麻生副総理が、こう発言したそうな。
「札幌で冬季五輪が開かれることになったのが1940年。それが日中戦争でパーになったんですな。
その40年後の1980年のモスクワ五輪。半分吹っ飛んだ。(日本も参加せず)
それで今回40年経つと2020年。今年です」
??1940年(昭和15年)は冬季札幌オリンピックだけでなく、夏期の東京オリンピックもです。それが日中戦争の渦中、満州国建国に対する世界の反撥もあり、また日本国内でも軍部の反対もあって、返上となった。
東京への招致に尽力した嘉納治五郎氏が 1938年(昭和13)エジプト・カイロで行われたIOC総会からの帰国途上、船内で肺炎にかかり死去というのも因縁めく。
1980年のモスクワ大会は、ソ連がアフガニスタンに侵攻したことで、アメリカ・西ドイツなどの西側諸国がボイコットすることになり、日本も同調して不参加となった。この時、私の尺八の友(琴古流,柳内調風門下)の森脇保彦君(国士館大学)は 軽量級でオリンピックに出場が決まっていたが、幻のオリンピック選手になった。あの時の衝撃は忘れない。金メダル確実といわれていた山下泰裕氏は泣いて「参加」を懇願したが、アスリートの気持ちなど無視して、当時のJOCは不参加を決定した。まさに、アメリカに気遣った政治がからんだ事件だった。イギリス選手は「不参加」の決定を無視して個人で参加したそうな。
森脇保彦君は、翌年1981年マーストリヒで開催された世界選手権で優勝。実力のほどを示したが、オリンピックの金メダルを取れなかったのは悔やまれる。
彼は尺八も上手く、「柔道の試合の前には必ず、控室で静かに尺八を吹き、気持ちを静める」と語っていた。“国士館で柔道の選手” と聞くと、荒くれ猛者を想像するが、彼はそんな素振りは全くみせず、いつも物静かな紳士だった。尺八の音がモスクワに届かなかったのが残念。今ではモスクワでは尺八も盛んになっている。