【斜里町立知床博物館】
斜里(しゃり)の歴史を物語る立派な博物館です。
これほど充実した内容とは、入館するまではわからなかったです。Google mapsで博物館を見つけて、ちょっと寄ってみようかと思った自分が恥ずかしいです。
斜里町開基100年記念事業として設置されました。特徴は松浦武四郎の展示とオジロワシなど鳥類ですね。オジロワシは実物が見れます。
斜里は、斜里川の下流一帯を指すアイヌ語サルSar(葦原)に由来するそうです。
【斜里町の誕生まで】
1635年、アイヌ民族が暮らしていた土地に和人が最初に訪れたことが文献に記録され、町の歴史となっています。
1685年、和人との交易のため宗谷場所が設置され、1790年には斜里場所が設置されて、交易が便利になった。
1807年、ロシア船が南下して樺太各地を襲い、知床半島近くに出現した。防衛のため、1807年に蝦夷地は幕府の直轄地となった。津軽藩に命じてシャリ警備を当たらせたが、酷寒のシャリ越冬は厳しく、70名余が病死した。
【松浦武四郎の足跡】
知床博物館では、松浦武四郎を大きく取り上げていました。
1818年、今の三重県で生まれた松浦武四郎は、17歳で諸国遍歴を決意した。
1845年、28歳で蝦夷地に入り知床岬に標柱を立てた。
1846年、松前藩の刺客に狙われながらも、初めて北海道全島一周をした(樺太、択捉島も)。
1856年、幕府に雇われ、斜里で人口、地名、産物など詳細な記録書をまとめた。
1858年、4度知床に入る。これらの探検で未知の世界だった蝦夷地を余すところなく調べ、北海道開拓の道しるべとなった。
この間、場所請負人のアイヌに対する残酷な支配を怒り、世に訴えるなど単なる旅行家以上のものがあった。
1869年、明治2年、蝦夷地を北加伊道(北海道)と改名した。
と書いてあります。
【生存中は出版が許されなかった調査報告書】
幕府に雇われてとりまとめた調査報告書には、圧政に苦しむアイヌ民族の窮状や実態も記されていたため、松浦武四郎の生存中は出版が許可されなかった(ウィキペディア)。
『知床日誌』 (ウポポイに展示されてました)
挿絵には、アイヌ民族からの訴えを聞く松浦武四郎の姿が描かれている。
知床地方のあるコタン(集落)を訪れた武四郎を、コタンの人々が出迎えてくれたが、そこには老人と子どもしかいなかった。
理由を尋ねたところ、「村の若い男性は択捉島へ連れて行かれて厳しく働かされ、若い女性は単身赴任の役人や商人たちが自分たちの好きなようにする。村にいれば文化を伝承し、結婚して子どもを作り、親を養っていくような大切な時に、あらん限りに責め働かされ、若者がいなくなった村では狩りもできず、食料が不足して困窮している。」と長老が涙ながらに語ったという。
1870年、松浦武四郎はアイヌ民族を苦しめる「場所請負制:交易所を商人が運営する」廃止を訴え、明治政府により一旦は廃止された。しかし、商人らの反発で名を変えて場所請負制が存続されたため、松浦は開拓使を辞職した(ウィキペディア)。
【松浦武四郎の調査】
この展示がすごい。斜里町の力作です。
松浦武四郎の背景には、斜里町や国後島の調査した箇所がびっしりと記され、それぞれにアイヌ語の地名が記されています。
どれだけ多くのアイヌの人々に地名を訪ねたのだろう。
北海道の地名はアイヌ語が語源が多いけど、松浦武四郎の努力が現在も生きているんですね。
拡大すると、こうです。
標津町や中標津町、別海町、野付半島のあたり。
【鳥類の標本展示】
猛禽類の標本です。
こちらは海辺の鳥かな。
こちらは森林や平原の鳥。
屋外には、オオワシ。眼光鋭いです。
こちらはオジロワシ。学生の頃、オジロワシを探しに北海道に来たけど、見れなかった。
【津軽藩のシャリ警備】
警備に当たった多数の藩士が死亡したことを政府は秘密にしていた。
166年後の1973年になって明らかになり、津軽藩兵供養のための慰霊碑を建立し、毎年慰霊祭を行った。
これがきっかけで青森県弘前市と姉妹都市になっている。
まったく知らない話しでした。
ありがとうございます。
台風の影響は大丈夫でしょうか?ご安全に。
私も斜里町知床博物館に行かなかったら、知らなかったことです。
博物館は重要だと改めて思いました。
台風の心配ありがとうございます。今日はNHKのレーダーを見て豪雨の晴れ間に病院帰りしました。