きのう・おととい、珍しく東ティモール関連の記事をいくつか目にしたので、今日はその話。
****元民兵指導者を釈放=東ティモール虐殺事件、全員無罪-インドネシア*****
インドネシア法務・人権省は7日夜、1999年の東ティモール虐殺事件で、ただ1人有罪判決を受け服役中だった元併合派民兵指導者エウリコ・グテレス受刑者をジャカルタの刑務所から釈放した。最高裁がこのほど、同受刑者の再審を認め、無罪とする逆転判決を下した。
東ティモールでの一連の虐殺事件をめぐっては、インドネシア政府は2002年に人権特別法廷を設置。検察は国軍幹部ら18人を起訴したが、グテレス受刑者を除く17人はいずれも無罪となった。今回の判決で被告全員の無罪が確定した。【4月8日 時事】
******************************
東ティモールでは99年8月30日、自治を付与されたかたちでインドネシアに残留という特別自治提案に関する住民投票(国連が監督)が行われ、住民はこの“自治”を否決して“独立”へ向かうことが明示されました。(投票率は98.16%を記録し、独立賛成が78.5%)
しかし、この住民投票後、インドネシア国軍の支援を受けた(インドネシアは否定していますが)インドネシア併合維持を支持する民兵組織の破壊と虐殺が全土で吹き荒れ、東ティモールは焦土と化しました。
PKOが介入したときにはすでにおおかたの暴力が実行されたあとでした。
この混乱で1300人以上が死亡したと言われており、また、25万人以上が西ティモールへ強制移送されるか、または退避を余儀なくされました。
当然のごとく、拷問やレイプなどの人権侵害も多数行われた訳ですが、これらの暴力・人権侵害行為は偶発的なものではなく、インドネシア国軍・警察・文民当局者の周到な計画によって行われたものと見られています。
この暴力を裁くため、欧州諸国の一部や人権団体は国際法廷設置を求めましたが、インドネシア政府は“国際法廷をしないかわりにインドネシアが自分で国際基準にてらして裁判を行うという”という前提で、国内にインドネシア特別人権法廷を設置しました。(国際法廷設置については東ティモールも反対しています。)
このインドネシア特別人権法廷とは別に、東ティモール内で重大犯罪裁判も並行して行われています。
この裁判には、99年にインドネシア軍の総司令官だったウィラント将軍を含む、多数の上級インドネシア軍士官たちも起訴されています。
起訴された367人のうち280人はインドネシアなどにいるため、東ティモールで裁判ができません。
インドネシアは国連暫定行政と犯罪人引き渡しについての協力を含む覚書を交わしましたが、インドネシア国会がこれを批准しなかったため、起訴された者の引き渡しは一件も実現しなかったようです。(04年8月段階)
インドネシア特別人権法廷で証言に立ったウィラント元インドネシア国軍総司令官兼国防相は、「国家が国家の使命を誠実に実行しようとした国家の僕を裁かなければならないなんて、良心をもつ者なら誰でも心が痛むはずだ」「住民投票を成功させるため16項目もの努力を行った」「5月合意以後は警察が治安の責任者であって、軍は適宜アドバイスを行っただけだ」と述べています。
また、法廷を出たウィラント将軍はマスコミに、「この法廷は本当に理解できない、何百万人もの死者を出したユーゴスラビアとちがって、東ティモールでは死者は100人にも満たない、それにそれは紛争だったんだから」と語ったとか。
(松野明久 http://www.asahi-net.or.jp/~AK4A-MTN/news/quarterly/number7/adhoccourt.html)
上記発言でインドネシア国軍側の対応がおおよそ察しがつきます。
裁判の推移もそのような国軍の意向に配慮したものでした。
特別人権法廷では当初数名の有罪判決も出ましたが、上級審に控訴されるうちに殆どが無罪となっていく経過に国際社会からの批判も高まりました。
国連事務総長が設置した独立専門家委員会は審理の過程を調査、2005年に裁判やり直しを求める勧告を国連安全保障理事会に提出しています。
しかし、このような欧米諸国の批判に対し、インドネシア閣僚からは「われわれはアメリカがベトナムでしたことに満足していない。それについてはまだ調査されていない。また、われわれはアメリカがイラクでしていることについても満足していない。ただアメリカに不平をいうほど強くないというだけだ」との反発も聞かれました。
結局、冒頭記事にあるように、唯一の有罪服役中だったグテレス受刑者が再審無罪となったことで、起訴された18名全員の無罪が確定しました。
国際社会が期待したインドネシア国内プロセスによる人道に対する罪の追及は失敗に終わったと言えます。
敗戦国責任者を戦勝国が裁く戦争裁判には批判も多く聞かれますが、軍による犯罪の裁判を当事国に任せても結果が出ない・・・ということも言えるようです。
もっとも、東ティモール人でもあるグテレス受刑者については、05年12月、東ティモール独立の英雄であるグスマン大統領(当時、現在は首相)がインドネシア領西ティモールのクパンを訪れ、上訴中のかつての「宿敵」と初めて会談。
グスマンは宿敵グテレスに、東ティモールを訪れるよう要請し「逮捕しない」と保証したそうです。
国民和解の一環です。
東ティモールにとって戦乱からの復興のためには、国民和解、および、隣接する“大国”インドネシアとの穏健な関係が不可欠であり、かつての民兵、その指導者、その背後にあったインドネシアへの配慮が多くの場面で感じられます。
もうひとつの東ティモール関連記事は2月におきた大統領暗殺事件に関するもの。
*****大統領襲撃者が逃れているのは政治が原因****
2月11日の東ティモールのラモス・ホルタ大統領の暗殺未遂事件後出されていた国家非常事態宣言が4月23日まで更新された。
暗殺未遂事件の首謀者である反乱軍の司令官レイナド少将は現場で銃殺されたが、副司令官サルジーニャは多くの反乱兵とともに逃亡。その後も3月中旬に国軍(F-FDTL)と東ティモール国家警察(PNTL)の合同部隊に包囲されたが、政治的介入の結果逃亡している。
国家非常事態宣言の更新について、無意味と考えている人は多い。反乱軍を捕らえようという真剣な態勢が見られないからだ。
更新に反対した議員の1人である社会民主党(連立与党の1党)党首マリオ・カラスカラオ氏は、「更新は政府にとって早期の選挙を妨げるための手段」と述べた。潘基文国連事務総長は、東ティモールの現在の政治危機に対処する試みのひとつとして、予定の2009年より早期の選挙実施の提案に同意している。【4月9日 IPS】
********************
暗殺事件首謀者とされるレイナド等は、2006年におきた国軍内の分裂・抗争のリーダーでもあります。
06年4月に西部出身の軍人約600人(国軍は全体で2000人)が昇級や給料で東部出身者との間で差別があるとして待遇改善と差別の廃止を求め抗議し、ストライキを起こしましたが、政府はスト参加者全員を解雇しました。
これを不服とした参加者側が5月下旬に蜂起、国軍との間で戦闘が勃発した紛争でした。
2月の大統領暗殺事件に関しては、報じられているようなストーリーの他に、昨年の大統領選、総選挙後の首班指名で敗れた最大野党・東ティモール独立革命戦線(フレティリン)が資金提供して実行させたという噂(与党サイドからリークされているような感じもあります。)もありますが、もっと衝撃的なのは、自分自身も襲撃を受けたと主張しているグスマン首相及びオーストラリアの“陰謀説”です。
字数制限にかかりそうなので端折りますが、この“陰謀説”によると、そもそも06年の国軍内の反乱自体が当時のフレティリン政権を追い込むためのグスマンとオーストラリアの筋書きによるものだそうです。
レイナド等は最近、ホルタ大統領と会談を持ち、両者間で和解の手順が合意されていたそうです。
そして、レイナドは06年のグスマン現首相の“犯行”について記録したDVDをばら撒いたようです。
また、ホルタ大統領と関係政党間で早期選挙実施の合意も出来たとか。
これにより追い詰められたグスマン首相と石油等の資源権益拡大を狙うオーストラリアが、邪魔者レイナドを逆に殺して口封じした・・・という説です。
こちらのサイト(http://blog.goo.ne.jp/leonlobo2/e/b5e542959f9eb1d64b7d330a59c05149)に詳しく紹介されています。
真偽のほどはわかりません。
****元民兵指導者を釈放=東ティモール虐殺事件、全員無罪-インドネシア*****
インドネシア法務・人権省は7日夜、1999年の東ティモール虐殺事件で、ただ1人有罪判決を受け服役中だった元併合派民兵指導者エウリコ・グテレス受刑者をジャカルタの刑務所から釈放した。最高裁がこのほど、同受刑者の再審を認め、無罪とする逆転判決を下した。
東ティモールでの一連の虐殺事件をめぐっては、インドネシア政府は2002年に人権特別法廷を設置。検察は国軍幹部ら18人を起訴したが、グテレス受刑者を除く17人はいずれも無罪となった。今回の判決で被告全員の無罪が確定した。【4月8日 時事】
******************************
東ティモールでは99年8月30日、自治を付与されたかたちでインドネシアに残留という特別自治提案に関する住民投票(国連が監督)が行われ、住民はこの“自治”を否決して“独立”へ向かうことが明示されました。(投票率は98.16%を記録し、独立賛成が78.5%)
しかし、この住民投票後、インドネシア国軍の支援を受けた(インドネシアは否定していますが)インドネシア併合維持を支持する民兵組織の破壊と虐殺が全土で吹き荒れ、東ティモールは焦土と化しました。
PKOが介入したときにはすでにおおかたの暴力が実行されたあとでした。
この混乱で1300人以上が死亡したと言われており、また、25万人以上が西ティモールへ強制移送されるか、または退避を余儀なくされました。
当然のごとく、拷問やレイプなどの人権侵害も多数行われた訳ですが、これらの暴力・人権侵害行為は偶発的なものではなく、インドネシア国軍・警察・文民当局者の周到な計画によって行われたものと見られています。
この暴力を裁くため、欧州諸国の一部や人権団体は国際法廷設置を求めましたが、インドネシア政府は“国際法廷をしないかわりにインドネシアが自分で国際基準にてらして裁判を行うという”という前提で、国内にインドネシア特別人権法廷を設置しました。(国際法廷設置については東ティモールも反対しています。)
このインドネシア特別人権法廷とは別に、東ティモール内で重大犯罪裁判も並行して行われています。
この裁判には、99年にインドネシア軍の総司令官だったウィラント将軍を含む、多数の上級インドネシア軍士官たちも起訴されています。
起訴された367人のうち280人はインドネシアなどにいるため、東ティモールで裁判ができません。
インドネシアは国連暫定行政と犯罪人引き渡しについての協力を含む覚書を交わしましたが、インドネシア国会がこれを批准しなかったため、起訴された者の引き渡しは一件も実現しなかったようです。(04年8月段階)
インドネシア特別人権法廷で証言に立ったウィラント元インドネシア国軍総司令官兼国防相は、「国家が国家の使命を誠実に実行しようとした国家の僕を裁かなければならないなんて、良心をもつ者なら誰でも心が痛むはずだ」「住民投票を成功させるため16項目もの努力を行った」「5月合意以後は警察が治安の責任者であって、軍は適宜アドバイスを行っただけだ」と述べています。
また、法廷を出たウィラント将軍はマスコミに、「この法廷は本当に理解できない、何百万人もの死者を出したユーゴスラビアとちがって、東ティモールでは死者は100人にも満たない、それにそれは紛争だったんだから」と語ったとか。
(松野明久 http://www.asahi-net.or.jp/~AK4A-MTN/news/quarterly/number7/adhoccourt.html)
上記発言でインドネシア国軍側の対応がおおよそ察しがつきます。
裁判の推移もそのような国軍の意向に配慮したものでした。
特別人権法廷では当初数名の有罪判決も出ましたが、上級審に控訴されるうちに殆どが無罪となっていく経過に国際社会からの批判も高まりました。
国連事務総長が設置した独立専門家委員会は審理の過程を調査、2005年に裁判やり直しを求める勧告を国連安全保障理事会に提出しています。
しかし、このような欧米諸国の批判に対し、インドネシア閣僚からは「われわれはアメリカがベトナムでしたことに満足していない。それについてはまだ調査されていない。また、われわれはアメリカがイラクでしていることについても満足していない。ただアメリカに不平をいうほど強くないというだけだ」との反発も聞かれました。
結局、冒頭記事にあるように、唯一の有罪服役中だったグテレス受刑者が再審無罪となったことで、起訴された18名全員の無罪が確定しました。
国際社会が期待したインドネシア国内プロセスによる人道に対する罪の追及は失敗に終わったと言えます。
敗戦国責任者を戦勝国が裁く戦争裁判には批判も多く聞かれますが、軍による犯罪の裁判を当事国に任せても結果が出ない・・・ということも言えるようです。
もっとも、東ティモール人でもあるグテレス受刑者については、05年12月、東ティモール独立の英雄であるグスマン大統領(当時、現在は首相)がインドネシア領西ティモールのクパンを訪れ、上訴中のかつての「宿敵」と初めて会談。
グスマンは宿敵グテレスに、東ティモールを訪れるよう要請し「逮捕しない」と保証したそうです。
国民和解の一環です。
東ティモールにとって戦乱からの復興のためには、国民和解、および、隣接する“大国”インドネシアとの穏健な関係が不可欠であり、かつての民兵、その指導者、その背後にあったインドネシアへの配慮が多くの場面で感じられます。
もうひとつの東ティモール関連記事は2月におきた大統領暗殺事件に関するもの。
*****大統領襲撃者が逃れているのは政治が原因****
2月11日の東ティモールのラモス・ホルタ大統領の暗殺未遂事件後出されていた国家非常事態宣言が4月23日まで更新された。
暗殺未遂事件の首謀者である反乱軍の司令官レイナド少将は現場で銃殺されたが、副司令官サルジーニャは多くの反乱兵とともに逃亡。その後も3月中旬に国軍(F-FDTL)と東ティモール国家警察(PNTL)の合同部隊に包囲されたが、政治的介入の結果逃亡している。
国家非常事態宣言の更新について、無意味と考えている人は多い。反乱軍を捕らえようという真剣な態勢が見られないからだ。
更新に反対した議員の1人である社会民主党(連立与党の1党)党首マリオ・カラスカラオ氏は、「更新は政府にとって早期の選挙を妨げるための手段」と述べた。潘基文国連事務総長は、東ティモールの現在の政治危機に対処する試みのひとつとして、予定の2009年より早期の選挙実施の提案に同意している。【4月9日 IPS】
********************
暗殺事件首謀者とされるレイナド等は、2006年におきた国軍内の分裂・抗争のリーダーでもあります。
06年4月に西部出身の軍人約600人(国軍は全体で2000人)が昇級や給料で東部出身者との間で差別があるとして待遇改善と差別の廃止を求め抗議し、ストライキを起こしましたが、政府はスト参加者全員を解雇しました。
これを不服とした参加者側が5月下旬に蜂起、国軍との間で戦闘が勃発した紛争でした。
2月の大統領暗殺事件に関しては、報じられているようなストーリーの他に、昨年の大統領選、総選挙後の首班指名で敗れた最大野党・東ティモール独立革命戦線(フレティリン)が資金提供して実行させたという噂(与党サイドからリークされているような感じもあります。)もありますが、もっと衝撃的なのは、自分自身も襲撃を受けたと主張しているグスマン首相及びオーストラリアの“陰謀説”です。
字数制限にかかりそうなので端折りますが、この“陰謀説”によると、そもそも06年の国軍内の反乱自体が当時のフレティリン政権を追い込むためのグスマンとオーストラリアの筋書きによるものだそうです。
レイナド等は最近、ホルタ大統領と会談を持ち、両者間で和解の手順が合意されていたそうです。
そして、レイナドは06年のグスマン現首相の“犯行”について記録したDVDをばら撒いたようです。
また、ホルタ大統領と関係政党間で早期選挙実施の合意も出来たとか。
これにより追い詰められたグスマン首相と石油等の資源権益拡大を狙うオーストラリアが、邪魔者レイナドを逆に殺して口封じした・・・という説です。
こちらのサイト(http://blog.goo.ne.jp/leonlobo2/e/b5e542959f9eb1d64b7d330a59c05149)に詳しく紹介されています。
真偽のほどはわかりません。