年金暮し団塊世代のブログ

男寡になった団塊世代の年金の現実と暮らし向きをブログで。 今や仕事になった鳥撮り(野鳥撮影)の成果もアップします。

フェルメールの模作品 (#36) : フルートを持つ少女

2010年02月20日 | フェルメール


<フェルメ―ルの模作>
Young Girl with a Flute, 「フルートを持つ少女」
1665-70, oil on oak, 20 x 17.8 cm,
National Gallery of Art, Washington, USA


この絵はフェルメールの模作である。 その主題とスタイルはフェルメールのものであるが、筆使いは洗練されていない。 例えば、顔の光と影の境界部分が粗っぽい。 模作者は不明である。 パネルの木は17世紀のものであることが年輪分析で明らかになっている。 絵具もその時代のものである。 つまり、後世の模作ではない。

<模作ゆえ作品の詳細メモは省略>


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フェルメール作品メモ (#35)  ヴァージナルの前に座る婦人

2010年02月04日 | フェルメール


A Lady Seated at a Virginal,  「ヴァージナルの前に座る婦人」
c.1675, oil on canvas, 51.5 x 45.6 cm,
Inscribed at right, next to the lady's head : IVMeer (IVM in ligature)
The National Gallery, London, UK


この絵は「#34/ヴァージナルの前に立つ婦人」と対になる絵と思われているが、絵の具の処理の仕方が違っている。 この絵の技法は幾分簡略化されており、婦人の後にある絵の額縁は数筆で描かれているが、後者の絵にある金色の額縁は絵の具の盛り上げの変化で描かれている。 この絵は1675年又はその直前に描かれた、フェルメール晩年の作品である。

「絵の中の絵」は、ユトレヒトの画家 Dirck van Baburen (c.1595-1624)の作品「The Procuress」(娼家にて/1622/現在はボストン美術館所蔵)として知られおり、この絵ではエロチックな禁制の愛の例を示しており、ヴァージナルを引く婦人から発散されている澄み切った平安さとコントラストを成すものとして使われている。


フェルメールの最後の作品の製作時期を特定する事は、この時期彼が1660年代の構図にインスピーションを求めた為、特に難しい事である。 例えば、この絵の若い婦人のポーズと誘惑的な眼差しは「#20/手紙を書く婦人」(c,1665)のそれを呼び起こさせる。 フェルメールはまた、昔の2作品「#14/ミュージック・レッスン」(1662-64)と「#23/コンサート」(1665-66)の前景に単独で描かれた Viola da gamba (チェロの前身)のモチーフをこの絵に使っている。 更に、「#23/コンサート」の後方の壁に掛けたDirck van Baburen の作品「娼家にて」(Procuress)(1622)をこの絵でも使っている。 しかし、この絵とスタイル的テーマ的に最も近いのは、裕福そうな若い婦人が鍵盤の上に手を置いて鑑賞者を真直ぐに見つめている「#34/ヴアージナルの前に立つ婦人」(1672-73)であろう。  実際、絵のサイズとテーマ、また描く技法の類似性から、両者が対になるものとしてフェルメールが製作したらしいことを示唆している。

しかし、幾つかの事実がその仮説を否定している。 1682年、Diego Duarte は両者の内の一方しか所有していなかった事で、もし両者が対であるなら、そんな初期から別々にはならないはずである。 更に、使われている技法の違いは、フェルメールが少し違った時期に描いた事を示している。 最も明白なスタイル的な違いは、ドレスの描き方である。「#34/ヴァージナルの前に立つ婦人」のドレスの堅い材質のはっきりした襞(ひだ)は明らかなアクセントになっているが、この絵の婦人の明るい青の襞は、材質の描写というよりも平坦な色のパターンを創り出している。
 アプローチの明らかな違いが、金色の額縁を描く絵の具の処理に見られる。 「#34/ヴァージナルの前に立つ婦人」では複雑な額縁の物理的な構造を、絵の具の盛り上げ方の違いで表現しているが、この絵ではVan Baburenの「娼家にて/The Procuress」の額縁を黄色の大旦なフラットな筆使いで大まかに描いている。 このフォルムの簡略化は、他の作品よりも一層明白で、フェルメールがこの絵をほとんど晩年(c.1675年)頃に描いた事を示している。 従って、これらの2作品は対ではなく、テーマのバリエーションと見るべきである。


実際、フェルメールは個々の絵のメッセージを基本的に異なる方法で伝えようとしている。 彼はテーマのイメージを補強する為に、婦人の後方に絵を置いているが、”絵の中の絵”は異なる役割を果たしている。 恋/愛の純粋さを表わすキューピツドは「#34/ヴァージナルの前に立つ婦人」のモラル的意味を補強しているが、エロチックで禁制の行為を暗示するこの絵の「娼家にて/The Procuress」は、「理想の愛と世俗的な愛の選択」というもっと複雑なテーマを描く構図の一要素に過ぎない。

「娼家にて/Procuress」が後方の壁にある事実は、若い婦人の眼差しを世俗的な愛への誘惑と解釈すべき点もあるが、「娼家にて/Procuress」の中の若い女がつま弾くリユート以上に高尚な形の愛をヴァージナルは示している。 家族の前で婦人が弾くヴァージナルはハーモニー/調和と融和のシンボルとしてオランダ絵画ではよく描かれている。 更に、前景にあるViola da gamba がハーモニーとの関連性を補強している。 よく知られたJacob Catsの象徴学の本”Quid Non Sentit Amor”(「#14/ミュージック・レッスン」参照)の男性音楽家と同様(たとえ離れていても二人の心はハーモニーの中に存在する事ができるのと同様に、置かれている楽器が演奏されている楽器に共鳴呼応する、という解説文がある)、Viola da gamba は使われずに置かれているが、婦人はヴァージナルを演奏している。

愛のハーモニーを陰喩する音楽賞賛は「#23/コンサート」の基礎を成している。 フェルメールは楽器を演奏し音楽と歌の拍子を合わせ、完全なハーモニーで合奏している3人の人物を描いている。 即ち、「#23/コンサート」のように、後方にあるVan Baburenの「娼家にて/The Procuress」の存在は、禁制の愛に関連する音楽と、ハーモニーと中庸に関連する音楽のテーマ的な対比を創り出している。

フェルメールは光の処理によっても彼の選択を補強している。 薄暗い室内は温かい誘惑的な環境を示しているが、カーテンの後方から発した強い光が、背景から分離させるように婦人を照らし、さらにViola da gamba とヴァージナルの前端を照らしており、それら三つの構図上の要素間のテーマ的な関連性を補強している。

この絵とGerrit Dou の”Woman at the Clavichord”(c,1665)との著しい類似性は、フェルメールがこのライデン(都市名)の画家の作品から構図を借用したことを示している。 婦人のポーズだけでなく、前景に目立つように置いたViola da gamba、一方の側に引き上げられたカーテンが愛の関連性という象徴的寓意的な意味を知らせている。 フェルメールの婦人と同様にDouの婦人もハーモニーのある束縛する愛に参加することを鑑賞者にアピールしている。

人生の最後に於いてもフェルメールは、テーマ的な複雑さと制限された構図を同時に創り出す努力を続けたのである。 Douは大きな室内空間に婦人を置き、ワイングラス、楽譜、フルート、葡萄の枝、デカンタといったテーマを知らしめる多数の構成物を付け加えているが、フェルメールは人物を画面近くに置き、テーマの意味を伝える為の数少ない明瞭な物体を注意深く配置しているだけである。 結果としてフェルメールのイメージは、視覚的により直接的で、図像学的により暗示的である。


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フェルメール作品メモ (#34)  ヴァージナルの前に立つ婦人

2010年01月14日 | フェルメール


A Lady Standing at the Virginal 「ヴァージナルの前に立つ婦人」
1672-73, oil on canvas, 51.8 x 45.2 cm,
Inscribed top left of virginal : IVMeer (IVM in ligature)
The National Gallery, London, UK


この作品より10年前の、低い色調の照明と、注意深く変化させた室内色のテーマと比較すると、フェルメールの後期のこの作品の中の光は透明なクリスタルで、輪郭はもはやソフトでもほやけてもいない。 即ち、ヴァージナルの輪郭線は、キューピッドの黒檀の額縁と同じく、白い壁に対照的にくっきりと描かれている。
この「絵の中の絵」はCaesar van Everdingen (c.1617-1678)の絵である。


エレガントに飾られた部屋の隅に立っている若い婦人が、ヴァージナルの鍵盤に軽く手を置いて鑑賞者の方を見ている。 彼女は堅いサテンのスカートと肩部にレースの縁飾りの付いた青い胴着というファッショナブルなドレスを着ている。 赤いリボンが膨らんだ白い袖の肘部と肩部を、更に頭髪の髷部を飾っており、首には真珠のネックレスを付けている。 部屋と家具が裕福で幸せそうな感じを出している。 実際、大理石を貼ったケースや絵のある蓋を持つヴァージナルは、裕福な家庭にのみ所有出来たものである。 彼女の後方に架けられた二つの絵、黒い額縁のキューピッドと金色の額縁の風景画が、所有者が鑑賞眼のあることを示唆している。

プライベートな行動をしている若い婦人に焦点を当てるのは、フェルメールが1660年代中期、例えば「#15/手紙を読む青衣の女」(1663-64)で一人の人物を描写したのと多くの面で似ている。 しかし、この絵のムードと雰囲気は、全く異なっている。 もはやソフトにぼやけてはいない透明な光が鈴ガラスの窓から射し込み、金色の額縁、婦人のサテンのドレスに鋭い角を持ったヒダやヴァージナルの堅い枠に輝くようなアクセントを創り出している。 フェルメールは更に、白壁に対して黒い額縁とヴァージナルの蓋の黒い縁取りを鮮明な形状を出して描き、アクセントにしている。
 1660年代中期から1670年代初期にかけてフェルメールの絵は、雰囲気的な明瞭さと共に描写的にも一層くっきりしたものになって、1660年代の注意深く変化するトーンや色が、もっと直接的で大胆なものに変化している。 この絵で彼は、婦人のドレスの鋭いヒダを白の絵具の素早い筆使いで描き、Lead-tin yellowの素早い盛り上げ塗りで金色の複雑な模様の額縁に当たる光を描いている。 更に、そして最も重要なことは、彼が物体のエッジをぼやけた線ではなく鋭い線で描いている事である。

雰囲気的な明瞭さを求めたフェルメールの描写技術は、よリシンプルになっている。 例えば、この絵のベルベットのシートカバーの柔らかい素材感を出す方法は、「#12/デルフト眺望」(1660-61)の赤い屋根タイルの粗い感じを創り出した時の技法をシンプルにしたもので、ブルーの薄い表面層から透けて見えている白鉛を多く含んだGray-blueの下地を使っている。 婦人の顔と真珠のネックレスを描くのにも昔の技術を少し変えて使っている。  「#21/赤い帽子の少女」(c.1665)でしたように、黄土色の下地の上に薄い緑っぽい光沢層を置いて、彼女を照らしている半陽光を表現している。 例えば、頬は下地が透けて見えるほど表面の光沢層を薄くすることで、内面の温かさを肌に吹き込んでいる。 最も興味深い点は、首の肌色の厚い盛り上げ塗りの間でその形状を決めるネックレスの下地色にグリーンを使っている点である。 更に、彼は真珠の輝きを、初期の「#16/天秤を持つ女」(c.1664)で使った複雑な二層技法ではなく、単に白い一つの点で描いている。

結果として、1660年代中期の抑えた光とぼやけた輪郭から来る静かな室内シーンとは全く違ったムードになっている。 若い婦人が鑑賞者に向けている限差しは、もはやはにかみでも当惑でもなく、むしろ強烈で意図的なものである。 即ち、彼女は真後ろにある絵のキューピッドに鑑賞者の注意を引こうとしている。
 フェルメールと同時代の鑑賞者ならば Otto van Veenの有名な象徴学の本「Amorum Emblemata」(1608年作)からキューピッドのイメージを思い起こすことが出来るのかも知れない。Van Veenのキュービツドは、月桂冠の中に数字の「1」があるカードを高く掲げ、足で「1」ではない数字のカードを踏み付けているが、フェルメールは明らかにそれと同じ情緒、即ち「恋人はただ一人を愛すべきである」事を表現しようとしている。
 その他の物、つまり純愛を暗示するヴァージナル、幅木のタイルに生命を吹き込むキューピッドがこの絵の恋/愛に関するテーマを補強している。 17世紀の詩歌では婦人の純真さと美しさを自然にたとえたように、ヴァージナルの蓋と壁の風景画は、図像的視覚的な役目を果たしている。 純粋で仲睦しい恋を期待し共有する魅力が、外に向けた眼差しの強さを通して婦人から侵み出ている。 更に、構図の明瞭さと調和ハーモニーを通して、恋を強調するテーマに対する倫理感を創り出している。

この絵のスタイル的テーマ的な前例は、1660年代中期のフェルメール自身の作品にあるが、明瞭なフォルムと倫理的テーマに向かった1670年代のスタイルの変化は、同時代のオランダ画家達が取ったアプローチと関連している。 例えば、1670/71年にフェルメールと共にSaint Luke ギルドの組合長だったComelis de Man(1621-1706)は、明瞭に描写した室内シーンの中で中流家庭の日常生活の教訓的な風俗画を数多く描いている。 フェルメールとDe Man の絵を比較すると、そうした一般的な特徴以上に、フェルメールのアプローチには際だった抑制/自制があることを示している。 フェルメールはDe Manと違って、絵の意味を鑑賞者に知らせるような明らかな動きやジェスチャーを描いていない。 代わりに、彼は、若い婦人の態度や装飾物が投影する倫理的な意味を補強強調するのに、絵の”言葉”、つまり光/色/素材/形状/透視画法に信頼を置いたのである。


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フェルメール作品メモ(#33)   信仰の寓意

2009年12月17日 | フェルメール


Allegory of Faith, 「信仰の寓意」
1671-74, oil on canvas, 114.3 x 88.9 cm,
The Metropolitan Museum of Art, New York, USA


足を地球儀に置き手を心臓に当て、ガラスの球体を見上げている婦人は、信仰を儀人化したもの。 (カトリツク教の)イエズス会員の紋章が、神を信じる人間の能力を球体の容積にたとえている。 フェルメールは、寓意の物体の大部分を、1644年にオランダ語版が発行された Cesare Ripaの "Iconologia" から取っている。
 Ripaによれば、信仰は足の下にある世界を、白のドレスは純粋さを、青は天国を、リンゴは原罪の残りを、蛇を押し潰す石はキリストを、意味している。 聖餐杯と木製の十字架と、Jacb Jordaens (1593-1678) の「十字架のキリスト」の絵は、カソリツク的解釈の寓意を示している。


フェルメールの歴史画、風景画、日常生活シーンの基礎となるシリアスなモラル的意味は、同時代の絵には見られない厳粛さと威厳を持っている。 絵に対する画家の知性的、哲学的アプローチを考え出させた個人的な理由や出来事はほとんど知られていないが、1653年の結婚前にフェルメールがカソリック教へ転宗した事は、彼の人生や芸術に大きなインパクトを与えたはずである。 フェルメールのカソリック教への転宗は、例えば、初期の歴史画のテーマの選択や解釈に大きな影響を与えている。 この絵は、しかし、抽象的な神学的概念を彼が明白な形で視覚的な言葉に変換した唯一の絵である。

この絵の室内は、彼が初期の寓意「#24/画家のアトリエ」(c.1666-67)で用いたものに、スケール的にも特徴的にも匹敵している。 実際、両者の透視画法は事実上全く同一であり、両者とも寓意を見せる為に左側へ引き寄せたタペストリーを描いている。

この絵は、金で縁取りされたエレガントな白と青のサテンのドレスを着た婦人に焦点を当てている。 彼女は緑と黄色の敷物でカバーされた一段高い所に座って、右足を地球儀の上に置き、右手を心臓部に当てて、青いリボンで吊るされたガラスの球体を見上げている。 開かれた聖書、聖餐杯、そして黒檀の十字架が彼女の横のテーブル上に置かれてあり、後方の壁に沿って置かれた精巧な細工の金箔の皮パネルが十字架を引き立てている。 白と黒の大理石フロアーにはリンゴと、大きな石に押し潰された蛇が描かれている。 寓意の最後は、シーンの視覚的な背景幕になっている「十字架のキリスト」の大きな絵である。

長年の研究の成果で、フェルメールが、D.P.Persによる1644年のオランダ語版で彼が知ったであろうCesare Ripaの "Iconologia"から、この絵の寓意の大部分を引用している事が判明している。 Ripaは、共通の特徴や象徴を持った4人の信仰の寓意的人物を記しているが、フェルメールの寓意の婦人に正確にマッチする人物はいない。 婦人のローブの色から彼女のジェスチャーまで、聖餐杯の存在からリンゴと押し潰された蛇まで、フェルメールのイメージは信仰の描写の中の二つに見られる要素の複合体である。

フェルメールが選んだ象徴がシーンの意味の重要性を強調している。 Ripaが文章の一部分で記しているように、信仰は(美)徳の中で最も重要なものであり、図像的には光と純粋さを表わす白いドレスを着た婦人として記述されている。 青は天国を表わす。 胸に手を置いた"信仰"のポーズは、真の信仰はハートに存在することを示し、蛇を押し潰している石はキリストを、リンゴは原罪を表わしている。


Ripaは、フェルメールが描いたその他の寓意、即ち地球儀、十字架、「十字架のキリスト」の絵、ガラスの球体については何も言及していない。 フェルメールは相当な芸術家的自由さでRipaの文章を解釈している。  例えば、「足の下に世界を持っている」というRipaの"信仰"の記述を全く文字通りに解釈している。

その他の寓意は、Ripaが示した以上にカソリック教、もっと言えばイエズス教的な解釈で描かれている。 Ripaが言うように、"信仰"に聖餐杯を持たせ、本に手を置かせるよりも、フェルメールは文章に書かれていない聖餐式的な性格をイメージに与える集合体として、即ち、金色の背景に黒檀の十字架を、黒色の背景に金箔の聖餐杯を描くことで、それらを目立たせている。 聖餐杯を十字架の金色の背景と少しだけ重なり合わせることで、フェルメールは、物理的な世界と精神的な世界を橋渡しするという聖餐式の本質的な役割を図像的に表わしたのであろう。
  Ripaの記述とフェルメールのイメージの間に、もう一つ重要な違いがある。 Ripaは信仰の勝利のシンボルとしてアブラハム(ユダヤ人の祖先)とイサク(アブラハムの子)の物語に言及しているが、フェルメールは、キリストの犠牲を示す旧約聖書のこの原型を「十字架のキリスト」の絵自体に置き換えている。 これは、キリストの犠牲がイエズス教徒に取って中心的な重要性を持っているということを反映した変更である。 聖イグナチウスは次のように書いている。 「目の前の十字架に架けられている我らが王キリストを想え。 創造者たる主が如何にして人になったかを、永遠の命を如何にして手に入れたかを、主と共に語れ。 主は我らの罪をあがなう為に現世の死を甘受されたのだ」と。

ガラスの球体はイエズス教的な寓意を示している。 イエズス教徒の作家Willem Hesiusによる紋章(魂を表わす羽根を持った少年が十字架の直ぐ傍で太陽光を反射している球体を持ち上げ、世界の大きさを表わす球体の容積を神を信じる人間の能力と比較している図。1636年作)をフェルメールが採用しているからである。

この寓意的イメージの作品を描かせた環境は不明であるが、恐らく、フェルメールはこの大きな絵をデルフトのイエズス教会か、または裕福なカソリック教徒のパトロンの注文で描いたものと考えられる。 プライベートな自室の中での祈りを重視するイエズス教の教えが、室内に寓意を置いたフェルメールの構図の理由を説明している。 しかし、彼がパトロンから図像的な注文を受けたとは考えられない。 Ripaによる象徴の意味を拡大した想像力は「#24/画家のアトリエ」のアプローチと類似している。 更に、彼が寓意の中に盛り込んだ多くの物体、即ち、Jacob Jordaen (1593-1678) 作の「十字架のキリスト」(c.1620) の絵、黒檀の十字架、金箔の皮パネルは彼の財産の一部だった。 Ripaはこれらの物体のどれ一つにも言及していないし、全てが寓意の意味にとって重要なはずなので、パトロンではなくフェルメール自身がそれらを盛り込むことを決めたという事は確実である。

婦人のポーズは"信仰"に対するRipaの記述の幾つかに当てはまるが、Ripaはその特定の寓意的な概念を図示してはいない。 フェルメールの"信仰"とRipaの"神学"の寓意的イメージを参考にした事を示唆している。 しかし、フェルメールの理想化した婦人のイメージに対する意匠的な基礎になったとは思われない。 片手を胸に置き上方を見上げている"信仰""のポーズは、オランダ絵画にはあまり見られないものである。

この絵は寓意の図像的な寄せ集めではあるが、20世紀の人間に取ってフェルメールの他作品で引き起こされるのと同じ感動を受けることは容易ではない。 見る人によって反応は異なる。 ある人は象徴的な意味には関心を払わず、フェルメールのイメージの基本的な現実性をこの絵にも認めるだろうが、そう簡単に直接的にこの絵にアプローチすることは出来ない。 婦人のポーズや押し潰された蛇は、絵を理解する為には見る人が先ずそのイメージを解読しなければならないことを示している。

ある人は、現実性らしきものを創り出している合理的な基礎から作られているフェルメールの絵のスタイルが、この寓意的な概念を描くのに適しているか? という疑問を抱くかも知れない。 フェルメールは他の作品では、物理的な物体や、その状況にあると思われる人間の状態を通して抽象的な概念を表現している。 彼はカソリック教的な信仰をこの絵で表現したが、テーマから来る図像的な要求が彼の現実的なアプローチを損ねている。 絵の象徴的な意味では本質的なものかも知れないが、婦人の法悦のポーズと押し潰された蛇はオランダ絵画では不適切なものである。 更に、フェルメールの1670年代のはっきりとしたスタイルである動きや情緒的なエネルギーを、婦人のポーズの中に暗示してはいない。 即ち、彼女のジェスチャーと上向きの眼差しは彼女の真の信仰を表わしているというよりも、むしろ作為的なもののように思われる。 こうした困難さにもかかわらず、この絵は彼の人生の困難な時期に於ける、芸術家としての彼の信念を余りなく示している。


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フェルメール作品メモ(#32)  ギターを弾く女

2009年11月29日 | フェルメール


The Guitar Player, 「ギターを弾く女」
c.1670, oil on canvas,
The Iveagh Bequest, Kenwood House, London, UK

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今朝投稿したはずだったんですが、投稿されていないことが判明しました。
恐らく投稿したつもりで投稿ボタンを押さずに投稿画面を閉じてしまった為だと思います。
どうやら痴呆症が始まったようです。(苦笑)

心が折れてしまい、も一度ゼロから書き直す気持ちが失せてしまいました。
申し訳ないですが画像だけの再投稿です。 すいませんです。


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フェルメール作品メモ(#31)  メイドを傍らに待たせて手紙を書く婦人

2009年10月19日 | フェルメール


Lady Writing a Letter with Her Maid, 「メイドを傍らに待たせて手紙を書く婦人」
c.1670, oil on canvas, 72.2 x 59.7 cm,
Inscribed on the paper hanging over the edge of the table : IVMeer (IVM in ligature)
National Gallery of Ireland, Dublin, Ireland


テーブルで婦人が手紙を書くのを待っている間に、窓の外を見ているメイドが絵の中央にいる。 右側の床にシール用蝋と本が散らばっている。 本は恋文を書くマニュアルか、17世紀の手紙の常用句本かも知れない。 後の壁の絵は「モーゼの発見」で、フェルメールはこの絵を「絵の中の絵」として、以前にも使っている。
婦人の左目にある小さい穴が消失点で、フェルメールは糸を付けた針を刺して、透視画の消失線を正確に描いている。


フェルメールの詩情豊かなイメージに必須の要素は、彼の特徴的な描写方法や、あるストーリーから注意深く選んだ場面によって、日常世界の中で示した普遍性である。 彼は動きやジェスチャーが特定の出来事や状況に結び付くような表現を避けている。 普遍性を補強する為に、絵のテーマに無関係な付随物を取り除き、光と色と透視画法を操って、その構図を洗練している。 こうした特徴の全てが、1670年代初期のフェルメールの最も輝かしい作品の一つであるこの絵の中に存在する。

フェルメールのシーンは偽りであるかのようにシンプルである。 広いエレガントな、だが飾り気の無い室内に二人の婦人が居るだけである。 一方は書き物をし、他方は窓の方を見ており、両者の間にコミュニケーションは無く、何の動きも不意の妨害も無い静かなシーンである。 色は、テーブルカバーを除いて低く抑えた色調で、形も決まっている。 強い水平線と垂直線、殊に後方の壁の真黒な額縁が、絵の静かなシーンにとって重要な抑えたフレームワークを構築する助けになっている。 しかし、これらの要素の中でフェルメールは二人の婦人に心理的に対照的な特徴を与えている。
 光の方を見ている彫像のように静かなメイドと、手紙を書くのに専念している女主人という二人の婦人のポーズでそれを表現しているが、二人の異なる心理状態を異なる技法で表現している。

構図の中央に置き、後方の垂直な額縁で視覚的に補強されているメイドの抑えた重量感は、抑えた色調の床まで届く彼女のコスチュームのシンプルで規則的なヒダで表現されている。 フェルメールはメイドを丁寧な筆使いで多様な方法で描いている。 一方、左腕に寄りかかて書いている女主人は、彼女と画面の右端との距離を無くすことで、精神的な強さと感情的なエネルギーを伝えている。 フェルメールは、強い陽光を受けた左半身にアクセントを与え、影になった壁と黒い額縁に対して彼女のシルエットを描くことで更にそれを強調している。 光は、彼女の情緒的な強さを示唆するように、彼女のドレスと胴着に角のとがったリズム感のあるヒダを創り出している。


二人の婦人は別々な独立した存在であるが、フェルメールは二人を透視画法でうまく結びつけている。 女主人の左限にある消失点に向かう上下の窓枠の延長線は、メイドの明るい額と組んだ腕を通過するようになっている。 即ち、視線が絵の最終的な焦点である女主人に来る前に、先ずメイドに視線が行くようにしているのである。
 フェルメールは「#30/ラブレター」(1669-70)で透視画法を効果的に使ったように、この絵のダイナミックな空間構成で、巧緻なドラマを描写している。 勿論彼は、例えば女主人の心理状態を明示するような、物語の背景を明らかな形では示しておらず、暗示とヒントを与えているだけである。

女主人の懸念に対する一つの暗示は、テーブル前方の黒と白の大理石フロアー上の、しわくちゃに丸められた手紙に見い出せる。 封印シール用の赤い蝋がフロアーにあるので、その手紙は彼女が書き損じたものではなく、むしろ受け取ったものでなければならない。 手紙は価値のあるもので、怒った時以外には投げ捨てるようなものではない。 フェルメールは無意味な物を決して描かないので、投げ捨てられた手紙はテーマ上非常に重要な物であるはずである。

もう一つの暗示は、「#27/天文学者」(1668)に(小さいサイズで)描かれたのと同じ絵である、後方の壁に掛けられた大きな絵「モーゼの発見」(Finding of Moses)であろう。
 このような聖書のシーンは、人間の本質と神の神聖な意図への洞察という寓意であると一般には考えられている。 旧約聖書の物語の中でも、オランダ人はモーゼの物語を特に崇めていた。 この絵は、エジプトの王ファラオの娘と侍女達が、木立の間でバスケツトに入れられたヘブライ人の赤ん坊を発見した時の描写である。 ヘブライ人の男の赤ん坊は全て殺せとのファラオの命令から逃れようと母親が隠した赤ん坊を、ファラオの娘が救い、モーゼと名付けた。 この物語の17世紀の解釈は、「神意の証明」と共に「反対勢力を集める神の能力の証」というものであった。 例えば、或るオランダ人司祭は、この物語の寓意をソロモンの格言の一つ「人の行いが神を喜ばす時、友人であるべき者までを敵にしてしまう」で言い表わしている。

手紙を書くシーンは、17世紀の神学的な意味よりも恋に関連するものであろう。  「モーゼの発見」の絵や投げ捨てられた手紙と女主人の関連性は間接的であるが、それらの結合は心の調和と平和に関するテーマを示している。 フェルメールは、それらは神意への永遠の信仰と共に為された努力の結果として、そして両者の結合があって初めてメイドに盛り込んだ平静さが得られることを示唆している。


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フェルメール作品メモ(#30)  ラブレター(恋文)

2009年10月01日 | フェルメール


The Love Letter, 「ラブレター(恋文)」
1669-70, oil on canvas, 44 x 38 cm,
Inscribed above the basket : IVMeer (IVM in ligature)
Rijksmuseum, Amsterdam, Netherlands


鑑賞者は暗い通路からこの私的なシーンを覗いている形である。 向こう側の明るい部屋では、丁度メイドが手紙を婦人に持ってきたところで、その婦人が音楽の演奏を中止してメイドを見上げている。 彼女の期待、又は多分心配そうな表情が、手紙が恋文であることへの疑問を投げかけている。

この絵の消失点は右前景にある椅子の上方の壁にあり、鑑賞者の眼は、明るい部屋には引かれず、薄暗い控えの間のやや離れた所に引かれるのである。 連続した室内を数多く描いたPieter de Hooch が1668年に同じ透視画法を使っている。 フェルメールは多分de Hoochからヒントを得ている。

裕福な若い美術愛好家であるPieter Teding van Berckhoutが1669年にフェルメールを訪れた時、彼は「透視画法で描かれた驚くべき、且つ興味をそそられた幾つかの絵」を見たと記している。 彼は見た絵がどれかはっきり記してはいないが、この絵を念頭に置いていたのかもしれない。 フェルメールは室内の複雑な構成を構築する為だけでなく、この絵のテーマに必須なプライバシー感を強調する為に、透視画法を使った。 つまり、この絵でいえば、楽器から眼をそらし、丁度受け取った手紙に応えてメイドを見上げる女主人の無防備な表情である。

フェルメールは暗い控えの間の戸口からこのプライベイトな場面を目肇する事を鑑賞者に許しはしたが、彼は注意深く「侵入」はさせないようにしている。 透視画法のタイルが視線を光に溢れた室内へ導くが、実際の消失点は椅子の頂部飾りの僅か上方、控えの間の壁にある。 即ち、フェルメールは鑑賞者を前景に置いているのである。 更に、部分的に垂れ下がったカーテンと、戸口に置かれた長柄のほうきと靴でプライバシー感を強調している。

フェルメールはプライベートな空間を作り出す為の色々な方法を考え出したが、戸口から見たシーンを描くという注目すべきコンセプトを用いたのは、現存する作品の中ではこの絵が唯一のものである。 戸口という点では、初期の作品「#06/居眠りをする女」(c.1657)に、奥の部屋への戸口が描かれてはいるが…。 この構図のアイデアは彼自身が生み出したものかも知れないが、デルフトの画家Pieter de Hooch (1629-84)からインスピレーションを得たと言うことも可能である。 de Hoochは室内の風俗シーンで戸口から見た人物を、特に1660年代初期にアムステルダムに移った後に、数多く描いている。
  特に、前景の暗い部屋から覗いた二人の人物を描いたde Hoochの"A Couple with a Parrot" (1668)は、単なる構図の類似性以上の特別な関連があるようように思われる。
  JJorgen Wadumが発見したように、両者の透視画法は実際上同じであり、よつて透視画法の同じ基本原理が両者の基礎をなしているのである。

このde Hoochの絵の製作年代を、描かれているコスチュームから1670年代と推定し、de Hoochがフェルメールから構図を借用した、とする研究者もいる。 しかし、de Hoochの絵にはサインと1668年の日付がある事、彼の1660年代後期の他作品とスタイル的な特徴が一致している事から、関係は全く逆であろう。 フェルメールのこの絵には製作年は記されていないが、彼の他作品との比較から、1669-70年頃の作品と考えられている。
 フェルメールが1660年代にde Hoochとコンタクトがあったすれば、彼はde Hoochのテーマや構図にインスピレーシュンを得ていたはずである。 この時代de Hoochは日常生活の出来事、特に出会いや別れに焦点を当てたシーンを好んで描いている。 更に、この絵と同じような、座っている女主人と立っているメイドの絵も多くあるが、de Hoochは物語のために女主人とメイドの場面を描き、フェルメールは心理的なインパクトのために描いている。

ラブレターに関連するフェルメールと同時代のオランダ絵画では、それを書くか読むか、多くの場合、一方が書き終わるのを待っているか、あるいはその内容を聞いている場面が多い。 しかし、この絵の女主人の表情は、絵や皮飾りの付いた壁掛け、エレガントな暖炉の前飾りできれいに装飾された室内に流れ込む水晶のような光線で示された、表面上整頓された物体の静穏さを崩壊させるような恋の不確実性を表わしている。

届いた手紙への不安の描写は「#26/女主人とメイド」(c.1667)から出て来たものである。 少し開けた口と不安気な眼で見上げる女主人の反応は、両方の絵で同じである。 「#26/女主人とメイド」の女主人の不安は未解決のまま残されているが、この絵ではフェルメールは女主人の心配は思い過ごしであるという事をメイドの笑っている表情でほのめかしている。 このメイドの判断は、その後方の壁に掛けられている静かな風景画が補強している。 オランダの象徴学では、静かな海は恋の良い前兆を意味しており、その上方にあるのどかな風景画も同じ意味を持っている。


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フェルメール作品メモ(#29)  レースを編む女

2009年09月09日 | フェルメール


The Lacemaker, 「レースを編む女」
1669-70, oil on canvas mounted on panel, 23,9 x 20.5 cm,
Inscribed top right : IVNeer (IVM in ligature)
Musee du Louvre, Paris, France


レース編みで前屈みのこの少女は専用のテーブルに座っている。 赤と白の糸が垂れ下がっている青い縫い台がテーブルの近くに置かれている。 近くには聖書か祈祷書と思われる羊皮紙のカバーをかけた小さい本がある。
 フェルメールは注意深く視点を選んでおり、少女を低い位置から見て、顔が手の近くにあり、これが少女が仕事に専念している様子を強調している。 更に少女を画面の近くに置いて、鑑賞者の注意がこの小さな絵のエッセンス、針とボビンを持った手に向けられるようにしている。

ルノワールが、「ルーブルにある世界で最も美しい二つの絵」と言った一つがこの絵。
2本の張りつめた糸が絵の柔らかな雰囲気に一種の緊張感を与えている。 彼の絵の多くは壁に絵が掛っているが、この絵では代わりに右上の壁に彼のサインがある。

フェルメールの最も可愛らしい絵の一つであるこの絵では、若い女が手芸に必要な針とボビンをぴんと張って、前屈みになってレースを編んでいる。 レースの編み台と大きな青の縫物クッションの後方に、だが前景に非常に近く座り、一つの作業に全神経を集中しており、彼女の熟練さと画家の技巧に魅了されて、鑑賞者も同じように凝視してしまうことになる。

鑑賞者の情緒的な引きつけられ方はフェルメールの作品の中でもユニークである。 小さなサイズからくる絵の親密さ、そのテーマ、四角張っていない構図が、イメージと現実の間の壁に挑むかのように鑑賞者を引きつける。 フェルメールは女の窮屈なポーズと、心理的に積極的で強烈な色である明るい黄色の胴着を通して、彼女が仕事に専心していることを強調している。 彼女のヘアスタイルさえもが、窮屈だがリズミカルな流れのような、彼女の物理的且つ心理的な現在の状態を伝えている。 彼女の額と指を照らす光のくっきりとしたアクセントが、この辛い手芸に要求される根気、精密さ、そして構想力を強調している。

フェルメールは、このシーンを間近に観察する時に起こる視野の奥行きの違いという視覚現象を模擬している点でも鑑賞者を引きつけている。 彼は、少し開いた縫物クッシヨンから垂れ出ているぼんやりした色糸の幻覚を眼に最も近い視野で創り出す為に、花柄のテーブルカバーにまでこぼれ落ちているその液体のようなフォルムを、赤と白の絵の具で柔らかく流れるような筆使いで描いている。 そのほやけたフオルムが視線を前景から、少女の居るはっきりとした焦点の合う中景に導き、更に、明るい壁に対する柔らかい少女のシルエットのある遠景に導いて行く。 こぼれ落ちている色糸とカールした髪が、彼女の仕事を周囲から切り離し、ボビンのぴんと張った糸に対する視覚的な引き立て役になっている。

フェルメールは生涯光と色に対して非常な感受性を持ち続けたが、それらの自然な状態を時として構図上の理由から変更している。 この絵の前景にある赤と白の糸のぼんやりとした形状と素材感は他の絵には無く、「#21/赤い帽子の少女」(c.1665)の右前景にある獅子頭の頂部飾りが最も近いものと言える。 ぼんやりした破片のような頂部飾りのように色糸の視覚効果は暗箱Camera Obscuraによるイメージから引き出したものであろう。 実際、Nicolaes Maes(1634-93)の“A Woman making Lace" (1655)やCasper Netscher (1639-84)の“The Lacemaker" (1664)のようなレースを編む女の伝統的な描写とは異なっているこの絵の小さくまとめらた四角張っていない構図は、暗箱の使用から出てきたものであろう。
 女の四角張っていないポーズを小さいサイズで描いた親密さや、視野の奥行きの明らかな違いは、暗箱が使われたという仮説を裏付けるものだが、フェルメールは暗箱からキャンバスに投影した像をそのまま描いたのではない。 彼の構図に対する感性がそうした可能性を否定している。

オランダの文学と絵画の伝統では、レース作りへの勤勉さは家事の美徳を示すものであり、フェルメールはテーブル上の羊皮紙でカバーされた小さな本や黒いタイで、このテーマを補強している。 本には特徴が示されていないが、祈祷書か聖書であろう。
 しかし、そうした教訓的な関心事は、この小さいがダイナミックなイメージでは二次的なものである。 ここでの関心事はレース作りという手芸よりもむしろ、創造する人間の能力といったものである。


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フェルメール作品メモ(#28)  地理学者

2009年08月23日 | フェルメール


The Geographer, 「地理学者」
1668-69, oil on canvas, 52 x 45.5 cm,
Inscribed on cup-board : Meer, and above map : I.Ver Meer MDCLXVIIII
(neither inscription original)
Staedelsches Kunstinstitut, Frankfurt am Main, Germany


前屈みでデバイダーを持ち、ガウンを着た若い学者が窓の外を見ている。 テーブル上に地図が広げられている。 キャビネットの上の地球儀は、1618年にアムステルダムのJodocus Hondius が製作したもので、男が地理学者であることを示している。
 フェルメールは天球儀を調べている「#27/天文学者」を1668年に描いており、この絵と同じモデルが使われている。 この絵には1669年作とのサインは無いが、両作品ともほぼ同時期に描かれたものである。 天地を研究する学者はフェルメールの作品群の中で特異な位置を占めている。


17世紀は発見の時代であった。 新世界や探査した世界を地図にする時、探検家や貿易業者のみならず、地理学者や天文学者にとっても、夢が実現するのである。 地図は探検家を導くものだが、陸地の広がりや海岸線に関する新情報は、測量技術の進歩と共に、オランダを地図作りの中心地にした。 フェルメールの「#15/手紙を読む青衣の女」(1663-64)や「 #18/水差しを持つ若い女」(1664-65)のように、その時代の中流階級の室内を描写した多くの絵には地図が描かれている。 世界地図から町の眺望図まで、美しく装飾された地図帳や壁掛け地図を収集した人々の中には、哲学者や人文学者と共に、地球の物理特性や自然界の法則を思案する事に大きな知的満足感を見い出したアマチュアもいた。

この絵は知的な探求に興奮した人を描いている。 地図、海図、書物、そして地球儀に囲まれて、彼は片手を本に置き、もう一方の手にデバイダーを持って、思案の眼差しを窓に向けている。 フェルメールは彼が提起している質問や求めている解答が何かを示してはいないが、彼の積極的な姿勢は彼の注意深く鋭い洞察心を示唆している。 学者風の服装、赤い装飾の付いたブルーのローブ、耳の後まである長い髪といったものが、彼の努力の真剣さを表現している。

この絵のエネルギーは、フェルメールの室内にいる婦人の静かでコンテンポラリーなイメージとは大きく異なっている。 人物のポーズ、構図の左側にある一かたまりの物体、そして、右側にある一連の斜めの影を通してエネルギーが伝わって来ている。 この効果を助長するべく、フェルメールは構図を巧妙に修正している。 地理学者の額の曖味な形状が左側にあり、当初は違った角度の、恐らくテーブル上の地図を見ている下向きの頭部を描いていた事を示唆している。 また、元々は下向きだったデバイダーの位置も変更している。 更にフェルメールは右下の小さなストウールの上に置いてあった紙を、多分構図の右前景端部を暗くする為に、消している。

フェルメールが地理学者の積極的な性格を伝える為に取ったもう一つの方法は、ブルーのローブの波打つようなヒダである。 陽光の当たったブルーのローブを表現する為にほんやりとしたヒダを描いた。 一方、前景の花柄のテーブルカバーの幅広の巻いたようなヒダは、数年前に描いた「#20/手紙を書く婦人」(c.1665)の黄色のジャケットの、細かく変化するヒダに近いものである。 即ち、フェルメールはこの絵で、彼の後期の作品、例えば「#31/傍らにメイドを待たせたまま手紙を書く婦人」(c.1670)で重要な特徴となる、ダイナミックなイメージを強調する服地(のヒダ)を描くテクニックを使い分けている。

フェルメールは学者のエネルギーを表現しただけでなく、地理学者が研究に必要な器具類を正確に描いている。 後方の壁の装飾海図は、Willem Jansz Blaeu 作の「欧州の全海岸線」、地球儀はJodocus Hondius によって1618年にアムステルダムで製作されたものである。
 フェルメールはインド洋が見える位置で地球儀を描いている。 その他には距離を測るデバイダー、前景のストウールの上に置いた直角定規、窓の中央の柱に掛かっている太陽や星の仰角を測る測量尺が描かれている。 テーブルの上にある地図は、その半透明さから小牛皮製であり、薄い線が幾本か引かれていることから航海図であろうと思われる。

フェルメールは器具や本に比較的高度な注意を払っていること、更にこの絵と対になっている「#27/天文学者」(1668)があることから、地理学や航海術に詳しい学者から学んだはずである。 この絵と「#27/天文学者」では同じ若い男がモデルになっていることから、彼がフェルメールの科学知識源であった可能性がある。

この男性は恐らくAnthoy(Antonie) van Leeuwenhoek (アントニ・ファン・レーウェンフック) (1632-1723) であろうと考えられている。 彼は「微生物学の父」とも称せられる デルフトの有名な顕微鏡発明者で(→ こちら (← 赤字部を2016年10月追記) 、1676年にフェルメールの遺産管理執行人に指名されている。 生前のフェルメールと彼の関係を示す記録は無いが、二人は同じ年にデルフトで生まれ、両家とも織物業に従事しており、二人とも科学や光学に魅了されていたことから、互いに知らなかったとは考えにくい。 van Leeuwenhoek の死後6年後に或る人物が、彼の顕微鏡学者としての業績とは別に、「彼は航海術、天文学、数学、哲学、自然科学に造話が深く、且つ、芸術面でも最も傑出した人物である」との評価記録を残している。
 1668-69年にvan Leeuwenhoek は36才位で、モデルの人物の年令とほほ同じである。
更に、 デルフトの画家 Jan Verkolje (1650-93)の1686年の絵”Portrait of Anthony van Leeuwenhoek”のイメージから判断して、その大きな顔と真っ直ぐで高い鼻は、この絵のモデルを思い起こさせる。

フェルメールが、得意とする室内の婦人というテーマから、1660年代後半に科学的な探求という天文学者や地理学者をテーマにした、その変化は驚きである。 この新しい課題を説明できるだけのフェルメールの人生の変化については不明である。 しかし、van Leeuwenhoek の人生が、こうした主題へのフェルメールの関心についての一つの説明を提示している。 つまり、van Leeuwenhoekは1669年2月4日に測量士の検定試験に合格したのだから、彼は1668-69年頃、積極的に科学の勉強をしていたはずである。
たとえvan Leeuwenhoekがこの絵と「#27/天文学者」を描くことをフェルメールに思い付かせた、あるいは注文したとしても、これらの絵は単なる学者の肖像画以上のものを持っている。 フェルメールはこれらの作品で学問的な探求や発見に対する興奮を伝えると共に、対になる両者の関係は、単に関連する科学分野の描写という以上の複雑さがある。 天と地の研究というのは、全く異なる神学的な意味を持つ二つの分野の思想を代表している。 「天」は神の領域であり、「地」は人の人生に対する神の意志である。 即ち、両方の絵にある地図や器具は科学的な道具であると共に、寓意的な意味を持っているのかも知れない。 寓意的には、天球儀を調べている天文学者は神の導きを求めており、地理学者はその人生を図化する道具を与えられているという確信を持って光を見つめているのである。 

この絵と「♯27/天文学者」が依頼に応じて描かれたものである事は、その特定化された主題であることからも、確かな事であると考えられる。


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フェルメール作品メモ(#27)  「天文学者」

2009年08月03日 | フェルメール


The Astronomer, 「天文学者」
1668, oil on canvas,
Musee du Louvre, Paris, France


↓は1996年12月にルーブル美術館でおっ家内が撮った私め(←顔はモザイク)と天文学者の(ピンボケ)写真です。 絵の大きさが大体お判り頂けると思います。



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フェルメール作品メモ(#26)  女主人とメイド

2009年06月17日 | フェルメール

Mistress and Maid, 「女主人とメイド」
c.1667, oil on canvas,
The Frick Collection, New York, USA


#20/手紙を書く婦人」(c.1665)は、オランダ絵画に数多く見られるテーマであり、フェルメールも他に二つの作品、この絵「#26/女主人とメイド」と「#31/傍らにメイドを待たせたまま手紙を書く婦人」(c.1670)を残している。
 オランダ絵画では、手紙を書く婦人のテーマはほとんど常に「恋」に関係している。 フェルメールの他の二つの作品では、手紙を届けたか返信を待っているメイドが描かれているが、「♯20/手紙を書く婦人」に物語性はほとんど無い。

「#20/手紙を書く婦人」に製作年は示されていないが、その構図とテクニツク、婦人のコスチュームやヘアースタイルは、1660年代中期の他の絵と似ている。 例えば、婦人のエレガントな黄色のジャケットは「#17/リュートを持つ女」(c.1664)、「#19/真珠のネックレスを持つ女」(c.1664)、そしてこの絵にも描かれている。 またテーブル上のインク壷と装飾子箱はこの絵に描かれているものと似ている。 白テンの毛皮が付いた黄色いサテンのジャケットは、フェルメールの死後に作成された財産目録に記載されていたものと同じものと考えられており、この絵「#26/女主人とメイド」にも描かれている。

#30/ラブレター」(1669-70)の届いた手紙への不安の描写はこの絵から出て来たものである。 少し開けた口と不安気な眼で見上げる女主人の反応は、両方の絵で同じである。
 この絵の女主人の不安は未解決のまま残されているが、「#30/ラブレター」ではフェルメールは女主人の心配は思い過ごしであるという事をメイドの笑っている表情でほのめかしている。 このメイドの判断は、その後方の壁に掛けられている静かな風景画が補強している。 オラングの象徴学では、静かな海は恋の良い前兆を意味しており、その上方にあるのどかな風景画も同じ意味を持っている。


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フェルメール作品メモ(#25) 若い婦人の肖像

2009年05月19日 | フェルメール


Portrait of a Young Woman, 「若い婦人の肖像」
c.1666-67, oil on canvas,
The Metropolitan Museum of Art, New York, USA


#20/手紙を書く婦人」(c.1665)の婦人のポーズに対する有り得る他の説明としては、これがその肖像画であるという仮説である。 正式な肖像画に得手して欠けている自然さをこの絵は持っている。

フェルメールは絵の前景に婦人を置き、彼女の物理的、心理的な存在感を強調している。 
この絵の婦人の特徴、広い額と長く狭い鼻は、「#20/手紙を書く婦人」のそれらを思い起こさせるような、肖像画的な特徴であり、同時期の彼の他の風俗画の中の婦人のそれらほど理想化されてはいない。


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フェルメール作品メモ(#24) 画家のアトリエ

2009年04月20日 | フェルメール


Allegory (Art) of Painting, 「画家のアトリエ」
c.1666-67, oil on canvas,
Kunsthistorisches Museum, Vienna, Austria


正面が壁で左奥に窓があるおなじみのアトリエで、窓からの光を受けた女性が立つフェルメールの得意な構図である。 手前に下がる厚地のカーテンが明暗を一段と際立たせ、カーテンの奥の窓から入る光が深い奥行きを与えている。 月桂冠をかぶリトランペットと本を持つ女は歴史を司る女神クレイオーの象徴といわれ、机上の彫刻や楽譜から諸芸術を関連付けた寓意をもつとも考えられる。

#33/信仰の寓意」(1671-74)の室内は、彼が初期の寓意 この「#24/画家のアトリエ」で用いたものに、スケール的にも特徴的にも一致している。 実際、両者の透視画法は事実上全く同一であり、両者とも寓意を見せる為に左側へ引き寄せたタペストリーを描いている。


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フェルメール作品メモ(#23) コンサート

2009年03月15日 | フェルメール


The Concert, 「コンサート」
1665-66, oil on canvas,
Isabella Stewart Gardner Museum, Boston, USA


「#21/赤い帽子の少女」 (c.1665)では人物に生命とヴァイタリテイーを与える為に、影になった下唇に小さいピンクの、左眼の瞳に明るいグリーンのハイライトを付けている。 フェルメールはこのテクニックをこの絵「#23/コンサート」のテーブル上の楽器のキーや、また「#29/レースを編む女」(1665-70)の色付きの編み糸にも使っている。 フェルメールは、昔の二作品「#14/ミュージック・レッスン」 (1662-64)とこの絵の、前景に単独で置かれた Viola da gamba (チェロの前身)のモチーフを「#35/ヴァージナルの前に座る婦人」(c.1675)に使っている。 更に、この絵の後方の壁に掛けた Dick van Baburen の作品「娼家にて(Procuress)」(1622)を「#35/ヴアージナルの前に座る婦人」でも使っている。

愛のハーモニーを陰喩する音楽賞賛はこの絵の基礎を成している。 フェルメールは楽器を演奏し音楽と歌の拍子を合わせ、完全なハーモニーで合奏している3人の人物を描いている。 即ち、この絵のように、後方にあるDick van Baburen の「娼家にて」の存在は禁制の愛に関連する音楽と、ハーモニーと中庸に関連する音楽のテーマ的な対比を創り出している。

(参考:1990年3月盗難にあい現在も行方不明)


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フェルメール作品メモ(#22)  真珠のイアリングをつけた少女

2009年02月15日 | フェルメール

Girl with a Pearl Earring, 「真珠のイアリングをつけた少女」 
c.1665, oil on canvas, 44.5 x 39 cm,  
Inscribed top left corner : IV Meer (IVM in ligature)  
Royal Cabinet of Paintings Mauritshuis, The Hague, Netherlands


エキゾチックなターバンを巻いた少女が、僅かに唇を開けて左肩越しに鑑賞者を見つめている。 フェルメールは、例えば口の両端に、小さい点を描くことで明るいアクセントを出している。 真珠のイアリングは、左上の透明な部分と、真珠の底への白いカラーの柔らかい反射光、といった僅かな反射光で構成されている。 最近の修復でも、フェルメールの洗練された光と精妙な色のハーモニーが全体の輝きを与えていることが確認されている。
1675年、彼の死後3ケ月後に作成された財産目録に、 トルコ風ファッションの絵が2点あると記されており、その内の一つがこの作品であると考えられている。

フェルメールの得意な室内の窓際の描写を一切省いて、暗い闇の中で振り向く一人の少女をクローズアップした珍しい作。 世界でも40点に満たない作品しか残っていないその中でも異色である。 絵の具がひび割れて折角の美しい少女の肌が惜しまれるが、左上方からの光が少女の黒い瞳の中にほのかな光の輪を作って反射しているところなど、見事な描写である。

この少女は口を少し開けて潤んだ眼で鑑賞者を見つめており、彼女を見つめる全ての人を魅惑する純粋さを発散している。 彼女のソフトでスムースな肌は、その大きな真珠のイアリングの表面のように一点の汚れも無い。 暗闇から発している幻想のように、彼女は特定の時間や場所には属していない。 クリスタル・ブルーのエキゾチックなターバンは、その肩の後までドラマチックに垂れ下がっている黄色の布を載せており、イメージにミステリーの雰囲気を与えている。

この絵の製作年を特定するのは困難である。 何故ならば、コスチュームがその時代のオランダのファッションとはかけ離れており、風俗画的な室内シーンという1650/1660年代のフェルメールのコンセプトともかけ離れているからである。
  モデルはフェルメールの長女Mariaであるという仮説から、この絵の製作年を1670年代とする提案は賛同が得られていない。 (Mariaの正確な生年月日は不明だが、1655年/1666年生れと考えられている)
  1670年代のフェルメールのどの作品にも、明瞭な輪郭を描いた下地の上に薄い肌色の輝く層を重ねることで、この絵のような柔らかくほやけた肌の色合いを出すようなことはしていない。

フェルメールは「#16/天梓を持つ女」 (c.1664)や「#18/水差しを持つ若い女」 (1664-65)のような1660年代中期の作品で既に肌の色合いを出す技術を使っている。 更に、両作品とも、うまく使い分けた暗い層の上に薄い輝きを塗ることで女の頭飾りの影になった部分をうまく表現している。 フェルメールはこの絵で、より大胆に且つより表現的にこれらの技巧を使っている。
  少女の顔のソフトな外郭はイメージに浸透する温かさを創り出している。 少女の顔に生気を与える為に、フェルメールは眼に明るいアクセントを入れ、(1994年の修復作業で発見された)口の両端に小さいピンクの点をアクセントで入れている。 自由で大胆なターバンの青い輝きが時代を超越した永続性を与えるのに貢献している。

この絵のスタイルは同時代の絵、例えば、この絵と比較しうる構図の絵、"Portrait of the Artist's Wife, Cuune van der Cock (c.1657-60)の作者 Frans van Mieris (1635-81)とは違っている。 フォルムを作り反射光のニュアンスを出す為のフェルメールの幅広い技法は、彼の古典主義の基本的な一面であり、その起源は初期の歴史画に見られる。

この絵は「#03/ダイアナと同伴者達」 (c.1655-56)から「#12/デルフト眺望」 (1660-61)を経て「#18/水差しを持つ若い女」(1664-65)までのフェルメールの作品に見られる古典主義のもう一つ別の側面を表現している。 つまり、Timelessness、時代を超越した永続性である。 暗くてはっきりしない背景に対して、エキゾチックなコスチュームを着たこの若い婦人を、特定の時代背景に置くことは出来ない。 彼女は、例えば、ミューズ(学芸の女神)や巫女といった寓意的な人物として認識できるような物も身に付けてはいないし、見る人に時代性を感じさせるような歴史的、図像的なものがこの絵には完全に欠落している。

この絵がフェルメールの他の作品と違っているもう一つの点は、暗い背景に置いた一人の人物に焦点を当てた初めての絵である、ということである。 頭部が大きく描かれ、そのイメージは風俗シーンの絵よりも画面近くにある。 フェルメールがこの構図を自分で創り出した可能'性はあるが、1660-61年にアムステルダムに住んでいたMichael Sweerts (1624-64)の作品、“Portrait of a Boy“(c.1659)とのスタイル面での関連性と、二人が接触し、日常生活のシーンに古典主義的な品位を与えるというアイデアを共有した可能性がある。 Sweertsはアムステルダム滞在時代に、暗い背景に置いた人物をはっきりしたプロファイルで描いた若者の上半身像を数多く残している。 それらの絵の人物は全て画面から潤んだ輝く眼で鑑賞者を見つめており、その内の一点はエキゾチックなターバンを付けている。 記録は残っていないが、フェルメールが生涯にわたって関係のあったアムステルダムでSweertsの絵を見た可能性は高い。


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