現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

「西郷四郎」実子説の再考 その1

2021-07-07 13:34:59 | 「八重の桜」

「伊与田為成の末裔」という方からコメント欄に「戸籍」に
ついて質問をいただきました。それで、再度 検討した結果、
一部を訂正させていただきます。

「伊与田為成」の娘「きみ」は、「西郷四郎」の実の母では
ないかと思われる女性です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

姿三四郎のモデルとなった「西郷四郎」は、1866年3月20日
(慶応2年2月4日)志田貞二郎の三男として会津若松で
生まれ、16歳で「西郷頼母」の養子となったとするのが
定説ですが、「西郷頼母」の実子ではないかという噂は、
養子にしたときからささやかれていたようです。

その根拠は、「西郷頼母」研究家の「牧野登」氏が 昭和58年に
出した『史伝西郷四郎』に詳細に論じられているとのこと。
2013年6月に出されたばかりの 「星亮一」著『伝説の天才柔道家・
西郷四郎の生涯』に12項目が紹介されています。


「西郷四郎実子説」

文久2年(1862) 西郷頼母は、藩主(容保)に京都守護職の
辞職を迫って勘気を蒙り、家老職を解かれて、会津城外の
長原村に【栖雲亭】を建てそこに蟄居します。

しばらくして、そこへ 伊与田為成が訪ねてきた。伊与田為成
(350石)は 京都勤番中、妻が病死したことで、殿から格別の
暇をもらい、会津に帰ることになった。その際、殿から
「頼母の栖雲亭を訪ね、『余は汝のことを忘れてはいない』と
伝えよ」と言伝てを託されてきた。

そして、伊与田為成は、その後もしばしば栖雲亭を訪ねて
西郷と昵懇となり、娘「きみ」を「行儀見習い」として、
西郷の側に預け置いたようです。

西郷頼母の栖雲亭蟄居は5年に及び、その間「きみ」と
情を通じるようになり、「きみ」が身籠った。

その時「きみ」は20歳。慶応2年2月4日に男児を
産んだ。しかし、明治になって作成された『保科家の
戸籍』では、一年遅い「慶応3年1月4日生」となって
いる。

ついでに、「四郎」が「保科頼母」の養子として入籍したのは
『保科家』の戸籍では「明治12年8月19日」。
『志田家』の戸籍では「明治17年4月4日」。

この違いは何なのかが 謎である。


「四郎」が「頼母」の実子ではないかとする根拠のひとつに、
「会津藩筆頭家老の西郷頼母」と、津川の「御用場役」の
「志田貞二郎」とでは、家の格が違いすぎるというのがある。

「西郷」家と「志田」家の関係を調べてみると、なんと、
「志田」家は、「西郷頼母」の実弟「山田陽次郎」の配下の
者だった。そこで、実子説では、

「伊与田きみ」が身籠ったことで、西郷頼母は 実弟の
「山田陽次郎」に相談し、生まれた子を「山田陽次郎」の
配下「志田貞二郎」に預けた。その時、「貞二郎」は
33歳、妻「さた」は29歳、と説く。

「志田家」は、会津の西数十km、阿賀野川を下った
新潟県の津川の在地豪族で、幕末には「御用場役
150石」。

会津戦争の時、「四郎」は 「津川に避難していた」と
いうより、津川の「志田貞二郎」の家に預けられていた。

慶応4年(1868)8月23日、西軍の侵攻で、頼母の母、妻、
娘たち、そして妹、親戚の21人が自刃するが、「その
前日、妻の千重子が用人を津川に差し向けている事実が
ある」とも。津川の志田家に「四郎」のことについて
何事かを託したのだろうか。

「志田貞二郎」は「山田陽次郎」の「朱雀寄合二番隊士」
として越後戦線を転戦、戦後は越後高田に幽閉された後、
津川に生還している。「山田陽次郎」は「頼母」と前後して
仙台から箱館に行き、そこで「頼母」と合流している。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。