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☆=☆☆☆☆☆
◎=☆☆☆☆
◇=☆☆☆
△=☆☆
▽=☆

ブルージャスミン

2015年09月15日 00時00分43秒 | 洋画2013年

 ◇ブルージャスミン(2013年 アメリカ 98分)

 原題 Blue Jasmine

 監督 ウディ・アレン

 

 ◇アレン版『欲望という名の電車』

 プライドだの虚飾だのといったものは、たぶん、人間ならば誰でも持ってるものなんだろう。

 虚栄心はとってもつまらないもので、たとえば、この映画の主人公ケイト・ブランシェットは詐欺師の夫が逮捕されて自殺したことで虚飾の塊のようなセレブから貧乏のどん底に落ちちゃうわけだけれど、もしも、彼女が虚栄心をさらりと棄てていれば人生はたぶん好い方向に向いたんじゃないかしらっていうのがこの映画の主題だ。

 どれだけシャネルのスーツやエルメスのバーキンとかで自分を飾ったところで、教養を身に着けようともせずにただ贅沢三昧をしていれば底の浅い女でしかないのは当たり前なんだけど、ここでおもしろいのは下流の連中は彼女の本質を一瞬で見抜いちゃうような感じがあるのに対し、上流の連中は案外だまくらかされちゃうところだ。だから、虚栄心と欲望をあおって儲けるという詐欺師の夫にどいつもこいつも騙されてきたってことで、所詮、お金のあるなしは人間の本質とはなんの関係もなかったりする。

 ウディ・アレンはケイト・ブランシェットっていうとっても頭の良い女優さんを使って、もちろんこの作品でびっくりするほど沢山の主演女優賞を獲ってるけど、虚栄に塗れた痛々しい人間の骨頂を描いているわけだけれど、なにもケイト・ブランシェットが女だからって、男のぼくたちも変わらない。見栄えがどれだけよくても、それが底の浅いかっこつけだったりすると、結局、まわりはこう判断する。

 人間としてどうしようもないやつだな、と。

 それを、ウディ・アレンは、飛行機の中の会話、義理の妹の友達連中とのやりとり、歯科医のセクハラ、エリート官僚とのうわっつらだけの恋愛などをなんとも痛々しく描くことで、君たちも気をつけなさいよ、と観客にいってるんだよね。つまり、ケイト・ブランシェットと自分とはまったく関係ないから、とかいってけらけら笑ってられるような作品じゃないような気がするんだけどな~。

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猿の惑星:新世紀

2015年09月14日 00時15分14秒 | 洋画2014年

 ◎猿の惑星:新世紀(2014年 アメリカ 130分)

 原題 Dawn of the Planet of the Apes

 監督 マット・リーヴス

 

 ◎エイプはエイプを殺さない

 以前の『猿の惑星』のシリーズは、社会的な問題に対して映画なりの意見を主張してきた。

 そうした姿勢は、この前作の『創世記ジェネシス』でも医薬という形で表現されてきた。もちろん、社会問題に触れられていないわけではなく、人間が猿インフルエンザによって急速かつ過激に減少していったのは、人間が作り出した文明があたかもバベルの塔であり、かつそれが滅んでゆきつつあるのは神の意思でもあるかのように表現されているのは、これまでの一連の『猿の惑星』の内包しているものとかわらない。

 で、今回はどうだろう?

 う~む、難しいところだ。映画としての出来はすこぶる良く、CGもきわめて高度なものになっている。いや、猿がここまで感情をあらわにできるまでに仕上がっているのかと、前作でもおもったが、今回もまた追体験した。

 ただ、この主題はいったいなんだったんだろう?

 猿と人間という対立する構図はある。たしかにあるんだけど、それは黒人と白人にも置き換えられるし、大民族と少数民族にも置き換えられる。おのおのの集団の中には、敵を理解し、かつ愛情をもって接することのできる者がいるし、そうではなくて陰謀によって双方の敵意をあおって激突させようとする者もいる。不幸なのは弱い立場の市民だが、そうした中には物事を客観的に見つめ判断することのできる知的な者たちもいる。そうした者たちがあれこれと入り乱れ、物語は進行し、やがて陰謀をたくらんだ悪人は否定されるものの、ふたつの集団はもはや止めることのできない戦争状態へ突入していかざるを得ないという構図は、きわめてありがちだ。いや、非常に定番の物語で、しかもそれが非常に大掛かりに見える作品だった。そうとしかいえない。

 けど、3作目がきわめて楽しみではある。

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カリフォルニア・ダウン

2015年09月13日 00時00分20秒 | 洋画2015年

 △カリフォルニア・ダウン(2015年 アメリカ 114分)

 原題 San Andreas

 監督 ブラッド・ペイトン

 

 △自分勝手な家族救出劇

 東日本大震災があってから、どうしても地震や津波についてそれをあつかった映画は自主規制する風潮ができてた。けど、時が過ぎればそれが禊になったと解釈され、徐々にそうした作品ができてくる。まあ、いろいろと意見はあるだろうけど、地震も津波も自然現象として存在するものである以上、これをあつかった映画や物語を永遠に作らないわけにはいかないし、実際、文章でも「津波が襲ったように」とかいう表現が無くなることはないし、あってはならない。

 そういうことからいうと、この作品は、よくがんばったかもしれない。地震や津波のリアルかつ圧倒的な映像をふんだんに盛り込み、その恐ろしさを実感させてはくれる。いったいどうやってこのCGを作ったんだっておもわせるし、よくもまあたった3か月で撮り上げたもんだなと、ハリウッドの映像制作の物凄さには感嘆するしかない。いや、それと、こうした自然現象に対して人間は小さな存在ながらも決して負けてはならないし、家族の絆というものはなによりも強いのだというハリウッドの大得意の主題もよくわかる。

 ただ、だ。

 ちょっとばかり主人公たちが勝手に動き回り過ぎるのは、どうしようもない欠点としかいいようがない。

 ドウェイン・ジョンソンは、災害時の救出ヘリ部隊のチーフらしい。それは冒頭、よくわかる。人望にも篤いし、離婚届けをつきつけられても、奥さんの愛人におめでとうをちゃんといえるだけの度量もあって、さらに娘命のタフガイだ。この設定はこれでいい。

 ところが、だ。

 フーバー・ダム決壊の地震(その後ときどき登場して電波ジャックして「カリフォルニアに地震が起こるぞ」とだけ報せるだけの役割しかないのになんだかとても偉いことをなしえたようにあつかわれているカリフォルニア工科大学の地震学教授が巻き込まれた地震のことね)が起きたと知らされ、災害救助のための緊急出動したはずが、いきなり、別れた奥さんから「助けて!」と携帯で連絡が入るや、仕事をそっちのけでビルの屋上へ助けに行ったかとおもうや、今度は奥さんの愛人と一緒にいたのに車の中に置き去りにされてしまった娘から連絡が入るや奥さんともどもそっちへ急行しちゃう。

 災害救助はどうなるんだ!チームのみんなは待ってるんじゃないのか!

 とおもったところで、もうドウェイン・ジョンソンの暴走は止まらない。いくらプロレスでヒールだとしても、これはないだろう。しかも、途中でヘリが故障してスーパーマーケットに突っ込むや、なんの疑問もなく着替えを拝借する。略奪だろ、それ!それだけじゃない。駐車場へ出るや、つぎつぎに車のドアを開けようとする。勝手に乗っていくつもりなのか!盗難だろ、それ!幸い、略奪している奴を見つけ、そいつから車をもぎとるんだけど、これも実は盗難車で、ジョンソンとその妻は盗難車を盗難して走り出し、やがて途中で出会った老夫婦にその車をあげるかわりに自家用飛行機を貸してもらうんだが、この飛行機を太平洋に墜落させちゃうんだから凄い。ちなみに、この老夫婦は津波に呑み込まれ、娘を見捨てた愛人はゴールデンブリッジの上で津波に押し流された船積みコンテナの下敷きになっちゃうんだが、ドウェイン・ジョンソンと妻はそんなことは知らない。サンフランシスコ港に辿り着くや、津波が来ると察知するや、すぐさまモーターボートを勝手に動かして津波を交わし、娘の捜索に入る。まじか!それも盗んだんじゃないのか!しかし、ドウェイン・ジョンソンには家族しか見えていないらしく、かれらはほぼ無人の海と化したサンフランシスコを遊弋し、まったく被災者に遭遇しない内に娘にだけ遭遇するという都合の好さだ。

 いやまあ、この利己主義の骨頂のような暴走とご都合主義の展開には、まじ、びっくりこいた。

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トゥモローランド

2015年09月12日 00時34分20秒 | 洋画2015年

 ◇トゥモローランド(2015年 アメリカ 130分)

 原題 Tomorrowland

 監督 ブラッド・バード

 

 ◇ディズニーランドの宣伝みたいだ

 監督のブラッド・バードは製作・原案・脚本に絡んでるけど、よほどこだわりがあったんだろうか?ディズニーのある種の理想郷をそのまま映像で表現しようとしたのかもしれないんだけど、ただ、地球を守ろうよっていう主張はこれまでにも散々くりかえされてきたし、それは夢見る人々の心がけ次第なんだっていう結論も口が酸っぱくなるほどくりかえされてきた。だからといって、そういう主題はもうやめた方がいいとはいわないけれど、ね。

 ジョージ・クルーニーはたぶんそういう主題に対して敏感に反応する性格なんだろうけど、ちょっと、子供向けなのかどうか微妙なところのこの作品によく出演したなあって感じはなくもない。ただまあ、アンドロイド役のラフィー・キャシディは雀斑は目立つものの超可愛い。そりゃあ、少年クルーニーが夢中になるはずだよね。

 この映画の好いところをいえといわれたら、やっぱり、ラフィーとの恋物語で、トゥモローランドで自分は大人になっていくのにラフィーはずっと子供のままだって事実からアンドロイドだって知ったときの少年クルーニーの悲しみは推してあまりあるし、それがもとでひきこもりのじーさんになっちゃって、世界を滅亡から救おうっていう途方もない研究に没頭するようになっちゃったっていうんだから、いやまあ、こういう純粋さは好きだ。

 けどまあ、彼女が撃たれ、胸に風穴を開けられ、自爆するっていうのを了解しちゃって、なんだか鉄腕アトムの最終回みたいな感じで、彼女をひしと抱き抱え、少年の頃に発明した背負い式ロケット改でもって飛び上がり、世界を滅亡に追い込もうとしているロボットたちの謎の秘密基地とおぼしき施設の心臓部分に落としてやるのが好いのかどうか。そいつは、ちょっとよくわからない。

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さかなかみ

2015年09月11日 02時33分53秒 | 邦画2014年

 △さかなかみ (2014年 日本 100分)

 監督・脚本 浜野安宏

 

 △さかなかみとはイトウのことらしい

 それも1メートルを超える大物をいうのだそうな。

 浜野安宏という人はほんとにいろいろなことをしている人で、ちょっと素人からすると得体の知れない人なものだから、この監督脚本主演の三役をすべてこなしているところを見ると、ドキュメンタリーなのかなとおもいきや、どうやらこれは物語なのだなということが途中からわかってくる。

 まあ、実際、白狼という名前の人物が主役なんだから物語にはちがいないんだけど、白狼の経歴とやっていること、すなわち、ファッション、ライフスタイル、商業都市などのプロデューサーにして、フライフィッシング界の大物釣り師であり、かつまた北海道の河川湖沼の保護活動やアイヌの原住民優先権を守る活動家とかってなってくれば、これはもう、浜野安宏以外の誰でもなくなってきちゃう。

 そりゃまあ、それなりの筋立てはあるし、多分に自己陶酔的な印象はあるものの、脇役の若造も出てきたりして、60㎝のイトウに挑んで後、やがて「さかなかみ」に挑んでいくっていうんだから、これはおそらくドキュメンタリーの皮を被った物語なのだろう。

 いや、物語の皮をかぶったドキュメンタリーという方がいいのかな。

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ミケランジェロ・プロジェクト

2015年09月10日 00時46分03秒 | 洋画2014年

 ◇ミケランジェロ・プロジェクト(2014年 アメリカ 118分)

 原題 The Monuments Men

 監督 ジョージ・クルーニー

 

 ◇小説『天国の門』の挿話

 PHP研究所発行の小説『天国の門』は、ナチスから守り抜かれた松方コレクションが西洋美術館に収められるまでの物語だけれども、その中途、ナチ略奪美術品捜索部隊のMFAAがアルトアウスゼーにある岩塩坑へたどり着くまでの挿話が出てくる。だから、最初、この映画が制作されるのを知ったときには「おお!ついに、天国の門がハリウッドで映画化か!」と喜んだものの、ぬかよろこびだった。

 まあ、モニュメンツ・メンの物語化を日米ともに考えていたってことは偶然とはいえ嬉しいものだ。

 映画の中で、ロダンの『カレーの市民』もノイシュヴァンシュタイン城で発見されたし、なんとなく全編にわたって『天国の門』が醸し出されてる感じはあったかも。ま、多少なりともだけど、ね。ただ、MFAAは松方コレクションを敵国財産として没収してしまったという、とんでもないこともしでかしてるのを、ぼくたちとしてはちゃんと覚えておきたいけどさ。

 ちなみに、クルーニーの演出はあんまり上手じゃない。脚本にも名を連ねてるけど、散漫な印象はぬぐえない。そもそも2ダースの人員編成だった捜索部隊がまるで『7人の侍』みたいに集められて、さらにはビル・マーレイとボブ・バラバンのコンビは『隠し砦の三悪人』みたいで、なんだかどうも黒澤的な匂いまでする始末で、いちばん問題なのは部隊の面々がいろいろと散ってそれぞれに探索するんだけど、このあたりの展開がわかりにくいのと、おのおのの場面に明らかに余分なものがあるということだ。マット・デイモンが坑道で地雷を踏むくだりは、まじ、いらん。コメディっぽいところも緊張感を削ぐだけで、いらん。たしかに大作であるのはまちがいないし、それなりのモブシーンもあったりするんだけど、それらがいかにもお金足りません的な感じに見えてしまうのは、少々つらい。

 これはやっぱり脚本に問題があるとおもわれ、ああ、どうして相談してくれなかったんだろうとおもったりするんだけど、ぼくが身悶えしたところでジョージ・クルーニーの友達でもないから仕方ないんだけどさ。そこへもって、この邦題だ。つらいところだけど、いただけない。ミケランジェロは、ブルージュのマドンナ像の作者っていうだけで、作品の主題とはほとんど関係ないわけだから、いくらなんでも、もうちょっとひねってほしかったな~と。

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96時間レクイエム

2015年09月09日 02時02分09秒 | 洋画2014年

 ◎96時間レクイエム(2014年 フランス 109分)

 原題 Taken 3(Tak3n)

 監督 オリヴィエ・メガトン

 

 ◎よく聞け、ママが殺された

 そもそも活劇というものは立ち止まって考える必要などないんだろうし、辻褄が合ってるのかと疑問をさしはさんだところでどうなるものでもない。

 この一連の「娘大好きお父さんの暴走活劇」もそうした作品のひとつだ。

 ただ、この元CIA工作員は仲間に恵まれている。恵まれていないのは元妻との仲だけで、おもってみれば、第1作では存在の稀薄だった元妻は、第2作では共に誘拐され、第3作では殺されるという、なんともひどい扱いを受けてる。そんなにいじめたかったのか、リュック・ベッソン?と訊きたいくらいの扱われようだ。

 とはいえ、今回は妻殺しの容疑者にされてしまったことで、刑事フォレスト・ウィテカーの追及を受けながら仇を追及していかねばならないというちょっとばかり面倒な立場な分、すこしばかり活劇面がトーンダウンしているような気もしないではない。でもまあそれでも、リーアム・ニーソン、老いても尚、よくがんばってる。腹のでっぱりは気になるし、カッティングでなんとかぎりぎり見せられちゃうけど、肉体派というか運動向きな感じはしないものの、がんばってる。

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おやすみなさいを言いたくて

2015年09月08日 16時05分32秒 | 洋画2013年

 ☆おやすみなさいを言いたくて(2013年 ノルウェー、アイルランド、スウェーデン 118分)

 原題 TUSEN GANGER GOD NATT

 英題 A Thousand Times Good Night

 監督 エーリク・ポッペ

 

 ☆誰が誰におやすみなさいを言いたいのか?

 冒頭、ちょっと緊張した。女性が全身に爆弾をつけられて、やがて殉教に赴いていくのに同行してその自爆に巻き込まれながらも写真を撮り続けようとするジュリエット・ビノシュから始まるんだけれども、この物語はかなり手ごわいぞと確信させるには充分すぎる幕開けだった。

 大学時代、紛争地域に行きたいとおもってた。

 ちょっとだけ、往った。ビルマのシャン州の入り口、当時、ゴールデントライアングルといわれていたところだ。それと、カンボジア内戦から逃れてきた人々を収容するカウイダン難民キャンプ。日頃、国境というものに接していなかったぼくは、それが持っているいいしれない緊張感が好きだった。

 でも、だったら紛争の真っ只中へ取材に行く勇気はあるのかと訊かれれば、関心は衰えないものの、やっぱり、あるとは断言できない。いや、当時のぼくだったら、あるいは「行く」と答えてしまったかもしれないが、もう、今となってはちょっときつい。体力も気力も大学時代のようにはいかないからね。

 ところが、この映画のジュリエット・ビノシュはそうじゃない。あきらかに年を重ね、ふたりの娘を持つ母親になっても尚、報道写真家であろうとする。なんというか、答えのある映画じゃないし、紆余曲折あって、長女とケニアへ行き、そこで長女を見捨てるような形になってしまいつつも取材してしまう本能を自覚してしまった後、それでも家族の理解はなんとか得られたものの、しかし取材の場に立ったとき、自分の娘と同世代の少女が爆弾を大量につけられて殉教というか自爆へ向かわねばならない現実をつきつけられたとき、その娘にもその母親にもカメラを向けられずに泣き崩れてしまうわけだけれど、そのときの心情はどんなものだったんだろう?

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96時間リベンジ

2015年09月07日 17時13分41秒 | 洋画2012年

 ◎96時間リベンジ(2012年 フランス 91分)

 原題 Taken 2

 監督 オリヴィエ・メガトン

 

 ◎わたしと母さんはこれから拉致される

 そもそも96時間という題名の意味は、誘拐されてから96時間経った場合は生きている可能性が限りなく低下するということから来ていて、被害者の生死の猶予時間のことらしい。

 もっともこれは邦題で、もともとリュック・ベッソンはそれを主題にするつもりはさらさらなかっただろうから、期せずして人目を引くタイトルになっちゃったんだけど、続編の場合、たしかに苦しい。前作は、娘が拉致されてそれを救出するまでのタイムリミットがあったからタイトルとうまく噛み合っていたものの、今回は、誘拐されるのは自分と元妻で、ここにタイムリミットはないし、さらに娘はまたもや狙われる。だからタイトルと内容とはまるで関係ない。けどまあ、仕方ない。

 あれこれこじつけられた内容はともあれ、さすがに元CIA工作員だけあって、イスタンブール市内を拉致されていく際の道順はほぼ耳で的確に捉えていたんだろうけど、それをさらに確信するために娘に爆弾を投擲させてその爆発音の大きさによって自分のいる場所と娘の疾走する場所を把握していくところは、かなり楽しめた。

 前作から4年経ってる分、ちょっとリーアムも老けたけど、それもまた味があるし、じいちゃん寸前のおじさんがなんともかっこよく見えるんだから、たいしたもんだ。

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サード・パーソン

2015年09月06日 19時29分52秒 | 洋画2013年

 ☆サード・パーソン(2013年 イギリス、アメリカ、ドイツ、ベルギー 138分)

 原題 Third Person

 監督 ポール・ハギス

 

 ☆作家の頭を覗いてみれば

 凄い処女作を出して大ヒットをかっとばした作家が、次回作を期待されるあまり極度のストレスに見舞われ、スランプに陥り、人生そのものを台無しにしていくことは決して珍しいことじゃないんだろう。

 このリーアム・ニーソンもそうで、結局、離婚弁護士の妻キム・ベイシンガーが仕事に出ているとき、仕事もうまく往かず、子供の面倒を見るようになってる。つまり主夫になってて、で、不倫もしたりしてる。不倫相手は小説家志望のオリヴィア・ワイルドという、まったく、リーアムさん、色気のある女性が好きなんだからってな印象だが、彼女と電話で話しているほんの30秒の間に息子がプールに落ちて死んじゃうことで、もう、人生の歯車は完全に狂う。リーアムはパリで酒と女に溺れ、キムはプールに飛び込めない。

 そうしたリーアムの書こうとしている物語が、ほかのふたつの恋物語になってる。

 そのひとつニューヨーク編にはキムもマリア・ベロに姿を変えて離婚弁護士として登場して、ジェームズ・フランコとミラ・クニスの離婚裁判を担当してる。ふたりの間には息子がいて、この親権を争ってるんだが、どうやらミラがしつけをするためにゴミ袋をかぶせたことで窒息しかけたことが虐待したとされてるらしい。で、ジェームズは不倫相手のローン・シャバノルと同棲して息子をひきとってるわけだ。つまりは、リーアムのいびつな投影なんだよね。

 それはローマ編にしても同じで、自分の不注意から娘を死なせてしまったエイドリアン・ブロディが登場する。もちろん、リーアムの投影だ。酒場で知り合うロマ族のモラン・アティアスは娘を誘拐されている。キムの投影だ。で、この身代金を立て替えてごろつきと交渉していく過程で、ふたりは恋に落ちていくわけだけど、誘拐された娘を救うことがすなわち自分の娘の供養だという気持ちがあって、それは当然リーアムの心情なんだよね。

 だから、ラストの一連のカット、すなわちキム、ミラ、モランが同じ人物となってリーアムの追いかける相手になり、つぎつぎに登場人物が消えていくさまは、リーアムの頭の中で事物が整理されていくという経過の表現になってるんだろうけど、このあたりの目まぐるしいカット割りは好きだわ~。

 ただまあ、3つ描いていくリーアムの私小説部分については、愛人のオリヴィアに対して「自分の物語を書け」というのが味噌で、彼女が表層的な文章はかけても物語の本質を書けないのは、自分が父親と近親相姦をしているからで、これは書けないよね。ところがこれをスランプのリーアムは書いてしまうんだな。追い込まれた作家が作品を創り上げていくときに愛人のスキャンダルを書いてしまうわけで、傑作は書けても、愛人を失うだけでなく社会的な名声はやがて失ってしまうっていう自己崩壊へと進んでしまう憐れさがある。

 いや~、こういう複雑な構成は好きだわ~。

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ラスベガスをぶっつぶせ

2015年09月05日 20時09分27秒 | 洋画2008年

 ◇ラスベガスをぶっつぶせ(2008年 アメリカ 122分)

 原題 21

 監督 ロバート・ルケティック

 

 ◇変数変換ってなんだ?

 映画を観ている間は、なんとなくカウントについてわかった気でいたんだけど、観終わるのと同時にまったく説明できなくなった。それくらい難しいことで、おいそれと真似のできるものじゃない。それもそうで、ラスベガスでブラックジャックのカンティング事件をひきおこしたのはマサチューセッツ工科大学の中でもきわめて優秀な学生たちだったらしい。だから、もちろん、ぼくなんぞが説明できるものじゃない。ここでは数学に超絶的な才能を持った学生たちがいるんだっていう前提だけ知った上で、映画を楽しめばそれでいい。

 とはいえ、人間、ギャンブルで勝ちを経験すると、どうしてもやめられなくなっちゃうものなのかもしれない。ことにラスベガスでバカ勝ちすなわちチキン・ディナーを経験したりしたら、それはもう後戻りできなくなっちゃうんだろう。学費を稼ぐためだけだったのが、いつのまにやらギャンブラーになっちゃって、しかも、理論的にかならず勝ってしまうなんていうとんでもない立場になったら、ブラックジャックに溺れちゃうのは無理もない。

 ただ、違法じゃないそうだから、なにも映画のように捕まって叩き出されるわけでもないらしいけど、それでもペナルティは課されるそうで、いや、こういうのって仕方ないかもしれないとはおもいつつも、猛烈に勉強して得られる勝ち方なんだから、ちょっとだけ大目に見てやるってわけには、まあ、いかないんだろうね~。

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ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル

2015年09月04日 14時52分41秒 | 洋画2011年

 ◎ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル(2011年 アメリカ 132分)

 原題 Mission:Impossible-Ghost Protocol

 監督 ブラッド・バード

 

 ◎ジェレミー・レナーは敵役じゃなかったのか

 なんでもトム・クルーズは「この映画の見どころはチームワークだ」とかインタビューで答えたらしい。なるほど、そういうところかすれば、ジェレミー・レナーは敵役にはなりにくい。まあ、複雑な筋立てを追うよりも活劇を愉しんだ方がいいわけで、そのいかにもハリウッド的な醍醐味をトム・クルーズはちゃんとわかっているらしい。

 にしても、いつものことながらトム・クルーズが走るときの指先は、ぴしっと延びてて、なんだか運動神経抜群かつ生真面目すぎるほどに几帳面なちょっと背の低いおじさんが必死になって運動会で走っているような感じがして、たとえば、最初のあたりでクレムリンの地下に仕掛けられた爆弾が爆発してクレムリンが崩壊していくところとか、おもわず、がんばれっとか声をかけたくなってしまうのはぼくだけだろうか。

 ただ、かれらの所属するIMFなるちょっと得体の知れない秘密諜報組織は前にもぶっ壊れてしまったような印象があるんだけど、いつのまにか復活して、ジェレミー・レナーのような情報分析官まで雇われているにもかかわらず、いとも簡単に長官が殺され、またもや瓦解して、生き残ったトム・クルーズとそのチームだけが、核兵器で世界を亡ぼしちゃえっていうようなブラックゴースト団みたいな連中と戦う羽目になるわけだけど、いったい、アメリカという国はどのようにしてIMFを管理しているんだろう。

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レナードの朝

2015年09月03日 19時48分18秒 | 洋画1981~1990年

 ◎レナードの朝(1990年 アメリカ 121分)

 原題 Awakenings

 監督 ペニー・マーシャル

 

 ◎1969年の夏の奇蹟

 嗜眠性脳炎の患者にパーキンソン病向けの新薬L-ドーパを試したところ奇蹟な回復を見せたがやがて元通りになってしまったという1960年代の実話が元になっているらしんだけど、いったいどういうことから患者の一時的な回復が見られたんだろうね。

 それについてはほとんど解明されていないみたいだし、映画で語られることもないから、ぼくたちは、人付き合いは下手だけれどもきわめて優しい医師ロビン・ウィリアムズの誠実な治療と、自分が元に戻っていくさまを撮れという犠牲的な患者ロバート・デ・ニーロの友情譚を見ていくしかない。

 でも、きわめて清々しく撮られているのは、さすがペニー・マーシャルとしかいいようがない。もちろん、主役ふたりの演技もあるんだけど、そのほかの患者たちも実にうまい。アメリカはどういうわけか、ときどき、精神病棟をあつかった映画を撮るけど、そのとき患者たちを演じる役者はみんな上手だ。演技者の層がきわめて厚いんだろうね。

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アメリカン・スナイパー

2015年09月02日 13時18分35秒 | 洋画2014年

 ◎アメリカン・スナイパー(2014年 アメリカ 132分)

 原題 American Sniper

 監督 クリント・イーストウッド

 

 ◎アメリカの悲劇

 クリス・カイルとは何者だったんだろう。自由を守ってくれる戦士だったんだろうか。

 そんな自問はさておき、18キロも太ってコンマ1トンを超えたブラッドリー・クーパーの真摯な取り組みようはたしかに評価できるんだけど、昔だったらイーストウッド自身がクリス・カイルを演じてたんじゃないかしらとおもいながら観てた。

 とはいえ、さすがにイーストウッドの演出はあいかわらずそつがなくて、幼い頃から死去にいたるまでのあらましが実に滑らかに綴られている。へたくそな監督や脚本家だと箇条書きみたいな映画になっちゃんだけど、そんな匂いすら立てずにさらさらと流れていく。たいしたもんだ。

 けど、クリス・カイルはアメリカでは英雄扱いだったみたいで、その伝記となった本作もイーストウッド作品では最高の動員数だったみたいだけど、これって、日本軍の狙撃手を扱った邦画だったらどうだったんだろね。過去には狙撃手を主人公にした戦争映画がいくつかあるけど、日本人の狙撃手の映画はあったんだろうか。もしもそういう映画ができたら、日本人は喝采するんだろうか。

 たとえ「胸いっぱいの愛国心から出征して、敵の兵士だけでなく昔の言葉でいう便衣隊の女性や子供を狙撃していく内にPTSD心的外傷後ストレス障害に陥ってしまう狙撃手とその家族を通じて、戦争経験で壊れていく人間の哀しさを描いたのだ」としても、日本人の中に日本軍の狙撃手について描くことを支持する人間はどれだけいるんだろう?

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ミスティック・リバー

2015年09月01日 21時47分03秒 | 洋画2003年

 ◎ミスティック・リバー(2003年 アメリカ 138分)

 原題 Mystic River

 監督 クリント・イーストウッド

 

 ◎重油の河のような

 とにかく重くて重くて、それでも何年かに一度は観たくなる作品のひとつであるのはほぼ間違いない。

 あらすじやら分析やらは無数ある批評や雑評に譲ることにして、役者たちの好演とイーストウッドの冷徹で細心な演出を褒めれば、もはやなにもいうことはない。ただ、文明社会の中で、少年愛あるいは幼児虐待などといった異質な事象はいったいいつから現れてきたんだろうと、ふとおもった。

 おもいつつ、自分のことに置き換えてちょっと考えてみた。

 仲の好い幼馴染はいったい誰だったんだろうってまずおもった。主人公たちのように毎日、ホッケーしていたような友達っていたっけ?と。たしかに、すぐ近くの神社の境内で、ぼくは毎日のように草野球をしていた。三角ベースのソフトボールといった方がより正確だけど、そうじゃないときはやはり近所の子と秘密基地を作ったりしていた。で、今はといえば、誰とも会っていない。少なくとも、高校に入るときにはまるで知らない仲になってた。幼馴染っていうのは、そういう記憶の中にいるのかもしれない。もっとも、小学校の同級生ともなればちょっと違うけどね。ある日、誘拐され、暴行虐待されたりしたら、その思い出はずっと残るかもしれない。

 いずれにしても、そんな幼馴染が、やがて、ひとつの事件に絡んだ犯罪者と刑事と容疑者になるってのもかなり強引な設定ではあるものの、小さな田舎町だったら、もしかしたらあるかもしれないなあとおもったりもした。自分の娘が殺されて、その犯人が自分の幼馴染かもしれないとおもったら、ぼくはどうするだろう?いくらもうひとりの幼馴染が刑事になっていたとしても、そいつには任しておかずに、やっぱり自分で殺すだろうなあ。

 ところがそれが間違ってたらどうする?ってのがこの映画の凄いところで、実は、娘の友達の弟に殺されてるわけだけど、そもそもその友達の父親ってのが、自分が過去に殺してしまった人間だったりするわけで、これはなんとも因縁深い。さらには容疑者だった幼馴染は、虐待されかけていた少年を救け、その犯人が過去に自分を監禁暴行した人間だと知るや、みずからの手で復讐殺害してしまったために、その血塗られた手のせいで奥さんに疑われ、その奥さんの告げ口によって不幸な間違い殺人が引き起こされるなんてのは、まさしく因果が巡ってる。そんな幼馴染を間違って殺してしまったりしたら、ぼくはどうするだろう?やっぱり、以前に犯した殺人のように死体を川に流して知らんぷりしようとするだろうか?

 できないなあ、それは。

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