現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

「最澄」の論敵「徳一」

2020-03-12 18:09:20 | 虚無僧日記

天台宗、比叡山延暦寺の開祖「最澄」の論敵、奥州会津の「徳一」の名は一般には ほとんど知られていない。「徳一」は私の「卒論」のテーマであった。

会津磐梯山麓の「慧日寺」と、会津盆地の中央にある「勝常寺」は「徳一(とくいつ)」創建の寺と伝えられている。

慧日寺は、平安時代、七堂伽藍が並び建つ大寺院であったが、戦国の世に伊達政宗の侵攻で焼失した。その跡には、徳一の墓と伝えられる五輪塔がある。また「勝常寺」には 平安初期の木造薬師如来・日光菩薩・月光菩薩像など8体の仏像が伝存しているのである。薬師三尊は平成8年 国宝指定を受けた。

岩手県平泉の中尊寺は世界遺産にも指定され、超有名だが、平泉より300年も遡る平安時代初期に、会津にこれだけの仏教文化が開花していたことは、あまり知られていない。

しかも、平安時代になって起こった新興仏教である天台、真言の徒ならわかるが、「徳一」は、旧奈良仏教の「法相宗」(興福寺)の学僧であった。

奈良、京都に居るべき人が、草深い、陸奥の国の会津に下り、七堂伽藍を建て、最澄、空海に書を送って論争を挑んだことが、不思議な謎なのである。

最澄、空海は「仏性は、生きとし生けるもの、草木にいたるまですべてのものに(悉皆)、本来備わっている(有仏性)」と唱えたのに対し、旧仏教の徳一は「戒律を守り、厳しい修行をしなければ仏性は得られない。仏道修行に励まなくとも、生まれながらに仏性は備わっているなら、誰も修行などしなくなるではないか」と
いうのである。

実は、勝常寺の住職(宇佐美)氏は、私の母方の遠縁にあたるので、私としては、この論争は「徳一」の方に軍配を上げたい。

ところが、現在の勝常寺は「高野山空海の真言宗豊山派」で、「縁起」では、弘法大師(空海)の創建と言い伝えており、さらには「念仏宗」の「念仏踊り」をも伝えているのである。



「恵日寺縁起」

2020-03-12 18:04:05 | 虚無僧日記

磐梯山麓の大寺に「恵日寺(えにちじ)」という寺がある。
平安時代の初め、最澄と論戦を張ったという法相宗(奈良興福寺)の学僧「徳一」の木像と墓がある。

史実的には「徳一」の創建と思えるが、『恵日寺縁起』では「弘法大師(空海)」の創建となっている。知名度の高い「空海」の方が良かったからだろう。

『恵日寺縁起』によれば「当山は平城、嵯峨、淳和、白河、四皇帝の勅願所にて、弘法大師の御開基にして、鎮護国家の霊場なり。磐梯(いわはし)山には 魔物が住み、祟りを成すので病悩山と呼ばれていた。この国(会津)は、日々 霧に閉ざされ、俗に霧ケ里とも呼ばれた。大同元年(806年)、月輪、更科の二荘が一夜にして湖水となり、人民多く溺れ死す。悪風日々吹き、日月の光を見ることなく、五穀実らず、万民嘆き悲しみ給い、京都に奏聞す。
そこで空海が使わされ、加持祈祷を行って病悩山の悪霊を鎮め、山を磐梯(いわはし)山と改め、寺を建てた。

さて、この「一夜にして湖水となり、月輪、更科の二荘が水没した」という記述から、「磐梯山」が噴火したという説が横行している。どの本にも、ガイドブックにも「磐梯山の噴火により猪苗代湖ができた」と書いてある。しかし「縁起」には「噴火による」とは書いてない。

また、地質の調査でも、噴火があったという痕跡(火山灰の堆積)は認められない。これは大地震で猪苗代湖が陥没してできたことを記していると私は考える。

さて、『恵日縁起』では、弘法大師の後、法相宗の「得溢(徳一)」が、天皇の勅によってこの地に来、大師の後を継ぐ」としている。平安新興仏教の真言宗「弘法大師」の後に、旧奈良仏教の法相宗「徳一」が継ぐとはおかしな話。

徳一開基だったとしても、いつの頃からか、「恵日寺」は弘法大師空海の真言密教の寺となっている。であるから、開祖を弘法大師にしたのであろう。



大同年間に何があったのか

2020-03-12 18:02:09 | 虚無僧日記

平安時代の初め「大同」という年号がある。西暦806~810年。
平安宮(京都)遷都を行った桓武天皇の後「平城天皇」と「嵯峨天皇」の御世。
この「大同年間に創建された」と伝える寺が東北の各地にある。また、東日本大地震で明らかになったが、「大同年間」に大地震や噴火があったとする伝承が各地にある。

那須連峰の茶臼岳、尾瀬ケ原の燵ガ岳、蔵王の刈田岳、そして会津磐梯山の噴火。そして、それを鎮めるために建てられたという「恵日寺」『勝常寺」他、茨城県の雨引千勝神社、早池峰神社、赤城神社、いわき市の湯の嶽観音、富士宮市の富士浅間神社、京都の清水寺、奈良の長谷寺。香川県の善通寺をはじめとする四国遍路八十八ヵ所の1割以上が大同年間の創建と伝えている。

さらに、神楽の起源も大同二年作。それだけではない。秋田県の阿仁銀山、高根金山、吹屋銀山をはじめとする各地の鉱山の開坑も、大同年間。
兵庫県・生野銀山の正式記録は「天文十一年(1542)開坑」となっているが、
伝承では大同二年である。

おまけに八溝山や森吉山などの鬼退治伝説。加えて、肘折温泉ほか、温泉にまつわる伝承も「大同年間」というのが多い。

ところが、大同年間に、火山の噴火や津波、旱魃など天変地異があったとする証拠は見つかっていないたのだ。それなのになぜ「大同年間」なのか。


大同年間とは「平城天皇」の世である。桓武天皇崩御の後即位したのは「平城天皇」。その名前が意味するごとく、794年、桓武天皇によって都は奈良(平城宮)から京都(平安宮)に遷都されたばかりなのに、その子である
「平城」は、奈良へ都を戻すことを画策した。これは、臣下の反対にあって、在位わずか3年で弟の「嵯峨天皇」に位を譲ることとなる。

また、坂上田村麻呂の“蝦夷征伐”が終わったのも大同の直前だった。そして、弘法大師空海が、唐から帰国したのが大同元年なのである。

まさに、大同年間は、坂上田村麻呂によって、東北まで朝廷の威光が拡大した年であり、平城天皇は全国に観察使を派遣し、地方情勢を調べさせたり。全国に「鹿島・香取」などの軍神を祭る神社を建てている。
福島県の中央には「田村郡」があり、また阿仁銀山の開坑なども、田村麻呂の功績となっている。

加えて、弘法大師空海を迎えて、京都に清水寺を創建し、真言密教の加持祈祷力を利用して、病弱だった「平城天皇」は 全国の寺社に自分の健康祈願の祈祷をさせたのだった。

ところで、空海が帰朝したのは「大同元年(806)」と言われるがはっきりしない。帰朝したばかりの空海の真言密教が即、都で迎え入れられたとは考えられない。空海が重用されるのは次代の「嵯峨天皇」によってである。

であるから、全国各地の「大同伝説」は、はるか後世の人々が、空海と大同年間を結びつけて、作り上げ、広めていったものと考えられる。その役回りを担ったのが、山岳信仰と密教を集合させた「山伏」であった。磐梯山も湯殿山も、富士山もみな「山伏による山岳信仰」によって支えられてきたのである。