『徒然草』115段「宿河原」本文
宿河原(しゅくがわら)といふ所にて、ぼろぼろ多く集まりて、
九品の念仏を申しけるに、外より入り来たるぼろぼろの、
「もしこの御中に、いろをし房と申すぼろやおはします」
と尋ねければ、その中より、「いろをしこゝに候ふ。かく
のたまふは誰そ」と答ふれば、「しら梵字と申す者なり。
己れが師、東国にて、いろをしと申すぼろに殺されけりと
承りしかば、その人に逢ひ奉りて、恨み申さばやと思ひて、
尋ね申すなり」と言ふ。いろをし、「ゆゝしくも尋ねおはし
たり。さる事侍りき。こゝにて対面し奉らば、道場を汚し
侍るべし。前の河原へ参りあはん。あなかしこ、わきざし
たち、いづ方をもみつぎ給ふな。あまたのわづらひにならば、
仏事の妨げに侍るべし」と言ひ定めて、二人、河原へ出で
あひて、心行くばかりに貫き合ひて、共に死ににけり。
「宿河原」というところで、ボロたちが九品(くほん)の念仏を
している所へ、よそ者のボロがやってきて、このなかに「いろ
をしという者はいるか?」と訊ねたら「わしだが」と名乗り出た
者がいた。いろをし坊が「お前は誰か」と聞くと、その者は
「しら梵字」と名乗り「自分の師が東国でいろおしというボロに
殺されたというので、恨みを果たしにきた」という。
「宿河原」の場所については、大阪、茨木市にも「宿河原」と
いう町があり、南清水町に『徒然草の碑』がある。茨木市では
「西国街道に面したこちらこそ自然」と広報に記している。
神奈川県の高津か、茨木市か議論されているが、「東国で殺され
たというので訪ねてきた」とあるのだから、神奈川県であろう。
また、吉田兼好が東国まで旅し、横浜市金沢に住んでいたことも
近年判ったので、その時聞いた話というのが有力である。
「宿河原」の地名が鎌倉時代からあったことに驚く。
「宿河原は
多摩川の船着場として栄えていたのだろう」と、ご当地の看板には
書かれているが、ネットで「宿」を調べると
「宿=夙」中世・近世にかけて、主に近畿地方に住み、視
された人々。寺社に隷属し、古くは捕吏、清めの仕事をした。
近世では農業に従事する一方、竹籠・箕(み)・土器作りなどを
して行商し、また雑芸能も行なった。夙の者、宿の者。」とある。
「」から芸能が起こった。その源流のようだ。
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