孤帆の遠影碧空に尽き

年に3回ほどアジアの国を中心に旅行、それが時間の流れに刻む印となっています。そんな私の思うこといろいろ。

ベトナム・サパ  旅行に行ってきます

2008-04-29 00:13:22 | 世相

(サパの街を闊歩する黒モンギャル “flickr”より By Mimi_K 
http://www.flickr.com/photos/mimk/1343599079/

今日から来月6日までベトナムのサパへ行ってきます。
ホーチミンシティ(サイゴン)、ハノイに次いで3回目のベトナムです。

サパはハノイから寝台列車で一晩奥へ入った、中国国境も近い山岳地帯にある街です。
モン族とかザオ族といった少数民族が暮らすエリアです。
もっとも、サパの街自体は観光地ですから、俗世間の空気にどっぷり浸かった街です。

まあ、それでも華やかな民族衣装やマーケットの賑わいなど、異国の旅行者にはものめずらしいものも多いようです。
今回は郊外の村を巡るちょっとしたハイキングなど中心に考えています。

モン族は中国では苗(ミャオ)、タイやラオスではメオと呼ばれ、中国雲南省からインドシナにかけての山岳地帯に広く分布しています。
モンは“自由の人”を意味する言葉で、メオはタイ族が蔑んで呼ぶ言葉とか。

インドシナで戦われたベトナム戦争はモン族にも大きな悲劇をもたらしました。
モン族はこの戦争で20万人の犠牲者を出しています。
この数字はアメリカの犠牲者(5万8千人)の4倍近い数字です。

北ベトナムが、北からラオス、カンボジア領内を通り南に至る陸上補給路として活用した“ホーチミン・ルート”は有名です。
このルートは山岳地帯の獣道同然もルートを含んでおり、元来が平地の民であるベトナム人(キン族)だけでは使えず、山岳地帯すむモン族のような少数民族の協力を必要としたそうです。

こうして北ベトナム軍やラオスのパテト・ラオ(ラオス愛国戦線)に協力したモン族もいた訳ですが、山岳地帯におけるモン族の利用価値に目をつけたのはアメリカも同様です。
アメリカは主にラオス国内でホーチミン・ルートを叩くために、モン族を右派ゲリラ組織にしたてあげました。
なお、アメリカが北ベトナムに“北爆”として投下した爆弾は約100万トンであったのに対し、ラオス領内には250~300万トンの爆弾が投下されたと言われています。

同じ民族が左右両派に分かれ、両陣営の協力者として戦うかたちになりました。
結局アメリカはこの地から“名誉ある撤退”をします。
アメリカはそれですみますが、アメリカに協力してアメリカ兵に代わって多くの血を流した右派モン族はこの地に取り残されます。

“アメリカの手先”となった右派モン族は、北ベトナム軍やパテト・ラオ軍の報復攻撃を受けます。
アメリカがベトナムから撤退したのが73年ですが、ラオス国境が近いタイ領内にはラオス政府軍の追及を逃れてくらすモン族の集落が今なお存在し、またラオス国内で爆弾闘争などの反政府活動を続けるモン族も存在します。

更に、先述のように大量に投下されたクラスター爆弾などの爆弾は今なおラオス領内に不発弾として大量に残存しており、村人の命を奪い続けています。
(以上、「メコン発 アジアの新時代」(薄木秀夫著)を参考にしました。)

仮に、イラクからアメリカから近々撤退できたとしても、同様の悲劇がかの地に長く残ることでしょう。

今回のベトナム・サパ旅行は全くの物見遊山の観光旅行ですから、そんなモン族の悲劇との接点はまずないかと思います。
そういう訳で、しばらくブログもお休み。
帰国後、7日前後から再開したいと思っていますので、またよろしくお願いいたします。

コメント (1)
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