現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

アントニオ猪木 77歳 [最後の闘魂]

2020-03-15 09:59:09 | テレビ・映画・芸能人

伝説のプロレスラー・アントニオ猪木 77歳、喜寿を迎えて、

 元気ですかー!!
 元気があれば何でも出来る。
 アントニオ猪木です。
 ユーチューバーになります!
 アントニオ猪木「最後の闘魂」チャンネル
 登録をよろしく!

と呼びかけている。
アントニオ猪木「最後の闘魂」
https://www.youtube.com/channel/UComGgtc9jFMmhR3qDCOsbXQ[リンク]
https://youtu.be/42302BbkqNI



「アントニオ猪木」。横浜生まれで 12歳の時、一家でブラジルに移民した。力道山がブラジルに興行に行き、「猪木」を見出して、連れて帰り「日系二世のブラジル人」という触れ込みで売り出した。横浜の時の同級生が写真を見て、訪ねてきたが「知らない」と押し通したそうな。

その「猪木」、力道山からは、なにかにつけ「ブラジル野郎!ブラジルに帰れ」とののしられ、殴られ、虐待されていた。それでも現在 猪木は「今あるのは力道山のおかげ」と感謝しているという。今は、「褒め育て」、世の中 甘くなった。力道山から 褒められたことなんかなかった。叱られ怒鳴られ、そして強くなったと語っている。

“いじめが”どうのこうのと ゴタゴタ言ってる 連中に聞いてもらいたい話。


ところで、アントニオ猪木は、一休宗純の言葉として

「この道を行けばどうなるものか 危ぶむなかれ 
危ぶめば道はなし  踏み出せばその一足が道となり 
その一足が道となる 迷わず行けよ 行けばわかるさ」

という詩を“座右の銘”にして、試合前にリングで朗読したり、講演でも話している。喜寿の祝パーティでも最後に歌っていた。

ところが、「一休」研究50年の私としては疑問を呈せざるを得ないで。一休の史料の中には、この詩は見当たりません。一休の言葉としてもおかしい。全くのデタラメです。
ネットを検索して、「清沢哲夫氏の詩の改変」とのリークがありました。
なぜ「一休の作」と公言しているのかが 謎です。

ま、力道山の試合も、興行として面白くするために、事前に勝ち負けのシナリオが取り交わされていたとか、 すべては虚構の世界。


虚像の「力道山」

2020-03-15 09:51:29 | 社会問題

ネットを検索していて「力道山は朝鮮人だった」と初めて知った。日本名は「百田 光浩(ももた みつひろ)」だが、朝鮮名は「金 信洛(キム・シルラク)」。そのことは、公然の秘密だったようだ。相撲界に入った時は、朝鮮人として登録され、「朝鮮人、朝鮮人!」と差別を受け、「朝鮮人は横綱になれない」との不満から プロレスに転向したようだ。

そして、得意の空手チョップで外国人レスラーを次々にやっつける雄姿は、敗戦国の日本人にとって「ヒーロー」となった。日本人のヒーローは「日本人」でなければならず、そこで「力道山」が朝鮮人であることはひた隠しにされたのだという。なんだか悲しい話だ。

2004年、韓国映画で『力道山』(ソン・ヘソン監督)というのがあったそうな。韓国人の監督により、韓国人の俳優が演じた。相撲界での差別に暴れまくる力道山、外国人レスラーをなぎ倒す力道山に涙を浮かべて狂喜する日本人、力道山の
真実をあますことなく再現した映画。その映画のキャッチフレーズが「日本人が一番力道山のことを知らない」とあった。本当にその通り。

力道山は、殺される半年前、日航の国際線スチュワーデス「田中敬子」さんと結婚していた。その「田中敬子」さんが『力道山の真実』(力道山の妻、田中敬子)
という本を出版している。

「婚約が決まり、『朝鮮の出身だ』と初めて打ち明けられたとき、主人の涙を見ました。泣いたのを見たのは 私がプロポーズを承諾したときと2回だけです」。

「死の真相」についても、「手術後も暴飲暴食をしていたから」というのは嘘です」とのこと。どうやら、「常人とは異な体格、腹筋の厚みに、麻酔薬を2倍投与したため」とか。

手術室に入る前の最期の言葉は「オレはまだ死にたくない」だった。

田中敬子さんは『力道山の慟哭』という本も出している。

亡くなる前の力道山は、すでに40歳を越え、体力にも翳りが出てきていた。

「どうせ死ぬなら リングで死にたい」と洩らしていた。

力道山が刺される2日前、昭和38年12月6日、名古屋の金山体育館での控え室で「片輪者になって生きていたってしょうがない。恥さらしだ。本物のポンコツになってしまはないうちに引退しないと」としんみり語っていたそうな。

その時、力道山は 右腕の筋を切って、空手チョップの威力もなくなっていた。「空手チョップのない力道山なんて意味がねえ!」と力道山は自嘲した。

12月8日は「パールハーバー、真珠湾攻撃の日」。この日力道山は相撲協会の高砂親方ら相撲関係者の来訪を受けた。「大相撲のロスアンゼルス興行」を、興行師としても実力をつけていた力道山に頼みにきたのだった。かつて自分を追い出した角界が、自分に頭を下げにきた。力道山にとっては嬉しい出来事だった。力道山は上機嫌で料亭に親方達を招待し痛飲したという。その後、TBSのラジオ番組は酔っ払って収録ができなかった。その後、力道山は赤坂のニュー・ラテン・クォーターに向かった。そこは行き着けの店ではあったが、力道山のバックにある「東声会」とは対立する「住吉連合系」の“シマ”で、その「村田」とは
以前からトラブルがあった。泥酔していた力道山は、この「村田」に「足を踏んだ」と言いがかりをつけ、袋叩きにした。先に手を出したのが力道山だから、村田は正当防衛だが、“ヤクザもん”だから「7年」の判決となった。


力道山を刺した男

2020-03-15 09:47:50 | テレビ・映画・芸能人

スーパースター「力道山」は、1963年(昭和38) ヤクザの村田勝志に刺されて死んだ。

ネットで検索していて、面白い記事を見つけた。「村田勝志」本人から直接聞いたという話。

昭和38年といえば、東京オリンピックを前に日本中が湧いていた年。

赤坂に「ホテルニュージャパン」というホテルがあった。後に火災を起こし、千代田生命が購入して倒産に追い込まれた原因のひとつとなったホテル。政治家の藤山愛一郎がオーナーだった。

その地下に「ニュー・ラテンクォーター」と言う高級クラブがあった。「ポテトチップなどのつまみだけで一人5万円」
(今なら30万くらい)と言う。

そこの前身の「ラテン・クォーター」には、インドネシアの故スカルノ大統領夫人となった「デビ夫人」も勤めていた。
デビ夫人も当初は千代田生命で給仕をしていた。

そこの用心棒をしていたのが「村田勝志」だった。

事件の発端は、入口付近で、泥酔した力道山が女と話しをしていて、その前を「村田」が通り過ぎた時に、力道山が「足を踏まれた」と後ろから村田の襟首をつかんだ。

「村田」は「踏んだ覚えはない」と言い返したのだが、力道山は泥酔状態で村田と口論となった。力道山は、酒癖が悪く、「ぶっ殺してやる。」と村田を張り倒し、馬乗りになってボコボコに殴ってきた。あの空手チョップでやられたらひとたまりもない。「殺される」と感じた「村田」は、登山ナイフで、下から力道山の腹を刺した。

短刀は根元まで刺さったが、出血はあまりしなかった。力道山がひるんだ隙に 村田は現場から逃走。力道山はいったん席にもどり、脇を抱えて飲みなおした。やがて出血がひどくなって 近くの山王病院に行き、応急手当を受けて帰宅した。

事件から2日後、力道山は腹部の症状が悪化したために山王病院に入院。手術は無事に成功した。しかしその約6時間後の午後の9時過ぎに死亡したのであった。

死亡原因は、気管内チューブの気管挿管を失敗して窒息した医療事故と言うことになっている。が、真相は麻酔の投与過多だったそうな。

加害者の村田氏は、懲役7年の刑を受けた。その後、チンピラだった村田勝志はその後「住吉連合系」の組織「村田組」の組長になった。


力道山は性格的には粗暴で、感情の起伏が激しく、機嫌が悪いと飲食店での暴力沙汰は日常茶飯事だったという、

“国民的アイドル”“人気スーパーヒーロー”が、ナイフであっけなく逝ってしまったことに、当時の国民大衆は多いに嘆き悲しんだものだった。が、その素顔を知って、今、さもありなんと思う。