
中学生のときに自分の“血筋”を強く意識するようになり、先祖の仕事は僕が受け継いで発展させる―!
と心に誓って、は . . . 本文を読む
師走の夜八時。
権堂太郎兵衛じいさんはほくそ笑みながら、居間の炬燵で晩酌をチビチビとやっていました。
「やっぱり、静かなのが一番じゃ……」
それは、今宵から夜回りを、廃止にさせたからです。
夜回りとは、
「火の用心」
チョンチョン、と拍子木を打って町内を巡回する、あれです。
権堂じいさんは日頃からあの「火の用心」チョンチョンを、町内の静かな夜を掻き乱す、騒音だと感じていました。
あ . . . 本文を読む
そのだらしのない姿で酔い潰れているのは、中村うま助―広岡の役者人生にトドメを刺した、あの歌舞伎の大部屋役者だった。
約三年ぶりに思いもよらぬところで再会した仇敵は、大股開きに両足を投げ出し、天を仰いで口をあんぐりと開けたまま、高鼾をかいていた。
足元には、安っぽいビジネスバッグが転がっていた。
この野郎……!
広岡は腹の底から、ムラムラと怨みが込み上げてきた。
そして、仇敵の太平楽さに引 . . . 本文を読む
こうして広岡和斗は、三十代に入ったばかりにして、俳優業から足を洗った。
その翌年には、かつての師匠だった嵐長太郎が、突発性肺炎であっけなく死去したと、新聞で知った。
どっちみち役者稼業とは、縁が切れる運命だったのかもしれない―広岡は、そう納得することにした。
なんであれ、表向きのきらびやかさとは裏腹に、人間が欲得づくで陰湿に蠢く芸能の世界は、もうこりごりだった。
しかし、社会人としてのスキ . . . 本文を読む
こうして広岡は、「嵐長吉」という芸名をもらって、歌舞伎の大部屋に入った。
そして、女形になることを希望した。
それは、どうせ歌舞伎に入ったのならば、歌舞伎でしか出来ないことをやろう―そう思ったからだった。
広岡はもともと映像の俳優になりたかっただけに、容姿だけは優れていた。
その甘いマスクは、たちまち美貌の女形に化けた。
しかし広岡はたちまち、歌舞伎の大部屋の実態に唖然とし、失望し、自分 . . . 本文を読む
広岡和斗は、関東最大手の私鉄「西急電鉄」の鉄道警備員となる前は、歌舞伎の大部屋に身をおく、女形役者だった。
もっとも、そんな前職を世間で口にしたところで、歌舞伎というおよそ現実離れした“特殊な”世界を理解できる一般人などいないので、広岡は単に「俳優志望でした」と言うに留めている。
もっともそれも、嘘ではない。
広岡はそもそも、TVや映画など、映像に出る俳優になりたかったのだ。
きっかけは、 . . . 本文を読む
「きれいだねぇ」
“姫”は心底惚れ惚れしたような声で、その“女小姓”を見た。
そして、「ねぇ、そう思うだろ?」と、傍に控える“腰元たち”にも同意を求めた。
しかし“腰元たち”は、なぜ“姫”がその“女小姓”だけをいきなり褒めはじめたのか訳がわからず、ただ曖昧な微笑を浮かべるばかりだった。
すると“姫”はもう一度、
「お前さん、本当にきれいだよ」
と、その“女小姓”に目を細めた。
二度 . . . 本文を読む
ここまでずっと失敗談ばかり聞かされて、いい加減イヤになってきたでしょ?
はっはっは。
だから、初めに言ったじゃないですか。
…はい?
ああ、福間美鈴さんですか?
いまでもお友達ですよ。
彼女は現在(いま)では、一人前のスタイリストとして、東京で立派に仕事をしています。
では、ですね。
これまでずっと“残念な”お話しばかりしてきましたから、最後にこんなエピソードを付け加えて、お仕舞い . . . 本文を読む
「この仕事、私はとても好きなんですけど、たぶん素質がないんでしょうかね…。教わった技術がなかなかその通りに出来なくて…。先輩は焦らなくていいよ、って言ってくれるんですけど、まるで応えられない自分が悔しくて…」
福間美鈴さんはコーヒーカップを見つめたまま、下唇を噛みました。
「それで、いつもお店が終わった後に、外でカットモデルになってくれそうな人を探しているんですけど、私見るからに下手くそに見え . . . 本文を読む
「おどり、と云うとダンスとか…?」
「いえ日舞…、日本舞踊、ですね…」
「ああ…」
福間美鈴さんは、スゴイ…、という目でわたしを見ました。「和モノのほうなんですね」
わたしは、女優を目指しているはずなのに、それを堂々と人前で言えない自分が、情けなくなってきました。
しかしわたしは、この日事務所を解雇されて、女優志望であることを公けに示すものは、もはや何も持ってはいないのです…。
. . . 本文を読む
カットをしている時の彼女の目は、真剣そのものでした。
声を掛けられないくらいに。
でも、とても素敵な目でした。
そして髪を扱う手つきは、とてもインターンとは思えないほど、鮮やかなものでした。
美容師に髪を触られて、初めて「心地好い」と感じました。
一時間後、彼女はわたしの希望通り、一時間前とは全く違う高島陽也を、鏡に映し出しました。
「いかがでしょうか…?」
彼女は鏡越しにで . . . 本文を読む
「……!」
わたしはゾッとして、慌てて柵の内側に身を引きました。
そして、声を掛けてくれた人を振り返りました。
それは、わたしと同い年くらいの女性でした。
もしこの女性が声を掛けてくれなかったら、わたしは既にこの世にいないはずの人に誘われるまま、眼下の高速道路へと、転落していたことでしょう。
「あの…、どうなされたんですか?」
その女性は、わたしが何をしようとしていたのかを承知 . . . 本文を読む