現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

甲府、武川牧原

2012-10-30 22:18:36 | 私の尺八遍歴
さてさて、静岡から富士山の西側、身延を通って甲州までの
旅もまた ワクワクでした。江戸時代、甲州乙黒(現・山梨県
中央市下河東)には、虚無僧寺の「明暗寺」がありました。
「明暗寺」というのは、京都と越後と甲斐の三か所にあった
のです。

その「明暗寺」のことは別に記すとして、「先祖探しの旅」、
今回は「武川牧原」です。

国道20号線に「牧原」という交差点があります。その辺り
「北杜市武川町牧原」が当家の発祥地ではないかと思って

武田一族の中に「牧原姓」がありました。武川衆の一員として、
信玄に従って三河に進出。信玄が野田城で鉄砲玉に当たり、
蓬莱寺で3ヵ月の療養の末、病死すると、その跡を継いだ
勝頼は長篠の合戦で大敗します。その後、武川衆は武田を
見限って徳川に帰属しました。

当家の先祖も、三河松平郷に一時、潜んだのでしょうか。
「くらがり渓谷」の手前に「牧原」のバス停がありました。

その後、「桜井松平家の忠頼」に仕官し、忠頼が若死にして
お家断絶すると、浜松の水野重仲に仕官、そして紀州新宮へ
移封。さらに会津保科松平家と転籍し、命脈を保ってきました。

会津藩ですので、幕末は「蝦夷・樺太、網走、房総、三浦の
警備」、「京都守護職」、そして「鳥羽伏見」から、日光、
尾瀬、白河に転戦、函館戦争にも加わり、下北半島の斗南
(現むつ市)移住。さらには「西南戦争」で、大分、熊本と
各地に足跡を留めているのです。このうち「利尻・礼文・
樺太」だけがまだ行っていません。


坂本龍馬を斬った男「今井信郎」

2012-10-30 15:33:26 | わが家のこと
さて、静岡市の持舟城、金谷(現・牧の原市)の「牧の原城」、
掛川城など、虚無僧で周りました。なつかしい思い出が
たくさんありますが、「牧の原」について、もうひとつ
書きたいことがあります。

それは、明治になって、徳川慶喜公とともに、多くの幕臣が
静岡に移住し、ここ牧の原台地の開墾をしました。「牧の原開拓団」
とも言われます。刀を鋤鍬に持ち替えての慣れぬ農作業ですから、
開墾は失敗に終わりますが、その苦労が、後に「東洋一の大茶園」に
発展します。

この金谷町の初代町長が「今井信郎」でした。近年になって
「坂本龍馬を斬った男」として、脚光を浴びてきた人物です。

「坂本龍馬の暗殺は新撰組の仕業」とされ、近藤勇はその罪状で
処刑されたのですが、明治も半ば過ぎて、今井信郎という人が、
「龍馬は、佐々木只三郎を隊長とする見回り組が殺った」と、
衝撃の証言をしたのです。「近藤勇」は、濡れ衣、冤罪でした。

佐々木只三郎は、会津藩士でしたが、幕府旗本の佐々木家に
養子に行ったので幕臣でした。私の先祖の一人「牧原文吾」も
会津藩を脱藩して「松井九郎」と改名し、幕臣となって
「見回組」に参加していました。ですから「龍馬暗殺」に
加わっていたのかも。じゃじゃじゃ~ん。

「松井九郎」は、会津戦争では、尾瀬沼で官軍(と言っても
尾瀬の反対側「足利藩」から狩り出された兵)と戦っています。

幕臣ですが、元は会津藩士ですから、会津弁が通じるので、
隊長となって、会津藩兵との連絡に活躍したようです。

この尾瀬の周辺も虚無僧で旅をしてきました。合戦があった
などとは思えない、静かな静かな山奥です。


牧覚右衛門の尺八

2012-10-30 15:01:57 | 私の尺八遍歴
さて、これも、私と関係ありそうな無さそうな話ですが、
島原城に展示されている一節切尺八」の由来です。
長崎の尺八家「松林静風」氏が詳細をHPに書かれています。

この尺八は、「松平太郎左衛門重定が持舟城で入手したもの」との
由緒がはっきりしています。そして、重定の子(孫?)の「覚右衛門
重是」が「牧」と改姓して、慶安2年(1649)から3年間、藩主の命を
受けて、虚無僧となり、京都で托鉢をした時に吹いたものと伝えられ
ています。慶安2年(1649)といえば、京都の明暗寺が創建された前後の
ことです。幕末には、長崎には「牧 新七」という虚無僧がおりました。
「牧 覚右衛門」とのつながりもありそうな・・・・。私の名は「牧(原)伸一」
なんか 似ていてうれしくなります。

さて、「持舟城で入手したもの」というので、推測してみました。

天正10年、信長、家康連合軍による武田勝頼攻めが始まり、牧野原城を
根城にして、周辺の武田方の城、高天神城、持舟城(現・静岡市)が
攻められます。この時、「持舟城」を守っていた「朝比奈駿河守氏秀」は、
元々は今川の家臣でしたので、形勢不利と察して、家康方と和睦を結び、
城を明け渡して久能山に退きます。この時、朝比奈氏秀は久能山まで
護衛してくれた「松平太郎左衛門重定」に、お礼として家宝の「一節切」を
渡した。「一節切」はそれほどの価値があったのです。

この時代の有名武将「武田信玄」「徳川家康」「織田信長」「北条幻庵」の
「一節切」というのが現存しています。先日「お宝鑑定団」で、同様のもの
が出品され、300万円の価値が付けられていました。

宇和島の伊達家、尾張徳川家、熱田神宮にも同様の「一節切」があります。
そして私もネットオークションで、ウン万円で手にいれました。