31日㈰、10時から寺町の那智山正暦寺(玉川弘信住職)にて、不動明王大祭の祭礼が行われて総代として出席した。
例年は檀信徒全員に加え、近在の真言宗寺院の皆さんや真言講の行者さん達によって、大きな護摩も焚かれるのだが、今年は新型コロナウイルスの関係で、住職と総代のみでの祭礼となった。
那智山正暦寺は今から1079年前、朱雀天皇の時代である天慶5年(942年)に空也上人が綾部を巡教された際、空也上人の42歳の厄除けのために聖観世音菩薩を彫刻され、須知山(質山)の山頂「霊山ケ嶽」に安置されたことが開創とされる。
その後の一条天皇の時代、聖楽上人によって、七堂伽藍が建立され、密教伝道の道場とされたと伝わり、これが正暦2年(991年)のことであった。
その年の8月は炎暑はげしく、旱害が各地に生じたため、朝廷が諸国に勅令して、雨を祈願させた。聖楽上人も選ばれて、雨を祈ったところ、たちどころに雨が降ったという。天皇はいたくその功績を賞され、年号を寺号に用いることを勅許されて「正暦寺」と名づけられ、かつ勅願寺となったといわれている。
時代が下り、平安時代末期にこの地を領した平清盛の長男、平重盛が正暦寺に多くの荘園を寄進し、また綾部の地形が紀州熊野に酷似しているとして、熊野三山(本宮、新宮、那智)を現在の正暦寺に隣接する本宮山に勧請した。正暦寺の「那智山」の山号はこれに由来しているとされる。
その後、寛文12年(1672年)、三重県の鳥羽から綾部に移封された初代綾部藩主・九鬼隆季は、正暦寺を現在地(上野町の陣屋の裏山である本宮山の背後であり、由良川からの上陸地点で、かつ京街道を見下ろす地)に移して、藩主の祈願寺と定められた。
殿様の参勤交代の際には、正暦寺で道中の無事を祈願し、その際に持って行かれた不動明王像が正暦寺に安置されている。
不動明王大祭は、戦後、自動車社会の到来で交通事故が社会問題化したこともあり、交通安全、家内安全などを祈願するために、正暦寺最大の行事として、毎年1月に営まれている。
正暦寺には、殿様の奥方が輿入れされた際に使用された駕籠が寄進されており、不動堂に安置されていたが、今回、観てもらいやすいようにと客殿に移転をすることになった。
駕籠は軽かったが、駕籠を担ぐ棒はすごく重かった。これで旅をしていたとは、昔の人は偉いものだ。
祭礼が終わったところで、たまたま亀岡から旧知の竹内博士くんが御朱印をもらいに正暦寺を訪ねてきてくれており、驚いた。
最近はこういう偶然なのか、必然なのかという御縁がよくある。正暦寺でお出会いするというのも意味があるように思った。
祭礼の後は少しだけ総代会が行われて、弁当をもらって帰った。コロナが収まるまでは正暦寺の行事も、なかなかできそうにないということだった。