現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

“間”の処理の仕方

2019-01-23 22:46:58 | プロとアマ

プロとアマでは “間(ま)” の処理の仕方が違う。尺八に

限らず、歌でもそうだ。素人は息継ぎが下手。フレーズごとに

ブツッと切れる。プロは息継ぎがわからないように、次の

フレーズへとつなげる。プロの技を公開しよう。

 

車の運転をイメージしてもらうとよい。ブレーキをかける時は、

少しずつ、徐如に踏んだり、離したりしながら踏んでいく。

それと同じようにデ・クレッシェンドして 息を抜く。

素人の “間” は、急ブレーキを かけられた時のように

ガクッと切れる。

そして、そこで、完全に息が止まってしまうと “素(す)” に

なってしまう。それが何回も繰り返されると、聞きずらい。

 

スッーと息を抜いて、止まった瞬間にブレーキを離すように、

 “吸い”にはいる。 “間” が短い時は、瞬時に吸う。

“間”が長い時は ゆっくりと おもむろに 吸う。完全に息が

切れることのないようにすると、音は無くとも “間” は

つながって聞こえる。

 

ようするに “間(ま)” の間(あいだ)にも “気” は みなぎって

なければならないということ。


音痴は治る 2

2019-01-23 22:43:42 | プロとアマ

私の子供の頃、昭和20年代、テレビはまだ無い。歌など
歌う機会はめったになかった。
幼稚園にはいって、歌の授業があった。手拍子を叩き
ながら歌を歌う。歌は手拍子を叩きながら歌うものだと
思っていた。いつも上手に叩けてほめられていた。

ところが、小学校にあがって1年の時、音楽の授業で歌を
歌う時、私は得意になって手を叩いた。すると先生が
「誰ですか!手を叩くのはやめなさい!」と。それまで
親にも叱られたことのない“おりこうさん”で通してきた
私は、皆の前で叱られたことに激しいショックを受けた。
それから歌は全く歌えなくなったのだ。歌ったことがない
から当然音痴だった。

NHKラジオにクラスで出演することになった。先生は
私に向かって「牧原、お前は歌わんでよろしい」と、皆の
前で命じた。もう音楽が恐怖でしかなかった。私にとって
音楽は「音が苦」となったのだ。

音楽の成績が悪いのを心配した親は、わが家にピアノの
先生を招いてピアノを習わせた。そのピアノも私にとっては
苦痛でしかなかった。

そんな洋楽に対するコンプレックスから、反動で尺八を
始めたのだ。尺八なら、大人も吹けない。音も出せない。
音が出るだけで自慢できる。優越感にひたれる。尺八は
自己流で覚えたが、好きこそものの上手なれ。ピアノを
習っていたことで、五線譜が読めたから、昭和40年代の
現代音楽興隆の波に乗って、活躍の場はたくさんあった。

というわけで、音楽音痴だった私が、今「尺八音楽」で
食べさせてもらっている。
音楽に才能が無かっただけに、人一倍の努力はした。
だからこそ、音楽がダメな人にも、どんな練習をしたら
よいか指導ができるのだ。



音痴は治る 1

2019-01-23 22:41:12 | プロとアマ

先月亡くなった井上さん。
1年前、「老人会で『刈干切唄』を歌うので、
尺八の伴奏をして欲しい」と頼まれた。家に
来てもらって、合わせてみたら、全くひどい
音痴なのだ。音程もとれない。間も悪い。

聞くと、「自分は歌が全くダメだが、子供の頃
『刈干切唄』を聞いて感動し、いつか自分も
歌ってみたいと思い描いてきた」という。よりに
よって、民謡の中でもこの歌は難しい。もっと
簡単な唄にすればいいものを、どうしても『刈干
切唄』を歌いたいとのこと。3ヶ月特訓した。
仕事で多忙の中、多いときは週3日も来て練習した。

尺八をテープにとり、毎日聞いて、音程と流れを
聞くことから始めた。発声練習では、ドレミファソ
ラシドもできない。根気よく練習を重ね、老人会で
みごと初舞台を踏んだ。案の定尺八とキィが狂っ
たが、そこはすかさず私が合わせてあげた。全く
歌えなかったのだから、彼なりには満足したこと
だろう。

長年の夢を一つかなえて彼は逝った。『刈干刈唄』
のせつない節が耳に残る。