現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

一休の母の墓が大阪門真市に

2018-03-13 20:06:23 | 一休と虚無僧

一休の母について、日野照子、日野中納言の娘伊予局とか、藤原顕純の娘、
花山院の娘などと、色々云われているが全部嘘である。根拠は全く無い。

母について書かれた唯一の書は、一休没後まもなく弟子達によって
編纂された『一休和尚年譜』である。そこには、

「母は藤原氏、南朝の高官の胤、後小松帝の寵愛を受けていたが、
懐剣を隠し持って帝の命を狙っていると后に讒言されて、宮中を
追われ、民間にはいって一休を生んだ」としか書かれていない。

日野とするのは、後年楠木の残党が禁裏を襲って三種の神器を奪う
事件が起きた時、日野某が手引きしたことによるものと考えられる。


『歴史読本』の昭和36年1月号に「一休さんは楠木正成の子孫だった」と

いうニュース記事が載った。「毎日新聞」から転載されたもの。

大阪府文化財保護委員で大阪経済大学教授の「東 光治」が「北河内郡、

門真町の史料編纂中に、守口市馬場町の米穀商「楠正治」さん方に伝わる

『橘姓楠家倉氏系図』を詳査し、発表した。

古系図は、タテ18cm、横10cmのもので、「楠木正成の三男・正儀(まさのり)の

子正澄が、河内倉満ノ荘津田村(現・枚方市)から、八箇ノ荘水島(現・河内郡

門真町三島)に移住し、従者7人とともに、このあたりを開墾した。そして正澄の

三女が後小松天皇の官女に上ったが、仔細あって退官し一休を産んだ」と

書かれているという。

 
『一休和尚年譜』には、「母は藤原氏、南朝の高官の血筋であり、

後小松天皇の寵愛を受けていたが、帝の命を狙っていると讒言されて

宮中を追われ、民間に入って一休を 生んだ」とある。


 

門真市三ツ島には一休の生母のものと伝わる墓がある。地下鉄
鶴見緑地線の終着駅「門真南駅」を約500m程北へ行った所、
大阪門真市三ツ島の「三ツ島公園」内。これが、昭和36年に
『橘姓楠家倉氏系図』が発見される以前から在ったものなら、
興味深い。後のものならニュースに便乗したものだ。

さて、では「楠正儀」とは誰か。「正儀」は楠木正成の三男。
楠木正行、正時の弟である。父・楠正成(まさしげ)、兄・正行
(まさつら)、正時が相次いで戦死し、“南朝の忠臣”として祀り
上げられたのに対して、「正儀」は北朝の後小松天皇と足利
三代将軍義満に降り、摂津、河内の守護に任ぜられている。

江戸時代後半から太平洋戦争までの「皇国史観」では、「正儀」は
“裏切り者”“父や兄たちの名声に泥を塗った”として抹殺されて
いた。だから『橘姓楠家倉氏系図』も世に出せない事情があった
のだ。

この系図には「楠正儀と三男正澄が河内国(大阪府)の倉満庄
津田村(枚方市)に移り住んだ」とある。

「大阪府門真市教育委員会の説明板」では「隠れ住んだ」と
書かれているが、「正儀は 1369年、河内と和泉、摂津の
住吉郡の守護職に任ぜられているので、公に移り住んだので
あろう。

しかし 1382年 「正儀」はまた南朝に寝返る。だが、三男の
正澄は、北朝側に留まったのであろう。北朝への忠節を示す
“人質”として、娘を宮中に差し入れた。「楠姓」では いかにも
まずいので、名目上は「藤原」姓の公家の養女として入内した
のであろう。

そして、1392年「南北朝の合一」が成り、三種の神器が北朝に
渡される。しかし、義満に騙されたと知った南朝側が、再び
神器を奪い返そうとする不穏な動きがあり、正澄の娘も
「懐中に懐剣を偲ばせ、帝の命を狙っている」と疑われ、
宮中を追われるのである。

そして、門真市の辺り にわび住まいして「一休」を生んだ。
一休が生まれたのは、南北朝合一が成った1年半後の
1394年1月1日。

追記

「東光治(あずま こうじ)」教授が発表したのですが、何かの記事に                                 「今東光氏も楠木説」とあって笑ってしまった。今氏もあの世で                                       ビックリしていることだろう。



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