仙石騒動の裁定が下されたのは天保6年(1835年)。調査取調べは
寺社奉行吟味物調役で川路弥吉(のちの川路聖謨)が行った。
この後、天保15年(1844)岐阜の芥見村で、虚無僧同士の縄張り争いが
起こり、死者が出、幕府の取り調べとなる。
甲州の虚無僧寺明暗寺と、遠州浜松の普大寺との留場争いだった。
この裁定は弘化5年(1848)に出される。
虚無僧の本山「一月寺」まで査察がはいり、詮議してみれば
「一月寺」の看主「空翁」は 重追放の前科者でありながら、江戸に
舞い戻り看主になっていたことが発覚、「遠島」に。
他もみな「無宿人」で飲む打つ買う三昧の不貞。女犯の罪で晒しの上江戸払い。
一月寺だけでなく理光寺、慈上寺、観念寺、松岩寺の看主の愛妾までが
捕らえられ押し込めとなった。
この取り調べの後で、幕府は弘化4年(1847)「普化宗流弊改革之儀に付き
申上候書付」を発し、虚無僧を厳しく取り締まるようになる。
甲府の北、塩山といえば恵林寺だが、もう一つ向嶽寺という
古刹がある。臨済宗の古刹で、虚無僧寺ではないが、虚無僧
の開祖とされる由良興国寺の法灯国師の流れである。
塩山から北へ上って、東京の西、奥多摩を通り、青梅に
抜ける道がある。青梅には江戸時代虚無僧本寺として知られた
鈴法寺があった。この道のことを教えてくれたのは、内田康夫の
推理小説『喪われた道』だ。
修善寺から甲府を通って奥多摩から青梅に到る鎌倉街道があった
という。一昨年、その道を辿ってみた。東京のすぐ西隣りに、
こんな深山幽谷があるのかという景色である。
たしか、「奥多摩の山奥の農家に初めて電球がともった」という
ニュースを学生時代に聞いた覚えがある。
現代から隔絶した、虚無僧が歩いていて不思議でない街道で
あった。