現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

『都名所図会』に「妙安寺」と

2017-10-09 19:55:07 | 虚無僧って?
明暗寺は「妙安寺」だった。

   『都名所図会』は墨摺六册本で名所図会本の先魁となったものである。本書は本文を京都の俳諧師秋里籬島が著し、図版を大坂の絵師竹原春朝斎が描き、京都の書林吉野屋から安永九(1780)年に刊行された。なお、本データベースに用いた本センター所蔵の『都名所図会』は天明六(1786)年の再板本である。

     
 
 
 
 
 

幕府による虚無僧弾圧

2017-10-09 19:53:29 | 虚無僧って?

仙石騒動の裁定が下されたのは天保6年(1835年)。調査取調べは

寺社奉行吟味物調役で川路弥吉(のちの川路聖謨)が行った。

この後、天保15年(1844)岐阜の芥見村で、虚無僧同士の縄張り争いが

起こり、死者が出、幕府の取り調べとなる。

甲州の虚無僧寺明暗寺と、遠州浜松の普大寺との留場争いだった。

この裁定は弘化5年(1848)に出される。

虚無僧の本山「一月寺」まで査察がはいり、詮議してみれば

「一月寺」の看主「空翁」は 重追放の前科者でありながら、江戸に

舞い戻り看主になっていたことが発覚、「遠島」に。

他もみな「無宿人」で飲む打つ買う三昧の不貞。女犯の罪で晒しの上江戸払い。

一月寺だけでなく理光寺、慈上寺、観念寺、松岩寺の看主の愛妾までが

捕らえられ押し込めとなった。

 この取り調べの後で、幕府は弘化4年(1847)「普化宗流弊改革之儀に付き

申上候書付」を発し、虚無僧を厳しく取り締まるようになる。


塩山の向嶽寺から青梅鈴法寺跡へ

2017-10-09 19:51:59 | 虚無僧って?

甲府の北、塩山といえば恵林寺だが、もう一つ向嶽寺という
古刹がある。臨済宗の古刹で、虚無僧寺ではないが、虚無僧
の開祖とされる由良興国寺の法灯国師の流れである。

塩山から北へ上って、東京の西、奥多摩を通り、青梅に
抜ける道がある。青梅には江戸時代虚無僧本寺として知られた
鈴法寺があった。この道のことを教えてくれたのは、内田康夫の
推理小説『喪われた道』だ。
修善寺から甲府を通って奥多摩から青梅に到る鎌倉街道があった
という。一昨年、その道を辿ってみた。東京のすぐ西隣りに、
こんな深山幽谷があるのかという景色である。
たしか、「奥多摩の山奥の農家に初めて電球がともった」という
ニュースを学生時代に聞いた覚えがある。
現代から隔絶した、虚無僧が歩いていて不思議でない街道で
あった。