衝撃的だった。
考えてみたら、僕は嵐昇菊がいつ、どこで亡くなったのか、金澤あかりから聞いていない。
女人禁制のしきたりを改めて起用された少女の、その父親が焼失した八幡宮から、遺体となって発見される―
なんと因縁深い事件だろう!
中学生というムズカシイ年頃の金澤あかりが、この事件でいかなるショックを受けたか―
その後東京へ転居したことが、まさにそのあたりの事情を物語っているようだ。
結局 . . . 本文を読む
翌朝、僕は熊橋老人からの外線電話で目を覚まされた。
松羽目の色付けもお願いしたい―と云うものだった。
僕は、たぶんそう来るだろう、と思っていた。
昨日の稽古を見た様子では、奉納歌舞伎の実際は溝渕静男が一手に握っていて、保存会長の熊橋老人は、何も口出しできない名誉職の立場にある感じだった。
それだけに僕を使って、横からチャチャを入れたいのではないか―
古くからの“確執”が絡んでいるとなれ . . . 本文を読む
“稽古見学”のあと、僕は下鶴昌之の運転する車で、葛原駅前のホテルまで送ってもらった。
熊橋老人には夕食も誘われたが、丁重に辞退したのだった。
実際はそれよりも、溝渕静男に、面倒くさそうなものを感じていたからだ。
あの男の雰囲気では、じつは松羽目も、自分で手掛けるつもりだっただろう……。
車は姫哭山の裾を迂回する国道を通って、葛原駅を目指す。
窓から見る姫哭山は、すでに夜闇に溶け込もうとし . . . 本文を読む
十六時を過ぎてから、僕は熊橋老人と下鶴昌之、そして稽古用の浴衣に着替えたその長男と、稽古場となっている集会所へ再び向かった。
僕は正直なところ、旅館で熊橋老人から聞かされた内輪話しに、少し気が滅入っていた。
人間同士が額を寄せる場では、性格の不一致は付き物だ。
そんな話しを部外者(よそもの)が聞いても、迷惑なだけだ。
僕が大和絵師となったのは、他人(ひと)の発する雑音に煩わされることなく、 . . . 本文を読む
そして脇に控えていた下鶴昌之に、
「下鶴さん、ええやろ?」
と、振り向いた。
下鶴昌之は一瞬、戸惑った表情(かお)をした。が、
「まあ、保存会長さんがおっしゃるなら……」
と、神妙に頷いた。
やはり、“部外者(よそもの)”に見せることは、抵抗があるらしい。
僕はとりあえず、遠慮を申し上げた。
しかし熊橋老人は、アルコールも手伝ってか、やけに高らかな笑い声を上げた。
「いやいや、 . . . 本文を読む
やがて戻ってきた熊橋老人は、僕が描き上げた下絵を見ると、
「ほう、東京のプロの方は、やはり違いますなぁ……」
云々、感極まったような声で、何度も礼を述べた。
「ところで近江さん、お食事はまだでしょう?」
そう訊かれて、僕は初めて、昼食時をとっくに過ぎていることに気が付いた。
僕は作品に集中すると、いつも寝食を忘れる。
僕は熊橋老人の言葉に甘えて、昼のご馳走にあずかることにした。
連れ . . . 本文を読む
僕がおや、と思っているうちに、熊橋老人が盆に湯呑みを載せて戻って来た。
僕は「ありがとうございます……」とお茶をいただきながら、
「熊橋さんは、この奉納歌舞伎に出られたことは?」
と訊ねてみた。
「ワシは、出ていないんですわ」
思いがけない答えが返ってきた。「ワシが子どもの頃言うたら、ちょうど太平洋戦争中やさかい、戦争中は、祭りはずっと中止やったんですわ……」
「それは……、失礼しまし . . . 本文を読む
相当に古い石の鳥居を出た先が、旧朝妻宿だった。
昔ながらの家並みがそのまま残る―
と言うと、木曽路の旧宿場のような、むかしの情緒たっぷりの光景を連想するかもしれない。
しかし旧朝妻宿のそれは、特に改築する必要もないままに時が過ぎ、その結果として当時の家屋が現代に残ったと云うだけの、古臭く寂れた集落にすぎなかった。
“過疎”
まず僕の頭に浮かんだ言葉が、それだった。
朝妻八幡宮の社殿が焼 . . . 本文を読む
朝妻八幡宮は文字通り、姫哭山の麓にあった。
境内が、そのまま姫哭山のへの登り口となっていた。
ところが、そのさほど広くない境内には、インターネットの写真で見たあの独特の社殿が、見当たらなかった。
その代わりに、薄汚れたプレハブ小屋が一棟、置かれているだけだった。
それが社殿らしいとわかったのは、正面に観音開きの格子戸が嵌められ、その前には申し訳程度の粗末な賽銭箱が据えてあったからだ。
え . . . 本文を読む
「書割、ですか?」
僕は再び訊き返した。
書割とは、舞台演劇の背景画をさす。
僕はもちろん、そういうものを手掛けたことはない。
第一、あれは芝居の大道具方の職分で、僕とは畑がちがう。
この老人、いきなり妙なことを言い出したものだ。
「いやぁ、ちょっとそういう方面は……」
僕は首を傾げてみせた。
絵なら全て一緒、などと考えられては困る。
「いや、書割いうても、そんな手の込んだもの . . . 本文を読む
僕は松から少しさがったところに腰を下ろして、スケッチブックをひらいた。
時代(とき)は戦国の世、朝妻氏が守る山城に、一本だけそびえる松―
それを縁側に立って眺める、一人の美しい姫君―
やがて織田信長の軍勢に攻められて炎上する城、そして庭の松の下で、まさに短刀で喉を突こうとしている白装束の姫君―
すべてが焼け落ちて荒涼たる景色のなか、一本だけ、そのままの姿をとどめる松―
それは時が移った現 . . . 本文を読む
その好奇心に背中を押されるまま、僕が旧朝妻宿に向かったのは九月二十三日―祭礼の一週間前のことだった。
東京から特急列車で西へ西へと約六時間、途中で単線のローカル線に乗り換える。
国鉄時代の遺物にカラフルな塗装を施したポンコツディーゼルカーに揺られること約一時間、最寄りの葛原(かどはら)駅に着いた時、夕焼け空には夜闇が迫っていた。
真新しい駅舎の外には、綺麗に整備されたちょっとした地方都市が広 . . . 本文を読む
嵐昇菊という歌舞伎役者は、たしかに五代目まで存在していた。
三代目までは上方、すなわち関西の歌舞伎役者で、四代目、すなわち金澤あかりの祖父の代に、東京へ出てきた。
しかし、上方の芸風が東京の水に合わなかったこともあって人気が出ず、失意のうちに病没してから名門“緒室屋”は低迷し、五代目、すなわち金澤あかりの父の代でついに廃業、名門“緒室屋”の芸脈は断絶する―
すべて、彼女の話しの通りだ。
さ . . . 本文を読む
「あ、そうだ……。近江さん、よろしければ連絡先を交換しませんか?」
仕事ではない場面で、自分からそう申し出た女性は、彼女が初めてだった。
いちおう僕は、仕事用に使っている番号の方で、交換した。
「もっとも、あのショッピングモールへ行けば、またお会いすることがあるかもしれませんね」
僕はそう言いながら、金澤あかりから届いたアドレスを登録していると、
「その警備員なんですが……」
と、彼女 . . . 本文を読む
「ちなみに金澤さんは、その農村歌舞伎に出られたことは……?」
僕は彼女の瞳(め)をさりげなく注視しつつ、訊ねた。
「十三歳のときに、一度だけ……」
金澤あかりはそう答えて、口許だけで笑ってみせた。
そしてわずかに目線を伏せたきり、あとを続けようとしなかった。
あまり触れたくない―
そう言いたいように見えた。
目線を伏せたのは、心の内を読まれたくなかったからかもしれない。
しかし彼女 . . . 本文を読む