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ランダム 存在の確率

2015年09月27日 03時40分27秒 | 洋画2013年

 ◎ランダム 存在の確率(2013年 アメリカ 88分)

 原題 Coherence

 監督・脚本 ジェームズ・ウォード・バーキット

 

 ◎ミラー彗星の夜

 パラレルワールドを扱った作品が数ある中で最も低予算なんじゃないかっておもえる作品だけど、とってもおもしろかった。

 ぼくはいつもいってるんだけど、ネタバレという単語が好きじゃない。

 ネタというのは種の倒置語で寿司のネタとかにも使われるように芸人の用語で、噺で生きていく糧にするための噺の核となる部分のことだ。

 それを知りつつあえてここで使うなら、この作品のネタはパラレルワールドだ。だからこの作品でネタをいうなら「これ、多重世界の話なんだぜ」と明言することだ。つまり、世の中でいうネタバレというのは「ラストをばらす」というのが正しく、せいぜい「オチをばらす」という程度だ。だからといって、それを縮めて「ラスバレ」とか「オチバレ」とかいう人間はおそらくひとりもいないだろう。で、ラストをばらせば「多重世界がこんがらかって、主役が複数になっちゃうもんだからそれを殺して自分が生き残ろうとするんだけど、さらにまだ複数の自分が、自分のいる世界に留まっちゃった」っていうなんともよくわからん展開になる。

 でもまあ、ほんとうにおもしろい映画というのは別にラストがばれたってそんなもんどうってことはない。ラストを知りたくて映画を観るわけじゃないし、そこへいたる映像や音楽や演技や編集の妙を愉しむものなんだから。だから、好きな映画は何度も観るじゃん。

 ほんで、この作品だ。そういう要素ひとつひとつがとってもスリリングだった。ドキュメントタッチの映像も白けない程度に抑制が効いてて好感が持てるし、効果音もわざとらしくない程度に入ってくる。不協和音の連続する音楽もまた不安感をあおってくれるし、なにより登場人物たちがごく自然に怖がり、心の乱れ具合を上手に演じてる。くわえて突発的に挿入される暗転というか黒がまた効果的だし、いったい何キャメ使ってんだよっておもわせるカメラワークと切りのいい編集も鮮やかだ。

 おそらく郊外の自宅なんだろうけど、そこで重点的に描かれる群像劇だから予算もきわめて低かったろうし、主演のエミリー・バルドーニとかいうスウェーデンの美人さんをはじめ縁遠い役者ばかりで構成されているのもまた好いし、シュレーディンガーの猫っていう粒子力学の思考実験のこととか上手に挿入してラストを匂わせるのも伏線としては充分だ。

 あ、そうそう、全体の展開を暗示させるのに、白鬚おじさんの物理学者の弟とかを話に出してきて「彗星が最大に接近してきてなにかあったらすぐに電話をよこせ。それとそのとき絶対に外に出てはいけない」とかいって「電話がつながらないのは大変な事態だぞ、そんなときに外へ出たらとんでもなく不幸な目に遭うぞ」という脅しになっているのは効いている。でも、物語というのはそういう戒めを破るから展開するんだよね。

 結局、最後にはパラレルワールドが複数入り混じってしまったために8人の仲間たちも多重世界の住人が入り乱れてしまったんだとたったひとり察したエミリー・バルドーニが元の世界へ戻ろうとあがくんだけど、どうしても戻れず、というかもしかしたら戻っていたのかもしれないんだけど、ともかく、家の中にはもうひとりの自分がいて、こいつがいるかぎり自分の居場所はないとわかるや、自分を叩き殺すんだけど、でも、そのときにおもわず外してしまった被害者の自分の指輪が浴室に残っちゃうっていう『愛がこわれるとき』とおんなじ小技によって、翌日、目が覚めたときに昨夜の出来事は幻想でも悪夢でもなく多重世界に迷い込んだのは事実で、もうひとりの自分がいてそいつを殺してしまったんだけどシュレーディンガーの猫のごとく死体は消えてしまったんだと理解することになるんだけど、この作品はなんといっても主題が多重世界なもんだから、恋人の携帯電話にさらにもうひとりの自分から電話が掛かってくるというオチまでついてくる。つまり、多重世界がいくつも絡まったことで、エミリー・バルドーニはなぜかこの世界に何人も留まってしまったということになるんだろうけど、でも、それだとほかのパラレルワールドにおける自分はどうなっちゃうんだろうね?

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