上原愛加著『魔法のプリンセスレッスン』(学習研究社)。
「自分がプリンセスだったら」とイメージして、プリンセスの
ように振舞うことにより、出会いたい人に出会え、欲しいものが
手にはいり、ラッキー。
これは そう難しいことではない。。
「人は思い描いたように生きる」「成功のレッスンは、まず
毎朝、シンデレラになったつもりで 雑巾がけ。そして一日、
プリンセスのように振る舞い、寝る前には、その日一日体験した
嬉しいこと、感謝されたこと等を「プリンセス・ノート」に
つける。
「今日もご飯が食べれた。仕事が上手くいった。誰々に会えた。
○○さんからほめてもらった。雨が降らなくて良かった・・・」
等など、なんでもいいから書きとめる。
なるほど、「美智子妃殿下」なら、不平不満は口にされない
だろうし、己を滅して、ひたすら役割に徹し、言葉は、相手を
傷つけないように慎重に選び、立ち居振る舞いは 気高く、
品良く、そして笑顔を絶やさず。
自分も美智子妃殿下になったつもりになればいいのだァ。
同じような「成功指南書」は多いが、同じことを「プリンセス」と
イメージすることで、実行実践力も違ってくる。その発想が上手い。
今日一日を振り返って、感謝の種を見つけてみよう。
・朝3時、目覚まし時計が鳴る前に目が覚めた。
(今日も生かされていることに感謝)。
・4時に家を出、朝起会場まで歩いて行けた。
・(「みそぎ」に間に合った)。
・6時半、ラジオ体操に間に合った。
・喫茶「てる」でモーニング。
・饅頭、カステラ、煎餅などを貰った。
・今日は「尺八の仕事」は無いので、部屋を片付ける
ことができた。
・天気予報では、「午後から大雨」だったが、パラついた
程度で、全く濡れなかった。
・車が故障して困っていた人に 手助けすることができた。
・自分は、事故に遭わなかったことにも感謝。
・今日も夜9時には就寝できた。
こうして書き出してみると、日頃“当たり前”になっていて、
感謝の心を忘れていたことに気づき、改めて“感謝”することが
できた。
“感謝の心を忘れない”ことが、「魔法のおまじない」だそうだ。
堀井小二朗氏の「随筆集」を読んでいたら、「尺八で
病気を治す法」というのがあった。
詩吟の伴奏などで、一日 尺八を吹いていれば、風邪
ぐらい治る。「頭痛がする」という人に、低音のA
(ラ)の音をベースに、静かに尺八を吹いてあげると、
「頭痛が治った」と。
瀬戸内寂聴は、「比叡山の千日回峰を成し遂げた人や
山伏などが、予知能力や病気を治す法力を得ると、
民間信仰で信じられてきたが、自分もそのような
体験を目の当たりにしている」と云っている。
戦後、そのような因習は“非科学的”と排斥されてきたが、
最近は、なんとなく“あるかもしれない”と 云われる
ようになってきた。
ならば ならば、「虚無僧」は「歩く修行」と「尺八」で
α波を出し、病気を治すなどの「超能力」が身に付け
られるかもしれない。なんて思えてきた。
今日も3人の人に「手当て」を施した。「膝が痛くて
正座できない」という人が、「我慢できないほどの
痛さではなくなり、正座できるようになった」と。
昨日、詩吟の伴奏で 一日 尺八を吹いていたので、
「気功」のパワーが増してきたようだ。
明治政府は、普化宗を廃宗とし、尺八を吹いて門付けすることも
禁止した。虚無僧は法律で禁止されていたのである。
“最後の虚無僧”と云われた「谷狂竹」は、愛知県の新城市で警
察に捕まり、留置場に入れられている。「乞食をした」という理由
で、天蓋、偈箱、尺八を取り上げられたうえ、4、5発殴られて
留置場にぶちこまれている。
裁判での、谷狂竹の弁明は
「虚無僧の門付けは、一に修行で、修行僧は自ら食物を求めること
はできないので、在家の喜捨に待たねばなりません。
二に尺八の吹簫行化(すいしょう、ぎょうげ)は、仏の教えに従って
功徳を衆生に施すもので、尺八の音に感じて功徳を得、道心を起こす
人が現われ、ご好意で喜捨いただくもので、こちらから無心(無理に
要求)するものではありません」
この弁明に対する検事の意見は、
「なるほど、精神的には乞食ではないが、客観的には乞食と異なる
所はない。例えば、近頃は何なに術とか、何なに療法などと言って
医師法違反をする者がいるが、病を治してやろうという精神は悪く
ないにしても、違反は違反である。従って、被告は、名を虚無僧に
かりても乞食は乞食である」
そして判決は「拘留4日」であった。
もっとも時代は戦争に向かう暗雲たれこめた世であり、自由きまま
な移動は制限され、不審者の取締まりが強化されつあった時のこと
である。川瀬竹友も虚無僧で鹿児島に行った時、「かむり物で顔を
隠すことはまかりならん」と警察官に咎められている。
虚無僧が晴れて、天下を往来できるのは昭和30年代、普化正宗として
宗教法人登記がされてからである。「昔よくみましたよ」と云われる
のは、昭和30年代のことだ。そして今昭和30年代がちょっとしたブーム
になりつつある。今こそ虚無僧の再生、復活の時だ。