四方源太郎日記(京都府議会議員・綾部市選挙区)

これからの綾部のために、さらなる「挑戦」を!

5年ぶり、京都あやべ会の総会

2024年11月09日 | 議員活動

日㈯両親と一緒に、9時56分の特急で京都へ。

 京都あやべ会(村上晨一郎会長)の総会に出席するため鴨川のそばの東華菜館へ。コロナでしばらく総会ができておらず、5年ぶりの開催だそうだ。東京あやべ会の北井久美子会長にも駆けつけていただいていた。

 四方宏治会計監査からの決算報告、田中彰寿事務局長からの役員改選報告も滞りなく進められ、役員改選では新たに若手の幹事さんも増やしておられた。

 総会の後講演「宇治よもやま話」と題して、上林春松本店の上林春松代表が講師を務められた。上林家はそのルーツが綾部市の上林地区にある。

 数年前に亡くなられた第14代春松さんには上林で講演をしていただいたこともあるが、第15代の息子さんにお目にかかるのは初めてだった。

参考:2013年11月17日付blog「上林家の子孫が450年ぶりに」

 お茶や宇治茶の歴史、上林家のルーツ、上林家と織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の関係、綾鷹の由来など、詳しくお話しいただいた。

 上林家は清和源氏の一族で、丹波の豪族・赤井氏と同族だったが、後に分かれて対立し、室町時代には上林を拠点としていたようだ。織田家の家臣であった高田豊前守、明智光秀らが丹波侵攻を進める中で勢力が衰退し、上林城の城主は最後は切腹して綾部から上林家は離れていったものと思われる。

 その前後から宇治でのお茶づくりをしていた記録が残っており、上林を去った後は本格的に宇治で茶生産に携わった。

 室町末期の当主・上林久重信長が松永久秀を信貴山城に攻める際の道案内として功績があり、また四人の息子のうち、長男・久茂は本能寺の変の後、家康が堺から木津川、信楽、そして伊賀越えで岡崎まで逃げる際に木津川から信楽までを道案内したことで家康にも厚く信頼されたそうだ。

 また四男・竹庵関ヶ原の戦いの前哨戦であった伏見城の戦いで戦死したが、その功績を家康に称えられた。

 春松は三男であり、次男の味卜家と共に、久茂家、竹庵家に次ぐ役割を与えられて幕末まで続き、現在も上林春松本店として残っている。

 江戸時代に上林家は茶頭取として、将軍家にお茶を献上し、それは「御茶壺道中」として盛大に運ばれたそうだ。

 「ずいずいずっころばし」という童謡「御茶壺道中」のことを歌ったもので、将軍様の大切なお茶を運ぶのに子どもが粗相でもしたら大変なことになる道中には相当な緊張感が漂っていたようだ。

 日本コカ・コーラと上林春松本店が共同開発されているペットボトル飲料「綾鷹」の名前上林家が江戸時代末期に「玉露」を初めて作った(諸説あり)時の販売銘柄として名付けられたものだとのこと。

 「綾鷹」が「綾部」の「綾」からきているかどうかは、当時の当主でないと分からないことだと先代の春松さんもおっしゃっていた。

 良いお話を聴かせていただいた。

 

 山崎善也綾部市長の近況報告と乾杯で懇親会が始まった。中締めは黒田清喜副会長の挨拶で締めくくられた。

 同級生の原田孝毅くんとも再会した。彼はいつも丑寅の会にも参加してくれているので、またやろう!と話をした。

 これからも京都あやべ会が末永く続くことを願っています。


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