現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

広田弘毅の万歳

2020-03-11 22:44:57 | 政治家

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文官でただ一人A級戦犯として処刑された広田弘毅。名門の出でなかったが外相、首相まで登りつめた。死刑判決の理由は、首相でありながら軍部の暴走を止められなかったという不作為の罪。東京裁判の判事、検事の何人かは、死刑判決に驚いたという。城山三郎の『落日燃ゆ』では、悲劇の宰相として同情的に描かれている。

その『落日燃ゆ』で、A級戦犯たちが絞首刑になる直前、「天皇陛下万歳!」を唱えたのに対し、広田弘毅は、教誨師に「今、まんざい(漫才)をしてましたね」と茶化し、自分の番になった時、ただ一人万歳三唱をしなかったと書かれている。“万歳”を“漫才”と茶化して、万歳をしなかったのは、広田の精一杯の軍人に対する当てつけだったと。

そのストーリーには誰しも感動を覚えたことだろう。

だが、これは、城山三郎のフィクションだと指摘する声があった。城山三郎が参考にした資料の『教誨師の日記』では、広田弘毅も一緒に「万歳三唱」をしたと思える記述になっているという。

これでは、城山三郎の『落日燃ゆ』が今ひとつ、真実味を失う。

 

そこで私なりに考えてみた。広田弘毅の述懐の言葉、「天皇の忠実な僕(しもべ)であれば良かったのです」という記述に照らせば、理解できる。広田弘毅は「天皇の平和を願う気持に忠実に従えばよかった」ということで、最後に「天皇陛下万歳」を叫んだのだ。他の軍人は、「天皇のために、国体護持のために戦って悔いなし」の自負から「天皇陛下万歳」を唱えたのであろうが、広田弘毅の万歳は、「平和を望まれた天皇陛下に万歳」だったのだ。

 

 

尚、広田弘毅も他の戦犯とともに靖国神社に祀られている。軍人でもなく戦死者でもないのに祀られているのは広田弘毅ただ一人。遺族は靖国神社に祀られていることに反対を表明している。

 


東條英樹の横暴「竹槍事件」

2020-03-11 22:27:40 | 虚無僧日記

一国の総理大臣の指令で小中学校は休校、演奏活動は一斉停止。何やら現在は戦時中の様相を呈してきた。

「毎日新聞」で検索していて「竹槍事件」というのを知りました。

太平洋戦争の末期、1944年(昭和19年)2月23日付『毎日新聞』に「竹槍では間に合はぬ 飛行機だ、海洋航空機だ」と書かれたことに東條英機が激怒して、記事を書いた「新名丈夫記者」を即刻 召集、戦地に飛ばそうとした事件。

記事は「勝利か滅亡か 戦局は茲(ここ)まで来た」という見出しで、南方における窮状を解説し、続いて「竹槍では間に合はぬ 飛行機だ、海洋航空機だ」として「海軍航空力を増強すべきだ」と説いている。

これは、海軍当局からは歓迎されたが、日本の敗色を明らかにしたことが、時の首相「東條英機」(陸相)の怒りをかい、毎日新聞は、掲載紙の発禁、編集責任者と筆者の処分を命じられた。毎日新聞社は 編集責任者は処分したものの、新名記者の処分は行わなかったところ、その後ほどなく、新名記者が37歳にして召集された。

いやはや、時の総理大臣が、一個人の召集権まであったとは驚き。
「中野正剛 ジブラルタ生命」の画像検索結果

  中野正剛

同様のことが、前年にもあった。「中野正剛」の憤死事件。
中野正剛は、毎日新聞から朝日新聞に転籍したジャーナリストで、政治家。1943年(昭和18年)正月、朝日新聞紙上に「戦時宰相論」を発表し、「難局日本の名宰相は、絶対強くなければならぬ。幸い尊い皇室がおられるので、多少の無能力な宰相でも務まるようにできている」と、東條英機を痛烈に批判した。この記事に東條は激怒し、朝日新聞に対して記事の差し止めを命じ、中野正剛を逮捕した。

徳富蘇峰や鳩山一郎が、中野の釈放を各方面に働きかけ、松阪検事総長でさえ「こんな理由ではとても起訴はできない」と東條に反論した。

東條は、「起訴が無理なら、中野の議会出席を停止させよ」と国務大臣に命じたが、これも「憲法上の立法府の独立を侵害しかねないのでできません」と反論された。結局、中野は10月25日になって釈放されるが、帰宅2日後の10月27日、中野正剛は自宅で割腹自殺した。

自決の理由は不明で、一説には、東條から「息子を激戦地に送る」と脅されたらしいとも。中野正剛ほどの気骨のある人物でも、「わが子可愛いさ」には負けたのだった。

私の母方の従妹が、中野正剛の弟「中野秀人」に嫁いでいる。そのせいか、母は「東條嫌い」で、東條の孫娘「東條由布子」が、「東條秀樹擁護」の喧伝活動を起こしたことにも反発している。

 


「松岡正剛」と「中野正剛」

2020-03-11 22:23:21 | 虚無僧日記

松岡正剛の「千夜千冊」というブログがあります。あらゆるジャンルの本を取り上げ、その書評を書いてます。
その515話(200/7/8)。

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日本中にいる「正剛君」の大半はおそらく「中野正剛」から採ったのではないかとおもう。

ぼくの場合は、父が「他人に殺されるくらいの気概の持ち主になれ」という乱暴な理由で「中野正剛」の名を選んだ。「中野正剛」は暗殺されたのではなく自害したのだが、そのへんのことはどうでもよかったのだろう。

ぼくはこの「正剛」という名前が好きにはなれなかった。どうも堅すぎる。それに「松岡正剛」の中に、「岡」の字が二つも入っている。

父が正剛にこだわったのは、ぼくが 昭和19年の1月という戦争の渦中で生まれたことが決定的な背景になっていた。
前年、中野正剛は東条英機との対立が激化していて、ぼくが生まれる3カ月前には憲兵隊によって拷問をうけたうえ、自宅に帰ってきて自決した。2日後の青山葬儀場には 2万の会葬者が駆けつけた。そのなかに父も交じっていたらしい。

とくに愛国主義者でもない一介の旦那衆であった父は、どうやら戦争反対者だったようだ。そこへ戦況悪化の昭和19年1月にぼくが生まれることになる。父は何かを託して正剛とつけたのではなかったか。

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と、松岡正剛が語っている。へぇぇぇ。でござる。

数年前、お会いした、ある詩吟の会の会長さん。「中野正剛の秘書をしていた」とのこと。こちらもへえぇぇ。
先日亡くなられた。もっと詳しく話を聞いておけばよかった。

中野正剛の弟中野秀人は、画家。兄とは正反対の芸術家タイプ。その妻が私の母の従妹でした。

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   中野正剛