ねずさんが教えてくれたもので、秀吉や頼朝などの話も目から鱗でしたが、江戸時代の民度の高さも驚きでした。
その中でも、金飛脚や吉宗の時代の20年間牢屋に入れられた人数には俄に信じられないものがありました。
何時も、ねずさんはどこでこんなことを勉強したのだろうと不思議でしたが、今日、それが加瀬英明さんからだったことを書いてくれています。
なる程、加瀬さんか。となると、加瀬さんはどこで仕入れられたのでしょう。もの凄い量の文献から仕入れたのでしょうね。できれば、出典を知りたいものです。
こんな素晴らしい話を埋もれさすのは余りにも勿体無いでしょう。
ところで、明治維新以後、このもの凄い民度が少しずつ落ち、特に、戦後は酷く、とうとう現代のように地に落ちてしまったようです。
幾ら何でも、この落ちようは酷すぎます。一体何があったのでしょう。想像は付きますね。
と言うことで、ねずさんが、その当たりも書いてくれています。何時ものように、是非、全文をリンク元で読んでください。
大和心を語る ねずさんのひとりごとより 2018年04月30日
ものすごく高かった日本の民度とは
いまでは現金送金するときは、銀行のATMを使いますが、江戸時代にも現金送金はありました。
どうやって送金するかというと、金飛脚(かねびきゃく)と呼ばれる、専門の飛脚さんたちが、街道をエッホエッホと走って全国にお金の配送をしていたわけです。
ちなみにこの金飛脚、普通の飛脚さんと違って、腰に一本、長脇差を挿していました。
大量の現金を持っているわけですから、護身のため・・・なのですが、江戸時代265年を通じて、この金飛脚が道中を襲われたという事件が、1件もないというのは、これまたすごいことだと思います。
以前にもお話したことがありますが、ではその金飛脚に、どうやって現金輸送を依頼したのかというと、これは加瀬英明先生から教えていただいたことですが、たとえば江戸から地方に送金するときには、江戸の日本橋(いま日本橋三越のあたり)に、送金するお金を持参したのです。
ご存知のように日本橋は、東海道、日光街道、甲州街道、奥州街道、中山道の五街道の出発点であり、また全国から江戸にやってくる人たちの到達点です。
いまでいったら新宿や渋谷の歩行者天国みたいに往来の華やかなところです。
その日本橋の橋のたもとに、竹で編んだ平たいザルがいくつも置いてありました。
ザルには全国の各藩の名前を書いた紙が貼ってあります。
現金送金する人は、自分が現金を送りたい先の藩の名前が書いてあるザルに、宛先を書いた紙にくるんだ現金を、ただ「置き」ました。
そこには見張りも、立会人もいません。
周りを見渡せば、それぞれの藩の名前が書かれたザルに、風呂敷包に入った現金が山積みになっています。
送金手数料は、各地ごとにいくらいくらと書かれた箱が脇に設置してありました。
いまでも郊外に行くと見かけることができる、農産物の無人販売所の仕組みと同じです。
送金を依頼する人は、指定の金額を箱に入れるだけ。
やはりそこには見張りも、立会人もいません。
当時250万の人口を持ち、世界最大の都市であった江戸です。
その江戸から全国への送金となれば、おそらくそこには、合計すれば何千両といった大金が置かれることになったに違いありません。
けれど江戸265年間を通じて、往来の激しい日本橋の、その見張りさえいない現金送金ザルが、泥棒被害に遭ったことが、ただの1件も発生していない。
これまた、驚くべきことだと思います。
近年に日本にやってくる外国人が、日本の自動販売機が人通りのないところに設置してあっても、襲われないことに驚くと言いますが、普通の日本人なら、その自動販売機を壊して中からカネを盗もうなど、おそらくそんな知恵自体がわいてこないし、思いもしないものです。
江戸時代には風呂敷に包んであるとはいえ、むき出しに近い現金が山積みになっていたけれど、誰もそれを盗むなどとは思いもしない。
それが日本人です。
そういえば、同じく加瀬先生から教えていただいたのですが、江戸時代の享保(きょうほう)年間の話があります。
享保年間といえば、テレビの時代劇の「暴れん坊将軍」で有名な将軍吉宗の治世です。
享保年間は、ちょうど20年続いたのですが、その20年間に江戸の小伝馬町の牢屋に収監された犯罪者の数は、いったい何人だったでしょうか。
答えは「0人」です。
それはお奉行所が仕事をしないでサボっていたからではありません。
奉行所が一生懸命仕事をして、犯罪の予防に勤めたから、牢屋に入れられるような犯罪を犯す者自体がいなかったのです。…以下略
ただ、そうはいっても日本人には、どこか「盗みはすれども非道はせず」の日本駄右衛門のように、どこか、まっとうに生きようとする力が必ず働くのですが、明治以降、どうやらそうではない人たちが、かなりの数日本に流入してきました。
その人達の考え方は、簡単にいえば、従うならばありとあらゆる利益を与えるが、逆らうなら、これまたありとあらゆる非道を加えるというもので、そうした人たちに仕切られた下位の者たちは、理由もわからずに非道を重ねるという結果になりました。
とりわけ戦後になると、それまで大陸で非道の限りをつくしていた共産パルチザンが日本に上陸し、その後に半島から流入した難民たちを利用して、裏社会に君臨し、その非道を正当化するために、日本人悪玉論を提唱するようになりました。
いまだに、そうした人たちに騙され続けている人たちも哀れなものですが、日本はこれまで70年余に渡って、彼らを保護し、権益を与えて冷静に真人間になることを機体し続けてきました。
しかしその二世三世、最近では四世たちが、日本で教育を受け、日本で日本人とともに生活していながら、まったく改心の様子が見えません。
その一方で、日本にもともとあった美徳は失われ、あたかも江戸以前の日本が、まるで昔の半島のような収奪と貧困の荒んだ世であったかのような演出までされるようになりました。…以下略
やはり、想像通りでした。一日も早い国交断絶が必要です。奴らが「日本に住んで日本国籍を持ち、日本語を話すけれど日本人でない者」として日本に住みつづける限り日本の再生は無理でしょう。
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古代中国、周の時代も道端に落ちているものを誰も拾わなかったということで、それを理想とする徳治論が春秋戦国時代に規範とされたようですが、荒んだ時代におけるテーゼだったのでしょうね