「シマ」ということばが島ではなく、各地域の「集落」を指すことは知られています。交通機関が発達していないころ、隣の集落にいくのも船で移動するのが普通だったそうです。実際に奄美の道路は起伏が激しく、トンネルもとても多いのです。 <o:p></o:p>
古来奄美のシマの多くは背後に山幸の神(テルコ)をひかえ、目の前には海幸の神(ナルコ)に守られて、人々は自分たちの住む地域を限定し、それ以外は神の領域としてきました。奄美の自然が保存され、守られてきたのは「ハブ」の存在以上に、こうした信仰に基づくところも大きいのでしょう。<o:p></o:p>
シマの中心部には神を祀る聖域(シャー)や祭場(トネヤ)があり、そこから浜に向かって神道(カミミチ)がのびていて、理想郷とされる海の彼方の豊穣の国(ネリヤカナヤ)から神を迎えます。そして丁重にもてなし、再び神の国に送るのです。
写真:奄美ばしゃ山村のレストランで、住民の宴会に遭遇。島唄で踊る人々は少しうつむきかげんですね
奄美が琉球国に支配された16世紀ごろ、こうした神事(国家行事)を執り行う神人(カミンチュ)は女性でした。これは「女の姉妹は神様である」というウナリ神信仰に基づいています。神人を中心にした神組織は「ノロ」と呼ばれ、ノロ神は代々世襲されたということです。それとともに霊的能力を持ち、人々の悩みや苦しみを「祈り・占い・御祓い」などで手当てする人は「ユタ」と呼ばれ、こちらもやはり女性が中心でした。<o:p></o:p>
島唄も当然「シマの唄」のことですが、特徴的なのは「裏声を多用すること」です。もともとは男女の掛け合いで歌うことが多く、女性の高い声に男性が合わせたからといわれています。伴奏に使う三味線は沖縄の三線(さんしん)と違い、弦が細く、高音に合わせやすくなっています。<o:p></o:p>
やはり奄美では女性のほうが基本だった、ということなのでしょうか?こうした信仰が現在の奄美の文化や社会にどんな形で伝わっているのか、大変興味があります。道路を走っていてお墓がとてもきれいなことに気づきました。どれもぴかぴかに磨かれ、墓前は豪華で美しい花たちで飾られています。この暑さの中で花がそんなに生き生きとしている、ということは毎日お参りしているということでしょう。島の人たちの信仰深さを垣間見た思いでした。またぜひ訪れて、奄美の社会、文化、日常生活をもっと知りたいと痛切に感じます。
(参考資料・奄美パーク)
写真:道路から見えるお墓はどれも新しくてりっぱなものが多い。なにより鮮やかな色と形の花々には驚きます。
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