京都の南、京田辺市にある「酬恩庵・一休寺」。
一休さんの終焉の地です。寺内にある墓所は、宮内庁の管理と
なっていて、白壁の塀と菊のご紋のはいった門で閉じられています。
一休さんは「後小松天皇の皇子」ということを宮内庁が公認した証です。
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さてさて、この一休寺の門扉。門はあっても肝心の扉がありません。
一休さんの謎解きです。そう、「扉」という字は「戸に非ず」と書きます。
ですから「戸は有らず」です。(私が考えました)。ま、入る者を拒まず、
「誰でもはいってらっしゃい。平気平気、気にしない、気にしない」の
一休の心だぁぁぁ。これ「大道無門」
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扉が無いのは 「一休寺」だけでなく、薪村の民家には ほとんど「門」が無い。
古くから伝わる「屋号」には「清左衛門」「作右衛門」「八右衛門」「與治右衛門」と
門がつく名前が多いそうな。
そして、薪村では、お互いを呼び合うのに「さん」をつけず、名前を呼び捨てに
するとか。「さん」をつけるのは「一休さん」だけとのこと。
そう云えば、慶応も「先生」と呼ぶのは「福沢諭吉先生」のみ。大学教授も
小中高校の先生も公式の場では「〇〇君」。学生、生徒は「〇〇さん」づけでした。
慶応は教授も先生も大抵塾出身者ですから、「先輩、後輩の仲」というのです。
最近の私、どこに行っても「先生、先生」と呼ばれます。奇異な気分になります。
ついでに、もひとつ小話。
一休さんが出かけようとすると、新右衛門さんが「どちらへ?」と
問いかけます。一休さん、扇をかざして、「ここじゃここじゃ」と。
「はて、どちらへ?」と新右衛門さん。一休は笑って「扇は戸に羽と
書くじゃろ、鳥羽じゃよ」と。
ここで云う、鳥羽は伊勢の鳥羽ではなく、鳥羽伏見の戦いで知られる
京都の南、竹田街道の鳥羽です。