会津藩が北海道をプロイセン(ドイツ)に売り渡そうと
していた話。会津藩にそんな権限があったのだろうか。
実は、意外な事実。北海道の東、現在の根室、
網走地方は幕末、会津藩領だったのだ。
江戸時代半ば、ロシアが度々蝦夷地を犯すようになり、
幕府は、享和2年(1802)蝦夷地を直轄地とし、文化4年
(1807)から東北各藩に北方警備を命じた。
文化5年(1808)会津藩は、一千人の藩兵を宗谷岬と
利尻島、そして樺太に派遣した。私の先祖も、樺太
警備に就き、帰路、船が遭難して 秋田に漂着して、
1ヶ月半もかかって、会津に帰還している。
その後、安政2年(1855)から慶応2年(1866)に
かけては秋田藩が北方の警備に当たった。
その一方、1859年(安政6年)会津藩は蝦夷地の一部
(現在の根室、網走地方)を領地として与えられ、
漁業や開拓を進めた。山国会津にとっては、網走からの
ニシンや昆布は貴重な蛋白源となった。
1862年(文久2年)には、藩主松平容保が京都守護職に
任命され、蝦夷地の防備だけでなく、京都を警備する
こととなり、その出費を賄うのに、北海道のニシン・
昆布漁は、貴重な収入源ともなっていた。
そして迎えた慶応4年(1868)の戊辰戦争。この時は
すでに徳川幕府は存在しない。戦争となれば、武器
弾薬が要る。文化5年(1808)以来、60年もの間、
会津藩は、ロシアの南下に備えて蝦夷地の警備、
ペリー来航の際は房総半島と三浦半島の警備、江戸湾に
お台場の造営、そして京都守護職と、莫大な出費に
苦しんでいた。それに追い討ちをかけての戊辰戦争
である。「譲り渡すという判断」を下したのは、
はたして誰だったのか。新たな謎である。
NHK/BS「発見!戊辰戦争~幻の東北列藩・プロイセン連合」
会津藩のことなら何でも知っていると自負する私でも
知らなかった。
今回発見された史料というのは、プロイセン(現ドイツ)の
駐日公使ブラントが、本国の宰相ビスマルクに宛てた手紙。
そこには、「会津藩、庄内藩が蝦夷地を売り渡す変わりに
軍事援助を求めてきた」という内容。
アメリカ、イギリス、フランス、ロシアに遅れをとった
ドイツ(当時プロイセン)が、北海道の分捕りに食指を動か
したのだ。そこで 暗躍したのが「ヘンリー・スネル」。
スネルは、会津に赴き、藩主「松平容保」から直々に
「葵の紋入りの短刀」と「平松武兵衛」という日本名まで
貰い、日本人女性を妻に娶り、会津に屋敷までもらっていた。
そして、会津藩に ライフル銃780挺と2万ドル相当の弾薬を、
売り込んでいる。だが、この銃は、新潟港に陸揚げされた時、
官軍に差し押さえられ、分捕られてしまった。
さて、「北海道を植民地化する話」はどうなったかというと、
この進言は本国で却下された。
プロイセンとフランスとの間で「普仏戦争」が勃発。
プロイセンの背後にはロシアが牽制していた。
ロシアは、江戸時代半ばから、度々蝦夷地に接近し、
幕府に通商を求めていた。アメリカのぺりーより先だ。
そのロシアがプロイセンに蝦夷地を取られたら、黙って
はいない。蝦夷地でロシアとプロイセンの戦争は必須だ。
「今、ロシアを刺激してはいけない」と、ビスマルクは
判断して却下したのだった。日本にとっては、まことに
幸いだった。