現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

仏陀「筏(いかだ)の譬(たと)え」

2017-10-15 08:52:20 | 虚無僧日記

仏典は「如是我聞(にょぜがもん)」(私はこのように聞いた)で始まります。

お釈迦さまは一言一句一字も残しませんでした。字が書けなかった?のではなく

「不立文字(ふりゅうもじ)」文字では伝えないという主義。それなのに

釈迦の入滅から500年、千年も経って、仏教徒を自認する人たちによって、

「私はこのように聞いた」と、何万巻もの経典が作られました。おかげで

ある宗派(禅宗)では「あの世などない、前世も来世もない」といい、

その他の宗派では来世を信じ、また天台宗では「人は死ねば皆仏になる(成仏)」

といい、ある宗派では「いやいや、悪事を働けば地獄に墜ちる」といい、

真言密教では霊魂を信じ、「祖先の霊が災いしている」などと。

あげくのはてに、「お釈迦さまは、その時その時、人を見て法を説かれた。

嘘も方便」と言い訳する。こんな話も

仏弟子の一人が、「私はお釈迦さまから『欲のままに行動しても、かまわない』と

聞きました」というと、他の一人が「とんでもない『欲は障礙(しょうがい)になる』と

私には云われた」と。そこでお釈迦さまに問うと。お釈迦さまは

 
「一人の旅人がいて、川のほとりに辿り着いた。対岸に渡るのに筏を作って
 
渡った。渡り切って、せっかく作った筏だから、次、また川を渡る時のために
 
この筏を背負って旅をしようか、置いていくかと迷った。君たちならどうするか?」と。
 
みな、「置いていく」と答えた。

釈迦は「こだわりの心から開放されるために、筏の話をした。尊い教えも
 
用が済めば捨て去るべきである」というです。
 
「毒蛇に例えれば、一匹の毒蛇を見て、しっぽを捕まえる人、胴の一部を
 
掴んで満足する人。それで安心してはいけない。蛇はすぐにクビスを返して、
 
毒歯で噛むであろう」とも。「悟りも時と場合によっては毒になる」という。