会津世直し一揆は、明治元年10月3日(1868年11月16日)から同年12月1日(1869年1月13日)に旧会津藩領内で発生した世直し一揆。ヤーヤー一揆とも。
会津藩降伏のわずか10日後の10月3日に会津若松から遠い大沼郡でまず一揆が勃発し、以後、領内各地に波及していった。このことから、「領民は松平容保の圧政に苦しんでいたので、その反発で起きた」などと論じられているが、これも偏向史観で書かれたもの。
これも後世の作。想像で描いているにすぎない。
そもそも、口火となった事件は、原本を見ると「二十人の農民が小荒井村の庄屋宅に陳情に押しかけた」だけで、会津藩の元役人の説得で退去している。それが「二十」の「十」の字に「ノ」を付け加えて「二千人が押しかけて庄屋宅を焼き討ちした」ことになった。二千人が押しかけたとなるとすごい暴動だが、二十人では大した問題ではない。打ち壊されたという庄屋の名前は私は知らない。こうした作為的な話は許せない。
「長州や薩摩は農民も一緒になって戦ったのに、会津藩では領民はソッポを向いた」というのも誤り。会津藩でも2000人の農民が戦争に加担している。もっとも「農民でも戦いに加われば士分に取り立てる、100石取りにする」というおいしい餌に飛びついたのだが。
逆に、西軍の侵攻に農民は積極的に歓迎し協力したというのも、西軍は「協力すれば年貢を半分免除する」と約束したからである。それは何人かの庄屋の証言にある。
和知菊之助(上羽太=現在の西郷村上羽太地区の庄屋)
石井?(下羽太村=現在の西郷村下羽太の庄屋)
内山忠之右衛門(庄屋)(黒川=現在の西郷村小田倉黒川の庄屋)
薩摩ではそもそも「半士半農」の士族が多く、彼ら下層侍が倒幕に立ち上がった。長州も「奇兵隊」は大部分農民や下層藩士だった。彼らは明治になって職を解かれ、結局士族にはなれず、農民一揆や萩の乱を起こし、ほとんどが殺されてしまった。
会津の農民は重税にあえぎ、藩主「容保」を恨んでいたというような論調が一人歩きしている中、全く逆の史料を見つけた。
『会津史談会誌』第21号(昭和15年9月)
「旧藩公(容保)の御帰城に関する領内民衆の請願書」
明治2年12月。「容保」公は東京で謹慎。実子「慶三郎(容大)」に「斗南三万石」の仕置きが下された後のこと。
「東谷地村、上西蓮村、赤崎村、下谷地村、中目村」の百姓惣領代 5人と 若松町人惣代 4人 連名で、民政局や太政官宛に出されたもの。
「恐れ乍ら書付をもって嘆願奉り候」で始まり、会津が開城し、容保公父子はじめ家臣がそれぞれ預けられ、謹慎させられたことは、下賎の身には弁(わきま)え難いことですが、一途の直心より日夜寝食を断ち愁眉を相悩ましおる民、たって
愁訴懇願奉るべき人数を押し止め、私共申し合わせ・・・・・
そして「御旧主様より蒙った御仁政、御厚鴻恩」として34項目も挙げている。
第1項が「九十歳以上の老人へ御扶持米下され置き候事」
第2項は「孝子、義僕、節婦の賞賛」
第3項は「七十歳以上の者への饗応」
第4項は「八十歳以上の者への歩役御用免除」
そして「子供が三人以上いる家庭への扶助」「病気の者への手当て」「窮民への臨時手当て」「独居老人への扶助」「雨が降らず、また日照りが続けば、神社での祈祷」「身弱、障害者には賦役、ご用免除」「火事で被災したものには過分の手当てと貸付金」と、細事にわたり34項目も挙げている。
そう会津は日本で最初に“社会福祉政策”に取り組んだのです。
明治15年(1882年)県令として赴任した三島通庸は、赤子から老人まで情け容赦なく道路建設に駆り出した。労働に加われない者には 代わりに金品を納めさせた。
明治になって、日清、日露戦争で日本政府は莫大な借款を抱え、農民はますます疲弊し、田畑や娘を売る羽目になる。
明治新政府にくらべれば、藩政時代の方がはるかに良かったのでした。